こどもたちは知っている

この時期、あちらこちらで見かける「ヒルザキツキミソウ(昼咲月見草)」。
住宅街の谷間にポツンと位置する公園でも、放置され少々荒れた歩道の端にその姿と出会うことがあります。
小学生と思われるこどもたちが、スマホカメラで撮影しています。
それも、しっかりと「同じ目の高さ」になるようにしゃがみこんで。
Z世代・α世代のこどもたちは、彼ら花々と会話ができるに違いないと感じます。
昭和世代(もしかすると平成でも)おとなたちは、立ったままスマホを花に向けるだけ。
写真を撮る以前の、単に画像を記録するという観点でしか捉えていない証拠でしょう。カメラを向けてシャッタータップするだけ。
これでは植物たちの周波数に合わせ会話をすることはできないように思われます。
なるほど、物理・物質次元的かなと。
さきほどの小学生は、次はこの先で草をつついている鳩の前に座り込み、彼らの姿を捉えに行きました。
元氣な鳥たち。
鳩以外にも美しく囀る小鳥たちが、周囲の木々の枝で歌います。
人間も、これからの世代:今のこどもたちは、氣を感じ取ることができる。
そのように見えました。
氣とはエネルギー。
それを「感じようと能動的に合わせに」行かない限り、その波長を感じることは不可能です。例外はありません。
口を開けて待っていれば流し込まれる。
そんなオールドメディアに麻痺した感覚そのものがもはや時代遅れ。
いえ、もうこの先の世ではお呼びではない生き方そのもの。
SNSの無限スクロール然り、youtubeの無限次の動画提案然り。
素粒子の振る舞いは「観測者」があってこそ顕現化・物質化する。
この量子力学で語られる有名すぎるフレーズが脳内に響き渡ります。
「感じられない、そんなもの。」
「だいたい、氣なんて無い。それは氣のせいだ。」
などとというのは、激しく時代錯誤な恥ずべき発言となりました。
それは、
「あなたが感じようとしていない」から。
入り口の時点で鍵のかかった扉には何ものも入ることはできません。
こどもたちは知っているのです。本能レベルで。
ようやくこの大原則に氣がつくおとなも増えつつあるようです。
2025/06/29(Sun) 14:40:45 | photo blog