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宮本章光/宮本陽の視点「開闢」And EM Official Blog

みやもとあきらのしてん AKIRA MIYAMOTO@And EM

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静けさの中に答えがある

水仙が導く春の風 photo 宮本章光

静かに、穏やかに。
しかし丁寧に。

静かに、穏やかに。
けれど着実に歩みを進め。

抗わず・抵抗せず。
でも、確実に前を向き。


望む答えは、騒がしいノイズにまみれているかぎり絶対に導かれることはありません。
エネルギーは、触れ・感じ・意識する限り、その周波数に完全に合致するからです。

アタマの中で、ただ見てるだけや、ただ眺めただけやないかい。自分には絶対ブレない自分軸があるんや。何も影響ないんや。ノイズであろうがゴシップ記事を読もうがな!無限スクロールで時間を使おうが人の勝手や!
などというのは、単にまやかしに過ぎません。

意識した時点で「その対象の周波数に合致」してしまいます。
白い色だ。と見てしまった時点で白い色が示す周波数に「自分で合致させ共振してしまっている」ことに氣づくことです。
感情が入ろうが無かろうが、それこそそんなものは関係なく、仮に無意識領域であっても「白」を見た段階で「白」に共振する。そのエネルギーを自分が生み出し拡大しているのだと。
それが仕組みだからです。


ここを本心から理解できたひとが増えているはずだと信じたい。
ここに至らなければ、エネルギーの循環やシンクロ・共振・共鳴の本質には到達できないのです。
よって、
いわゆる「集合無意識(むいしき)」が膨大に積み上げられ、進化と成長が遅れに遅れていることにさえ理解が及ばない、そんな恥ずかしい状態はとっとと卒業したいと切に願うばかり。


確実に進化は進んでいるでしょう。
間違いなく成長と成熟も進んでいるでしょう。
だがしかし、
宇宙のカレンダーで記されたスケジュールと、地球人の歩みの「進捗の差」は縮小できているのでしょうか。
今回もまた大海に沈む大掃除しか残されていないように感じてしまうのはわたしだけでしょうか。

いえ、そう思えばその通りの現実を創ってしまうので、絶対に避けたいところ。
そう思わなければよいだけのこと。ではあります。


静けさの中に答えがある。
一人ひとりの周波数で自分の現実を作れば、何が起きようが集合的無意識がどうなろうが、何ら問題ない。
その原則・その文言を、無限ループの中で繰り返すばかりです。




それ以上を

白梅を臨む photo 宮本章光

これまで・ここまで・そこまで。
これまで以上・それ以上。

どこを狙いどこを目指すのか。


いやいやまだまだです、わたしなんて...。と語る限り、自分自身は「まだまだな存在」として自分自身が創り上げてしまいます。

自らを完璧だと認める。
それは、はしたない意識と行動だ、と間違った教育洗脳を受けてきました。
そんな「美徳」そんな「たしなみ」のような意識は、これまでの世では表面上は美しかったかもしれません。
けれど、
その周波数に合わせている限り、自分自身でまだまだな現実を選択してしまうだけです。
そして、選択した周波数が顕現化してゆきます。


これまでの人。
これからの人。
その先の人。

ひとのことはどうでもいい。それは間違いないでしょう。
ただ、地球人の一員として、俯瞰し絶対値としての立ち位置を認識する必要はあるはずです。

それ以上を目指す。
けれど、それは流れに逆らい抵抗することではなくて。
その先を目指す。
けれど、それは合致しない周波数を選択しながら決して響き合わない現実を見て見ぬふりをすることでもなくて。

それ以上。
その先へ。



触れ・感じ・受け取る周波数

丹生の大楠に奉り photo 宮本章光

漂う風の香を感じ。

風にそよぐ葉音に耳を澄ませ。

響く小鳥の囀りを聴き。

風雪に耐え永年にわたり生き抜く実体に触れ。


葉の隙間から差す穏やかな陽の光を受け取る。
そこには、
生命の尊厳と在り方の模範が示されています。

触れ、感じ、受け取る周波数。
それは、
自らが生み出した周波数と合致するからこそ受け取ることが可能になる周波数。
自ら生み出す周波数が目の前の風景となる大法則を体現してゆきます。




整えれば整った結果が

春を迎えるまで photo 宮本章光

次々と静かになってゆきます。
次々に離れてゆきます。

静かに・穏やかに生きれば、静かで穏やかな風景が。
整えれば、整った結果が。




整える

春日の大楠へ奉る photo 宮本章光

抗わない。
流れに任せる。

ノイズに触れ続けない。
他人の波動域に入り込まない。
他人の波動を自分のフィールドに招き入れない。

穢れに頭を下げ離れる。
イヤシロチの波動に触れる。

これらをすべてクリアにした瞬間に平衡状態に到達できるはず。
そのニュートラルポイント・ゼロポイントに至るための行動を「整える」と言う。
そのニュートラルポイント・ゼロポイントを維持している状態を「在り方(ありかた)」として記憶しておく。



平衡状態へ収束する

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これまでは、
乱雑で統制が取れずとも、力で押し切り勢いで障害物を薙ぎ倒してきたやり方。
ノイズにまみれ雑音にかき消されても、一本の矢が強烈に突き刺さるかのごとく。

これからは、
整える。流れに乗る。平穏・平静の波動を維持してゆきます。

そのためには、
一本の矢ではなく「対(つい)」になるエネルギーを「セットで」備える。
それは、単に一本の矢・単体を二本持つという意味ではなく、善悪・表裏が一体となったセットの矢というたとえ。

両極が対になるため完全バランスすると平衡状態を生み出すセットの矢。
平衡状態を維持できるために、ゼロポイントを認識し「無」の入口に立つことが可能になる矢。

平衡状態を意識できるようになると、その無音の世界にアクセスが可能になるはずです。
そして、そこで生み出された波動が、表の世界に顕現化してゆきます。


行き着くところ。それが平衡状態であったと氣づくとき。
エントロピーが最大化したとき、そのレイヤーはそれ以上のマクロな変化を起こさない平衡状態に達します。
言葉を置き換えるならば、偏りのない均質化し尽くした状態に至ること。
エントロピー最大値の瞬間に、エネルギー移動の根源となる「差異」が存在しなくなるとされます。

まさに平衡状態こそ悟りであり、ゼロポイントフィールドそのものであり、ここからすべての波動が生み出されることを教えてくれます。
「エントロピー増大の法則:熱力学第二法則」は、独立系の環境でこそ成立することを見るに、まさしく「外部」に影響をうけない「内側=心:自分軸」が、静寂とともにあるがままに立つ姿を、内側から外側へと顕現化させてゆく瞬間でもあります。

究極の地。
平衡状態へ収束した極みの世へと。



できることに取り組む・やり遂げる

祓えたまえ清めたまえ守りたまえ photo 宮本章光

一人ひとりが、自分にできる目一杯のことに取り組む。
但し、
流れには抗わず。
後ろを向いて歩かず。

現時点で自分にできることをやり遂げたなら、
次は、より多くの共振・共鳴を求め続ける。
但し、
それは、過去の悪事を語り続けることではなく。
それは、両極のエネルギー、前に向いて進むことを選びながら。
それは、心の中から望ましい周波数を生み出すことによって。




肌感覚で「思考は現実化する」を

季節を photo 宮本章光

理解している人はアタマで理解している。
肌感覚で体験している人はカラダで感じている。

この地この世は、地球人の総意の周波数によって具現化していることを。

初めに意識・思考がありき。
この大原則を知り体現するまでは、目の前の風景は決して変わりません。
すでに顕現化している風景は、過去に生み出された思考・思念の「結果物」であることを。
よって、集合意識たる個々人の周波数を一定の方向に向け束ねる必要があるはず。


本質部分の理解が、ここに届いて「いない」人は、「結果物」だけにフォーカスして右往左往してしまう状況だと伝えられている通りです。
当然、それもその人の選択には違いありません。

ここで間違ってしまうこと。それは、
選択は人それぞれだ。誰が何しようと勝手だ。それに覚醒度合いは人によって異なるものだ。人それぞれだ。
と、論点を置き換えてしまうのです。ええ、それは正論で正しい。
しかし論点はそこにあらず。
自らのその置き換えに氣がついていない、あるいは別の軸に置き換えてしまったことに自分の意識が及んでいない。


人の勝手、ひとの自由かどうか。それがポイントなのではなくて。
十人十色は正しいし、それが否定されているのではなくて。

そうではあるけれど、
「望ましい風景」をこの地に具現化・顕現化させるには、千差万別でありながら「方向性だけは一点に集中」させる必要があるわけです。
でなければ、地球人の集合意識は絶対に変化することがありません。
論点はここです。

勝手に置き換えて話題を変えてはなりません。
いま、最大級の集中力を持って取り組むべきは、この方向性を一(いつ)にし束ねること。

そのために、
ノイズから離れましょう、と指導を受けてきました。
そのために、
高い周波数こそが望ましい現実に合致するため、楽しく心地よく過ごしましょうと語られてきました。

これを実践してきた人たちは、
すでに意識・思考・思念が時差を経て顕現化することを理解できています。それはついに数式にさえも記述が可能になり証明された大法則であることまで理解を得ています。


自己顕示欲や自己承認欲求は、消滅することはありません。この地の仕組みですから。
だから、いつまでも苦しい。いつまでも厳しい。いつまでも辛い。
だから、何かと理屈をつけて外側という結果物を力でねじ伏せる。流れに抗うことがクセになっているから離れられない。
同じように、
悪・悪事もさまざまなネガな事象・周波数も消滅することがありません。それはこの地の両極の約束ごとだから。

けれども、
それを踏まえた上で、それを乗り越えて、望ましい周波数を選択する。
そうすればこそ、時差を経て望ましい結果物が顕現化する仕組み。

もうひとつ。
アタマで理解していても心がついてこない。それは自己承認欲求と自己顕示欲によって盛大に妨害されるからです。
けれども、
それを踏まえた上で、それを乗り越えて、望ましい周波数を選択する。


顕現化には時差が必要です。近年、その時差は極めて短絡化されてきました。肌で感じていますでしょう。
同じように、肌で感じてみます。
抱いた思考・描いた意識が顕現化する様子を明確に映像として描画してみるのです。アスリートのイメージトレーニングのように。

アタマで理解しているだけではなく、肌で感じるように。五感で感じるように。
地球人の意識が、こうして束ねられた瞬間に、この地の風景は変化してゆきます。
それが仕組みだからです。

もうこれ以上、逆噴射し続ける愚を重ねませんよう。




天地がひっくり返るその本意

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幹は完全に別。
しかし、根は土中で共存・共有しているはずです。


常に反対をしてばかりの地球人。
みんなひとつ...だから、みんないっしょだから。
みんなひとつ・みんな一等賞。だからみんな同じ価値観でなければならない。

ですが、幹は・枝は「完全に別」です。
人は、一人ひとりそれぞれの尊厳があり個性があり、別々であること。
みんな一緒ではありません。


他方、「根源」は共存・共有すべきであるところ、
奪い合い・争い、取り込み囲い込みばかりを繰り返し、数をより多く得たものが偉いという価値観しか持たなかった過去。

その昔、成人式という場において祝辞を述べたお偉い方。
人生の成功とは、いかに貨幣資産を築き上げ、いかに社会的地位を高めたかである。
などと語ったこと。
それはそれで、その時代の価値観であったのですから、今となってはもう過去のことはいらないわけです。

この部分、人間の芯の部分にこびりついた強烈な汚れでしょう。
浄化してもしても、いつまでも落ちない汚物。


染みついてもう絶対に落ちないのなら捨てるだけ。
学びとは、そういうことではないでしょうか。

魂の旅は永遠に学びです。それを否定していません。
けれど、小学校を卒業したのならもう小学校の教科書はいりません。
それなのに、
学びは永遠なんだから...、と、毎日毎日、掛け算・九九を暗誦して、あいうえおのひらがなばかりを百字練習帳に書き続ける。

それ、もういりません。
中学校に入ったのなら、中学校の教科書を学ぶのです。
学びは永遠。それは正しい。
けれど、学ぶ教材の「選択」を間違っているのでは?ということです。

ですから、小学校の教科書はもういい。もういらない。
それなのに、
その発想がダメだ、とか、その意識が波動を下げる。だとか。何をしても何を語っても、常に否定から入り、いつまでも欠乏と不足の周波数を生み続ける。

ここ、人間の芯にこびりついた古い価値観、まさに汚物のような「昔の教科書」だと認識ができていない可能性があること。俯瞰できていない可能性があります。


この根幹には、
「わたしは、まだまだ」「いえいえ、わたしにはまだ早い」などといった、一聴すると「たしなみ」や「遠慮」のような周波数を美徳として重んじてきたこの国独特の文化の影響もあるでしょう。
それは間違いではありませんでした。
けれど、ひとつの時代が変わる・動く時。というのは、価値観そのものが大転換するわけです。

成人式の祝辞は、その昔の時代には正しかったでしょう。けれど現在その発言をすれば大炎上するリスクさえ感じます。


大転換時期には、意識の総入れ替えが必須なのだと。
総入れ替えとは、
まさに、天地を入れ替えること。
そして、
いまの潮流・いまの主流である精神性を語る論説さえも、過去の延長線上に展開している限り「正しくない」可能性があることを。


共有すべきは根源の「根」であり、
個々を尊重し分離した認識で尊重すべきは「幹や枝」であること。

この時代は、天地ひっくり返るのです。
先人は、この部分を語っていたことに氣づく必要があります。




一期一会

白梅2026年2月photo 宮本章光

陳腐なワードが不要だと感じる瞬間。



探し回る限り進歩はない

整えて待つ photo 宮本章光

先般の「冬土用」期間中に心がけてきたこと。
それは、整える。でした。


整える、とは、
何もしないのではなく、不必要なエネルギーの漏洩・無駄遣いを防ぐことを第一に、ノイズにまみれた意識を洗浄する感覚を語っていました。

そして、続く立春を越え建国記念日を過ぎて...。
と、暦は進みます。
その進行に「焦る(あせる)」かのように、次は「この日は◯◯しなければならない」「この日にはXXをしてはダメだ」と、溢れかえる情報を追い続ける。
それをSNSへ投稿、他人の記事と比較して心の波動を落とし続ける。


何のための土用、何のために緩衝期間があったのでしょう。
再び、ノイズにしかならない情報という名の「負のエネルギー波動」へと自分から突っ込んでゆく姿。

いついつになれば、何々が起きる...。
いついつになれば、誰々がこうするああする...。

いつまでも外側を探し回り、いつまでもその波動に触れ、わさわさと乱れた意識を生み出す。
乱れた意識は、乱れた現実となり、いつまでも望み・願う現実は実現しません。


探し回る限り、永遠に進化は起きないのです。
探し回る限り、永久に「不足と欠乏」の周波数に合致しているからです。

不足と欠乏の波長を維持し続けている限り、その不足と欠乏から「脱しようと願う」着地点はいつまで経っても具現化しません。
それが法則だから。
ついに物理学でも数式で証明されるところにまで及んだ仕組みだから。

だから、常に心がわさわさする。ざわつく。
覚醒したと自覚する人ほど、そうした罠に嵌っているように見えます。
大体、自分から目覚めたなどと語りません。その時点で精神性が丸見え、推してしるべし。

早く氣がつけばよいですね。早く卒業しましょう。
いつまでも補習授業の教室に居続けないこと。
地球人の精神性向上は、一人ひとりの、このような根幹に流れる意識レベルの集合体に委ねられているわけですから。
いつまでも地球の進化を遅らせるような愚を重ねない。


それならば、どうすればよいのか。

その答えを自分の心から生み出すわけです。
思考の波動が現実になります。これはもはや証明された法則です。

その学びと達成具合が、いま試されているのです。
そして、
自ら生み出し維持する周波数にしか合致しない大法則。そのまま・その通りの現実が目の前に現れるのです。

外側を探し回る限り、決して答えは見つからず進歩はありません。



思考・感情・意図

丹生の神木に参る photo 宮本章光

理解しなくとも。
意図しなくとも。


無理やりにコントロールするのを止めた時、それぞれの意識が独自の周波数を維持していることを知ります。

ほんの少しの沈黙と静寂が、望ましい現実を作りはじめます。
周囲との関係は、自らの心に抱き描く周波数次第だと氣がつきます。


覚醒が偉いのではなく。
悟りが偉いのでもなく。
人より先に目覚めることが偉いのでもなく。

ありふれた目の前を、どのように感じどのように理解するかによって、その在り方に変化が起きること。
そのこと、そのものに価値があることを。


無理に理由を作り、無理に理解しようと抗うこと。
それがこれまでの現実という目の前の風景を形作っていたことに目が覚めればこそ「流れに委ねる」という言葉の本質に手が届きます。

思考・感情・意図は、
流れに逆らうことで作り出し、その抵抗感という実感をもって自分が作り出したのだと自己満足する構図。
それら旧いエネルギ波動が終了したことを感じ、すでにここにある流れに委ねます。



それが現実創造であると

流れに任せる photo 宮本章光

いつまでもずっと眺めていることができる。
その場で時間の流れを変えることができる。

そのような場所。
そのような音。


煌めく光と細やかな水音に合わせてゆきますと、情報という名のノイズがいかに劣悪であるかを思い知ります。
周りにざわめくノイズ。
内側にも侵食してくるノイズ。

何に繋がるのか。
何に合致するのか。
それを認識していれば、自動的に望むものが顕現化してゆきます。


キャリアパス。そんな言葉に翻弄された過去。
もはやどうでもよい感覚。
すでに過去になった感覚。

同じように、
知りたい...という欲求が、外側に答えを探し回った過去。
もやは受け入れられないノイズの塊。
ともにすでに過去になった感覚。


ずっと眺める。
いつまでも眺める。
そこには、清く細かい音が響きます。

それは現実逃避ではなく。
それが現実創造であることを。



ここに在る(ある)

そこに在る photo 宮本章光

そこに存在する。
そこに在る。

意味付け。
そんなものは本来不要だったのです。

後付けで理屈を作り、正しい・正しくない。
とやりたかっただけ。

そこに在る。
ここに在る。

ここに生きる。
ここに在る。


いつでもどこでも変わらない

何を選び何を生み出す photo 宮本章光

何を選び
何を生み出し
何を受け取るのか。

何を生み出し
何を受け入れ
何を拡大するのか。

何を受け入れ
何を広げ
何を顕現化させるのか。


激しく乱高下する波動と
激しく乱高下する意識と。

いつでもどこでも変わらないもの。
それは、
常に穏やかに、常に静かに、常に心やすく。



初めから優劣など無かった

いまを生きる photo 宮本章光

揉めさせ争わせて優劣をつける。
比較させ恐れと怨みを生み出し優越感を求める。

これまでの世の中の仕組みでした。
それはそれで必要だったから存在し、その体験を通して「これは間違いだった」と氣づくために存在していたエネルギーでした。


それらこの先に不要なもの。
これらこの先に求められないもの。
そういったものを手放し、この先の道を創り上げます。

この時に「どうでもいい」「もうこだわらない」「関心も熱意も消え失せた」といった感覚を強烈に感じます。
それは無氣力ではありませんし、老害でもありません。
もう歳をとったから氣力がなくなり衰えた、などと勘違いをしないことです。

ここを間違っている人・取り違えている人。限りなく多数。
そして、間違うのは「旧い周波数をベース」にした思考の延長線上にある感覚を残している証明でもあるでしょう。


年寄りは、何もやる氣がなくなってお払い箱だ。
年配者は、世の中の害にしかならない厄介者・お荷物だ。
そんな風潮。
実際に役に立たないと感じるようなAndroid(スマホOSのことではなくこの世に存在する肉体を持ったbotのこと)も多数存在するので否定はしませんしできませんが。

ええ、ですがそれは「そう考える人自身」が、そのように生み出している自分のオーダーした視界の中で見えている姿にすぎないのだ、と氣づいていない。大変危ない状態かと感じています。


親子関係では、頻繁にそうした感情・感覚に囚われます。
実際のところ、
わたし自身の父親の例を思い返してみますと、最期の数年間はもはや寝たきりに近い状態でした。
季節の認識はおろか、自分の住んでいた場所も覚えておらず、もちろん満足に文字も書けず、しっかりと話すことさえ激しく苦労する状況。
そして、
その姿を見ている「わたし自身の感覚」は、もう終わりやな、よくもここまで劣化したもんだ。と、上から見下した感覚でしかなかったことです。
ただひたすら厄介者という本当に失礼な感覚ばかり。
それ以外の、過去に与えてもらったさまざまなことに対する感謝の氣持ちなど微塵も持っていなかったこと。

業務繁忙期に絡むように狙ったように問題が起き、そのたびに激しく負のエネルギーに囚われ続ける日々。
(まさしく、その周波数を自分が選択しているから、そのように顕現化したという大法則そのまま。)
その時・その瞬間には仕方なかった、という言い訳も、自分自身が体験したので肯定し擁護したい氣持ちはいまも残っています。


しかしながら、年月が流れ関係がスライドしてゆきます。
父と自分、から、自分と自分のこどもたち。という構図へと。

まさに、同じエネルギーがそこに渦巻いていることを強烈に感じます。
厄介者でしかない。面倒なことしか言わん。もう終わりやな。といったようなエネルギーが極めて強く発せられていることがありありと伝わってきます。


世の中・この地のエネルギー波動が大きく変化・上昇したからでしょう。
父親のときとは比較にならないレベルで、相手の感情やその瞬間の思考が「目に見えるかのように」感じられる時代に入りました。
ここで学ぶべきことは、

「自分がそう思うからこそ、そのように顕現化する。」という、ついに物理法則としても証明されたその仕組みです。
使い古された文言で言うのなら「思考は現実化する」です。
鬱陶しい、面倒しかない。そう思うからその現実を自分自身で創り上げしまっているのだと。


年齢とともに身体的機能は低下してしまいます。それは当然のこと。
(その時になれば、ご自身も必ず向き合い受け入れなければならない道です。)
ですが、
それ以外に「蓄積され経験から得た智慧や含蓄のある言葉・知識」は、決して価値がない、と切って捨て去るものではありません。
こうした蓄積、こうした先人からの積み重ねが、この国ならではの叡智としていまに生きていること。
ようやく氣づきはじめた人が増えているはずです。

そして、個々人の精神性を高め深めるに従って、優劣・上下といったような、比較することで「見下す」ようなエネルギーに囚われてはならないこと。
それは、よいかダメなのか、といったような次元の感覚ではなくて、
単純に、すべては同列ですべてが同一である、という究極の感覚に近づいてゆくことです。

行き着くところ、
初めから優劣など存在していなかった、と氣がつく状況に至ります。


氣力が失せる...のは、もはやどうでもよい優劣や比較によって上下を語る古き感覚から卒業したから。
どうでもよい...のは、そのレベルの感覚がこの先には必要とされないから。
そこに至ったからこそです。
そして、ここにいま存在するだけで価値がある、といった在り方に到達できたからです。

学びは永遠に。その本質を学び続けます。
何もかも入れ子になった構造で、時間とともにその構図がスライドしながら、さまざまに体験させていただけること。
その仕組みそのものに感謝を捧げるタイミングを迎えたことを感じています。




ええかっこしいの終焉

整えて春を待つ photo 宮本章光

ええかっこしい。
その存在価値が終わりを迎えたように感じます。

それは関西独特の言葉(表現)かと思われますが、人前で格好つけて自分をよく見せようとする態度のことを指しています。
ええかっこすんな。とか、
ええかっこしい、は恥ずかしいわな。
といった感じで使われるのはご存じのとおりです。


終わったように感じます。
それは、
伝わるから。伝わるようになってきたから。
ええかっこしているのは瞬時に伝わる世に変化してきたからでしょう。

見栄っ張り、という言葉でもわかりやすいかもしれません。
ハリボテの外見だけを取り繕っている姿が薄っぺらいのと同じで、内面が「磨かれていない」のに、立ち居振る舞いや発言に綺麗ごとだけを並べると、その瞬間に伝わります。
むしろ嫌悪感が強烈に生まれます。いえ、もう耐えられないレベル・瞬時に限界を超えます。


こうして、わたしたちは「伝わる」時代に移行してゆきます。
自らの精神性を自ら磨き続ける。より光り輝くように。
古い失敗も学びのためだったと感謝とともに。

ええかっこしいの終焉。
そんな大舞台に乗っている現在を体験しています。




目に見えないところで整える

見えないところを整える photo 宮本章光

「整える」。

土用期間に派手に走らず整えてきました。
そして立春を越えて新たな季節を迎えました。
しかし、
整えるといった所作が不要になったわけではありません。

整えるのは、目に見えないエネルギー波動を望む周波数と合致させるために。
整えるのは、目に見えない部分で熟成させ準備する目的でも。


なるほど、立春を越えたからどうだ・何だ!と叫ぶのはビギナーすぎるよね、という論調も納得できます。
まさに、目に見えない。とはそういった観点からも必要な感覚でしょう。

目に見えない、声にださない。
でも、そういった区切り・節はしっかりと理解し心得て日々を過ごすことの大切さを思い知ります。

土の中でも、硬い蕾の内側でも、しっかりと充電され熟成されていることを知ればこそ、日々継続して「整える」ことの大切さを再認識します。
そして、
区切りを越えながら、アナログ的変遷をたどり拡大してゆくさまを肌で感じとります。

目に見えないところで整える。
望む機会に望む結果を得るために。




意識のフィルター

黄金色に輝くセンダンの実 photo 宮本章光

何らかの対象に対して、別の情報を加えることによって見え方が変わる。
そんな例でしょうか。


黄金色に輝く美しい姿。
けれど、その実は猛毒だ。といった知識を加えると途端にその姿の印象に変化が起きるかもしれません。

それは目に見えるものであってもそうでなくても。
あるいは、言葉にできるものであってもそうでなくても。


冬土用明け。立春。

不思議なことに、いきなり昔の波動に戻ったように追い詰められる感覚と、この先の立ち位置を見失ったかのごとく不安に襲われています。
緩衝期間にゆっくりしたのだから、ここでスタートダッシュせねば。という過去からこびりついた思考回路が、そのように感じさせるのでしょうか。

「陽転」の瞬間、新しい方向への変化を取り込むために、ここまでの期間で整えていたはず。
転換点には、過去の痛みを見ないふりをするのではないものの、それを握りしめていては新しい波が入ってこないことを再認識します。
過去の痛み・失敗があればこそ現在がここにあるという感覚を忘れず感謝を捧げ。引き続き抗わず・流れに抵抗せず。

稀有なタイミングに、過去と現在、未来を統合してゆく深い意味を理解します。
意識のフィルターは、結果を如何様にも「変更できる」力があることを再認識するとともに。



外側と内側・答えとは在り方そのもの

紅梅が披露する歌に響き合う photo 宮本章光

依存する心。
答えは外側ではなく内側に。と語り続けられています。


外側とは何なのか?
多くの場合、人は自分が一番正しい。と信じ込んでいます。
けれども、仮にそれが間違いかもしれない、とインプットされたなら、その瞬間から「正しいとされる答え」を探し回ります。
探す先・探す対象こそが「外側」ということでしょう。


善か悪か、の次には二元化二極化を認識し、精神性を磨き上げてきました。
そして、暦や節目の持つ重要性に氣がつくところまで、ようやく辿り着いたのではないでしょうか。
しかし、
暦や節分だ、と言っているうちはまだまだだ!覚醒の本質はそのレベルじゃない!もっともっと高尚なところにしか悟りは存在しないんだ!
といったように語る人たちも、まだまだ多いように見えます。
これ、その道のビジネスですからもう騙されませんように。まさしく依存ビジネス。まさに外側に答えを求める人がターゲット。


さまざまな意見があり考え方があります。それぞれひとつひとつにフォーカスを合わせていると永遠にピントが定まりません。

この状態そのものが「外側に答えを求めている」と氣がつかずに彷徨います。
そして明確な回答を得られぬまま疲弊し迷宮入り。結果として負の周波数に汚染されただけで終わってしまう。
往々にしてこの経路を経ることが大半ではないでしょうか。


---答えを得ようとしない。
---そもそも答えなど存在していない。
その地点へ到達するために、静けさと平穏の周波数を意図的に選ぶのです。

そうすればこそ、ノイズに汚染されない静寂性の中に「勝手に・自動的に」答えが降りてきます。
これこそが、答えは内にある。とされる状況を語っていることに氣がつきます。


もうそんなことは耳タコかもしれません。
でも、すでに知っている・知識として得ているのなら「それ以上に」答えや情報を加え続ける必要がありません。
このあるがままの状態を、いまここ・いまこの瞬間の「在り方」というのではありませんか。
それなのに、
わたしたちは毎日のように新しい情報だ、何だ。と探し回ります。触れ続けます。
ええ、自分はノイズを選別し排除し見極めることができるから大丈夫だ、などと。
触れれば・意識すれば、その瞬間にその周波数のエネルギーに共振し拡大・拡散していること。

それが「外部に答えを探し回っている」ことかもしれない。と氣がつかないのです。

ここにある在り方、その姿勢を・在り方を整える。
それだけ。それ以外に答えはどこにもありません。


暦や節、冬至や節分・満月だ...と踊っているうちはまだまだなのでしょうか。
確かにそうかもしれません。ある意味では核心を突いています。
けれど、
それはこの国の先人が築き上げた貴重な遺産だと本心から理解できているのなら、もっと高尚なところに悟りがある、などと語ること自体が「暦も節も」何らその本質を理解できていない証でしょう。
そして、
有名な人が語るから・インフルエンサーだから。というある種の崇拝意識そのものが「依存」であり「外側に答えを探し求めている」姿そのものだった。と、この6年間で嫌というほど学び得たのではなかったのでしょうか。


いつになっても、何回落とし穴に落ちても落ちても、何度も何度も学習効果が得られない。
いつになっても、何度失敗しても誤っても、何度も何度も救世主を待ち、不足と欠乏の波動を生み出してばかり。

これを「外側」に答えを求めているのだと。
内側という自分自身の心にしか答えはありませんし、その心からしか望ましい世は顕現化することはないのです。




旬を待つ・準備する・熟成させる

春を待つ photo 宮本章光

旬とは。

企業に在籍していた時期には、売上に関わる区切りの期間、成績の算定区分、そういった感覚が強烈でした。
発音は「いちじゅん・にじゅん・さんじゅん」であり、一ヶ月を10日ごとに区切った成績達成のための3つのブロックでした。
2月の1旬の計画は、2旬の利益確保予想は、3旬の最終売上金額は...、といったような。

当然、現在でもやっているのだろうな、と思います。
わざわざ、数字に追いかけられるように組み込まれ、そこには不足と欠乏の周波数しか存在しないために永久にその負の現実を生み出し続けます。もちろん計画を大きく上回ることもあります。けれど総じて「追われる」ベクトルであることは、それが世の中全体に蔓延した隷属化の仕組みだったからでしょう。
離れてよかった。と心の底からそのように思います。


発音を「しゅん」としたのなら、この旬という言葉は、
生命存在が最もよい結果を生み出す時期を語る言葉になるでしょうか。

その言靈を感じその言靈に含まれるエネルギー波動に合わせてみます。
旬の食材といった例を見ますと、最もおいしく最も収穫量が多く、最も栄養価が高い時期を示しています。まさに最高の状態・状況を指し示していることがわかります。
最高・最大の結果は、そこ(時期)に合致させることでその結果を得られることが容易に理解できます。


同じように、ものごとすべてにおいて「旬」があることを頭の中では理解していても、それを積極的に意識することは稀かもしれません。

このところ触れ続けている暦や節、そういった古くから語り継がれる「機会・タイミング」としての旬は、意識してその旬に周波数を合わせてゆくことでその波動が持つエネルギーを得られることを伝えてきたのでした。

当然、この地この世では具現化には時差があるため、そのために準備し熟成し晴れ舞台を待つことになります。
準備の段階で、いきなり結果は出ません。当たり前の感覚でしょう。
蕾の時期に、どうして花が開かないんだ!と叫んでも絶対に花は咲きません。

行動とは一分一秒を惜しんで走り回ることだ。一円でも売上を上げ利益確保を追求することだ。
そして、
結果とは努力なしには決して手に入らないんだ。体を壊してこそ一人前だ。それが企業人の勲章だ。
そんな悪しき過去。
そんな狂った世の中。
固い蕾の状態の芽を、力でねじ伏せて花を開かせるような感覚ではないかと強烈に違和感を感じます。

しかしそれさえも、その時代の流れそのものだったこと。それさえも悠久の時の流れの中における「その一つの旬」であったことに理解が及びます。


こうして体験し学習しそして俯瞰できるところにまで到達したことで、いわゆる統合が完了するはずです。
次の教材は、
望ましい結果を得るために、旬を意識し旬の波動に合わせてゆきましょう、という部分だと思っています。それが流れに抗わないということだと。
そのためには、蕾の段階・蕾の時期には、静かに整える。
それが土用という緩衝期間・準備期間であり、まもなくその区切りの終わりを迎えます。


足元を近視眼的に見るだけ、ひたすら追われて走り回ったのではなく、整え・準備し熟成してきた者には、次のステップが明確に示されていることがわかるでしょう。

それこそが「旬」が指し示す意義であり、ものごとすべてにはタイミングがあることを再認識するきっかけでもあります。




初午(はつうま)2026年2月1日

IMG_0131_2026.webp

初午(はつうま)。
丙午(ひのえうま)の初午。
2026年は、本日2月1日。


暦という区切りには意味があり、その意図に心の波動が合致すれば、同じ振動数としてその意図が顕現化します。
この国の先人は、こうした物理法則・量子力学が証明してみせるよりも遥か以前から、その本質を理解していたことを知ります。

初午祭において奉る祝詞には、深い言靈(ことだま)と奏上する音靈(おとだま)が響き合い、同様に合致した振動数としてその深遠な世界と繋がります。
後に生まれた宗教という名の洗脳と支配・隷属化のための仕組みにも、同じように「それに似せた」文言を並べてはいるものの、その中には言靈と音靈という有史以前から培われ蓄積されてきたこの国の精神世界を通して無限のエネルギーに繋がる波動、一千年を超えて語り継がれてきた深い波動が皆無であることは明白かと思われます。


いま、極めて重要な宇宙規模での大転換期。
そして、その地球の進化を牽引する非常に重要な役目を果たすとされるこの国、日本。

物質至上・物理次元オンリーの世が崩壊する中、精神性を磨き・高めようと行動をはじめた人々。
もう大丈夫だとは感じますが、のちの者が支配と隷属化・洗脳のためにつくり出した宗教と、この国の先人が築き上げた森羅万象・八百万の神への畏敬の念とを、ごちゃ混ぜにして「なんとなく宗教っぽい」と、一括りにして語ることのありませんように。


わずか5,6年前ほどでさえ、その時点で精神世界を語る者に対し、狂った宗教だスピった狂った輩だ。ツボを買わされるなよ!◯カな奴。と蔑んでいた人たちが大多数であったこと。
ええ、幸いなことに今となれば大きく進化・成長し、もはやその時点とは比較できないほどに成熟を果たした(はず)のこの国の人々。

ところが、いわゆる心のブロックとされる「奇跡なんて起きるわけがない」「そんなものあるはずがない」と、これまた否定し続ける姿勢が、激しく重要なこの期における「もうすぐ目の前まで」やってきている幸運を、わたしたちの集合意識に毒として混ぜ込み、顕現化・具現化を「阻止」してしまうことになる、と氣のつかない痛すぎる人たちの存在も。

救世主を待ち続けるのではなくて、わたしたち自身一人ひとりの心から望ましい波動を生み出すのだ、と理解できた人が実践し日々行動している中、いつまでも待ち続ける不足と欠乏の周波数を産み続ける人たちの存在と同じように。


何もかも、紙一重(かみひとえ)なのです。
ものごとには両面があり、それぞれセットであること。そこまで理解したのなら、自分の立ち位置と異なるものを否定するのではなく、ともに認めともに受け入れる。
ただし、
隷属化と支配のために、これまでの世を覆い尽くしてきた膜のようなエネルギーに対しては明確に線引きをし、選択しないことが求められます。
そのためには、これまでの学習と成長のために存在してくれた役回りへの感謝を捧げ、そして手放すのだと語られている通りです。


なんとなく似ている。なんとなく同じように見える。
それだけで、正反対・真逆に存在するエネルギーをごちゃ混ぜにして否定してしまうことのありませんよう。
選択とは、
その選択の前に、両極ともに体験したからこそ学びを深められたという事実への感謝を忘れず、この先に望む波動を選ぶこと。

初午。
暦という区切り、節ごとの重要性について学び直す機会を与えられていることを知り、森羅万象すべての存在への畏敬の念と感謝の心を忘れないよう、ここに巡ってきたものと感じています。

穏やかに。静かに。心やすく。




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