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宮本章光/宮本陽の視点「開闢」And EM Official Blog

みやもとあきらのしてん AKIRA MIYAMOTO@And EM

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祈りとは依存ではなく自分を宣言すること

春日の御神木に祈る photo 宮本章光

いのり。

自ら生きる姿勢を宣言すること。
いきる(い)を宣べる(のり)とされます。


大きな勘違いをして生きてきたのがこれまでの歴史ではなかったでしょうか。
祈りとは、神に願うことだ。と。
合格しますように。安全でありますように。などと。

それは単に神という見えない存在に「依存し我欲が満たされること」を懇願していただけではないでしょうか。
そもそも、神は、社にも祠にも居ませんし、そうした場所にはその地域や地を守るエネルギー集合体が存在するのみだ。と語られます。

それを、そこに、まるで白髪で杖を持った老人のような人物に置き換えられた神という名の我欲を満たしてくれる存在を作り上げ、その存在に対し依存する。それが願うことだと誤って教えられてきたのではありませんか。
さらには、
そこに隷属化のツールにしかすぎない金銭を要求する仕組みが作り上げられ、それと引き換えに欲望が実現する。
などと、歴史はあれよあれよという間に捏造され、ピラミッド頂点に「金銭という富」が集まる仕組みが構築されてきたのでした。


願うことがよくないのではなく。
願ったことを実現させるべく「自ら宣言」すること。そしてその導きに「感謝」すること。
これが「いのり」の本質。
そのためには、きっちりと襟を正し、しかるべきエネルギー存在の御前にて宣言をする必要があったのでしょう。
ですから、
それは、数千年を超えるとされる巨木や、神格化されて当然だと認識される、歴史を刻み膨大なエネルギー波動を維持している巨岩、森・山々など、この国の先人はそうした存在へ頭を垂れ、敬い奉ってきたはずです。


この根幹の部分から間違って教えられてきたのですから、誤りを知ったのなら正すだけ。
簡単なこと。

それなのに、ここに我を張り「自分は正しい=君のほうが間違っている:ファクトチェックはしたのか・エビデンスはどこや!」とやってしまう。まして「狂った宗教にイカれた奴」だとか「ツボを騙されて買わされただけやろ」などと、蔑み人を見下す姿勢を変えようとしない。
恥ずかしさの極みだと感じます。そもそも論点が完全に外れてしまっています。
その心・その姿勢こそが、いのりから「遠く離れてしまう」行為であることにまで意識が及びません。


自らを望ましく「正し」、
この先に実現した姿を「宣言し」、
その導きをいただけることに「感謝する」。

こうして「いのり」が続けられてきたのではないかと。

いのり、とは、依存することではなく、
願い叶った姿を実現すべく宣言し、感謝を宣べること。

この国に生まれ、この国で育てていただいたのですから、肝心かなめの「心」は理解できる方々ばかりだと思われます。
その心の波動が、この世を変える巨大な原動力になるのです。

いま、
この「心をひとつに束ねる」期を迎えていることは間違いありません。



2025/10/21(Tue) 17:21:53 | photo blog

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