「学ぶ」から「手放す」へ

わたし自身がこの道を突き進んでいました。
学び・成長を目指して。
それが魂の道・精神性拡大の道だと。
ここにある目に見えていなかった落とし穴。
学び続ける、それが永遠の道だ。という視点では間違いはないはずです。
けれども、
学び「得た」ものが多いほど成長を果たせたのだ、といった勘違い。
どれだけ多く学びを得たのか。
どれほど多くの体験をしたのか。
それが成長の証だ、と。
ここには「モノの多さ」「モノの大きさ」という物質的観点が強烈に固着していたことを知り得ます。
学んだのなら、それを蓄えるのではなく、手放し・回してゆくのだと。
よく語られる貨幣資産と同じなのだと。
蓄えるから循環しない。回すから巡ってくる。というあの感覚。
知識は物質次元特有の「思考のクセ」であること。
知識は、得たのならそれを活用し手放し回してゆく。
知識は得るのではなく、体験するという触媒に過ぎなかったことまで。
この感覚、この感触。
朧げながらもなんとなく理解できるところに届いたようです。
そこには「無理」がまったく存在していないことにも氣がつきます。
蓄えない。
貯め込まない。
どれだけ学んだか。どれほど多く知識を得たのか。
そこで語られる「数や量」といった尺度は、何ら意味も価値もなかったこと。
物質次元の思考のクセとは、ここまで強烈にこびりついていたことを知ります。
いまを生きる。
とは、
まさしくこの感覚が伝えられていたことに氣がつきます。
2025/11/11(Tue) 14:50:27 | photo blog



