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宮本章光/宮本陽の視点「開闢」And EM Official Blog

みやもとあきらのしてん AKIRA MIYAMOTO@And EM

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旧いエネルギーは水に流して

大きな川も小さな川も photo 宮本章光

大きな川も、小さな川も。
早い流れも、緩やかな流れも。

水の流れから生み出される力があるように思われます。
それを感じようとしてみる限り、その波長が示す力を受け取ることができます。

合わせてみようとしない限りは、その周波数に合致することは絶対にあり得ません。
自ら能動的に。です。
何も受け取れない。何〜にも感じない。
それは、自分から合わせるという行動を行なっていないから。


昨日の記事にも記しました。
【こどもたちは知っている】2025/06/29(Sun) [Link]

素粒子の挙動は「観測者の有無」によって振る舞いが変わり物質化・顕現化すること。
量子力学を学ばなくとも、もう耳タコ状態でしょう。
観測者とは、水が発する波長に合わせにゆく、というその行為そのものが観測者存在の有無であることを知りましょう。です。

-- 観測者不在=自ら感じようとしない。
-- 観測者が存在=自ら感じようとしてみる。
素粒子は、観測者が存在した瞬間に挙動が変わるとされます。摩訶不思議。
それがこの世のみならずすべてを包括するエネルギーの法則。


この国には貴重な言靈があります。
旧い役にたたない波動は「水に流し」、新たな世を創り上げるため心の底から洗い流すことです。
有耶無耶にすることではなく、過去を無かったことにする。とも少々異なる感覚ではありますが、一切合切を更地にしたあとでしか新しい建物は建たないのと同じで、ここはすべてを水に流して新たなエネルギーを生み出し拡大してゆく必要がありましょう。

洗脳され隷属化されてきた世の標準仕様、自分から感じようとしなくても勝手に流れてきて口に入れてくれる感覚。
そんな旧い考え方など、とっとと水に流して、新たな世に即した生き方をすることです。

それが、自らの意志表示と選択だと。




こどもたちは知っている

ヒルザキツキミソウ photo 宮本章光

この時期、あちらこちらで見かける「ヒルザキツキミソウ(昼咲月見草)」。
住宅街の谷間にポツンと位置する公園でも、放置され少々荒れた歩道の端にその姿と出会うことがあります。


小学生と思われるこどもたちが、スマホカメラで撮影しています。
それも、しっかりと「同じ目の高さ」になるようにしゃがみこんで。
Z世代・α世代のこどもたちは、彼ら花々と会話ができるに違いないと感じます。

昭和世代(もしかすると平成でも)おとなたちは、立ったままスマホを花に向けるだけ。
写真を撮る以前の、単に画像を記録するという観点でしか捉えていない証拠でしょう。カメラを向けてシャッタータップするだけ。
これでは植物たちの周波数に合わせ会話をすることはできないように思われます。
なるほど、物理・物質次元的かなと。


さきほどの小学生は、次はこの先で草をつついている鳩の前に座り込み、彼らの姿を捉えに行きました。
元氣な鳥たち。
鳩以外にも美しく囀る小鳥たちが、周囲の木々の枝で歌います。
人間も、これからの世代:今のこどもたちは、氣を感じ取ることができる。
そのように見えました。

氣とはエネルギー。
それを「感じようと能動的に合わせに」行かない限り、その波長を感じることは不可能です。例外はありません。
口を開けて待っていれば流し込まれる。
そんなオールドメディアに麻痺した感覚そのものがもはや時代遅れ。
いえ、もうこの先の世ではお呼びではない生き方そのもの。
SNSの無限スクロール然り、youtubeの無限次の動画提案然り。


素粒子の振る舞いは「観測者」があってこそ顕現化・物質化する。
この量子力学で語られる有名すぎるフレーズが脳内に響き渡ります。

「感じられない、そんなもの。」
「だいたい、氣なんて無い。それは氣のせいだ。」
などとというのは、激しく時代錯誤な恥ずべき発言となりました。
それは、
「あなたが感じようとしていない」から。
入り口の時点で鍵のかかった扉には何ものも入ることはできません。

こどもたちは知っているのです。本能レベルで。
ようやくこの大原則に氣がつくおとなも増えつつあるようです。




仲間をアルバムへ・定点斜めから

定点・斜めから photo 宮本章光

アルバムへさらに仲間を増やしてゆきます。

定点、斜めから。
そこにある周波数に合わせにゆきます。
そこにある力を受け止めてみます。

響き合う瞬間は、はっきりと体感できます。
合致するその機会は、一期一会。
だから、
いまここにあるエネルギーに頭を下げ礼賛を捧げます。

その抜け殻にも、物理実体としての周波数が存在しているから。




アルバムへ新しい仲間を迎え入れる

美しく photo 宮本章光

photo blogカテゴリーは、素晴らしい・美しい仲間のアルバムにしたい。
2005年の創業時には、そのようにイメージし日々のスナップをアーカイブしてきたものです。

その後20年。さまざまに変遷を重ね、文字過多かと思われるようなここ数年を過ごし、原点回帰のタイミングを迎えたように感じます。

この場のアルバムへ、新しい仲間の姿をひとつ。
美しく輝き、美しく響き渡るその波長を感じながら。




定点・定置・定例だからこそ見極められる

ゆく川の流れは絶えずして photo 宮本章光

決まったことしかできない。
それを批判し、流動的に・臨機応変に。と語られてきました。
ごもっとも。

けれども、決まった場所、決まった位置、決まったところから観察を続けていますと、
そこには、季節によって日によって時間によって、これほどまでに多彩かと感じるエネルギーが満ち、その変化の大きさに驚きます。

力強いだけではなく、時には緩やかにそして穏やかに。


同じことをやる・続けることそのものが良くないのではなくて、
進歩や成長が叶わないところに問題があるのであって、同じである・続ける、そのことそれ自体には害はないのだと。

この「変化」や「差」を感じる感覚は、まさしく両極に存在していることが判ります。
変わらない、いつも同じ、そう感じるのが「物質的観点」でのいわば左脳的とでもいう感覚でしょうか。
ところが、
変わらず、いつも同じ、そのシチュエーションであってもそこにあるエネルギーの差や変化を感じ取るのは「精神性」の観点で右脳的かもしれません。

何でも、一つの観点からの考察はよくない。多種多様であるべきだ、と語られます。
でも、そこに異なるエネルギーの波長を見出せるのなら、むしろ、定点だから・定置観察だからこそ定規が一定で、その差異がはっきりと認識できるのだという考え方もあります。


流動的に、とは、
この「観点に変化をつける」ことを教えてくれていたのだと知り得ます。何でも、よいかよくないか。その発想そのものが根底から覆ります。
同じような発想と認識のパラダイムシフトを、いまここで経験しています。
次の世に向けて。
次の世を切り拓くために。




大切なものを見失わず

刻む photo 宮本章光

風雪に耐え年輪を刻む。
と、文字に記すと、
「耐え忍ぶ」だとか「苦痛を抑え込む」といったような印象を受けます。

実際に風雪に耐えてきたのは事実でしょうが、彼らは人間が考えるような苦しみを味わってきたのでしょうか。
もし仮にそうであるなら、激しく苦しく負のエネルギーに苛まれる生き方は、長い進化の過程で淘汰される可能性が高いでしょう。

人間が勝手に「人間の感覚で苦しい」印象を持ち続けていただけかもしれません。
本来のあるがままの生き方をしてきたのが彼らの本当の姿かと感じます。


アタマで考えることが先行しすぎる人間。
このように苦しみや耐え忍ぶといった類の負のエネルギーさえも、心に描くことによって生み出してゆきます。
だからこそ、
その正反対の波長を描けば、その波長にあった現実が具現化してゆくこと。
これほどまでに明快なこと。
実践するだけでいいのだと。


大きく二つに分けられるエネルギー。どちらの波長を選ぶのか。
それは自分自身の心が手綱を握っています。

大切なものを見失わないためには、これまでやってきた生き方の正反対のエネルギーを選ぶことにより、いとも簡単に叶うのかもしれません。




そこにある幸福

夜光に濡れる photo 宮本章光

叫ぶ!踊る!
ここまで覚醒できたのは素晴らしいこと。それは認めます。
けれども、
おかしいやろ。狂ってるやろ。氣づけよ、行動せよ!
とやっているのは、その状態を永遠に維持してしまうことに「早く氣づきましょう」です。

エネルギーは同じ周波数でシンクロします。
おかしいやろ、狂ってるやろ、この国は滅ぶぞ・行動せよ!
って、その周波数をキープし続ける限り、自分自身がそこに大量の燃料を注いでいるだけ。永遠にその状態が継続します。

この仕組みに氣づくのが次の段階なのです。
学びは永遠に登り続ける螺旋階段だと。


しっとりと濡れるアート作品。
これをデザインしたアーティストが存在し、それを工事施工した職人があり、この場を維持清掃する人が居る。

誰も見向きもせず足速に通り過ぎてゆきます。
傘を閉じて濡れながらも、この瞬間を残そう。と、わたしは感じました。
そこに美しい力があるように思えたからです。
おそらく日中であれば、わたしも通り過ぎるだけだったでしょう。
しかし、
夜間だからこそこの照明が灯り、しっとりと濡れる感覚とともに美しい周波数となってこの場でのエネルギーを放っていたから。


美しい、そのエネルギーとは、
日々残している木々や草花のような生命だけではなく、意図して創られた人工物からも放たれます。
この地・この世に存在するものすべてが、固有の周波数を持って「そこにあり」、その波長のエネルギーを発しています。

その波長に合致しシンクロする体験こそが幸福感である。
と理解を得ます。
幸福とは、自分探しの旅に出ることではありませんし、感謝の言葉を無理に10個書き続けることでもありません。
まして、貨幣資産を増大させることでもありません。

幸福とは、そこにある多種多様なエネルギーとのハーモニーを体感すること。
幸福とは、そのように感じる感覚そのものである。と。

この体感を知ること、その体験を得ることがこの先の世には求められるはずです。


敢えて、この場所のリンクを記します。
なんの編綴もない、ただのビル街の谷間。
https://maps.app.goo.gl/2xVs5o8AYFEdmR6r7

感じようとすればこそ、そのエネルギーとシンクロし幸福を得るのだと知る時代へ入りました。
幸福とは、そこかしこに在ることを。




雨降りもまたゆかしい

しっとり photo 宮本章光

傘をクルクルと回転させながら、水たまりを「わざと選んで」歩く。
小学校低学年時代の姿を、ふと思い出しています。


令和の現代ならば、
傘を回転させるな!水たまりに入るな!
と、指導され、叱られるばかりでしょう。
そして、それに従順に従うだけのよい子ちゃん。

そもそも道路が全面アスファルトになり、僅かな窪みにしか水が溜まりません。
未舗装道路の土の窪みなど、どれだけ探してみても都会で見かけることは皆無になりました。
土の匂いも消え去りました。


ええ、よい子ちゃんで正しいと思います。
はい、よい子ちゃんとして生きる道で正しいと思います。

単に昔を懐かしむだけの記事があっても構わないかなと。
ただ、よい子ちゃんではない体験をしてみることで、そこにしかない匂いや感触を得られるのは事実でしょう。

この部分が語り伝えられていることを理解したいのです。
「よくないこと」をしなさい。わざとワルをしなさい。ではなく、従順に歩む「以外」の「味」は、自分で体験しないことには絶対にわかりません。
だから体まで失うレベルの体験を積む人さえも出てきます。
自分で体験しないことには学べないから。


雨降りもまたゆかしく。
思い描くもの・抱く周波数に同期したエネルギーが生み出されてゆきます。




「悪」は仕組みだというその意味

裏側を映し出す鏡 photo 宮本章光

今日の二投稿目となります。
降り注ぐ強力なエネルギーとともに、文字が勝手に湧き出し脳内に溢れ返ります。


「悪は仕組み」と語られるその意味は。
両極を体験するから成長が期待できる。と、アタマでは理解したつもりになっています。

しかしながら、いつになってもこの論調から脱することができません。
--戦争反対!
--支配者はこんなに悪事を働いてきた!知れよ真実を!
--悪よ滅べ! ...と。

それらが必要だった理由は、
それらを正当化する意図ではもちろんありません。
けれども、このエネルギーは「わたしたち自身が生み出し焚き続けて」いることを知り、この先には「必要ない周波数」として離れることを教えています。

波動エネルギーが生み出される仕組みを知り、
その種類を認識し選択するという行動を経て、
望ましい道を切り拓き創造してゆくことを。

然るに、片方だけではこの学びを実現できなったこと。ここに負の力の存在理由があります。
この境地に達するまでは、いつまでも叫び続けるのだろうと予想できます。
それが御霊(身魂)相応。

それぞれのレベルに応じ、永遠に成長し続ける。
それが仕組みなのだと。




この地を「安定させる」担当者

御神木から受け取るphoto 宮本章光

キラキラ「したい」人たちは見えなくなってきました。
ちやほや「されたい」人たちも消滅してゆきました。

わくわくビジネス。
ふわふわビジネス。
それとも、
それじゃダメダメもっと苦しんで成長しましょうビジネスでしょうか。
タイムリーな話題なら、7月なんちゃら都市伝説ビジネスもありましょう。
多少毛色の変わったところだと、
我は144,000人に選ばれし者ぞ、従え皆の者、我こそは救世主なりビジネスも。


さすがに終末期。百花繚乱、美しく咲き誇りながらも盛大なノイズが溢れかえっています。
これらの轟音にかき乱されず、自分の心をしっかりと維持し望む方向へ貫き通すのがこの先の生き方に違いありません。

ええ、ノイズだから、と無理にフタはしなくてもよいのです。
飛んでくる銃弾をマトリックスの映画のようにスローモーションで避ける。あるいは手で受け取る。そして捨てる。それだけでいい。
波長を合わせなければ、そもそも銃弾も飛んできませんし見えません。
それが周波数の仕組み。


合わせるべきは、森羅万象・八百万(やおよろず)の神たるこの国の大いなる存在へ。
この地の長老・重鎮、彼らが放つエネルギー波動へとチューニングしてゆきます。
けれど、こちらがノイズまみれでは絶対に合わせることができません。

特に「拒否される」ほどに自らの波動が低い(大きく違いすぎる)場合には、お遣いの者が警告を発してきます。
それは、黒猫であったりカラスであったり蛇であったり。
他方、歓迎を示される場合には、トカゲや鳩がそのメッセージを表示してくる場合もあります。

いずれにしましても、こちらが禊レベルにまで清めた心の周波数を維持できなければ、決してエネルギー波動のシンクロは叶いません。

静かに。
そして十分に時間をかけて。

すると、
「この地を安定させる」
「この地の波長を穏やかに守る」
文字にするなら、このような言葉の感触を受け取ります。
それとともに、以下のような感触も併せて。


前記のような、そんなビジネスに携わっている人たちが、脳内から瞬時に吹っ飛び(いつまでこびりついているのか)、同時に限りなく偽物であることが明らかに判る感触が「同時に伝わって」きます。

文字にすれば、順序立ててこれだけの字数によって記す必要があります。しかし、エネルギーとして受け取るのは、瞬時にパケットのように固まりの状態で、ひとまとめでドンと入ってきます。
この感覚をうまく文字にできないのですが、同じ波長をお持ちの方には伝わるはずです。ドンと一度に。


大転換期のお役目は色々とあります。
光を引き込む・この地に定着させるお役は極めて重要だと思います。
ニセモノではなく、本当にそのお役を果たしていらっしゃる方々は大勢存在しているはず。でも彼らは決して自分がヒーローだなどとはアピールしませんし、自分からキラキラなどしていません。
まして、選ばれし者などと恥ずかしげもなく口にする時点で推して知るべし。

他方、
現場の地盤がゴミだらけで汚水に浸されているようでは、天からの授かりものも絶対に定着できない道理。

「この地を安定させる」
「この地の波長を穏やかに守る」
とは、この現場を整地し聖地にまで仕上げるお役なのだと頷きます。
それは大型重機によって掘り返すことではなく、望ましい波動を放ち続けることだと。

そう伝えてきてくれた重鎮に感謝を捧げ、その姿を通してここに美しく大きな力で満たします。
この地を「安定させる」ために。
なるほど、
自分の演奏パートは、いつも「内声部・中低音域」であったことに納得する次第です。




意思を確かめる

2025年夏至 photo 宮本章光

どちらに向いて歩むのか。
どちらの周波数を選ぶのか。

強い意思を確認するように、大きな力が送られてきます。
2025年、夏至。

何度でも確認します。
繰り返し回答します。

この先に必要ない周波数を選ぶことなく、
この先に望む波長を受け入れ。


決意は固まったか

丹生の大楠に詣る photo 宮本章光

これまでの世では、覚悟という言葉によって負の方向に向かうエネルギーに対し心算をする・予め困難に備えるといった意味合いでの必要性が語られてきました。

もちろん、これから先に困難が無い・発生しないとは言えません。この地に生を受け存在している限りは。
しかしながら、
自らの生み出す周波数によって、その困難を変えることができる(できそうだ)と知り得たのが現在地だと思われます。
実際に体感し、現実創造の能力(=使いこなし方法)を取り戻しつつあります。


困難でさえ、自ら生み出していたことを知るならば、もうこの先に生み出さないようにすればよい。のだと。
これこそが、すべて満ち足りている。と伝えられる真実につながってゆきます。
元々が満ち足りてニュートラルなところへ、自分自身で困難を生み出しそれを体験し、乗り越えることによって成長するプロセスを目的としていたためだと伝えられている通りです。

よって、その学びとして決められていた「期間」を終了した時点で、
学習習熟・到達度合いにより、その先の「学校・クラス・レベル」が決定するのは至極当然の理屈でしょう。
すでに決定し、お借りした体をお返しした後に、その地へ向かうとされます。


これらを総括して俯瞰できるところにまで学びを得たのなら、
この先には不足と欠乏や不測の事態・リスクへ備える「覚悟」を決めるのではなく、望ましい波長を心から生み出す「決意」を固める段階へと入ったこと、容易に理解できるはずです。


望ましいエネルギー波動を生み出す。
それが役目。

御神木の大楠は、言葉ではなくなんとなくそのような印象のエネルギーとして、「決意は固まったか」と伝えてきます。
自信を持って、決意は固まりました。ともに歩む決意を持って臨みます。
と返します。




この国と人々に与えられた宝物とは

2025年の青梅 photo 宮本章光

標題負けしないよう...というのがこれまでの枕詞でした。
けれど、すでに標題を上回った記事内容になってきていることを感じます。

この国とこの国の人々に与えられた宝物。
それは、
梅をはじめとする旬の収穫物も、もちろんそうでしょうが、そのような「物質的」観点を遥かに超越しはじめました。


7月の5日や6日が近づくにつれ騒がしい人が増え、それをみてまた踊る人が増える。この負のスパイラル。
わたしもここに記した時点で、そのエネルギー波動に同調して増幅してしまうので、この触りだけで終えたいと思いますが、これが一つの悪しき事例です。

この国とこの国の人々には甚大な負の災いは降りかかりません。
何度も繰り返し綴ってきましたように、この国は安泰だ・そのように思う人が増えたからです。
そう願えばこそ「そのようになる」と、しっかりと学び実践する人が閾値を超えただろうこと思われるからです。
そして、
そもそも、そういった話題が眼中にないポヨンな人たちが大勢存在することで、それらの人々が維持するポヨンな波動で上書きされているからです。
(ポヨンな感覚がよいという意味ではありません。そもそも箸にも棒にもかからないレベルなのでお呼びではないながら、不用意に負の周波数を増大してしまう分子にもなり得ないのです。)


梅雨前線が消滅したらしい。前代未聞、極めてレアケースだと。
当たり前でしょう。
故意に電磁波で気象操作していたことが明るみに出はじめ、意図的に臣民を操作する目的で天気まで操作してたんだ!と氣がつく人たちが増えたからです。
もともと梅雨前線など無かった。創り出していたのは「わたしたち自身の心」だったのだと。

もう数年前から、甚大な被害を及ぼす台風の上陸がありませんよ、と、この場では繰り返し綴ってきました。
そして、それは「この国の人々の意識」によって具現化されているのですよ。と。
地震しかり。台風しかり。

ガスコンロの点火と似たような仕組みだったのでしょう。
臣民支配したい者たちは、火花を飛ばす程度の「きっかけ」を生み出します。けれど、そこにガスが供給されなければ燃えません。
ガスを噴出させ盛大に炎にするために、メディアを使って不安を煽り立て一般臣民の心から恐怖の波動を導き出し、それをガスとして得ていたのだと。

ええ、批判でも否定でも、なんとでも語ればよいです。アタオカでも陰謀論に染まった輩とでも。
もはや、そのように発言して蔑む者のほうが、すでにアウエイだと氣づいていない裸の王様となっている世界線に突入しています。
恥ずかしいのはどちら。です。
科学的・論理的思考の欠如だと見下すのは、科学と言う名の偽りの宗教に染まっただけのイタい人とされる時代になりました。


この国には「言靈」という巨大なエネルギーを備えた存在があります。
それが言葉です。
穏やかに心地よく過ごせるこの国の自然環境に感謝を捧げ、旬の食物を口にできることに礼を奉り、日々生かせていただけることをありがたく感じる心。
これを言葉として使いこなせるこの国の人々は、まさにこの終末期の救世主となるべき存在なのかもしれません。
わたしたち自身が、です。

それなのに、どこかの大統領が大金を開放してくれるだとか、天からナニが降ってくるだとか。話題にすれば起きない都市伝説だとか。
もういい加減に、幼稚な意識と恥ずかしい生き方を続けるのはやめにしたいものだと感じます。
そうやって踊り叫ぶのは、とっとと止めることです。


この国とこの国に生きこの国の言葉を使いこなせる「わたしたち」が果たす役割は、
「言靈」によって、この地この世・終末期の地球そのものを浄化し、新たに望ましく心地よい世を創造すべく、そのエネルギー波動を生み出してゆくことだと確信しています。

そのための感謝の言葉であり、礼であり、頭(こうべ)を下げてそれらの意思を伝える、わたしたちの生きざまがあります。
この国とこの国の人々に与えられた宝物とは、
この「言靈」そのものなのだと、心を新たにする時を迎えています。




人を怖がらせて支配する時代は終わった

きょうちくとうが芽吹く photo 宮本章光

恐れと痛みによって人を支配する時代は終了。
その意味が理解できない人は、「まだまだ味わいたい」との意志表示。

しかし、この先に望ましい世を希望するのであれば、恐怖に対しては蓋をせず感じ取り受け入れればよい。
ただしその「味」を感じ味わったのなら、そのあとは「自分に不要」である以上その波長から離れるのみ。
誰に対しても終始ニコニコしているだけなのは、結局のところ「自分が不在」である証明。
(人に穏やかな対応をするという意味とは異なります・勘違い注意)

ここをしっかりやらないから、臭い物に蓋をしただけでいずれ生ゴミ(恐れのエネルギー)が腐敗し部屋中(自分の心の中)に充満してしまう。
結果として、物理実体・お借りした体さえも失うことに。

さらには、真夏の直射日光を浴びる場所にそのゴミ箱を放置するから手の施しようがない悪臭を放つのだと。
ここをいい加減にするクセを改めないから、結果として負のエネルギーを増大させてしまう。

まさに自分で原因と結果を生み出している状態。因果の法則。因果応報。
単純明快・至ってシンプル。


何ごとも、言葉面(づら)だけ分かった氣になって、現実・物質実体をテキトー(いい加減の意味)にするから、おかしなことになります。
恐怖と苦痛によって支配されてきた歴史は、もう終止符が打たれたのです。
この先は、不要なエネルギーは消滅する仕組み。まさに崩壊と滅亡のタイムライン。


あとは、自分で描き出すだけ。
あとは、自分から生み出すだけ。
でも、人と同じことしかやってこなかった人は、ここで「絵が描けません」。アタマもココロも、その使い方を知らないから。
それは、
同じく、まだまだ「人に描いて欲しい」との意志表示をしているに他ならない。ここにさえ氣がつくことができないのです。

道を自分で築き上げる意志があるのなら、
人と同じことをしない。(やってはならないという意味ではなく=自分の望むものをしっかり描く)人と同じである限り、そこに表現されている周波数は「恐怖と痛みに訴える」波長だからです。
そういった仕様になっているのがこの地だからです。


怖がらせて人を支配してきた時代、それが良いかよくないかではなく、ひとつの舞台が区切りを迎えたのです。
もう幕は降りました。
このステージは終わったのです。




「対症療法」と「原因療法」

存在するエネルギー photo 宮本章光

卒業後、企業へ就職した段階で、幾人かの先輩社員は「対処(たいしょ)療法」という言葉をオーバーアクションと共に使っていました。
新人だった自分には、社会人の姿が新鮮に感じたものです。
けれど程なくして、
それは「対症(たいしょう)療法」が正しいのだと直属の上司から聞くに及び、あぁ「声が大きいだけで間違いさえも正しいことにされてしまう」んだな、と感じたものでした。

当時昭和61年、すでに39年間ほどの年月が流れました。
今でこそ、自分軸だとかのワード語る人たちが増えました。ブレない自分とも言うのでしょうか。

当たり前でしょう。
自分の考えや意志を持たずに流されるまま生きることを教育段階から刷り込まれてきました。それが洗脳でした。
結果として、人と同じように流されることが「正しい」と勘違いしてしまったのですから。

たとえ砂粒ほどであってもしっかりと「自分の考え」を持っているのなら、その大多数が「誤っている」場合には、激しく違和感を感じるものです。
心のアラートが爆音を鳴らすのですから、居ても立っても居られなくなります。
然るに、支配したい者たちは、
この違和感を受け取るセンサー=直感さえも台無しにするように、あの手この手でこれでもか!と、隷属化「仕様」の人を大量に育ててきた歴史があります。
食から水道水から空氣に及ぶまで徹底的に。


いま2025年に及んでさえ、そのセンサーは腐り切ったまま、よりによって崩壊と滅亡が決定している古い仕組みに「身を捧げる」のは愚かだと感じざるを得ません。
でも、それが本人の選択である以上は、他人は触れることができません。


自分のアタマで考えれば瞬間に答えが導かれます。
目先の苦痛・恐怖や、故意に名前をつけた症状から逃れたい氣持ちを逆手にとって、その表面上の物理処理だけで儲ける仕組み。
それが対症療法。
原因追求を根本から行い、土台から改善しようとするのが原因療法。

ここに激しく違和感が生じるのですが、腐ったセンサーは、さらにさらにもっと腐るように上塗りされてゆくことさえ感じ取ることができません。
それが支配者のズル賢さ。
けれど、そこにハマって苦しむのもこの地この世の醍醐味なのでしょう。

新しい長靴で、わざと雨上がりの水たまりに入って歩いた経験をお持ちの方も少なくないはず。
これをやるために、この地にやってきたのだったと振り返りながら。


一つだけ、たった一つだけはっきりしていること。
それは、
この先には、人に流されている限りは、生きてゆくことさえ困難になるのだと。
毒を自分の体に盛ってこの地を去った人たち多数。これを見ても判ろうかというもの。
大多数と同じことをやっている限りは、望ましい世に身を置くことは決してできません。
なぜなら、
自分の道・自分の世界は「自分の心」と「自分が維持する周波数」が生み出すからです。
人と同じ考え、人と同じ行動、人と同じ意識を持ち続ける限り、その集合意識が持つ周波数は、恐怖と怒りと破滅に合致する波長でしかないからです。
それがこの地の「仕様」だからです。

目の前に次々と出現するワルものを「避ける」だけの世界では、まさに対症療法でしかあり得ないのです。
ゲームの中でさえも、その「やり方」が徹底されてきました。洗脳・洗脳・洗脳...。

原因療法によって根本から変えてゆくには、そのタイムラインを乗り換える以外に方法はありません。
自分の心によって。です。




「優秀」だとか「上等」の持つ言靈

アジサイ2025 photo 宮本章光

この国の言葉には言靈が宿る。
聞き飽きたかもしれません。

このところ大きな違和感を感じる言葉が増えました。
それは、
その言靈との波長が合っていない証明でもあります。

まず前提として、波長が合うか合わないかは、正しいか正しくないかではないこと。
良いかよくないか、もまったく関係がないことを大前提として理解しておく必要があります。


「優秀」というワード。
「上等」というワード。
周囲でよく耳にする機会が増えています。
けれど、そのワードからは、あまり「心地よい感覚」を感じることがありません。
これが違和感。
もちろん個人的感覚に過ぎない、とお断りをして続けます。


優秀。上等。
どちらも、いかにも教師・教職立場(洗脳のための媒介人)からの視点だと感じること。
優秀、と語るのは、一見褒め言葉のように見えますが、優秀ではないものとの比較論がそこにあるように感じます。
上等、と口にするのも、同じように称賛の言葉のように聞こえますが、上等ではないものとの比較によって差別化することで褒める手法になっていることを感じます。

ここに違和感を生じるのは、
教職的立場から人を評価する感触が、ストレートに伝わってくる点であろうかと思われます。
いずれも、人を優劣によって選別する判定人という立場そのものに対する違和感だと思っています。
ある意味では、そうしたムズムズ感としての違和感が判別できるようになったのは喜ばしいことでもあります。

繰り返します。個人的感覚に過ぎません。
けれど、
同じように褒めるのならば、
優秀ではなく「素晴らしい」だとか、上等ではなく「立派」だとか。
たとえば、そのように別のワードもいくらでもあるように感じることが多い状況です。


まさに言靈。
ひとつ一つの言葉がエネルギー存在そのものだと学びました。
であるならば、より望ましくより心地よい性質を持った周波数を維持したいもの。
これが選択。
これこそが意志表示だと感じます。




歴史は瞬間瞬間の積み重ねで作られる

春日の大楠 photo 宮本章光

歴史とは、努力と勤勉の結果として作られる。

もしそのように認識しているとしたら、かなり激しく間違いをしている可能性があるかもしれません。
時間は、変化の連続により結果として積み重ねられたもの。その客観尺度に、歴史というワードにくるんだ価値を与え一人歩きさせていたのかもしれません。


まずその前に。
時間という、元から・始めから基準となる「長さ」が存在し、その流れに沿って動いているんだという認識。
これは、これまでの世の支配のために仕組まれた洗脳ではないかなと思われます。
宇宙意識(そんなワードがあるのかどうか不明ですが)が拡大するに従って、時間さえも自ら創り出した瞬間瞬間の積み重ねである、といった意識が多数を占めつつあるように感じます。

まさに、瞬間瞬間の結果の積み重ねが流れとして認識されていただけだと。
瞬間瞬間に自ら作り出したエネルギー波動が蓄積し、結果としてこの地に顕現化し時間となる。

他方、
ボーッと過ごせば何も得られない、走り回って体を酷使して働け!カネを手に入れ資産を築くことが美徳だ。あるいは、体や臓器を痛めつけ・壊しそれほどまでに努力したことが勲章だ!などといった観点もあります(ありました=過去形)。
こちらも同様に、この世を支配せんがための洗脳。そしてそのための枠組みとしての資本主義という名の社会。加えてダメ押しの貨幣経済。
これらはすでに崩壊の道が決定し、目の前で音を立てて沈みゆくさまを眺めている最中です。


仮にボーッとしていても、そこに思考があれば、その思考に合致するエネルギーを生み出しています。
まして眠っていようとも、そこで見る夢というエネルギーを生み出さない者は誰一人として居ないわけで。

どのような種類のエネルギーを「生み出させたいか?」によって、この地を支配したい者たちは、負の波動を激しく生じさせるように仕向けてきたこと。
まさしく、わたしたちは負のエネルギー生成モルモットに過ぎなかったこと。
この場では、もうこれ以上の文字数を必要としません。
(この先には、自分という存在の本当の姿は、水溶液に浸された脳のみが外部から見た時の本当の姿かもしれない、と繋がってゆきますがここでは触れずに置きます。=ムーンショットはすでに形となって稼働していた論。)


結論として導かれるのは、
ボーッとしようが、走り回って肉体を酷使しようが、この瞬間瞬間に「生み出したエネルギーの種類」は何なのか?
これが最も重要であると知り得ます。
そして、自らが生み出したエネルギーにこそ「大きな責任」があることも。

一人ひとりが作り出した周波数によるエネルギーは、集合体となり、時差を伴ってこの世に顕現化・物質化してゆきます。
時差そのものさえも、瞬間瞬間の生成の蓄積により生み出されていると理解してゆきます。


わたしたちは、教育という名の洗脳において、歴史とは偉大であり価値のあるものだ。と刷り込まれてきました。
これは、上記のように走り続けるモルモット育成のためのプロセスにしか過ぎなかったかもしれません。
では、
歴史として語られるほどではない、取るに足りないものは価値がないのか、です。
偉人が血の滲むような努力をしたから偉業が成し遂げられたと美談に仕立て上げられ、比してより劣る一般臣民は、さらにさらに努力をしなければならない。という論法に持ってゆくための手法だったこと、もういいでしょう。満腹です。


繰り返しになりますが、偉業であろうが、取るに足りないボーッと過ごす姿勢であろうが、
そこで意識し生み出した「エネルギーの種類」が重要なのです。
ボーッと過ごしていても、そこに望ましい近未来を描き続けているのなら、それは最大の功績者となり得ます。
一見同じように見えるものの、ボーッとオールドメディアに触れ、その負のエネルギーに同化し増幅する姿は真逆であり、且つそれは人間として「最低の生き方」であることも。
(他の人を評価する権利も立場もありませんが、学び・精神性拡大と成長を目的としてこの地に生かせていただいている機会を無にしているとの観点からは、そのようになりましょうか。)

歴史というワードで語られてきたイメージは、努力を根底に置いた根性論や美学が背景にあったように感じます。
しかし、単純に時間の経過という感覚、その連続の結果が歴史であると知るならば、価値の有無は「エネルギー周波数」が持つ性質・価値に左右されることを学びます。


この御神木、樹齢500年と告知されていますが、それは、決して洗脳メディアに触れることなく、いまこの瞬間瞬間の積み重ねとして500年もの長きにわたり命を紡いできた姿です。
偉業を成し遂げたから偉いのではなく、また歴史というワードに名を残したからすごいのでもありません。

まさに、一瞬一瞬その瞬間を精一杯自分らしく生きてきたからこそ、その姿その巨大な力に圧倒されるのです。
まやかしの捏造された「歴史」など、何の価値もないことを知る瞬間でもあります。

では、わたしたちは、この瞬間に何を抱き何を生み出しますか。




彼らにとってはそれが必要だったから

フォーカス位置で決定する photo 宮本章光

何にフォーカスするのか。
聞き飽きたことかと思われます。

写真の場合には、どこにピントがきているかによってその表現が決まります。
もちろん、正解はありません。
どこに持って来ようと、それが表現者の意図である限りは。


同じように、
この地・この世に存在する「どの周波数・どのエネルギー」に合わせるのかは、個々人の自由。そこに間違いは存在しません。
但し、それが自分にとって本当の意味で正解か、あるいはこの先に必要であるかどうか。
それは、
結果が出るまで理解できないところが、この地が極めて難易度の高い学習教室とされる所以でしょう。

その先の結果を予見する、あるいは「遠い昔・遠い地でその選択はよくない結果を導くと体験済み」の場合には、その直感が指し示す「違和感」に従い、道を変更するのが「あとで泣きを見ない」この地独特の処世術でもあります。

自らそのセンサーに蓋をし、自ら台無しにし、自ら旧いレイヤーの隷属化仕様に合わせると何が起きるのか。
この5年間で十分に理解したはず。
多くの失敗事例を目の当たりにして、何を学んだのでしょう。
お借りした体さえも失った彼らは、今になって後から後悔しても体は決して元には戻りません。
併せて、
この地で人間の立場まで与えていただいておきながら、その役目を果たせなかったマイナスポイントも山のように溜め込んで。
借金はまさに永遠に続き、苦しみ続けます。なんと変わった趣味でしょうか。


この地は、物質次元、物質世界なので、モノとして形質形状を現したものは絶対に元に戻りません。
頭で理解しても、結局は体験しないと学び得ない。
いかに地球人は...と感じるところかと。

彼らにとっては、それが必要だったから。
水戸黄門の印籠のように、その一言で「片付ける」のは簡単です。
けれども、
その波動が周囲や、あるいは他の生命・生態系など数えきれない対象へ及ぼす影響まで考えていない(考えられない)ところが、いかにも未熟な地球人らしい。

同じ地球人として恥ずかしいと感じること然り。
いつまでも勧善懲悪ドラマの主人公氣取りで浮かれている限り、永久に幼稚園児以前の再教育を受け続けるのみです。
彼らにとっては、それが必要だったから。と。




望ましい力を選ぶ

金糸梅でしょうか photo 宮本章光

選択は自分の意思で「行っている」と思っていますでしょう。誰一人残らず。
でもそれは、そのように勘違いしているだけかもしれません。


この場でも数多く綴ってきました。
言靈の持つ力は、その最たるもの。

特定の言葉を認識した瞬間に、その言葉が持つ特定のエネルギー周波数に合致しています。
「暑い」と思えば、暑いエネルギーに。
「寒い」と感じれば、寒いエネルギーへ。

言葉そのものがエネルギー波動存在だからです。
あぁ、鬱陶しい雨か。
と思えば、鬱陶しい現実と合わせ技で雨が降り続きます。
それは、自分自身が作り出しているから。


「タネ(種)」はもともと小さいのでしょう。
故意に仕組まれ、人工的に操作されてきた気象という名の洗脳。ここにもあり、です。
でも、それを巨大な現実として完成させるのは騙されたわたしたちの心。この膨大なエネルギーがトリガーとなって初めて具現化すること。

そう思う心、そのように示す言葉を受け入れた時点で、それを「現実として創り上げる」巨大な数の「構成員」の一人になってしまいます。
あくまでも人工的な操作は「種」にすぎず、強固に具現化するのは、その当事者たる人間の「意識と選択」であることを忘れてはならないように思います。


よって、語り尽くされてきたように、
望ましい力を選択するには、望ましい「言靈(ことだま)」を選ぶ必要があります。

四六時中、負のエネルギーを示す情報、言葉に囲まれて生きている、この地・この世。
ノイズという不要な負の波動を皆無・無音にすることはできない以上、不用意に、そして必要もなく「情報という名」の洗脳装置に触れないことが必要ではないでしょうか。

自分では負の力など「選んでいない」と思っていても、まさに無意識領域でその言葉が持つエネルギーに触れざるを得ない環境に居るのです。
然るに消去法的に、自分で望ましい力を選ぶには、その前段階で「望ましくない力」から離れる。これしかあり得ません。


いつまでも恐怖や苦しみのエネルギーに触れているから、そこから逃れたくなる。
逃れるのがよろしくないのではなくて、そもそも触れるから、そのエネルギーにシンクロしてしまうのです。
フォーカス地点そのものが誤っています。




精一杯生きる

2025紫陽花 photo 宮本章光

何が正しいか正しくないか。
そんな判断さえ必要がなくなりつつあります。
自分の直感に響くものを選択すれば、それが正解になる時代に入りました。

精一杯生きる。
それは、
しなければならない...という強制されたものではなく、自ら取り組みたくなるものを選ぶという意味で。

その選択を続ける限り、自動的に望ましい道が切り拓かれてゆきます。
そして、
選択を誤る瞬間が極端に減少しています。それは、心のセンサーが極めて正確に稼働し始めた証。
そのセンサーは、口にするもの二つを劇的に変更し取り組んできた、その成果が出始めている証。

隷属化の枠組みの中で、いつまでも臣民を奴隷化しこれでもか!と故意に病を作り出し、その仕組みからカネを生み出す間違った医療の形態にいつまでも従う必要などありません。
わたしたちは、そのままで十分に健康で十分に研ぎ澄まされた勘という名のセンサーを備えています。
いま、ようやく取り戻しつつあること、誰も否定できません。
狂った魔法の粉や液にはもう近づかないことです。決して戻ることのありませんよう。


そして、これまでの世がいかに誤っていたか。ついにこれを知ることになります。
精一杯生きる。
それは滅私奉公し身を粉にすることではなく。

人間を除く他のすべての生命は、これまでもそのように生きてきたのです。
間違っていました。と頭を下げ、同じ道を歩む仲間として共に生きる決意を新たにする時を迎えています。

精一杯生きる。
とは、心に響くことに波長を合わせ、自分にできること・いまできること・今やるべきことに真摯に取り組むこと。




自分で表現してみる・これからの世

アルストロメリアがここにも photo 宮本章光

以前、あるサイトで、
「アストロメリア」なる文字を見かけたことがあります。

美しいお花の写真が掲載され、そこに記載されていた文字でした。
ん?名前が違うかな?
「あすとろ」ではなくて「あるすとろ」だと思うのですが。と感じたものの、名前などそもそも人が勝手に名付けたものであって、別にどうでもいいや、と。


自分の表現って何でしょう?
webが身近になりSNSがはやるとともに、スマートフォンアプリが進化することで、いとも簡単に自分の作品を公開することが可能になりました。
すでに当たり前、という感覚です。

この方ご自身はPC経由での公開をなさっている様子でしたが、それでも「自分らしさ」をしっかりと表現できていることが伝わってきました。
このように、多少名前を間違えようとも、自分で撮ったものを継続して発信し続ける。
この姿勢こそが、この先の世ではもっともっと大切になってくるだろうと感じます。

失礼を申し上げる意図は皆無ながら、この方の写真の色調はお世辞にも良いとは言えず、カメラが持つオートホワイトバランスの性能が低いのか、色カブリは激しくノイズも多めの写真が多数なのです。
けれど、そこには被写体としての植物の生命力がしっかり伝わってきます。

それはなぜでしょうか。
撮影者がその生命存在を本心から美しいと感じ、そしてその周波数と合致したからこそ撮影の行動にまで及んでいる。
このエネルギーが作品に包み込まれているのです。理由はこれに尽きます。

昔から、写真には撮影者の意図したものが入っている、とされてきました。
この言葉の意味は、被写体と撮影者のエネルギーがシンクロし、新しい複合体として強い力を持った波動が生まれたことを示しています。


初めの名称は、正確に記すならば、
--誤:アストロメリア
--正:アルストロメリア
でしょう。

SNSの弊害は、こうした点を重箱の隅を突くように揚げ足を取る人がまだまだ多いことです。
そして、何か意見を書こうものなら、エビ(evidence)はあるんか!ソース(source)はどこや!
と、針の筵(むしろ)になることかもしれません。

地球の波動上昇とここ数年の人間側の精神性の向上も相まって、そうした「ノイズ」は減少したことかと思われます。
また、自分自身がそのような波動に触れないようにしていればこそ、もはや必要以上に目にしなくなってきています。

ここで再度復習することは、
なるほど、触れなければその波動に影響されずその周波数に同期することもない、という学習教材。
そして、目の前に表出するのは、自分の波動が結晶化したものである、と体得した課題。
SNSさえも、学びのための教科書だったと氣がつきます。

そして、これが極めて重要。
「この先に必要のない周波数には触れない・離れる。」
並行して、望ましいエネルギーを自分らしさとして表現してゆくことも試行の価値があるでしょう。
但し、上記のようにノイズまみれの場所に突撃するような真似は避けたほうがよいかなと。
いわゆる無料Blogや無料ルームなどが当たり前のように備える「他者とのコミュニケーション」機能は、SNSと同じノイズに塗れてしまうリスクがある点を知ることも必要でしょう。


わたしは、文字に落とし込むのは大きなハードルにならないことと身近な写真も数多くあり、この場での掲載を続けています。
ご自分に最も適したものを選択し、この先、それを続けて行かれると良いのではないかな、と感じています。


【参考】写真に内包されるエネルギーなど徒然
photo-primary Blog
脱力系のテイスト2022年の数ヶ月間の記事です

https://photoprimary.official.ec/blog





何のために生きていますか

ヒルザキツキミソウ(昼咲月見草)に出会う photo 宮本章光

ヒルザキツキミソウ(昼咲月見草)。
いま、まさに季節を謳歌する彼らの姿。

こうした植物たちは、何のために生きているのでしょうか?
すべての生命は意味もなく存在しないこと、ようやく理解できる人たちが増えつつあるように感じます。


花を咲かせるには、咲かそうとする「意思」がまず初めにありきとされます。
植物自身が「咲かそうとしている」それが彼らの意思表示だから。
では、
咲かそうとする意思がないのなら、結果はどうなるでしょうか。
当然ながら、花は咲かない。となりましょう。


さらに進めて、それならば、何の目的で咲いていますか?
それは、植物に聞いてみないとわかりません。
でも容易に想像できるように思います。

種の保存・存続といった目的もあるはずです。
けれど、単に美しくその生命存在として、いまを生きている。それだけでよいのだ、と氣がつきます。


人間はアタマが巨大化しすぎたのかもしれません。
それは物理的な容量容積という意味ではなく、この地の二極化・二元化の体験をするために獲得した「我」という名の必要悪とさえ感じる思考回路のことです。

何でも理由をつけて分類する。
その「クセ」がいつまでも「我を張って大きな顔をする」のです。
---○○は◇◇でなければならない。
---XXは△△でなければならない。
そうやって限定し、無理に制限し、その不自由さを楽しむ地だったこと。
「何の目的で花を咲かせるのか」など、その最たる発想・思考だと判ります。そんな理由付けなど必要なかったのです。


目的がないとダメなのか。目的があることが「偉い」のか。
それも教育洗脳だったと氣がつきます。
ええ、
目的はしっかりとあります。

「美しくその花の姿を披露する」こと。
「季節とともに美しくその姿を謳い表現する」こと。
それが目的でしょう。
それで十分でしょう。


人間は何のために生きていますか。
いまこの瞬間に、美しく・心地よく望ましいエネルギーを生み出すためだったのです。
この地・この世を、穏やかで生きやすく素晴らしい地として築き上げる。そのために心から穏やかに波動を生み出し創り上げる役目があったのです。
(ですから、すでに崩壊が決定している旧い残像でしかないエネルギーに心奪われ、踊り叫ぶのは恥ずかしさの極みなのだと。)

学を重ね、知識を溢れんばかりに蓄積することも、もちろん素晴らしいことだと感じます。
でも、そのアーカイブは、
「いつ・どこで」披露しますか?
「いつ・誰の」役に立てますか?

どれだけ蓄積しても、どれだけ積み上げても、それを生かさねば意味がないことに氣づきますでしょう。
まして、この世を負のエネルギーで支配したい者によって捏造されたものは、この先、何の役にも立ちません。
一刻も早くここに氣づく必要がありましょう。


いま、生きているだけで、美しく素晴らしい花を披露するだけで、それだけで目的を果たす彼らの姿。
その周波数に合致し共鳴したからこそ、この一枚がここにあります。
そしてそれを伝えることにより、その美しく素晴らしい波動がご覧いただく方への共有体験となってゆきます。
彼らは、それだけで意味のある生命存在であり、大いなる意義のある花だったことが理解できます。
わたし自身も、画像と文字との複合・結晶化によってその役目を果たせます。


この先の世は、
誰にどのように役に立てるのか。
誰とどのように共有体験を築き上げるのか。
この点が極めて大切な項目になることがはっきりと判ります。

何のために生きていますか?
その答えは、
植物たち、彼らが披露するその美しい姿に表現されています。




すべてが周波数だと知ったなら

矢車菊が語る photo 宮本章光

色も音も、周波数の違いによってその差を認識することができます。
赤い色、緑の色。
高い音、低い音。
それぞれ、周波数が異なるから違いがあるのだと。

単刀直入に。
では、その周波数は目に見えますか?
ええ、はっきりと見えますでしょう。色の違いとして。
けれど、音の違いは目に見えますか?見えませんね。

これほどまでに明確で単純な仕組みなのに、いまだに「目に見えない」ものは信用できない。
などと豪語するのは、もはや自分自身が化石レベルの遺物だ。と語っているようなものでしょう。
もっと言えば、この先の世では必要とされない存在です、と自分から宣言している状態かと。
それは、科学的思考という名の宗教だったのですから、とっとと卒業することです。


すべては波動エネルギーであり、すべてが固有の周波数を持って(維持して)いるからこそ、その存在を明確に認識できます。
これは、科学的思考から攻めてもあるいは精神的観点から演繹しても、いずれも破綻することがありません。

この両輪の仕組みがすべてであり、片側だけの科学のみが正解、もう片側の精神性からの観点は嘘っぱちだと洗脳されてきた捏造の歴史。
これ以上は記す必要がありません。

善と悪や、光と影もそう。
それぞれがセットで対(つい)だからこそ、バランスを取ることができます。
そして、それぞれが固有の周波数を維持しているからこそ、それぞれの存在が存続し続けます。


ここで落とし穴に落ちないように注意することは、
「自分はテレビを見ても負の周波数に陥ることはない」
「ネガな波動に揺らぐほどヤワじゃないからメディアに触れてもSNSに居ても大丈夫」
などと、これまた大言壮語を発する行動。
(このような発言をする人たちも、もう消滅してゆきました。)

これ、何も解っていない証明だね、と多くの人が氣づくようになってきました。
そのワードを発言している時点で、その言霊が持つエネルギーにシンクロしてしまっているのです。

自分は決してブレない芯があるから、だとか、絶対洗脳されない、などと言うのは、言霊と周波数の関係を一切理解できていません。
該当ワードそのものがエネルギー存在なのです。
言葉そのものが、その言葉を示すエネルギー波動として存在しているということ。

よって、凄惨なニュースに触れた時点で、その事故や惨事を伝える「言葉」の周波数に同化してしまいます。
エネルギーとはそういうもの。
周波数とは、そのようにシンクロするもの。
ここを学ぶ必要があります。

だから離れるのです。
ですから、無条件にまず離れる、まず見ない聞かない言わない。
今日、いまこの瞬間から実践できるはずです。


いつまで「仕組まれた落とし穴」である負のエネルギーに触れ続けるのですか?
いつまで「自分が同期する」ことによって、その負の波動を生み続け維持し続けるのですか?

すべてが周波数である。
と知ったのなら、この先に必要とされる周波数だけにフォーカスすることです。
それは、
見るだけでも、聞くだけでも、文字に触れる・言葉を認識するだけでも合致し共振するという仕組みを、しっかりと体得し体現することが必要かと思われます。

これを「やらない」限り、この世・この地は決して変わりません。
どこかの大統領がやってくれるのではありません。
自分が、自分自身で、望む周波数を生み・維持することで望ましい道が創り出されてゆきます。

これを「選択」というのではないでしょうか。





さまざまな経験を積み学び終えたなら

経験と学びと photo 宮本章光

自ら望んでこの地を体験しているわたしたち。
100万人(魂)に一人とも言われる難関を突破し、しかも最高難易度とされる日本人として学びを重ねます。

大前提として、
繰り返す転生ごとに、自分が誰でありこれまでに何をしてきたか、すべての記憶は消滅し白紙からスタートすること。
それを毎回繰り返すこと。何百回も何千回も。
これらすべてを自分自身で納得の上で、この地で「生かせていただいている」のさえも忘れ去る。
まして、
どの「親」の元で、どのように育つのかさえ、自分で選択し設定したのだと語られています。
親は選べない、のではなく、自分で選んだのです。その体験をするために。


いつまでもゲームばかりせず、そろそろ卒業試験を受けてみてはいかが?と、囁く声が聞こえるはずです。

目の前に次から次へと現れる「ノイズという名」のゲームソフト。エンタメ、VRゲームセンター。
さぞ楽しいのでしょう。いつまでもプレイし続けています。
その苦しみや痛み・怒りといった負の力は、なんとも言い難い禁断の香を誘発するのでしょう。

--傷を故意に・無理に傷め、言葉にできない甘美な痛みの感覚を味わう。
--わざと体を傷めつけ、その痛みに酔うアブノーマルを極める悪趣味。
但し、
痛めつけた因果は、別の機会、あるいは次の転生以降に別の形で自分に還ります。
お借りしたものは、元の状態に戻してお返しするのが約束・決まりごとです。
そしてようやく、
それらのすべてが体験として必要であったことを知ることになります。
得たものを糧としたのなら、次のステップへ移行する意思表示をしてください。


さまざまな経験を積むためにやってきたテーマパーク。
閉園時間を告げる放送が鳴り響いているのに、飲めや歌えや、踊り続けるのはいい加減恥ずかしい行為だと知りたいもの。
まして、すべてのアトラクションを体験し終えたのです。
善良な一来園者だった者は、この瞬間に突如として規則破りの迷惑存在に成り下ります。

善の仮面を被った悪。とはまさにこの状態ではないかなと感じます。
迷惑行為が過ぎると、所轄当局に引き渡されるだけのことでしょう。

なるほど、その判断の線引きができないのは精神性が未熟だから。と納得が行きます。
「おこちゃま」は、然るべき星へ転送。再教育決定です。それが本人の意思表示ゆえ。
他方、
それを横目で眺める「おとな」は、人のふり見て我がふり直せ、と、心を引き締めて。
この先に必要な、暖かく心地よい、そしてすべての存在と共鳴・シンクロできる居心地のよい周波数を生み出してゆきたい、と心をあらたにするのです。




選択の意味を間違えない

透き通る photo 宮本章光

選択。
その言葉、聞き飽きましたでしょうか。

そこに何かが元から存在し、どれか一つを選ぶ。
そんなイメージだとすると、旧いレイヤーの上で燻っているだけかもしれません。


あくまでも私見とお断りした上で続けます。
選択の前には「何も存在していない」。
では、
何もないのにどうやって選ぶんだ?となるでしょう。

選ぶものを自分で創り出す。
これが答えでしょうか。
で、
何も「無い」状態が、身の回りを見渡しても、こころの中も頭の中も、どこにも「無い」のです。


溢れまくっています。まったく必要ないノイズが。
現在もこの先にも一切必要のないもの、それがノイズではないかと。
ですので、結論から言えば「多くのノイズの中から別のノイズ」を選ばされる。
いえ、自分の意思で選んでしまうのです。これが現状かと。

言い換えれば、ノイズ「ではないもの」を選べないようになってしまっている。
そして、それがノイズであることも認識できないほどに「感覚:センサー」を麻痺させられてきた歴史。
もういいでしょう。

昨日の記事のように、もういい、だとか言うのはダメな発想だ。もっと苦しんで学べ!それが精神的に成長するためのプロセスだ!などと仰るのはその道のビジネス。完全スルーするだけです。

そうやって、いつまでも奇妙な宗教に足を掬われてしまうのです。
学び終えたものは、もういい。
中学校に行くのに、小学校の掛け算や割り算の教科書をやり直す必要はありません。
ええ、もう一度やりたいのならそれはご自身の自由です。でもそれは自己顕示欲でしょ。俺はスゲーぞ。何でも知ってるんだぜ。これをやりたいだけ。


脱線しまくるので戻します。

何もないところ。これをまず作る必要があります。ノイズのない土台を、です。
だからオールドメディアから離れましたでしょう。だからオールドインフルエンサーから離れたはずです。
そして静かに穏やかに空間を感じる間を持つように努力してきたはず。

ここに来てようやく望ましいもの=ノイズではないものが初めて生み出せるようになります。
描きます。そして抱きます。
この先の風景を、です。

その中に「選択肢」があることに、ここでやっと氣づきます。
その選択肢の中から、より望ましいもの・コトを選んでゆきます。
これが本来の選択。

自ら生み出すものの中から、より望ましいものを選ぶ。
それが選択。
そして、さらに望ましいものを描き続け、抱き続け、生み出し続け、その度に選択を繰り返す。
これが成長の原動力。


記事の総括段階に及んでぶち壊す意図はありませんが、
ゴミとして捨てたものの中から、どれが必要かな...などと再び選びなおすのは選択ではありません。
不要なものは不要。それがノイズ。一旦捨てたのでしょ?
ノイズの中からノイズを選んでも、ゴミ漁りをしているだけだと氣づくことが必要でしょう。
(ここで言うゴミとは、隠されてきた悪事や黒幕歴史を知れと、いつまでもその手放すべきエネルギーを焚き続ける行為を指します。)


選択は、望ましいもの・望ましいエネルギーの中から選ぶ。
もちろん目の前にはノイズしか見えないので、前段階・前処理段階でノイズをゴミ箱に放り込むことは必要です。
そのあと。そこからが本番。

ゴミ漁りをすることは選択ではないのだと。
選択の意味を間違えない。
いつまで、知れよ!目覚めよ!と叫び続けますか?
いつまで、悪よ滅べ”と罵りますか?
いつまで、ノイズの中で踊り騒ぎ続けますか?




氣づけよ!と叫び続ける人の本心と氣づかない愚

静かに美しく photo 宮本章光

氣づけよ!知れよ!この隠された悪事を。
などと、叫ぶ人が一向に減らないように感じています。

ええ、わたし自身も通ってきました。やってきました。
でも、それをやっている限り自分がそのエネルギーを増幅し続けることを知りました。

目覚めよ日本人!と叫ぶ。
その実、実際はどうなのでしょうか?
その人が叫ぶほどこの国の人は眠り続けていないように思われます。もう肌で感じます。すでに多くの人が目を覚ましているはず。

それが証拠に、この国においては甚大な災害は発生しない段階へ移行したことを感じます。
ネガな話題を追いかける人ばかりではないことも、webの「チャネル」を変更すれば、もっともっとポジティブでこころ温まる波動を維持している人たちが数多く存在していることが理解できます。


結局のところ、
そうやって「日本人よ目覚めよ」と叫ぶ人自身が、眠り続ける日本人を創り上げているんだと判ります。
なるほど、善の仮面を被った悪、とは、その当人が氣がつかない状態で負の波動を強烈に作り続ける「悪」に落ちぶれていることを。

--自分はいいことをやっている。
--自分がやらねば誰もやらない。
--自分がやるからこの国はよくなる。
詰まるところ、
そういった大義名分を掲げて「自己顕示欲」を満たし「自己承認欲求」を放ち続けている存在に成り下がっていると。

なるほど、難しい試験がいつまでも続きます。
さすがに、氣がつかない人が多いのも理解できます。


このところ再び「仕込み」が強くさらに巧妙になってきたように見えます。
「もうこんな世はいらない。もういい、たくさんだ!」
と、考えるのはまだまだ幼い証ですよ。そんなことではこの次元は超えられませんよ。と教える。そんな界隈のビジネスが変わらず盛んな様子です。

わたしはそうは思いません。
もういい、もうたくさんだ。と思うのは自由意思そのものであり、それを偽って「いえ、まだまだです。もっともっと苦しんで成長します。そうしなければなりません。教祖さまありがとう。」
ってな、これ完全に宗教です。

もういいんです。旧い体験は学び終えました。
だから、次に行きます。
ここが大切、ここが抜け落ちているのです。いつもいつも同じです。次がありません。
だから、いつまでも奇妙な宗教のような洗脳エネルギーに引っかかるのではないでしょうか。

薬害も、もういい。
大変申し訳ないのですが、精神性が未熟だったことと当人に必要な学びだったからその過ちをしてしまったのです。だから極めて大切な借り物の体さえも失ってしまったのでしょう。それが学びだったのでしょう。そして次の段階で賢くなるためだったのです。
当然、この地この世においての法を蔑ろにするのではなく、然るべき裁きを受ける必要はあります。ここを否定しているのではありません。
しかし、そのための「悪」の役目は、この学びのために必要な役割を表現してくれたことに感謝こそすれ、滅べ!このヤロー!と吊し上げる対象ではないことを知るフェーズに入っています。

いつまでも奇妙な宗教に浸っている場合ではありません。
苦しむのはもういいんです。
だから、
次には何を思い描きますか。です。

心地よく、穏やかで暖かく触れ合う波動を維持すれば、そうした世が顕現化します。
こころに描くものが、時差を経てこの世に具現化する仕組みを、実際に体現してください。実際に実現してください。
それが、この段階まで生きながらえさせていただいた者が果たす責任ではないでしょうか。

望まないエネルギーを焚き続ける愚を繰り返しませんように。





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