
在り方(ありかた)。
整っている状態。
流れに逆らっていない状態。
春分には、何々をどうするのが良い。
区切りの日は、何々をどう考えるのが良い。
と、
節目がやってくるごとに、まるで小手先の「やり方」マニュアルのような情報が溢れます。
少し前にも過ごしてきました。
---冬至には◯◯をしなければならない。
---冬土用だから◯◯は避けなければならない。と。
それは、先人が蓄積したナレッジであり大変有用な言葉に違いありません。
正しいか正しくないか、という観点では正しいに違いありません。
けれど、
その貴重な財産を「受け取る現代人の受け取り方」が誤っている可能性があることに氣づいているでしょうか。
上記の言葉を再度重ねるならば、
「やり方」マニュアルのように、あるいは入試に出る極秘情報だとか、ゲームの必勝法だとかの感覚に近いように見えます。
--こうすれば、こうなる。
--これさえ避ければ、決して悪くならない。
といったような、本質を欠いたうわべだけをトレースする姿になっている可能性に氣づきたいわけです。
「在り方」とは、この本質を突いているのです。
春分は宇宙元日だから...春分には新たなサイクルが始まるから...。
と、
同じ過ち・同じ落とし穴に次々にハマってゆきます。
2026年の年明けに「今年はこんな自分になる」「今年はこんな目標を実現する」と、小学校で習った間違った教育洗脳そのままに抱負を掲げた人たち。
いま3ヶ月と半分が流れ、その通りに僅かでも実現できているでしょうか。完遂できる道筋が出来上がっていますか。
ええ、当然立派に実現なさっている方もあるでしょう。すばらしいことだと思います。
でも、
多くの人たちは、毎年毎年同じように実現しないままこの先10ヶ月を流し、2026年も「未達」で終わる可能性が高いはずです。
それは、
先人が残した貴重な財産を「受け取る現代人の受け取り方」が誤っている可能性があるから。
何をすれば何が起きる。
何をどうすればどのように結果が得られる。
と、
How to本のように小手先のテクニックとして捉えているからではありませんか。
「本質はやり方ではない:本質は在り方である」
と、この重要ポイントに氣づかない限り永遠に同じスパイラルから抜け出すことが叶いません。
今「できていない:実現していない」から「努力して力技で手にいれる」といった、旧来の発想そのままの延長線上であるからです。
「今、実現していない」周波数を大前提に構え、その波長に強烈に合致している以上、そのエネルギーが顕現化し続けます。
=決して未来永劫実現しない。となるわけで。
この世もあの世も、全てがエネルギーの振動である仕組みを知ったのであれば、
同じ周波数に合わせない限り、絶対に共振・共鳴は起きることがありません。物理法則は安易な願いで揺らぎません。
春分だから世の中が大きく変わる。
のではなくて、
春分には特別なエネルギー波動の状態である客観的事実を知って、「思い描く波動が顕現化しやすい」という特質を活用するという感覚です。
昼と夜の長さが同じになる。という説明そのものをみても、二極化のエネルギーが均衡しニュートラルに戻る。
すなわち、その時点で願い描くものがこの先に顕現化するために願ってもない白紙の状態だ、と容易に理解できるでしょう。
偽った心の波動は、その偽りのままに現実になります。
よい子ちゃんであろうと偽りの自己顕示欲をアピールすれば、そのまま盛大に裸の王様である状態がバレます。
偽物はきっちりとバレます。
すでにこういう世の中に変わってきているのですよ。と、氣づくことが求められています。
それは、
春分だから「何が起きる」のか、ではなくて、化けの皮が見事に剥がれ落ちるほど、心に描くエネルギーが現実になるそのパワーが強大な状態ですよ。と教えてくれていること。
世界中で春分・秋分を国民の祝日として掲げている国は、日本以外にあるでしょうか?
(他国では、宗教的に結びついた行事はあるようですが。)
「自然をたたえ、生物をいつくしむ(春分)」
「祖先をうやまい、なくなった人々をしのぶ(秋分)」
この感覚を持って、現代人が受け取る必要がありましょう。
「何が起きるか」ではなく「いまどう在るか」
その本質が試されるゲート正面に立っています。
ウソ偽りなく、こんにちまで自分の精神性・靈性を磨き上げてきた人たちにとっては、待ってました!という瞬間でもあります。
そうではなく、偽りと他人軸で生きてきた人にとっては、すべての仮面が剥がれ落ち、恥ずかしく苦しい未来を歩み始める第一歩かもしれません。
それもこれも、全ては自分自身の選択の結果。
いままでずっと、どのように生きてきたのか。何を想い何を抱き何を描いてきたかということでしょう。