外側と内側・答えとは在り方そのもの

依存する心。
答えは外側ではなく内側に。と語り続けられています。
外側とは何なのか?
多くの場合、人は自分が一番正しい。と信じ込んでいます。
けれども、仮にそれが間違いかもしれない、とインプットされたなら、その瞬間から「正しいとされる答え」を探し回ります。
探す先・探す対象こそが「外側」ということでしょう。
善か悪か、の次には二元化二極化を認識し、精神性を磨き上げてきました。
そして、暦や節目の持つ重要性に氣がつくところまで、ようやく辿り着いたのではないでしょうか。
しかし、
暦や節分だ、と言っているうちはまだまだだ!覚醒の本質はそのレベルじゃない!もっともっと高尚なところにしか悟りは存在しないんだ!
といったように語る人たちも、まだまだ多いように見えます。
これ、その道のビジネスですからもう騙されませんように。まさしく依存ビジネス。まさに外側に答えを求める人がターゲット。
さまざまな意見があり考え方があります。それぞれひとつひとつにフォーカスを合わせていると永遠にピントが定まりません。
この状態そのものが「外側に答えを求めている」と氣がつかずに彷徨います。
そして明確な回答を得られぬまま疲弊し迷宮入り。結果として負の周波数に汚染されただけで終わってしまう。
往々にしてこの経路を経ることが大半ではないでしょうか。
---答えを得ようとしない。
---そもそも答えなど存在していない。
その地点へ到達するために、静けさと平穏の周波数を意図的に選ぶのです。
そうすればこそ、ノイズに汚染されない静寂性の中に「勝手に・自動的に」答えが降りてきます。
これこそが、答えは内にある。とされる状況を語っていることに氣がつきます。
もうそんなことは耳タコかもしれません。
でも、すでに知っている・知識として得ているのなら「それ以上に」答えや情報を加え続ける必要がありません。
このあるがままの状態を、いまここ・いまこの瞬間の「在り方」というのではありませんか。
それなのに、
わたしたちは毎日のように新しい情報だ、何だ。と探し回ります。触れ続けます。
ええ、自分はノイズを選別し排除し見極めることができるから大丈夫だ、などと。
触れれば・意識すれば、その瞬間にその周波数のエネルギーに共振し拡大・拡散していること。
それが「外部に答えを探し回っている」ことかもしれない。と氣がつかないのです。
ここにある在り方、その姿勢を・在り方を整える。
それだけ。それ以外に答えはどこにもありません。
暦や節、冬至や節分・満月だ...と踊っているうちはまだまだなのでしょうか。
確かにそうかもしれません。ある意味では核心を突いています。
けれど、
それはこの国の先人が築き上げた貴重な遺産だと本心から理解できているのなら、もっと高尚なところに悟りがある、などと語ること自体が「暦も節も」何らその本質を理解できていない証でしょう。
そして、
有名な人が語るから・インフルエンサーだから。というある種の崇拝意識そのものが「依存」であり「外側に答えを探し求めている」姿そのものだった。と、この6年間で嫌というほど学び得たのではなかったのでしょうか。
いつになっても、何回落とし穴に落ちても落ちても、何度も何度も学習効果が得られない。
いつになっても、何度失敗しても誤っても、何度も何度も救世主を待ち、不足と欠乏の波動を生み出してばかり。
これを「外側」に答えを求めているのだと。
内側という自分自身の心にしか答えはありませんし、その心からしか望ましい世は顕現化することはないのです。

