あとからは何とでも言える

ジャンケン後出し。
それは違反とされています。
なぜなら、
答えを見た後で、必ず・絶対に自分が有利な立場を得ることができるから。
まったく異なる概念ながら、
後になってから、ああだこうだと言うのも似ているかもしれません。
その場その瞬間ではなく、後になってから批判するのはどうなのでしょう。
審査の立場で他者の撮影作品を評価する場合にも似た感覚を感じたものでした。講評を書く段階では特に。
よって、第一印象に重きを置いて評論(業務上)してきました。
特に配慮したのは、
撮影時点で感じる感覚と同じ「感触」を得られるかどうか。
どことなく、何か分からないけれど良い。なんとなくイイ。
その「感触」が、ほぼ100パーセントに近く正しいことを。
後付けで、構図がどうだ、光の質がどうだ。などと言うのではなく、自分がそのシチュエーションで「撮る」人だったら何を感じるだろう、と。
残念ながら、
そこに「同じ波長」を感じないものは選考から外して行きました。
一般論としては優秀、といった確かに印象的な作品が存在します。でもそうした作品は、他の審査員が選定するので、わたしが選ぶ対象ではないことを。
(一時、それは個人的主観に偏りすぎているのでは?と答えのないループにハマり悩んだことはありましたが。もうフォトコン審査もなくなりました。)
いま、世の中に対する地球人の集合意識。
ああだ、こうだ、と、負の周波数にしきりにフォーカスし、そこに燃料を注ぎ続ける。
その負の力が欲しい支配者層が仕組んだ落とし穴に、いつまでも自分から落ちて悦に入る。
あぁ確かに、幼稚園から小学生時期には、わざと落とし穴に落ちて遊んだこともありました。それがその場を盛り上げる潤滑油になることを知っていたからでしょう。
これまでは、後になってから自分に関係のないものを評論家氣分で、どうだこうだ、とやる。それが少し前までの大多数の意識でした。
それが心地よかったからでしょう。
しかし、もはやその感覚には違和感しか感じなくなっています。
そうではない、わたしがフォトコン審査でやってきたような「なんとなくいい」波長を大切にする。
そんな波長へ合致し始めている人たちが急増しているはずです。
同じ感覚を持つ人たち。その人たちの波動は合致・合一化を起こし新たなエネルギーとして拡大してゆきます。
これが「選択」の結果。
フォーカスするエネルギーを変えれば、不要な周波数のエネルギーは、少なくとも「自分からは」生み出さないわけで。
当然、二極化二元化の地なので、表も裏もセットでなければ存在し得ない。悪は雲散霧消してしまうことはないのですが。
けれど、
その自分が望まない側の波長に合わせなければ、それを増幅し油を注ぐことは決してないのだと。
これが「選択」の極意。
選択を積み重ねて行くことで、自分の現実が創り上げられてゆきます。
---こんなはずではなかった。
---こんなこと望んでいなかった。
でもそれは、タイムラグがある、それよりも前の時点で自分が作り出したことを忘れています。
過去の残像。という言葉で語られますが、まさに残像を見て騒ぎ立てるのはビギナーすぎる所作ではありませんか。
あとからは何とでも言えるのです。
まるでジャンケン後出しして叫ぶように。
2025/02/08(Sat) 12:10:04 | photo blog