何のために生きていますか

ヒルザキツキミソウ(昼咲月見草)。
いま、まさに季節を謳歌する彼らの姿。
こうした植物たちは、何のために生きているのでしょうか?
すべての生命は意味もなく存在しないこと、ようやく理解できる人たちが増えつつあるように感じます。
花を咲かせるには、咲かそうとする「意思」がまず初めにありきとされます。
植物自身が「咲かそうとしている」それが彼らの意思表示だから。
では、
咲かそうとする意思がないのなら、結果はどうなるでしょうか。
当然ながら、花は咲かない。となりましょう。
さらに進めて、それならば、何の目的で咲いていますか?
それは、植物に聞いてみないとわかりません。
でも容易に想像できるように思います。
種の保存・存続といった目的もあるはずです。
けれど、単に美しくその生命存在として、いまを生きている。それだけでよいのだ、と氣がつきます。
人間はアタマが巨大化しすぎたのかもしれません。
それは物理的な容量容積という意味ではなく、この地の二極化・二元化の体験をするために獲得した「我」という名の必要悪とさえ感じる思考回路のことです。
何でも理由をつけて分類する。
その「クセ」がいつまでも「我を張って大きな顔をする」のです。
---○○は◇◇でなければならない。
---XXは△△でなければならない。
そうやって限定し、無理に制限し、その不自由さを楽しむ地だったこと。
「何の目的で花を咲かせるのか」など、その最たる発想・思考だと判ります。そんな理由付けなど必要なかったのです。
目的がないとダメなのか。目的があることが「偉い」のか。
それも教育洗脳だったと氣がつきます。
ええ、
目的はしっかりとあります。
「美しくその花の姿を披露する」こと。
「季節とともに美しくその姿を謳い表現する」こと。
それが目的でしょう。
それで十分でしょう。
人間は何のために生きていますか。
いまこの瞬間に、美しく・心地よく望ましいエネルギーを生み出すためだったのです。
この地・この世を、穏やかで生きやすく素晴らしい地として築き上げる。そのために心から穏やかに波動を生み出し創り上げる役目があったのです。
(ですから、すでに崩壊が決定している旧い残像でしかないエネルギーに心奪われ、踊り叫ぶのは恥ずかしさの極みなのだと。)
学を重ね、知識を溢れんばかりに蓄積することも、もちろん素晴らしいことだと感じます。
でも、そのアーカイブは、
「いつ・どこで」披露しますか?
「いつ・誰の」役に立てますか?
どれだけ蓄積しても、どれだけ積み上げても、それを生かさねば意味がないことに氣づきますでしょう。
まして、この世を負のエネルギーで支配したい者によって捏造されたものは、この先、何の役にも立ちません。
一刻も早くここに氣づく必要がありましょう。
いま、生きているだけで、美しく素晴らしい花を披露するだけで、それだけで目的を果たす彼らの姿。
その周波数に合致し共鳴したからこそ、この一枚がここにあります。
そしてそれを伝えることにより、その美しく素晴らしい波動がご覧いただく方への共有体験となってゆきます。
彼らは、それだけで意味のある生命存在であり、大いなる意義のある花だったことが理解できます。
わたし自身も、画像と文字との複合・結晶化によってその役目を果たせます。
この先の世は、
誰にどのように役に立てるのか。
誰とどのように共有体験を築き上げるのか。
この点が極めて大切な項目になることがはっきりと判ります。
何のために生きていますか?
その答えは、
植物たち、彼らが披露するその美しい姿に表現されています。
2025/06/07(Sat) 11:15:39 | photo blog