アンド・エム宮本陽/宮本章光ブログヘッダーイメージ

宮本章光/宮本陽の視点「開闢」And EM Official Blog

みやもとあきらのしてん AKIRA MIYAMOTO@And EM

Archives [All Entries:2870]

そこにある氣をともに受け止める

そこにある氣 photo 宮本章光

見慣れた風景も、
通り慣れた道も。
その都度、そのたびごとに印象が変わります。

それは、
そこにある氣というエネルギー周波数が常に同じではないだけではなく、受け止める側の周波数が異なっているから。

そのたびに、違う味わいを。
その機会ごとに、異なる感覚を。


感じられないのは、感じようとしないから。
モノとココロの「両輪」だと、常々綴り続けています。
表と裏の「対(つい)」がこの地では必須であると書き続けています。

そこにある氣と、それを感じようとするセンサーと。
ここにも「対(つい)」となり「両輪」となるフラクタル。
何もかも、セットで存在し、
何もかも、セットになってこそ現実として顕現化する大法則。

片側だけの車輪は、この先の世では存在し続けることそのものが叶いません。
二極・二元の片側だけを選び味わう教室は、ここで終わるからです。
そうした旧来の学習教材を選択するのは自由です。
けれど、片側の存在そのものを自ら否定している以上、結果として自らの存在さえも存続を否定していることになろうかと。


いつまでも地球人は、激しく勘違いしたまま。
ともに受け止め・受け入れる。
ジャッジしないとは、
片側だけの車輪に蓋をしてしまい認識を拒否することではありません。

善も悪も、どちらも。
慈愛も怒りも、どちらも感じてどちらも受け止め、どちらも受け入れる。
見て見ぬふりすることが選択ではなくて、
どちらも受け止める。
どちらも優劣なく、どちらも正否なく公平に均等に感じる。受け取る。
これをジャッジしない、というのです。

怒りの心境なら、そういう状況だと客観視し受け止める。
喜びの感覚なら、そういう心境だと客観視し受け止める。
どちらも公平。
どちらも均等。
それがジャッジしないということ。


怒りの波動のまま、それに蓋をして、無理にわくわくするのではありません。
怒りの波動を、そのまま受け止め受け入れる。
それが「ともに」という言靈の本質ではないかと。


ともに感じ、ともに伸び、ともに成長し続ける世へ。
ともに、とは、正も負も。
ともに、とは、善も悪も。

そこにある氣。
そこに行けばこそ感じられる氣を。
対極の波動を等しく受け止めます。



「心が静まれば世界が静まる」

実りと深化 photo 宮本章光

美しい風景
美しい存在
美しい色彩

この国と、この国の言靈。

「心が静まれば世界が静まる」
道元禅師の言葉。


それを氣という

それを氣という photo 宮本章光

道路脇の植え込み。
これまでにも、何度か通り過ぎるだけの道。

けれど、その日にはこの風景が。
呼ばれたわけではなく。
声が聞こえたのでもなく。

でも、そこで足を止めたのは確かです。

後ろに続き、同じ道を歩く他の人。
まるで、わたしの存在が見えないかのごとく通り過ぎてゆきます。


そこに何か感じるものがあったから。
そこに何か言葉にならない力があったはず。

それを氣というのでしょう。
それが氣という名のエネルギーの本質だと理解します。

氣のせい。
という言靈は、そこに氣がありますよ、と感じること。
氣というエネルギー波動に同期したことを感じること。
それは、
故意に隷属化目的のために「思い過ごしだ」と誤って教え込まれた過去の刷り込みを、訂正し解放してゆきます。




整える・巡る・新世界

川面に photo 宮本章光

とてもそんな心境では無いにも関わらず、
---わくわくして待ちましょう。
---日に10個の感謝を書き並べましょう。
---実現したイメージを描いて引き寄せましょう。

なんてやってきた時代が、すでに過去になったことを強烈に感じます。
いえ、間違いだと言っているのではなく、もう古いですよ、目を覚ましてね。ということ。


「周波数」
すべては波動エネルギーであり周波数によって決まるということ。
そしてもう一つ超重要事項。
「循環」。


引き寄せ、などというメソッドが如何に「物質・物理時点的」な観点に立脚していたかを知るにつけ、本質はそこには存在していなかったこと。
エネルギーの共鳴と循環が、そのキモであったのだと。

回るように、巡るように「抵抗となる存在:それはモノでなくても=目に見えないものでも」を極限まで無くしてゆく。
結果として、
流れが早くなります。
流れが早いのにも関わらず抵抗が無くなるので静かになります。
余計なノイズとなる波動が生じなくなります。

実際、目の前の川を流れる「水音」が極めて滑らかで静かに変化していること。以前にも綴りました。
【参照】
「水の「きめ細かさ」に変化あり」2025/08/16(Sat) [Link]


生ゴミをこの川の支流に投棄していた昭和45〜46年頃。
台所流し台の三角コーナートレイを持ったおばちゃんたちが卵の殻や野菜の皮を無造作に放り投げていたのでした。
あれから50年以上、目の前は完全に変わりました。

それは環境に対する意識が向上したこともありますが、心の周波数が大きく変化したとも言えるでしょう。
公共の場、そして生命に直結する川に生ゴミを廃棄する、その感覚が激しく・酷く幼過ぎた、と学んだからでしょう。

その風景は物理的な「川」そのものの変化に過ぎません。
これを、すべてのエネルギー波動の「流れ」という感覚にまで拡大し、意識を広げてゆきます。


抵抗となるノイズ、まさに生ゴミが散乱している状態にあれば、流れは滞ります。しかも腐ります。
滞るところに、新しいエネルギーは入ってきません。
毎日同じ電車で、毎日同じ道を通って通勤し、毎日同じように業務を行う。
そこには、エネルギーが停滞し濁り澱んでいる可能性が極めて高いかもしれない、と感じることができるでしょうか。

感じられなければ「心が麻痺している」という証かもしれません。
仕方ない?カネのため?
それ、もう死語に近い禁句でしょう。
自分の道は自分で生み出すことを体得したはずではなかったですか。

-----
【カタカムナウタヒ5首】

ヒフミヨイ
マワリテメクル
ムナヤコト
アウノスヘシレ
カタチサキ
-----

古くて新しい。それは懐古趣味ではありません。
コト・モノの真理が語られていたこと。
いえ、ここでカタカムナの説明をすることは意図していません。ご自身で検索いただければ。


エネルギーは同じ周波数で共鳴し、
エネルギーは循環することで進化する。

悟りは「変わってはならない」ところまで昇華するのが正しいのだ。と語られたこともあります。
けれど、
その段階に到達するまでには、変わり続けなければその境地に達することはできません。
そして、
悟るという感覚そのものが、あまりにも物理物質次元的な立ち位置からしか理解していなかったことにさえも。


望む周波数を選ぶ。
望む現実が自動的に巡るようになる。
ただし、
そこにはノイズがあっては巡ることなく停滞してしまう。
だから、
クリアに手放しし断捨離したのでしょう。

いつも地球人は逆ばかりやっています。
そして、いまだにモノ感覚から脱せない。ものを捨てたから終わり、負のエネルギーに蓋をしたからもう終わった。と。
で、わくわくして五次元を待ちましょう、ですか。激しく恥ずかしい。
3I/ATLASの乗組員が、もしあそこに居る(これこそがモノの発想であると理解した上で)のなら、すぐに姿勢を正して(いえ虚構を張るのではありません)、モノの感覚だけではなくココロの波動を合わせてみようと友好的に心を整えたいわけです。
少なくとも、卵の殻を川に投げ捨てていた姿が過ちであったことを理解したのと同じように。


次にフォーカスすべきは、
周波数と巡り(循環)と。

まずは、心の中に生ゴミを廃棄しないように環境を整える。
そうすればこそ、エネルギーは自動的に巡るようになる。
望ましい周波数に合致するからこそ、そこに新世界生み出すことが可能になります。

整える・巡る・新世界。
創り上げるのは自分の周波数です。そして滞らせず巡らせることです。



105754944
rss_logo

New Entries

Archives / Serch

Categories