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宮本章光/宮本陽の視点「開闢」And EM Official Blog

みやもとあきらのしてん AKIRA MIYAMOTO@And EM

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時代が・レイヤーが変わる

時代が変わる photo 宮本章光

激しく大きな力。

時代が変わっています。
世が移り変わっています。


望ましい意識・心を維持すること。
それが責任でもあります。

特定の目的地にゆくのではなく、風景が変わるのを待つのでもなく。
自らの心が変われば、目の前が変わります。


その大いなる仕組み。
それがこの国が培ってきた偉大な財産。
本質は、
望む周波数を選び・拡大し・昇華させること。

しかしそれは、
過去の過ちや、傷を容認することではなく、見て見ぬふりをするのでもなく。
それは「対(つい)」として存在する両極のエネルギー波動であることを理解し、古いエネルギーをすべて認め受け入れること。

綺麗ごとだけを選ぶことではなく、負の周波数に蓋をすることでもなく。
それを「対(つい)」としてバランスする対極にある周波数を理解し、受け入れること。
ここにエネルギー波動の調整と整列が実現するとされます。


この時代、このレイヤーが大きく変遷していることを感じとります。
乗ってゆくのか。それとも、古い波長を握りしめたまま崩壊する道と心中するのか。
論議も科学的検証ももはや不要です。その波動そのものが消滅し行く周波数であるためです。

調和とバランスは統合へとつながり、この先に必要なエネルギーを創造してゆきます。
同じ周波数は共振し共鳴し、拡大するエネルギーとなります。
共感と共生の世。と語られる所以です。



そこにある氣

膨大なエネルギーに合わせる photo 宮本章光

穏やかに。
けれど、圧倒的な氣。

静かに厳かに。
しかし、膨大な氣。

水の氣に触れるために。
水の波長に合わせるために。



思い出す

思い出す photo 宮本章光

自分が誰であるのか。
自分はどこから来たのか。

思い出す時間を迎えています。

でも、まだ完全には蘇ってきません。
まだもう少し。


静かに・穏やかに過ごします。
心に描くものが目の前の現実となってゆきます。

目前の風景や世界の眺めが別のものに置き換わってしまうのではなく、その「感じ方」に変化が起きること。
それを理解し体験しようとしている、いまの時間です。

幸せは、どんなに探し回ってみても絶対に見つかりません。
自分探しなどと、地の果てまで歩き続けたところで決して見つかることはありません。

なぜなら、
その答えは、自分の心の中にしか存在していないからです。

思い出す。
もう少し。



非現実を現実に導き入れる

丹生の御神木 photo 宮本章光

非現実を現実へ。

描けば顕現化。
懐けば具現化。


あり得ない。
から
あり得る。
へ。

願い懇願する。
から
導き入れる。
へ。


祈りとは、
自ら生きる姿勢を宣言すること。
いきる(い)を宣べる(のり)こと。

その瞬間から、非現実は現実へと自動運転を開始します。
非現実を現実に迎え導き入れてゆきます。



昔の夕焼けが戻ってきました

子供の頃はこうした風景を眺めていたもの photo 宮本章光

子供の頃、毎日のようにこうした風景を眺めていたことを思い出します。
美しい、なだらかな色のカーテンを。

いつの頃からか、受験のための学習塾へ通うようになり、夕焼け空を見る時間も惜しむようになりました。
そして数十年後、寝食を惜しみ激しく走り続ける年代にあっては、完全にそういった感覚を失ってしまったのでした。


このような色合いに包まれる時間まで、日々自宅のすぐ裏手にあった公園で遊び、母親が食事の時間を告げる呼び声で帰宅した幼稚園児から小学校低学年時代。

美しいという言葉さえも満足に理解できていなかった頃。
でも、その壮大で芸術的でさえある大空の時間の変化に、言葉にならない感動を感じたものです。


3I/ATLASが彗星なのか他星系生命の移動体なのか。
論議そのものが不毛である時期を迎えたように感じます。

そう思えばこそ、そのようにあなたの現実をあなた自身が創り上げるのです。
100人が100人ともに総評論家。
科学的検証も、世界中の学者の論説も、専門家の判断ももう必要ありません。

情報という名の「ノイズ」を追いかける姿。
また同じことを繰り返しますか。
いつまでも同じことを続けるばかり。
いつになれば学習できるのでしょうか。


自分で自分の現実を創り上げる。
現実というVRゴーグルのエンタメを楽しむのは自由には違いありません。でも、低い周波数の波動を放ち続ける限り、この地・この地球の波動を、一向に精神的向上を果たせないレベルにとどめてしまっているのかもしれません。

わたしたちは、自分だけではなく、この地球全体の周波数調整の役目を担っていることに、一人ひとりが氣づき役目を果たす時間を迎えています。
心に描くモノ・コトに最大限の注意を払い責任を持つことに。


きっと、彼らは「そうやって一喜一憂する地球人」の精神性の成熟度合いを観察しているに違いありません。
夕焼けを眺める時間、少々肌寒い夕空と幼少期の思い出と。
そして、まだ完全に「思い出せていない」遠い星の起源の記憶とともに。




最適解は自動的に降りてくる

そこにある輝き photo 宮本章光

こういう言葉に対し瞬時に拒絶してしまう世でした。
ようやく抜け出せたかと感じます。


あぁそっち系のことね...。
と、鼻で笑う人たちとは、もう周波数が合致しないので触れることはなくなりました。
先般の記事で例えた「浸水する船の排水に忙殺される人たち」は、その瞬間の仕事に真摯に従事しているので、台本を横から書き換えたりしないことです。

でも、いずれは同じところ・ここに来なければなりません。
それが原理・それが法則ですから。
25,800年だとか「激しく遠回り」したいとの意志表示されているだけなので、最長でも50億年ほどやり直せばいいだけのこと。はい、短いですね^^。ええ、苦しみも楽しいですね^^。
わたしは「同じ教科書を何度もやり続ける」のはもういい。


もういいので、次の教材をやりましょう。
と、自分で選択したのなら、
それは、自動運転について学ぶことではないかと感じます。

自動運転とはTeslaのクルマのことではなくて、完全に信頼し任せ切る「感覚」「選択と意志表示」。

静かに過ごせば、静かな現実が生まれること。
穏やかに心地よく居れば、穏やかな目の前が出現すること。
当然、激しく苛立てば、その通りの現実が起きてきます。


この国の言靈は、エネルギー波動そのものだと理解できたのですから、不要なノイズから離れ、ピュアな周波数へと整えてゆけばよいのだ。と。
言靈を意識し慎重に選択するならば、その通りに顕現化してゆきます。

これが自動運転の極意。
眠っていてもスマホ操作していても、事故もせずに目的地に到着するクルマ。ではありません。
この感覚こそが、勘違いの最たるものだと氣づきましょう。


周波数を整える。
とは、
ゴミをそこに紛れ込ませない、というスタート地点から、
望み必要とするものを的確に選択し、それを宣言する。
自分が自分で必ず実現させる、と誓い宣言することこそが「祈り」だという仕組みも学べたはず。
祈りは、我欲を満たすために願うのではなく。

祈りの次は、その「周波数が示す音」を増幅・拡大し昇華させてゆきます。
無限に広がる感覚。それが悦びへと変化し、そのありがたさに感謝が湧き上がります。
そして、
自分ひとりだけでなく、ともに存在しともに生きているすべての生命との共鳴を感じてゆきます。

こうして、周波数は整えられ、拡大上昇してゆきます。
上昇した意識は、さらに望ましい波動へと強化され、必要な導きとして降りてきます。
この繰り返しが、成長・上昇螺旋の姿だと語られます。

そもそも、ここに記しているこれらの文言そのものさえ、わたしが頭を捻って書いているのではなく勝手に降りてきます。
自動運転の実例・人体実験そのものです。

このようにネガスパイラルとは真逆の、拡大螺旋階段をのぼり続ける意志表示と、自動運転で降りてくるエネルギー波長がバランスし、対(つい)になり平衡状態を保ちながら、永遠の成長拡大が叶う。
とんでもなく大きな、そして決して間違いを犯さない仕組みであることを知り得ます。

仕組みそのものが神であり、その力たるエネルギー波動こそが神であることを。
最適解は、必ず自動的に降りてくる。
その本質を学び続けます。




そこにあるから

そこにある photo 宮本章光

ここに松ぼっくりが転がっていたから。
そこにあったから。

だから撮ったのだと。
ただそれだけ。

これでいい。
その意味を感覚的に捉えることができたように感じます。
そのまま。

そこにあるから。



モノとココロは両輪・悪宗教を脱するために

御神木へ詣でる photo 宮本章光

沈みゆく泥舟・小型船。
浸水し続ける状況対応に追われ、いずれは海の藻屑と化す運命。
これは、どう足掻いても変えることができません。


10回掻き出す排水動作を15回にせよ。
別のポンプを稼働させて最大限に排水せよ。
船室閉鎖区画を狭めよ。
と、あらゆる手を尽くします。
その瞬間には、自分たちが助かることしか視野にありません。

他方、
沈む結果を生み出した原因に意識を巡らせ、その結果を因果の法則として受け入れる。
その覚悟を決めた数名の乗務員。

皆揃って歌おうではないか。と演奏を始めます。
しかしそこには罵声が飛び交います。排水が最優先!氣が狂ったか!馬鹿どもよ。
ところが、そんな周囲の声をもろともせず、彼らは極めて穏やかに心地よくその場を楽しむことに徹したのです。


するとどうでしょう。
遥か遠方に救助のヘリが見えたかと思いきや、瞬く間にライフジャケットや救命具が降下され、また遠方には大型船の姿も見えはじめました。

助かった!
安堵の心は、さらにポジティブな波動を拡大拡散させ、命懸けの残る乗務員を救うべく彼らへ意識を向けます。
しかしながら、
目の前の作業に忙殺される彼らには、救助のヘリも救命具も一切のものが「見えません」。
あろうことか、先ほどまで共に乗船し、覚悟を決めた後には歌いはじめた仲間の姿さえも見えなくなっていました。

救助のロープに引き上げられる数名。
最後のひとりが船を去り、その数分後、排水に忙殺され続ける残りの乗務員は沈みゆく船が生み出す渦に飲まれ水面下に消滅してゆきました。


これはあくまでも想像上の作り話です。
でも、これを現実の企業組織に置き換えてみるととうでしょう?

企業は成長し続けることが大命題。株主へ利益を還元することが資本主義の大前提。
そのためには、
売上を右肩上がりに維持し続け、利益最大化のためにコストダウンを徹底、同時に新規開拓を鋭意進めよ。と。

そのためのマーケティング戦略。
その昔は、口コミでした。
そして時代の流れとともに、web活用、SNS活用。情報発信という名のコミュニティ創造と活性化。
昨今は、AI活用に活路を見出し、そのためのインフルエンサー開拓...と、綿々と歴史は繰り返します。
しかしながら、
これらは、ビッグテックとその裏に隠された支配者層に牛耳られ「リスの回転車」の中でひたすら走り続けさせられているだけの惨めな人間に落ちぶれているのかもしれません。

これは、もしかすると、浸水対応・排水に忙殺される乗組員の姿と同じではないのか?と感じるのです。


原因と結果を真摯に受け止め腹を括り、そのあとは歌を唄い心を一つにし、穏やかに望む未来を心から描き出した数名は、自らの現実を自分たちの「心」から生み出し、そこにヘリが具現化したとも言えるのではありませんか。

AI活用はもちろん必要でしょう。いえこの先には必須であることは疑いようがありません。
しかし、
それを「事業拡大と存続・利益の最大化のための資本主義という旧い枠組み」の中、その古いレイヤー上で追求している限り、いずれは限界に達します。
過去、2度のバブル経済:接待交際費=月間300万円オーバーなどという時代を会社員として実地に体験した一人として、永遠に成長し続ける世は存在しないことを身を持って学びました。


この先も生きながらえるためには、
歌を歌う、というのはあくまでも例え話であって、歌っているだけでは道は開けません。当たり前です。
そうではなくて、
既存のフィールドとは完全に異なる・思考の180度転換が求められていることに氣づく必要があるように思えます。
それは、乗組員たちが歌を歌うといった、穏やかでポジティブな心がそのまま現実を顕現化させる大法則を実践していたのだ、と理解することでもあります。


科学的検証に基づいた思考。
資本主義経済という永遠に拡大を求め続ける仕組み。
といった、まさに「科学という名・資本主義という看板の悪宗教」に侵されてしまった心は、自らの意志によって「それを排除」しない限り永遠に蝕まれ続けます。

では、いま、何をどうすればよいでしょう?
AI活用。これは否定できないはずだと考えられます。
ならば、
AIに関することにフォーカス(それはまるで砂糖に群がるアリの姿のように)する「だけではなく」、この世で隠され捏造されてきた「心のつかいこなし」「精神性の向上と拡大」が、モノとココロとして、車の両輪のように相互作用し総合的に発展・成長をもたらすのだと。
ここに意識を持ってゆく必要がありましょう。


両輪。ここがポイントかと感じます。
然るに、精神世界を大切にし、その波動が現実を生み出すことを学び、それを実践・活用してゆくこと。
これをコミュニティ化しその輪を広げること。

猫も杓子もAI・AIと叫ぶのはわかります。でも、その対極でバランスするシーソーの反対側にこそ、極めて重要な要素が隠れていることを。

そしてそのために、
この国で生まれこの国で育った者だけにしか理解できない、すべての生命と共存する意識。すべての存在と心を合わせモノを大切にし、すべての存在と和してゆく姿。
ここにしか、この先に開かれる道がないことをしっかりと認識するタイミングを迎えています。


正月に神社へ詣り、お盆にはご先祖への感謝を捧げることができる人たち。
だからこそ、その心を資本主義という名の悪宗教を改組し、望ましいエネルギー波動へと変えるために役立てるよう求められていると感じます。

氣がついた人は、もうそのための役目を果たし始めています。
御神木は、その長大な歴史を通してこの地の人々を見守り、そしていま、堂々たる姿を持って何を大切にすべきかを教えてくれます。




時代とともに時候の挨拶は変化するでしょう

ビルの谷間に photo 宮本章光

暑いね。寒いね。いい天氣やね。日が短くなったね。
時候の挨拶に込めた定番ワードの数々。

この国が大切にしてきた貴重な言靈です。

時候の挨拶は単なる気候についての会話ではなく、相手への思いやりと、自然への敬意を示すコミュニケーション方法として大切にされてきました。
まさに文化そのものではないかと感じます。


しかし、時代は移り変わってゆくもの。
いま、個を尊重し重要視する期を迎えるとともに、多様性を重んじる時代に入ったことは否定できないでしょう。

暑いか寒いか。ましていい天氣かどうか、どう感じるのかは個々人に差があって当然。
また、
その瞬間に、その場の空氣感を肌で感じ味わおうとしている空間に割り込み、過去から当たり前だから・挨拶だから・昔からそう言うに決まっている。
こうした理由を掲げ、個人的肌感覚を「押し付けてしまう」のは避けたいと感じます。

暑いか寒いか、それはどうでもいい。
その場を感じ・その場の空氣感を味わっている状況では、おはようございます。こんにちは。こんばんは。挨拶ひとことだけで終えてしまっても何も問題ないでしょう。
(もちろん、何かひとこと付け加えねばならない。との意見もあってしかるべき・これを否定するものではありません。=多様性その本質ですから)


過去からそれが挨拶として当たり前だから。
その理由だけで何の疑いもなく...、

- 個人の感覚の多様性への配慮不足
- 形式主義的なコミュニケーション
- 強制的な共感の押し付け

といった感覚を、時代が大きく変化している中で貫き通すのはかなり息苦しく感じます。
時代とともに、コミュニケーションスタイルも進化する必要があるはずです。
伝統を尊重しながらも、個人の感覚と多様性を大切にする新しいアプローチが求められているのではないでしょうか。

文化は固定的なものではなく、常に変化し、適応していくものだと考えています。
もちろん、残すべきは残し、新たな世に相応しいものへと。



祈りとは依存ではなく自分を宣言すること

春日の御神木に祈る photo 宮本章光

いのり。

自ら生きる姿勢を宣言すること。
いきる(い)を宣べる(のり)とされます。


大きな勘違いをして生きてきたのがこれまでの歴史ではなかったでしょうか。
祈りとは、神に願うことだ。と。
合格しますように。安全でありますように。などと。

それは単に神という見えない存在に「依存し我欲が満たされること」を懇願していただけではないでしょうか。
そもそも、神は、社にも祠にも居ませんし、そうした場所にはその地域や地を守るエネルギー集合体が存在するのみだ。と語られます。

それを、そこに、まるで白髪で杖を持った老人のような人物に置き換えられた神という名の我欲を満たしてくれる存在を作り上げ、その存在に対し依存する。それが願うことだと誤って教えられてきたのではありませんか。
さらには、
そこに隷属化のツールにしかすぎない金銭を要求する仕組みが作り上げられ、それと引き換えに欲望が実現する。
などと、歴史はあれよあれよという間に捏造され、ピラミッド頂点に「金銭という富」が集まる仕組みが構築されてきたのでした。


願うことがよくないのではなく。
願ったことを実現させるべく「自ら宣言」すること。そしてその導きに「感謝」すること。
これが「いのり」の本質。
そのためには、きっちりと襟を正し、しかるべきエネルギー存在の御前にて宣言をする必要があったのでしょう。
ですから、
それは、数千年を超えるとされる巨木や、神格化されて当然だと認識される、歴史を刻み膨大なエネルギー波動を維持している巨岩、森・山々など、この国の先人はそうした存在へ頭を垂れ、敬い奉ってきたはずです。


この根幹の部分から間違って教えられてきたのですから、誤りを知ったのなら正すだけ。
簡単なこと。

それなのに、ここに我を張り「自分は正しい=君のほうが間違っている:ファクトチェックはしたのか・エビデンスはどこや!」とやってしまう。まして「狂った宗教にイカれた奴」だとか「ツボを騙されて買わされただけやろ」などと、蔑み人を見下す姿勢を変えようとしない。
恥ずかしさの極みだと感じます。そもそも論点が完全に外れてしまっています。
その心・その姿勢こそが、いのりから「遠く離れてしまう」行為であることにまで意識が及びません。


自らを望ましく「正し」、
この先に実現した姿を「宣言し」、
その導きをいただけることに「感謝する」。

こうして「いのり」が続けられてきたのではないかと。

いのり、とは、依存することではなく、
願い叶った姿を実現すべく宣言し、感謝を宣べること。

この国に生まれ、この国で育てていただいたのですから、肝心かなめの「心」は理解できる方々ばかりだと思われます。
その心の波動が、この世を変える巨大な原動力になるのです。

いま、
この「心をひとつに束ねる」期を迎えていることは間違いありません。



映り写し移りゆく

映り写し移り photo 宮本章光

映る曇り空。
写るオブジェクト。
移りゆく心。

言靈の奥深さ。
言靈の偉大さよ。

撮ってやろう・見せてやろうから離れる

百日草が並ぶ photo 宮本章光

土用入り。
土に触れないのが望ましいとされます。

それまでにしっかりと手入れされている街角の花壇。


見せてやろう。撮ってやろう。
そんな氣持ちから離れることができたのは、やはりSNSから大きく距離を取った後からでした。

別にそんな意識はない。
別にそんなつもりで撮っていない。

みんな声を揃えて、そう仰います。当然わたし自身もそうでした。
でも、
そこには「そんなエネルギーが内包されている」ことが伝わります。
ほんの少しでも、それは判ります。


花壇の真正面には無造作に止められた自転車の列ばかりで。
けれど
美しく色とりどりに咲き誇る姿を見かけたから。
だから、ここで数点だけ記録することが叶いました。


こうして同じ周波数がシンクロする時代へと。
このようにして同じ波長で響き合う時代を迎えました。



そこにあるさまざまな対比

そこにあるさまざまな対比

明暗が存在するのがダメなのではなくて。
表裏があるのがよくないのではなくて。


対比とコントラストを味わうために。
この地で体験するために。

直線と斜線。
分割と統合。
色彩の対比。
質感の対比。

この地・この世で体験すること・できることは、写真表現の世界そのままだったこと。
望ましい対比を堪能するために、望む階調へと整え、視覚的記憶色に近づけるために色彩感を戻してゆきます。

それはよくない行為だ。と叫んだ過去もありました。
そういった「制限」や「規制」をわざとかけて、その枠組みの中で楽しむ。
それも一つの体験でした。


そこにある様々な「対比」に感覚を合わせる。
そこにある無限ともいえる「対比」を味わい尽くす。

そこにあるさまざまな対比。
画面に向かって画像処理を行う。
ここに、具現化の世と同じフラクタル構造が存在していました。

はい、
この先に対比を無くすのではありません。間違いのありませんよう。

対比を「自分の心」で「自分の感じるままに」その手綱を握っておくこと。
その結果、
生み出された波動が「望むままに」顕現化すること。

土用の入りを控え、
ここまで進化・成長できたことを喜ぶ日を迎えました。



川面に揺れる

川面に映る photo 宮本章光

川面に映る。

公害が叫ばれた50年前とは比較にならないほど、美しく浄化し平成を流してきたこの場所。
そう遠くない以前には、わずか数十メートル先は亀の姿で溢れていたことを思い出します。

令和の現在では亀や鯉の姿は消えましたが、大昔のような汚染はなく対岸の建物を映し出しています。

飲料缶のようなものが手前端には見えます。
けれど、心無い人の「心」が変われば川の姿も変わるはず。

川面に揺れる眺めとともに。



眺める

眺める photo 宮本章光

眺める。

静かに。
穏やかに。


存在価値

見上げ photo 宮本章光

この世の存在価値を失ったような感覚。

必要とされなくなれば、存在価値も消滅する。
このレイヤーにおいて意味・意義が消失したかのごとく。



悲しむことなかれ

切り株より受け取る photo 宮本章光

悲しむことなかれ。
新たな地、新たな物理実体を得て、新たな命をつないでいることでしょう。

時間をかけてその抜け殻を地の大神へお返しする。
刹那の出会いと、その波動に頭を垂れ。



明暗・強弱・対比の世界からの卒業

明暗強弱対比の世界 photo 宮本章光

明暗、
強弱、
表裏。

対比の世界。
味わい尽くしましたでしょうか。

堪能したのなら、感謝とともに手放す意思表示を。


心に描く波動は、思いのほか他の人に伝わります。
わざと「嫌がらせ」をすれば、その通りの波長が届きます。
そして、
心にもない...状態で「綺麗ごと」だけを掲げるならば、虚栄心そのままの波長が伝わります。
また、
見てくれだけの綺麗ごとを取り繕って自己アピールすれば、その「ひん曲がった」波動のままに伝わります。

人に判るわけがないやろ!
というのは、本人だけの思い過ごし。
ものの見事にエネルギー波動が振幅し、周囲へと拡大しています。
まるで、池に広がる波紋のように。
もはや、そういう時代になっています。すでにそのレベルの世界へ突入したのです。


それは、
心臓から発せられていることが解明されてきました。そのパワーは強大で四方八方へ波動を放っているとされます。
だから、
心を込めて。と語るときには「両手を胸の前で合わせてその氣を」大切に包み込んできたのです。
(諸外国では、額の辺り=The 3rd Eye Chakraを指す事例もあるようです。)

さらには、
距離も時間も超越し、遠隔地でさえその周波数が一致するならば「瞬時に」共振・共鳴を起こします。
これは、奇妙で頭の狂った精神論でも何でもなく、物理法則そのもの。揺るぎない仕組みです。


あんたはアタマがおかしい、と横目でしか見てこなかった人のほうが狂っていたことを知りましょう。
そのような誤った古い価値観から早く「軌道修正」をなさいませんと、もう氣がついている人たちが急増しているのですから、アッという間に置いてきぼりを喰らいます。

特にこの国の人たちは、これまでの習性そのままに平均的・偏差値的なボリュームゾーンを意識していますから、過半数に達した側の「意見」に迎合するクセがあります。
こっち側が優位だ!と見極めるや否や、掌を返して新たな波動に収束してゆくはず。
それは、今回・この期においてはよい意味で集合意識の拡大に寄与するでしょう。


明暗・強弱。
その対比の世界。
堪能し尽くしたなら、この先に維持したい周波数だけを選択する。
選択こそが意志表示。

その選択が、望ましい近未来を生み出してゆきます。



俯瞰する能力を取り戻せ

丹生に詣る photo 宮本章光

何ごともバランスが必要だと知らせてくれる日々。
冥王星の逆行が終了し、負のエネルギーを細部まで抉り出し炙り出す時期を乗り越えたのではないかと感じます。

ミクロ的な視点ばかりでは大局が読めず、氣がつけば泥沼に両足をとられてしまいます。
とは言え、外枠だけを見ていては細部に隠された仕組みを知ることが叶いません。
ともにバランス感覚を持つことの重要性を知ります。


この感覚が「中道」という言葉によって伝えられてきたのかもしれません。
両極にある「二つのもの」を超越する。
それぞれの中間・間にあるからどちらでもない。という物理的物質的観点ではなく、二極化・分離・対立のどちらでもないという境地へ至る、その究極の感覚を学ぶのだと。


ミクロ的・スポット的に「揚げ足を取り」他人と自分を比較し人より自分が優れている、といったエネルギーを良しとする感覚に慣れすぎ麻痺してしまった、これまでの生き方から脱する時期を迎えています。

自己顕示欲の塊。
自己承認欲求の波動が人の体をとった権化。

ある時には、それは歪曲され、結果として「人へ嫌がらせ」を行う形となり、
またある瞬間には、それは「見てくれだけを飾り立てた」見せかけの親切や丁寧さ、形だけの綺麗ごとを表現するばかりであったこれまでの世を、一切合切立て直しするために。


いま、大局を俯瞰し、これまでのエネルギー波動とバランスをとる時間を迎えたように思います。
その感覚こそが、中道へ・悟りへと至る道であることを知ります。



穏やかに・望むものへ

横顔を photo 宮本章光

不要なもの・コトから離れたら、
次は、
この先に望むもの・コトに合わせてゆく。

それが現実創造。
それが仕組み。

いまここで感じていること、
いまここで描く意識、
これが自分の現実を創り上げてゆきます。

それが仕組み。
それが心の使いこなし。



「身の丈」それが魂レベル

身の丈のとおり photo 宮本章光

身の丈に合った生き方。
そんな言葉があります。

自分の背の高さのままに。と、文字通り読むことができます。
そして、
そこから、分相応・無理をしない。必要以上に背伸びをしない。
と、意味を拡大してゆきます。


見てくれだけを偽って強く見せる。
表面上だけ綺麗事で飾り立てる。
そんな世。
もう終わりました。


身の丈。
まさに、これこそが「御靈相応」「身魂相応」を指し示し・自分の丈で生きなさい、との教えだったと氣がつきます。
さらに派生して、そこにあるがまま。偽りのない生き方。と解釈は拡大してゆきます。
ここにも、言靈の力が及ぶことを知り得ます。


おそらく、100人中100人ともに決して注目することのない道端に生きる存在。
ひっそりと、しかし無理なく自分らしく、そこに生きています。

身の丈相応。
それが魂レベル。
その現在視点から、さらなる拡大進化・成長を果たすよう磨き続ける。
それが魂の仕組み。それが役目だからです。



すべては内側から外側へ

美しく煌びやかな photo 宮本章光

すべては、内から外へ。
すべては、内側から生み出し外側へ顕現化する。

思考は現実となる。
だから、
望まないものにフォーカスしない。

見て見ぬ振りをする、というパラドックスに惑わされない。
その思考そのものさえも、自ら生み出していることを知るならば。


すべては、内側から外側へ生まれ出づる。
大いなる仕組み。
大いなる氣の力。



人は自然から離れるほど勘が鈍る

谷あいで涼むひとたち photo 宮本章光

人は自然から離れれば離れるほど勘が鈍る。


これは実体験・実感として得ている感覚です。
人によって違いはあるでしょうし、まったく関係ない。と仰る方もあるでしょう。
ただ、
自然の中に身を置くと爽快感に満ちた感触があるのは事実ですし、否定できない部分だと思われます。


谷あいのベンチで休むひとたち。
この先・これより上へはサンダル履きでは困難かとは思われますが、サンダル履きで訪れ氣軽にその波動に触れることができる環境があること、そのものが大変貴重です。

繁華街へ繰り出しファーストフードを口に放り込むよりは、
あるいは、
ビルの谷間でスマホ三昧に浸るよりは、
少しでも多くの時間を、大自然とともに過ごしてみたいものです。


そこには膨大・圧倒的なエネルギー、ポジティブな氣が満ちています。
そして、
この地で生きるために絶対必要である「空氣:酸素=光合成」を供給してくれる仲間の生命存在にも意識を馳せることで、そこに感謝の念が湧き上がります。


自然に触れる。
そこでは、忘れ去っていた「天とつながる感覚」を取り戻すことができるはず。

人は、自然に接し自然の中に身を置くことで、生きるための氣を取り込み、天と繋ぎ直すことができるように思います。



良きも悪しきも顔に出る

刻まれる歴史と顔 photo 宮本章光

人の顔。
その人の歴史が刻まれていることが判ります。
そして、現在のその人の魂レベルや精神性さえも表現されているのだと語られます。


年齢とともに変化するのは容易に理解できるでしょう。
けれども、それが醜いほどにまで劣化・悪化するのは、その人の内面が現れている証。
他方、
細胞レベルの変化ではなく、内面から滲み出す美しさを感じる「顔」があるのも、これまた事実です。

見た目で判断してはなりません。
と、これまでの世では教育されてきました。
しかし、見事なまでに「その人の精神性」がそこに描かれていることを知るにつけ、見た目・第一印象として強烈に伝わってくる、その人の「心すべて・人すべて」が判ります。


ここからは、一般論から外れますので、お断りしたうえで続けます。
「顔」。
瞬時に伝わるのは、精神性・内面だと理解できたのであれば、そこに「激しく違和感」を感じる場合は、どう解釈すればよいのでしょう?

ひとつは、自分のその時点での周波数と限りなく「乖離」している場合。
もう一つは、人間ではない存在だろうと感じる「勘」そのものが示す事実です。

前者は説明の必要はないはず。
では、後者はどういうことなのか。
単刀直入に。

これまでは、この場に文字として残すのは極力控えてきました。
けれども、ここまで覚醒が進み、諸外国を初めとする公の場での開示が進んでくれば、もういいでしょう。

人間とされる存在は、多くのクローン(アンドロイド:スマホOSのことではない)がその中に混じっているとされること。むしろその数のほうが多いかもしれないとさえ語られていること。著名人や支配者層は、ほぼ間違いなくその存在があること。
この国でも過去から示されてきた言葉があります。「影武者」。
この言葉なら少しは精神的抵抗感は和らぎますでしょうか。

ええ、もう思考が拒否している様子が想像できます。
そんなものがあるわけない。あり得ない。きみの頭は狂ってる。あんたアホちゃうか。と。

この5,6年間で、どれほどそうした展開・どんでん返しを余儀なくされる体験をしてきたでしょうか。
ことあるごとに、それは「覆され」既存の知識や思考を完全撤回する機会を味わったはずです。
まして、自ら毒を自分の体に入れ、この世での借り物の体を失ってしまう、あるいは取り返しのつかない状態に陥ってしまった人々を目の当たりにして、何も学ばなかったとは言わせません。
(あまりにも失礼がすぎるでしょう、亡くなった人たちに対して。彼らは自分自身の学びでありましたが、この地に残った人たちにも劇的なメッセージを与えてくれたことを忘れてはならないように感じます。)

この事例についても、同様にこれまでの自分の知識と思考回路を完全に逆転させる必要があると思われます。
まだ言い続けますか。
「これだけは違う」「それとこれとは別の問題や」などと...激しく聞き飽きました。もういい。


逆説的な証明になるかもしれません。
見事なまでに内面を表現する顔。その顔に「生命としての鋭氣」が皆無で、且つあり得ないほどに「違和感」が強烈に伝わるのは、まさに人間ではない証明でもあるかと。

今日はここで止めておきます。
まだ免疫ができていない人たちには完全に逆効果だとされる内容を掲げ、ここに自己顕示欲を押し出す意図はありません。
(学生時代から、君の言うことは大体5年から10年早すぎる。早ければええってもんやないんや、と言われ続けてきたことを思い出しています...。
その度に、あぁ自分はこの星由来の存在ではないんやな、と感じたものでした。)


御神木よりも絢爛豪華な祠を選んだ人たち。
こうした人たちにより、この樹木としての生命はこの地から消滅しました。
切り倒されたあと、材木として次のお役を果たしていることを願うばかりです。
もうここに参ることもありません。

ありし日の顔を、ここに残します。



自分は何者か・繰り返す歴史

そこにそのまま photo 宮本章光

いつまでも歴史は繰り返す。


自分は何者か。

そんなことを考えるヒマがあるなら、一円でも売り上げを上げてこい!
と、走り回る。(走り回らされる)
そんなことを考える余裕があるのなら、もっともっと勉強して有名大学を卒業し立派な医師になりなさい!
と、洗脳教育と宗教的恐怖エネルギーに基づく思考を強固に刷り込まれ。

そしていま、精神世界を語る、一見救いの手が差し伸べられているかに見える観点でも。
そんなことを考える必要はありませんよ。そのままでいい。そのまま。
と、フォーカスを故意に外される。


ええ、でも一度くらいしっかりと考える必要がありましょう。
そして、その結果「そのあとで」手放せばいい。
このプロセスは非常に大切かと感じます。

いつでも、
何か「成長や進歩のきっかけ」を、わたしたち自身が見つけそうになると、その瞬間に意図的にフォーカスが外れてしまうのはどうしてでしょうか。
でも、
それは、自分が「まだまだ味わい足りない」と、深層心理レベルで思い願っているからこそ、自分で自分の意識を操ってしまうのではありませんか。


じっくりと考える。
それは、
じっくりと「見つめる」ということでしょうか。
見つめる、とは、
心の奥底にある周波数を見極めること。
自分が何者かと俯瞰してみること。


何に合致しているでしょう。
どこにフォーカスしシンクロしているでしょう。

それとて、自分で意図的に狙っていることを知り得ます。
まだ味わい足りないから、もっともっと苦しみたいです、と。


ここを理解し、この手綱を手懐けるまでこの地の学習が続きます。
フワフワビジネス界隈では、ここを置き去りにしてしまう傾向があるように見えます。
けれど、
それとて、わたし自身が生み出している想念の波動だと第三者視点で俯瞰して理解に及びます。


いつまでも歴史は繰り返す。
そのわけは、
わたしたち自身が、心の奥底に固着した強烈にネガティブな「この地で味わいたかった」エネルギー波動のタネを温め続けているからではないのかと。


自分は何者か。
ここに意識を巡らせるとき、凝り固まったそのタネを見つけることができるように感じます。
そのタネを拾って捨てる。
ここまで到達できたでしょうか。
手放し、とは、ここまで深く理解が必要でした。


このあと・そのあとに初めて、
このまま。そのままでいい。
と、
その境地に足を踏み入れることが許されるのでは、と思われます。
そして、ようやくその次のフェーズに移行できたように感じています。


これまでの道これからの道

猿のかずら橋を photo 宮本章光

これまでの道を歩むのか。
これから先の道を自ら創り上げるのか。

選択。

言われた通りにトレースすることだけを極めてきた人にとっては、その場に及んで決断が難しいのではないかと感じます。
判断をする練習を積んでこなかったから。

日常・日々の取り組みの中でも、ちょっとした判断を意図的にやってみる。
これが勘を磨くことになるはずです。


通勤電車。いつも同じ時刻、いつも同じ車両に同じ座席。
ランチメニュー。誰かと一緒、自分で決めず、じゃぁわたしもそれにする。
オフィスへの通い道。必ず同じ交差点を曲がり必ず同じ通りを歩く。
いつもと同じ設定でいつもと同じwebサイトを巡る。
いつも同じようにSNSを流し、いつも同じように人と比べて一喜一憂する。

それが彼らにとっての選択。
それが彼らにとっては最も居心地のよい生き方だから。


ひとつだけはっきりしていること。
その道は、
この先のこの世では崩壊し滅亡します。すでに確定、もう戻ることはありません。

この先、この地は、自分の目的を自分で理解し役目を果たし、ともに生きるすべての生命と喜びと感動を分かち合える、そんな風景を「自分たちの手(=心から生み出す波動)によって」生み出してゆく世です。

----
なんのために生まれて
なにをして生きるのか
こたえられないなんて
そんなのは いやだ!
今を生きる ことで
熱い こころ 燃える
だから 君は いくんだ
ほほえんで
----

なにが君の しあわせ
なにをして よろこぶ
わからないまま おわる
そんなのは いやだ!
忘れないで 夢を
こぼさないで 涙
だから 君は とぶんだ
どこまでも
----

時は はやく すぎる
光る星は 消える
だから 君は いくんだ
ほほえんで
そうだ うれしいんだ
生きる よろこび
----
(アンパンマンのマーチ歌詞より一部抜粋)


これまでの道。
これからの道。

なんのために生まれ、なにをして生きますか。
なにが幸せですか。
何がよろこびでしょうか。



確かにそこに生きる

確かにそこに生きる photo 宮本章光

激しくノイズの多いメトロポリタンエリア。

しかし、
確かにそこに生き抜く生命。
立派に生きる生命存在。

ノイズなど物ともせず、ひたすら自らの命を繋ぎ続ける。
不要な波動に流されることなく、ただひたすら自分の道を生き続ける。

確かにそこに息づく生命。
確かにそこに生きる存在。

見習うべき立派な存在へ頭(こうべ)を垂れる。



ノイズから離れる体験を

ひとり時間 photo 宮本章光

かすかに響く川の流れ。
谷間にこだまする小鳥のさえずり。
樹々を緩やかになびかせる穏やかな風。

この空間を堪能するために。
この時間を体験するために。
ここを訪れます。


日頃、容易にその感覚を味わうことが叶わないからこそ、
記録としてその場のエネルギーを込めてここにアーカイブしてゆきます。
そして、
その場の記憶を蘇らせてみたい、と空を見上げ、鳥たちの歌声に耳を澄ませる時間を持ちます。

そこへ土足で踏み込み、暑さがマシになっただとか日暮れが早くなっただとか。
そんな言葉を、無造作に人の心の中に放り込む人たち。
静かに空間を味わうということを知らないひとたち。
いつまでも古い定規しか持っていないひとたち。


離れ・手放します。
周囲に響き渡る鳥たちの歌声を思い出しながら。
周囲になびく心地よい風を思い出しながら。

ひとり時間
ひとり空間。
氣を整え氣を落ち着かせます。
それは、
ノイズから離れる体験。

ここから望ましい道を切り開く原資が生み出されます。
ここからしか、そのリソースを生み出すことはできません。



会いにゆく・創るため生み出すため

会いにゆく photo 宮本章光

伝わる人とだけ接すればよい。
それは排他的・意固地な行動をとることではなくて。

ここが理解できない限りは、永遠にこの負のスパイラルに取り込まれたままです。
教育洗脳の被害者でもあります。自分自身で脱するしか道はありません。


大半が必要のないノイズの中に埋もれていることを俯瞰すればこそ。だと。
無理にノイズに合わせ、無理に不要なエネルギーに合わせてゆこうとすること。
それが何をもたらすのか。
その行為が何を生み出すのか。

ここを理解できていないから、
--願うだけで何ができるんや!
--想うだけで行動なしに何もできるはずがない!
と、
対立と嫌悪の負の波動ばかりを生み出すのです。


願うこと・想うことが「まず初めにありき」である大法則を理解できてない以上、論点は噛み合うはずがありません。
まず最初に心に描く目に見えないエネルギーが生み出され、それが時差を経て現実になる。
その仕組みを学ばない限りは、絶対に成長は叶うことがありません。
すでに限りなく多くの事例により証明され、科学的にここに到達しようとしているのです。


掛け算を知らない人、を例えてみるのなら、
「3x4=12」となりますよね。
と話してみても、
「3+4=7」でしょ。あなた間違ってますよ。
と、まったくすれ違うだけ。
(それ=足し算ですから〜。掛け算をご存じないのです...。)
その昔、ドリフのコントに出てきたようなチグハグで会話が成立しない例えです。


このエネルギー波動に接している限りは、自分も同化しそのネガな波長にシンクロしたまま。
もういいでしょう。もうたくさんです。

必要な周波数が何なのか、どこにあるのか。
それを知ればこそ、そこに会いにゆきます。
その波動が拡大し、時差を経て顕現化してゆきます。
それが法則だからです。



水の女神に感謝を捧げる

水の女神に奉り photo 宮本章光

記憶と
希望と
感動と。

感謝は自然とともに湧き上がるもの。
水の女神に奉り。
風と火と土の神に感謝を捧げ。



願い・さまざまに

願い・さまざまに photo 宮本章光

個の時代。
想いはさまざまに。

旧来のメガネでしか見ない価値観。
これまでの感覚の延長線上にある価値観。

それを望むのはその人の自由。
けれど、それを望まず新たな感覚・感性を磨き極めてゆきたいと感じるのも自由。
なりたい自分に、行きたい未来へ。

そして、
願いもさまざまに。


想い・さまざまに

さまざまな記憶さまざまな想い photo 宮本章光

多様性を尊重する。
この大原則は揺るぎません。


いつの間にか隷属化思想に染まったのかもしれません。
すべてが同じでなければならない。
すべて同じことが美徳である。と。

それは、画一化を掲げ、心や思想までも支配することを目論む隷属化の行き着く道。
まんまと引っかかってしまった教育洗脳の成れの果てとも言えるかもしれません。


危ういと感じるのは、
すべては根源に通じみんな同じであるという原理原則と「ごちゃまぜ」にして語られること。

決してみんな同じではありません。
ワンネスの仕組みや悟りに至る究極の一(いつ)に収束する感覚と、多様性を否定することは同じではないはずです。
ここを取り違えることのありませんよう。


自分・自分軸をしっかり持っていないので、あちらへ振れこちらに傾きフラフラぐらぐら...。
靈性・精神性の度合いがあからさまに表出する時代になりました。
御靈相応・身魂相応。

個の時代。
想いはさまざまに。



その質感こそが氣の正体

ねこじゃらしが呼ぶ秋の入り口 photo 宮本章光

触ったことがない、と仰る方はおそらくないと思われます。


過去に触れた経験が記憶にありその感触を思い出すはずです。
少しチクチクするでしょうか。
多少の痛みに似た感覚かもしれません。
でも固くはありません。


その感触を「思い描いている瞬間」に、その印象・イメージと同じエネルギー波動に合致しています。
これこそが、エネルギーシンクロは法則であるとされる所以です。

わたしがここに写真と文字を記すことにより、
当記事をご覧いただいた方にもその周波数に合致したエネルギーが生み出されています。
いまこの瞬間に、です。


もう多くを語る必要はないものと思います。
この先の世を創り上げるために「必要ない」波動に触れると、その不要なエネルギーに合致した不要な波動が生み出されてしまいます。
望ましい道が創造されるのを阻害しているものと、顕現化・変化が極めて遅い理由は、
そういった「不要な周波数のエネルギー」をいつまでもキープする人たちによって逆噴射されているからだ、と考えれらます。
当然、自分自身でも瞬時にその反対周波数に合致してしまう瞬間は無数にあります。その瞬間には強烈に逆噴射してしまっているわけで。


やるべきことは、ただひとつ。

旧く役にたたないこの先に不要な波動からきっぱりと離れる。
望むエネルギー波動を選択する。
望む周波数を維持する。

そして、俯瞰する。

何を俯瞰するのか。
それは、
各界隈で語り続けられる、ビジネス教材やチャネリング情報とされるさまざまなエネルギー。

それが正しいかどうかはまったく関係ありません。自分にとって同じ周波数だと思うなら導入すればよいでしょうし、違う!と感じるのなら、それは自分とは合致しないエネルギーだということ。

多くの場合、それらは「善と悪がセットになり」あちら側から放たれているのではないかと感じます。
よって、
参考にこそすれ、判断は自分の心に尋ねる以外に方法がありません。


幸い、心の感触というアドバイザーが超強力なので「違和感」というアラートをけたたましく鳴らしてくれます。
違和感を盛大に感じるものは自分とは合っていない証。もっと言えばそれは仕組まれたエネルギー。善悪どちらであってもです。
見た目が「善であるかどうか」は、判断の基準とする定規の役目を一切果たしません。

これを、それ風・その道風に言い換えてみますと、
感覚を内側に向け宇宙とつながる。といった語りで伝えられているものと同じかもしれません。
まさに、「答えは外側には存在しない」と、何もかもがピタリと。全会一致と相成ります。


物質・物理次元的な感触に再構成してみますと、
質感こそが氣の正体。そしてその氣こそがエネルギーの本質。
合うか・合わないか。それが周波数・波動のシンクロ法則。

もう「氣」をつかいこなす時代に入っています。
その質感こそが氣の正体であると。




この世はワナに満ちている

この世はワナに満ちている photo 宮本章光

もうこの認識そのものから脱する時間を迎えています。
(今日の記事は少々難しいかもしれません)


この地・この世はワナに溢れています。
それは、
ワナにハマり捉えられる体験を通して学ぶため。

しかし、その状況・状態を「俯瞰」できない限りは成長が期待できません。
なぜなら、ワナにハマっているんだよ。と認識できていないからです。
まさに現在の状態そのものではないでしょうか。


敢えて不自由を「自分から希望して」この地にやってきたわたしたち。
それなのに、
いつまでも、世の中おかしいやろ!狂ってるやろ!節を続けるのは、ワナにハマっていることが認識できていない証。
この状態を第三者視点で見ることができない限り、未来永劫その現実を自分が創り続けてしまうのですから。


あぁ、これほどまでに巧妙に騙されてたんだ。
あぁ、いかに深い洗脳だったかを知り目が覚めたよ。
と、ここまで来れたのなら、
次は、
お見事、騙していただきわたしは成長が叶いました。
素晴らしい、落とし穴に落ちてその「味」を知ることができました。ありがとうございます。
と、この段階に昇華しなければ成長の成果をこの先に活かすことができません。

これこそが、悪は善とバランスし仕組みとして対極を体験するために存在しているのだと知り得ます。
よって悪はお役であり感謝を捧げ、そして手放しましょうと語られているわけです。


ここまでを知り、その仕組みを理解することが覚醒の本質です。

どれだけ悪事があったのか、どれだけ騙されていたのか。
それを知らない人に「知れよ!知れよ!」と押し付けるのは、ただ単に「自己顕示欲と自己承認欲求」に囚われているだけでは、と感じます。
まさしく、SNSで自己アピールしている世界と同様。
どれだけいいね!を集めたか、どれだけフォロワーが増えたか。
そういった数を追い数を求める世界をこの先も望み、まだまだ深層心理レベルで「こびりついたアカが落とせていない」証明です。
人に知らせることが世の中を変える方法だ!
などと激しく間違った認識のまま、善の仮面を被った悪に成り下がっているだけ。
そういう大義名分を掲げて、自分が負の周波数に合致してしまい悪のエネルギーを撒き散らすばかりです。


ここにはワナしかない!
そんな世・そんな地で勉強しっかりさせていただきました。ありがとうございます。
と、ここにまで至ったのであれば、
この先には、その負の周波数を選択しないはずです。

ええ、この地この世はワナに満ちている。
そういう認識、そういう感覚そのものから抜け出し卒業するのです。


この地この世がワナに満ちているかどうか、それ自体が「もはやどうでもよい」こととなってゆきます。
それが意思表示。
それが自分の選択。
ええ、この先に不要なモノ・コト、もはやどうでもいいのです。

これが、新たな周波数へと移行するその本質、悟りの根幹、次元上昇と語られる本質かと思われます。



怒れよ日本人!という扇動に乗らない

ダムの手前で息づく生態系 photo 宮本章光

いつまでも現状を続けるのは止めにしませんか。


狂った世になっているのは、崩壊直前ゆえ徹底的に解体しなければならないだけのこと。
このままじゃ国が無くなる!
このままじゃ移民で国が滅亡する!
怒れよ!日本人!!

そんな言葉を叫び踊り続ける人たち。
これ、少し前にもありましたでしょう。なんたら省庁前デモだとか。
あぁ、いまでもやってますか。いまデモ^^。

結果はどうでしたか。
世の中変わりましたか。
結局は、自分の我欲を満たしただけ。叫ぶことで鬱憤を晴らしただけでしょ。

こうやって膨大な負の周波数エネルギーを「生み出し・撒き散らし」結果として、余計によろしくない方向へと目の前の現実をシフトさせてしまったことに、まったくお氣づきになりません。


ご本人は、良かれと思ってのことでしょう。
知らない人に知らせるのが役目なんだ、と救世主にでもなった氣分。さぞストレスも発散できたことでしょう。
何もしないよりマシやろ!だとか、何かすごいこと偉いことを自分がやってんだ。と。
でも、よく考えてください。

その負の波長に合致している限り、永遠にそのエネルギーを焚き続けます。
これを「善の仮面を被った悪に落ちぶれている」というのではないでしょうか。
氣づかないのはご本人だけ。まさに裸の王様。恥ずかしさの極みです。


大切なことは、
そのエネルギー波動に「触れるだけでも」自分自身が同じエネルギーを増幅していること。
この極めて重要な原理原則を知る必要があります。

触れるだけでも。
とは、
そういった記事を見るだけでも、ということ。
見た・読んだ瞬間に、その波動と同じ周波数に合致します。言葉はエネルギー存在そのものだからです。

ですから、見ない・聞かない・話さない。
これを徹底し、その波動から離れたのではなかったでしょうか。
(はい、わたし自身がその波動に触れているから認識してしまっています。よって可能な限り離れます。)


そしてその次にやるべきことは、ただひとつ。
望ましい世を心の中から生み出し創り上げること。
それは、
お花畑だ・フワったダメな奴だ、と蔑み見下されてきたのです。それが現実を変える唯一の手段であることに氣づかせないためでした。


この境地にまで到達しなければ、永遠に叫びつづけなければならない負のエネルギーの渦中から脱することは叶いません。
まさに、
良かれと誤解している人たちの扇動に巻き込まれないことです。

終末期には、混乱の世に飲み込まれ道連れにされないように!と、ずっと語られてきました。
ええ、自分は大丈夫さ”覚醒しているし理解している"。
などと達観していたはずの人たちが、このさまです。

結論から言いますならば、
覚醒も理解も、とんでもなく初歩のところだけで足踏みしている状態。幼稚園児になったはずなのに、まだワガママ放題泣きじゃくるようなレベル。
これでは、とても中学生になどなれるわけがありません。


この先の世を本氣で変えようと思うのなら、
この先の道を本氣で創り出そうと考えるのなら、
「怒れよ日本人!」という、ビギナーすぎる人たちが結果として陥ってしまった扇動に乗らないことです。
彼らも、いずれは更なる成長を遂げるはずですから、それまでは触れず離れて、ご自身の成長に任せればよいだけ。


自分は、自分の望む世界を創り上げるために、
心地よく暖かく、穏やかで感動と感激・感謝に満ちた、多くの生命存在とともに歩む道を、ひとつづつ生み出す。
これ一択です。これしか方法はありません。それが大原則・大法則だからです。
実践してゆきましょう。望ましい風景に満ちた世を実現するために。




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