その存在には生命が宿る

御神木に宿る命。
日々、物質社会で生きている限り「人間以外の生命存在」を忘れてしまうことが多いようにみえます。
音声を使って話しませんし、足を使って移動しません。
けれども、
彼らにも命があり生きています。
そんなことさえも忘れてしまうのです。
ひたすら氣が散るように膨大なノイズを溢れさせ・大切な心の周波数から遠く離れるように仕組まれた世でした。
急激に本来の感覚を取り戻す人たちが増えるに従い、目に見えない氣の重要性が理解されるようになっています。
この生命存在ではありませんが、とある別の神社でのこと。祠の周囲にある御神木を軒並み切り倒してしまったその稲荷。
その伐採現場・その瞬間を見届けるために向かった時に目にした光景があります。
それは、
「これですっきりするわ。長い間うっとうしかったからねぇ。」
「これで立派な祠になれば見栄えがするわ。」
などと口々に話す老人たち。
会話の内容からご近所の人たちだろうと予想できました。
虫の害などもあるでしょうし部外者には理解できないご苦労もあったでしょう。しかし、祠に価値があるのではない、とわたしは考えています。
そこには、それこそ有史以前から存在していた樹々があったからこそ奉った場所であるはず。
立派な生命存在があったから、そこを聖地として崇めたのではないのでしょうか。
カネをかけて祠を建て替える。
それがよいことだ、と解釈するのはもちろんその人の自由。金ピカの絢爛豪華な建物に価値を見出すのも人それぞれ。
邪魔で迷惑な木々は切り倒してしまえばいい。その発想も人の勝手です。
でもわたしは、そのような対象物に価値を感じることはありませんし、そういった価値観には同意しません。
幸い、ここにある生命存在は、現在も見事に見護っていただいています。
人間は、多くの場合、自分だけが偉いのだと勘違いしてしまいます。
ですが、勘違いすることによって、自分たち以外のあらゆる生命存在のおかげで「生かせていただいている」ことを学びます。
そして、
その生命存在と繋がる意識を持てばこそ、同じ周波数に合致する感覚を経験し、そこにコミュニケーションが生まれてゆきます。
生命の威厳を感じ尊厳を理解し、そこに合わせてゆくことにより、間違いなく何らかのエネルギーの交換が起きます。
このエネルギー波動の交換こそが「コミュニケーション」であることを。
木々が話すわけがないやろ!
そんな時代錯誤な発言は、もはや恥ずかしい時代を迎えています。
もうこのレベルの話題が理解できる人も増えてきたでしょうか。
そこにある存在には生命が宿り、望めば会話が可能になる世がもう実現しつつあります。
ええ、それは口で話す言葉としてではありません。
2025/09/29(Mon) 12:00:39 | photo blog



