身体と心と

奇妙なこれまでの世でした。
でも、その常識(思考のクセ)のまま歩み続けると再び落とし穴に落ちるかもしれません。
これまで、心という感覚を蔑ろにし、目に見えないものは無きものとする。
物質至上で、精神論を語ることはスピったダメな奴、とされてきました。
(過去何度もそういった目にあってきました)
世界線が大きく変わり、心で感じるものこそが本質だと理解されるようになってきますと、精神面も大切にしようとする姿勢が広がりました。
非常によい傾向かと感じます。
ところが。です。
冒頭の「過去の常識・過去のクセ」のまま、その延長線上で精神面を拡大してゆきますと、落とし穴があるように見えるのです。
心で感じるもの・心に抱くものを大切に。
と、大きくウエイトを変えてゆく過程で「身体の感覚」が置いてきぼりになっているかもしれません。
身体が発する警告や叫びに「無頓着・無神経」になっていませんか。
めちゃくちゃ冷えているのに、心が現実を創るんだから、とにかくわくわく...。
なんてやっていませんか。
べらぼうに眠いのに、心が穏やかならそれが最適解なんだから、いまは頑張って目を開けて...。
なんてやっていませんか。
身体と心はセット・対(つい)であること。
モノとココロはセットですよ。というのは、目の前にある無機質な物体だけをモノと言っているのではないこと。
モノ、とは実体を持ってこの地に存在しているものすべてだと忘れてはならないように思います。
心に対する感性にウエイトを持ってゆき過ぎて、身体が疎かになっていませんか。
心が発する信号は、身体が表示しているケースが極めて多いことを忘れないようにしたいものです。
モノとココロのセットとは、お借りしている身体と心のセットであることを。
そのために、口にするもの二つ「言靈と食べ物」と、ともに大切に。と教えられてきたのです。
ええ、
結局はこの6年間、また振り出しに戻ったようです。
究極の答えは、そこにしか存在しないからでしょう。
参考:「おばあちゃんの知恵袋アーカイブ18本」[Link]
https://and-em.com/blog/index.php?no=r5643
2026/01/13(Tue) 11:49:07 | photo blog



