そこにある氣をともに受け止める

見慣れた風景も、
通り慣れた道も。
その都度、そのたびごとに印象が変わります。
それは、
そこにある氣というエネルギー周波数が常に同じではないだけではなく、受け止める側の周波数が異なっているから。
そのたびに、違う味わいを。
その機会ごとに、異なる感覚を。
感じられないのは、感じようとしないから。
モノとココロの「両輪」だと、常々綴り続けています。
表と裏の「対(つい)」がこの地では必須であると書き続けています。
そこにある氣と、それを感じようとするセンサーと。
ここにも「対(つい)」となり「両輪」となるフラクタル。
何もかも、セットで存在し、
何もかも、セットになってこそ現実として顕現化する大法則。
片側だけの車輪は、この先の世では存在し続けることそのものが叶いません。
二極・二元の片側だけを選び味わう教室は、ここで終わるからです。
そうした旧来の学習教材を選択するのは自由です。
けれど、片側の存在そのものを自ら否定している以上、結果として自らの存在さえも存続を否定していることになろうかと。
いつまでも地球人は、激しく勘違いしたまま。
ともに受け止め・受け入れる。
ジャッジしないとは、
片側だけの車輪に蓋をしてしまい認識を拒否することではありません。
善も悪も、どちらも。
慈愛も怒りも、どちらも感じてどちらも受け止め、どちらも受け入れる。
見て見ぬふりすることが選択ではなくて、
どちらも受け止める。
どちらも優劣なく、どちらも正否なく公平に均等に感じる。受け取る。
これをジャッジしない、というのです。
怒りの心境なら、そういう状況だと客観視し受け止める。
喜びの感覚なら、そういう心境だと客観視し受け止める。
どちらも公平。
どちらも均等。
それがジャッジしないということ。
怒りの波動のまま、それに蓋をして、無理にわくわくするのではありません。
怒りの波動を、そのまま受け止め受け入れる。
それが「ともに」という言靈の本質ではないかと。
ともに感じ、ともに伸び、ともに成長し続ける世へ。
ともに、とは、正も負も。
ともに、とは、善も悪も。
そこにある氣。
そこに行けばこそ感じられる氣を。
対極の波動を等しく受け止めます。
2025/11/26(Wed) 11:29:02 | photo blog



