実りは自動的に

自動だとか自動的、といった言葉。
この言靈にはどのようなエネルギーがあるでしょうか。
無理に力に任せて捻じ曲げるような印象とは正反対の感覚ではないかと思われます。
...なければならない。
とか、
...であるべきだ。
といったような感覚とは真逆にあるように感じます。
いま、自然とそれらの感覚から離れてゆきます。
まさに「自動的に」その感触から遠いところに離れたように感じられることが増えていませんか。
自動的に...。
木々は、実をつけるために花を咲かせ、その結果として実を結びます。
当然、実らせよう、という意志がはじめにありき、でしょう。
けれど、
そのあと、絶対に実をつけなければならない!などと言わないはずです。
まさに「自動的に」その流れの中で実を結びます。
そして、その実が美しくなくても、あるいは美味しくなくても、それで良いのだと。
人目を氣にすることなど絶対にあり得ません。
人にどう思われるか、仲間の植物に恥ずかしくないように整えよう、などとは決して思わないはず。
ここまで来れたこと。成長できたこと、喜ばしいに違いありません。
でも、人はここまで苦しい道を歩き、やっと植物と同じラインに立つことができたのではないでしょうか。
これがビジネスに落とし込まれますと、
---手放しをして...。
---我欲を捨てて...。
といったように、「無理に」現状の自分とは違う遠いところに行か「なくてはならない」と、やってしまうように見えます。そのエネルギー波動とそのレイヤーに居る限り、それは決して叶わないように感じます。
自然、という言葉・言靈は大自然その環境・状態を意味する場合もあります。
けれど、
自然体という使い方をする場合の言靈は、無理やりに力でねじ伏せるのではない、自動的にそうなる状態を示しているはずです。
見た目は決して美しくない、道端の果実。
でも、それは近隣にあるショップオーナー方が、激しく熱せられる夏にも、凍りつくような冬にも、世話をしてきたからに他なりません。
その結果、こうして当たり前のように「自然体」で世代を重ねてゆくことが叶います。
自動的とは、でもその裏側には人と木々の共同作業があることを忘れず、そしてともに歩むことにより実現してゆくこと。
人を蹴落とし、人によく見られたい・よいこちゃんアピールに腐心し自己顕示欲の塊のような生き方。
上から人を否定し優位に立つことを良しとする世界とは「正反対」の世。
次の世は、価値観がまるで違う素晴らしい世にしたい。
すでにその形での宇宙のブループリントが示されているのですから、それに則ってわたしたち自身が創り上げてゆくものだと再確認します。
2025/11/05(Wed) 14:58:51 | photo blog




