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宮本章光/宮本陽の視点「開闢」And EM Official Blog

みやもとあきらのしてん AKIRA MIYAMOTO@And EM

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「不合格」通知を受けたなら

飾り台に輝く photo 宮本章光

いわゆる「合否判定」という発表・通知を受けた体験。
誰しも一度や二度はあるはずです。


いま、衝撃的な通知。
「不合格」
それは、試験だったことに、まもなく世界が衝撃を受けるかもしれません。
(いえ、オールドメディアから離れながらもSNSとwebしか入口を持たない「自称覚醒者」であっても、その事実に触れることさえできないかもしれません。それが厳しくも現時点の地球人の現実・レベルなのだと。)

3I/ATLASが岩と氷の塊にしては説明がつかない、だとか。
人間以外に生命が存在する確率はどうだ、だとか。
そんなことをやっている間に、
地球人は「まだ未熟すぎる」とのメッセージが送られてきた。との情報があります。

ええ、ファクトチェックしていません。エビも確認していません。あくまでも第一報に触れただけ。
ただ、
「そんなことはどうでもいい」のです。
「そんなことはどうでもいい」という、その域・その境地にまで達する精神性を備えていなかった。ということでしょう。
彼らは、意識エネルギー体そのものであり、わたしたちを「採点」していたのだと。


他星系生命?いい歳してアタマおかしいやろ!とか、
他生命なんか居るわけないやろ!さっさと仕事仕事・勉強勉強とか。
え〜未知との遭遇、ETさん地球を助けて〜。
などと、やっている姿。恥ずかしげもなく。

そりゃ不合格になって当然かと。
まだ銀河の家族に迎え入れるには未熟すぎるのだと。


不合格通知。
この期に及んで宇宙家族試験不合格通知を受けると確かにへこみます。

通知の最後には、
「この先も道は塞がれていない」「自らの進化の意識を制限するものではない」(意訳:ファクトチェックなし)
と添えてあったと言うからには、
自力でもっともっと成長を果たし、その姿を見せてゆきたいと思うのです。

予備校の例えなら、もう一年間の授業料を納めて、新たに白紙のノート・ファイルを整える。
そんな感覚です。


どうでもいいこと。
取るに足りないこと。
そんなレベルを、一回りも二回りも脱ぎ捨てて、物理物質次元に囚われたままの意識を開放すること。
それが「成長と成熟」の本質ではないのでしょうか。

人を批判したり、上から見下したり。
そのこと、そのレベルそのものが低すぎる靈性だと。奇しくも指摘されて...。

上記のように、どうでもいいことから脱し、ホンモノの「和の精神」を培う。
競争ではなく「共創」。
分離ではなく「統合」。
恐れではなく「思いやり」。


この国で生きていることに感謝を捧げ、貴重な言靈を扱わせていただけることに感謝を奉り。
一旦どん底まで落ちてこそ、這い上がる不屈の精神を磨けることに頭を垂れ。

雲外蒼天(うんがいそうてん)。
臥薪嘗胆(がしんしょうたん)。
なるほど、とことんまで打ちのめされてこそ這い上がる。ゴールを導く。

「禍(わざわい)転じて福と為す(なす)」
立派な言靈、ここにもあり。


webにある情報が正しいとは限らないこと、十分に理解しています。それに意図的に低い波動に貶める故意に仕組まれた罠も大量にあります。重々承知しています。
あくまでも現実は自らの心が創り上げること。
心に描くことにより量子場が確定されること。
思考が顕現化する大法則を実践するのみ。ひたすら前を向いて歩むのみ。

これほどまでに強烈なシナリオを描きこの地に降り立った自分に、あらためて驚嘆するばかりです。




香りに願いを込めて

金木犀香る2025 photo 宮本章光

登校・下校時に、この芳醇な香りに包まれて通う小学生たち。
今年は、特に印象的な空間ではないかなと感じます。


そこで行われていることは、古き悪しき旧態依然とした洗脳教育そのまま。
でも、
それが必要でありそれを経ることで、本来の目的を知る。
それがこどもたちにとっての「本当の意味での」学びであること。

教育者側は、いまだに盲目的にプログラムに従い、それが正義であり自分がもっとも正しい、と思い込んで疑わない。
でも、
それが必要であり、彼らにとってみてもその経験を経ることで、本来の目的を知る...。
...はずでした。そのはずでした。

ただ、この地においては、もう時間切れ。
心を入れ替える時期は、とっくの昔に終わっています。
彼ら教育者が傲慢不遜(ごうまんふそん)に、自身が行った選択は、当たり前のように自らに還るだけ。
50億年ほど岩石からやり直し体験を、どうぞご希望通りに。
さようなら。

そして、
この先、前途洋々たる未来を控えた次世代を担うこどもたちが、次々と目の前に現れるハードルをクリアし、立派に精神性を醸成・高めてゆくこと。
宇宙規模では、未熟極まりないレベルだと認識されていた過去を覆し、地球人として恥ずかしくない立派な魂に成長することを願って。

ここに心からの願いを込めて。芳る香りとともに。



「ともに」という言葉・言靈

ともに生きる photo 宮本章光

「ともに。」
この言葉は、独特の響きを持っているように感じます。


まずは第一印象通りに連帯感。
何かを「ともに」行うことは、互いに助け合い、責任を分かち合う。
協力や絆が生まれ、社会全体の調和につながる感覚でしょうか。

少し違った観点では精神的なつながりという表現でもあります。
「ともに」という言葉には、物理的な存在だけでなく、精神的な共有や感情的なつながりも含まれています。
喜びも苦しみも「ともに」感じることで、より深い理解や共感が生まれるはず。

さらには、これは哲学的な視点とでも言えるかもしれません。
「ともに」は、ただ単に一緒にいるという状態・状況以上に、存在することの意味を問いかける要素もあるでしょう。
個人と社会の関係、自己と他者の相互依存関係を考慮する重要な概念ではないかと。


このように、「ともに」という言葉は慣れ親しんだシンプルなワードでありながら、深い意味や文化的背景を持った表現だと思われることです。
人々が結びつき、助け合いながら生きることの大切さが、この言葉には込められています。
まさしく、この国の先人が大切にしてきた和のエネルギーそのもの。


常にこの場で触れ続けています「両極のエネルギー」。
それは、
精神的な領域にあるココロの感覚と、科学的思考というモノ・物質観点の波動。
目に見えないエネルギー波動と物質化した波動と。
それらは「ともに」存在することで、車の両輪としてバランスし成長・発展が実現できるはずです。

それなのに、
この地の歴史は、支配したい者により「その一方を無いもの」として教育し洗脳してきたのですから、その路線のまま、いつまでも人を見下し蔑み、人と比較して上に立とうとする姿勢をやめ、みっともない裸の王様状態だったと氣づくことです。


先般の記事にも記しました「科学的...」という感覚。
参考【科学的...という枕詞に】2025/11/04[Link]

これこそ、裸の王様の極みではないかと。
精神世界は誤り・間違いであり、正しく・真理は「科学的に証明されたものだけである」という、一方的な優越感にも似た感覚で語るのは、もはや恥ずかしさ以外の何ものでもないところにまで到達していることを知りましょう。です。


こうして分離分断を目論む彼らの思惑通りに踊らさせ叫び続けてきた、この地の悪しき歴史があったのは確かです。
しかし、
そこにフォーカスしている限り、そのレイヤーから脱することは絶対にできません。

なぜなら、
この地・この世に「物質化・顕現化」させるのは、わたしたち一人ひとりの心が生み出す波動以外に方法がありません。
思考は現実として顕現化する。大法則。これ以上語る必要はないでしょう。
それは奇妙な精神論ではなく、確固たる物理法則そものです。
すでに量子力学でも「観測者問題」として、意識という波動エネルギーによって結果が確定することは、当たり前の事実として証明確立しています。

仕組まれた落とし穴に自らハマって喜ぶような、幼すぎる遊びはもうやめにしましょう。
心の中から、心の底から、大きく望ましいエネルギーを生み出し、それを束ねて「ともに生きる」道を創り上げてゆきたい、と願うばかりです。
ともに。
それは、人も他の生命もすべて。ともに。


これが「光として生きる」「光の道を歩む」「科学と精神の統合」だと伝えられているのではありませんか。
見せかけだけのフワフワ波動ではなく、望ましい道を生み出す、との強い決意を固めて。
この国の「和」の精神そのものです。

この道こそが最速で目の前の風景を変える秘訣。これ以外に道は存在し得ません。



実りは自動的に

実りは自然に photo 宮本章光

自動だとか自動的、といった言葉。
この言靈にはどのようなエネルギーがあるでしょうか。


無理に力に任せて捻じ曲げるような印象とは正反対の感覚ではないかと思われます。
...なければならない。
とか、
...であるべきだ。
といったような感覚とは真逆にあるように感じます。


いま、自然とそれらの感覚から離れてゆきます。
まさに「自動的に」その感触から遠いところに離れたように感じられることが増えていませんか。
自動的に...。

木々は、実をつけるために花を咲かせ、その結果として実を結びます。
当然、実らせよう、という意志がはじめにありき、でしょう。
けれど、
そのあと、絶対に実をつけなければならない!などと言わないはずです。
まさに「自動的に」その流れの中で実を結びます。


そして、その実が美しくなくても、あるいは美味しくなくても、それで良いのだと。
人目を氣にすることなど絶対にあり得ません。
人にどう思われるか、仲間の植物に恥ずかしくないように整えよう、などとは決して思わないはず。

ここまで来れたこと。成長できたこと、喜ばしいに違いありません。
でも、人はここまで苦しい道を歩き、やっと植物と同じラインに立つことができたのではないでしょうか。

これがビジネスに落とし込まれますと、
---手放しをして...。
---我欲を捨てて...。
といったように、「無理に」現状の自分とは違う遠いところに行か「なくてはならない」と、やってしまうように見えます。そのエネルギー波動とそのレイヤーに居る限り、それは決して叶わないように感じます。


自然、という言葉・言靈は大自然その環境・状態を意味する場合もあります。
けれど、
自然体という使い方をする場合の言靈は、無理やりに力でねじ伏せるのではない、自動的にそうなる状態を示しているはずです。


見た目は決して美しくない、道端の果実。
でも、それは近隣にあるショップオーナー方が、激しく熱せられる夏にも、凍りつくような冬にも、世話をしてきたからに他なりません。
その結果、こうして当たり前のように「自然体」で世代を重ねてゆくことが叶います。

自動的とは、でもその裏側には人と木々の共同作業があることを忘れず、そしてともに歩むことにより実現してゆくこと。
人を蹴落とし、人によく見られたい・よいこちゃんアピールに腐心し自己顕示欲の塊のような生き方。
上から人を否定し優位に立つことを良しとする世界とは「正反対」の世。


次の世は、価値観がまるで違う素晴らしい世にしたい。
すでにその形での宇宙のブループリントが示されているのですから、それに則ってわたしたち自身が創り上げてゆくものだと再確認します。



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