言靈を大切にする・ただひとつの選択

すべての存在は、例外なく固有の周波数を持ったエネルギーであること。
その意味を本当に理解したのなら、
うわべだけの美辞麗句で飾り立てて心にない言葉を発することのありませんよう。
それは、どちらの意味においても。
綺麗ごとだけを掲げて、心ではあっかんべー...とやる。
もう一方では、
本心にないながら、負の波動に満ちた言葉を不用意に口にする。
言葉の奥に込められたエネルギーは、もはやストレートに伝わるフェーズに入っています。
まして、そのエキスパートであろうとするこの国ネイティブであるのなら。
前者は、その因果・その反作用が時差を経て自らに還るだけのこと。
後者は、日々・終始触れ続ける周波数が劣悪でありその負のエネルギーに憑依され乗っ取られていることに氣づいていない状態かと。
ともに、因果は自分に還る。それが仕組み。
しかしながら、
因果が返るから言葉に氣をつけるのではなく。
それは前者と同じ。うわべだけ綺麗ごとで着飾った状態。
よき結果を得たいがために行動を変えるのは、まさしく人を見て人によって態度を変える人たちと同類でしょう。
言靈を大切にする。
この、たった一つのことを守るだけで、一日後から・一週間後から・一ヶ月後には目に見えて状況が変化してゆきます。
大切にできないのであれば、
終始触れ続けるノイズの波長が、この先にはふさわしくない周波数であるとの証明でもあります。
だからオールドメディアから離れてきました。
常々書き続けています。
自然に湧き上がり、とどめることができなくなる。その状況を。と。
言靈を大切にする。
ただひとつの選択。
自分で感じるまま感じる通りに

写真は最たるもの。
そのように感じます。
自分が撮りたい、と感じたから撮る。
その感覚。と言えば最も近いように思われます。
時間が違えば、日が異なれば、
同じ被写体や同じ場所では撮ることはないかもしれません。
一期一会。
自分の感じるまま。
いい加減な、という意味ではなく。
テキトーという感覚でもなく。
それこそが、その瞬間瞬間の周波数に合致している証だと。
逆に合致しないのなら、それは違和感として感じることになります。
わたしたちの心は、極めて精巧な判定機としての機能を備えています。
多くの人たちが、その判定機能を復活させつつあるようです。
その閾値、臨界点は、まもなく超える瞬間を迎えるのではないでしょうか。
空に「しるし」が表出する機会が増えています。
くだらないノイズではなく、響く周波数にこそ答えがあります。
自分の感じるまま。
自分が感じる通りに、この先が創り出されてゆきます。
頭を垂れる

それは、何か欲望を満たして欲しいと願うのではなく。
それは、偽りの感謝をポーズするのでもなく。
あくまでも自然発生的に生み出されるもの。
あくまでも自動的に湧き出すもの。
神は祠には居らず。
神は人的物理実体を持つ存在ではなく。
すべての存在、と語る前に、
目の前に存在する威厳と尊厳を備えた生命に。
目の前に存在する堂々たる生命に。
感謝とは、
とどめることができず湧き上がり溢れ出すもの。
偽りの教えに従う限り、
偽りの周波数を焚き続ける、善を装っただけの悪に成り下がる。
偽りでないものとは、
自らの心に響き渡り湧き上がる、善と悪とをともに受け入れ、その先に望むものを選ぶこと。
そのもの、その仕組みが神であることを。
この国の先人が伝え遺した宝物。
頭を垂れる(こうべをたれる)。
やむに止まれなく湧き上がるものを、このように体現することです。
森羅万象・神は足下に在り

八百万の神。
森羅万象。
この国の先人が遺した貴重な言靈。
人間は、自らの知識の範疇を遥かに越え、自らの能力を超越した存在を神として崇めた歴史があります。
過去、他星系からの訪問者をその存在と認識してしまった「過ち」があります。
他方、この国においては、
すべての生命存在、大自然の仕組みそのものを神として奉ってきました。
いま、この意識の復活が求められているように感じます。
人的物理実体を持つ訪問者を誤って崇めるのではなく、この地・この仕組みそのものを神として認識する。
その中には、
当然、人間の想像を夥しく超える年月に渡り生存する生命もあります。
彼らに対する畏敬の念を忘れず、足下にこそ神が在ることをいま一度感じてみる必要があります。
神は足下に在り。