選択は二つだけしかない

--何かを言うと、意図的にその反対意見を申し立てる。
--何かを書くと、意識的にそれを否定する。
そんな人たち。
でも、もう消えてゆきつつあります。
これらの人たちとの接点から学んだこと。
それは、
自分の選択は「たった二つだけ」だということ。
賛同するか否定するか。
もちろん、細分化すれば一部分だけは賛同、一部分は否定、といったような形・状況はあるかもしれません。
それをどちらでもない、と言うのでしょう。
しかしそれとて、もはやどうでもよいこと。すでに関係ない古い過去の周波数になりました。
宗教など最たるものだったと判ります。
従うのか・そうでないのか。
教義が定められている以上は、一部分だけ従うなんて形は存在しないわけで。
いかにも、隷属化を目論む支配者たちが捏造し、それを利用した意味がここにあることが理解できます。
それらを全て超越したところにあるのが「悟り」だと語られます。
「差」を「取り除いて」一律同質化する境地にまで至るから、「差を取って」さとりなのだと。
正しい解説に違いありません。ええ賛同します。
しかし究極の境地に至ってさえ、それらに賛同するかそうでないか。その選択は存在し続けるはずです。
ここで真っ先に反論が届きます。だがそれは悟りではない、その境地に至っていない未熟者だ、と言い訳されます。
ですが、選択が存在するかどうか、それは究極の境地に至ったかどうか、とは直接の因果関係はないと感じます。
この地・この世・この物理物質次元に、物理実体として存在している限りは、選択は消滅しないのです。
両極のエネルギーがセットでなければ存在し得ないのと同じでしょう。
何をどう突き詰めてみたところで、ここ物理次元では、選択はあらゆる場面において不可避だと知り得ます。
もちろん、量子重ね合わせで示されるように、すべての選択肢が同時に存在している限り、あらゆる選択が無数にあることが判ります。「選択肢そのもの」は二つだけではありません。
ただ、
上記のように、あらゆる選択肢があるかないか、と、どれを「選ぶか選ばないか」とは論点が異なっていると感じます。
数が無数にあることを論点にするのと、選ぶ・選ばない、に焦点を合わせていることと。
ここにも関連性はありません。
そして、突き詰めたからこそ、究極は賛同するか否定するか。その二択になることを体得してゆきます。
この地では、選択は二つしかありません。
ならば、選ぶのか選ばないのか。どちらに向いて道を創り上げるのか・やらないのか。
2025/08/08(Fri) 14:48:33 | photo blog



