そこに舞台が用意されているから

一切手を触れることなく。
何ら仕込みすることなく。
そこに舞台が用意されています。
---狙ってやろう。
---アピールしてやろう。
---どや、これを見ろや。
そんなチープな感覚・感情を一切生み出すことなく。
「受け取り側」に読解力が必要なものがアートでしょうか。
「見る人」に過剰な想像力を強いるものが芸術作品でしょうか。
それもひとつの手法に違いありません。否定はいたしません。
けれどわたしは、その道を選びません。
そのかわり、
あらゆるところ、身近な自然環境に存在する生命の波動と響き合う。その体験そのものを求めたい。
そのわたし自身の体験を通し・記録し、そこに取り込まれた同じ周波数で共鳴できる方々へそのシンクロ体験を味わっていただきたい。
この先の世は、このように同じ周波数で響き合う素晴らしさを楽しむ時代が待っています。
その役割を全うしたいと思っています。
そこに美しい舞台が用意されているからです。
水が放つ響きと存在感

先日来、川を流れる水音に変化を感じています。
きめ細かさが増していることを。
さらに大きな流れではどうでしょうか。
顕著に変化があるように思われるのは、棘(トゲ)のある荒さが消えていること。
一聴して感じる部分では、大きく押し出してくる感覚に変化はないようですが、それぞれの粒が整ったように感じるところに統一感といった感覚の美しさがあります。
イヤイヤ水撒きをする人の庭が発する、無造作に放水した先に土を堀り返し砂を撒き散らす、そのような種類の「棘」はどこにもないように思われます。
そして、
大きく強く押し出し放たれる感覚は圧倒的で、その場に巨大なエネルギーが満ちていることがしっかりと伝わります。
居合わせた海外からの観光客に「この場の雰囲気」について尋ねてみました。
"beautiful"と即座に返ったのは、洋を問わず共有できるエネルギーである証でしょう。
精細感と存在感。
ともに披露する水のエネルギー。やはりここにも生命が宿ることを感じます。
この国の先人が大切にしてきた森羅万象への畏敬の念。
この先の世を創り直すために、真っ先に取り戻すべき感覚に違いありません。
人が変わるのを待つことなく

人を変えようとせず。
人が変わるのを待つことなく。
人にアピールすることばかり意識し、
人に認められることだけを意識し、
数を追い、数を拡大するだけの世を生きてきました。
いまを生きる。
とは、
いまここで、このまま生きること。
至極当然のことに氣づかぬまま。
氣の遠くなるような長い年月、幾度となく繰り返す転生を通してこの世に生きてきました。
この先には、もうそのような世界はありません。
自分らしく生きる。
とは、
いまここで、自分そのものを表現すること。
同じ周波数で響き合う表現をすること。
人を変えることをせず。
人が変わるのを待つことなく。
この延長線上に、意識と思考が顕現化する世が生み出されてゆきます。