アンド・エム宮本陽/宮本章光ブログヘッダーイメージ

宮本章光/宮本陽の視点「開闢」And EM Official Blog

みやもとあきらのしてん AKIRA MIYAMOTO@And EM

Archives [All Entries:2871]

祈りとは依存ではなく自分を宣言すること

春日の御神木に祈る photo 宮本章光

いのり。

自ら生きる姿勢を宣言すること。
いきる(い)を宣べる(のり)とされます。


大きな勘違いをして生きてきたのがこれまでの歴史ではなかったでしょうか。
祈りとは、神に願うことだ。と。
合格しますように。安全でありますように。などと。

それは単に神という見えない存在に「依存し我欲が満たされること」を懇願していただけではないでしょうか。
そもそも、神は、社にも祠にも居ませんし、そうした場所にはその地域や地を守るエネルギー集合体が存在するのみだ。と語られます。

それを、そこに、まるで白髪で杖を持った老人のような人物に置き換えられた神という名の我欲を満たしてくれる存在を作り上げ、その存在に対し依存する。それが願うことだと誤って教えられてきたのではありませんか。
さらには、
そこに隷属化のツールにしかすぎない金銭を要求する仕組みが作り上げられ、それと引き換えに欲望が実現する。
などと、歴史はあれよあれよという間に捏造され、ピラミッド頂点に「金銭という富」が集まる仕組みが構築されてきたのでした。


願うことがよくないのではなく。
願ったことを実現させるべく「自ら宣言」すること。そしてその導きに「感謝」すること。
これが「いのり」の本質。
そのためには、きっちりと襟を正し、しかるべきエネルギー存在の御前にて宣言をする必要があったのでしょう。
ですから、
それは、数千年を超えるとされる巨木や、神格化されて当然だと認識される、歴史を刻み膨大なエネルギー波動を維持している巨岩、森・山々など、この国の先人はそうした存在へ頭を垂れ、敬い奉ってきたはずです。


この根幹の部分から間違って教えられてきたのですから、誤りを知ったのなら正すだけ。
簡単なこと。

それなのに、ここに我を張り「自分は正しい=君のほうが間違っている:ファクトチェックはしたのか・エビデンスはどこや!」とやってしまう。まして「狂った宗教にイカれた奴」だとか「ツボを騙されて買わされただけやろ」などと、蔑み人を見下す姿勢を変えようとしない。
恥ずかしさの極みだと感じます。そもそも論点が完全に外れてしまっています。
その心・その姿勢こそが、いのりから「遠く離れてしまう」行為であることにまで意識が及びません。


自らを望ましく「正し」、
この先に実現した姿を「宣言し」、
その導きをいただけることに「感謝する」。

こうして「いのり」が続けられてきたのではないかと。

いのり、とは、依存することではなく、
願い叶った姿を実現すべく宣言し、感謝を宣べること。

この国に生まれ、この国で育てていただいたのですから、肝心かなめの「心」は理解できる方々ばかりだと思われます。
その心の波動が、この世を変える巨大な原動力になるのです。

いま、
この「心をひとつに束ねる」期を迎えていることは間違いありません。



映り写し移りゆく

映り写し移り photo 宮本章光

映る曇り空。
写るオブジェクト。
移りゆく心。

言靈の奥深さ。
言靈の偉大さよ。

撮ってやろう・見せてやろうから離れる

百日草が並ぶ photo 宮本章光

土用入り。
土に触れないのが望ましいとされます。

それまでにしっかりと手入れされている街角の花壇。


見せてやろう。撮ってやろう。
そんな氣持ちから離れることができたのは、やはりSNSから大きく距離を取った後からでした。

別にそんな意識はない。
別にそんなつもりで撮っていない。

みんな声を揃えて、そう仰います。当然わたし自身もそうでした。
でも、
そこには「そんなエネルギーが内包されている」ことが伝わります。
ほんの少しでも、それは判ります。


花壇の真正面には無造作に止められた自転車の列ばかりで。
けれど
美しく色とりどりに咲き誇る姿を見かけたから。
だから、ここで数点だけ記録することが叶いました。


こうして同じ周波数がシンクロする時代へと。
このようにして同じ波長で響き合う時代を迎えました。



そこにあるさまざまな対比

そこにあるさまざまな対比

明暗が存在するのがダメなのではなくて。
表裏があるのがよくないのではなくて。


対比とコントラストを味わうために。
この地で体験するために。

直線と斜線。
分割と統合。
色彩の対比。
質感の対比。

この地・この世で体験すること・できることは、写真表現の世界そのままだったこと。
望ましい対比を堪能するために、望む階調へと整え、視覚的記憶色に近づけるために色彩感を戻してゆきます。

それはよくない行為だ。と叫んだ過去もありました。
そういった「制限」や「規制」をわざとかけて、その枠組みの中で楽しむ。
それも一つの体験でした。


そこにある様々な「対比」に感覚を合わせる。
そこにある無限ともいえる「対比」を味わい尽くす。

そこにあるさまざまな対比。
画面に向かって画像処理を行う。
ここに、具現化の世と同じフラクタル構造が存在していました。

はい、
この先に対比を無くすのではありません。間違いのありませんよう。

対比を「自分の心」で「自分の感じるままに」その手綱を握っておくこと。
その結果、
生み出された波動が「望むままに」顕現化すること。

土用の入りを控え、
ここまで進化・成長できたことを喜ぶ日を迎えました。



105760465
rss_logo

New Entries

Archives / Serch

Categories