実りの季節に感謝

わたし自身の手では、米の一粒とて作り出すことができません。
その昔、祖母が、茶碗についたお米の一粒一粒まで綺麗に食べなさい。と教えてくれたことを思い出します。
それは、稲という生命に対しての感謝と、お米を作っていただく方々への感謝と。
ええ、その幼少時期の意識でも、お米が植物としての生き物であることは理解できましたし、農家さんが田植えをしてから長い長い工程を経て、ようやく食卓にまで届くこと。
そこまでの理解はできていたはずです。
ですが、
年月を経るとともに、じっくりとその事項について考える機会は減ってゆきます。
あらためて、生き物なんだぞ、作っていただく人がいるんだぞ。
そのように大上段に構えて意識しなくなってゆきます。
だからこそ、
こうした風景に出会ったならば、もう一度思い出してみても良いのかな、と感じます。そして、先般の投稿のように「感謝に、しすぎることなどない」はずだと再認識するのです。
面と向かって、こうした感覚を語り、こうした言葉を書くこと。
それは、ええカッコしいだとか、自意識過剰だとか、そんなレベルはとっくに卒業済みだからこそ口にできる言葉だと感じます。
その行為そのものが、心を通して目に見えない世界に繋がることを理解し始めますと、ことの重大さといいますか、その大切さを噛み締めるとともに、先人(それは大正生まれの祖母の世代でさえ)は、ここまで深い教えを伝えてくれていたのだ、と驚くとともに、あらためてその事実にも感謝をしなければ、と思うのです。
感謝に、しすぎることはないですし、ひたすら御礼を伝える氣持ちを大切に。
と、感じた神無月のひとコマです。
この場で、ともに同じ方向のエネルギーを束ねていただけるみなさま。あらためて貴重なご縁に感謝申し上げます。
併せて、常に強力な導きのエネルギーを送り続けていただく諸先輩方・高次存在への感謝の言葉を忘れぬように。
ありがとうございます。感謝しています。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。
誰でも撮れる・でも誰にも撮れない

本日もお越しくださいましてありがとうございます。
今日の記事を書き上げて投稿...。
その直前に[Command+Q]を無意識に押してしまったため、すべて消えてしまう、そんな失敗をやらかしてしまいました。
終了時にキャッシュもクリアされるので、跡形もなく。
もう15年ぶりくらいではないかと思います。
ブラウザがクラッシュするのもすでに昔の話になり現在では皆無でしたし。
そう、その昔はテキストエディタで作成してからコピペしていました。
飛んでしまうと困るので。
でも、今日は飛んだのではなく、自分でアプリケーション自体を閉じてしまったのでした。
再度、白紙から書き始める氣力は残っていないので、ここに画像だけ置いておきます。
誰でも撮れる・でも誰にも撮れない
それは、
物理的なことではなく、そこに内包されるエネルギーについてのこと。
ええ、画像だけでも伝わるんだよ。
という実験をするために、無意識にCommand+Q(アプリケーションを終了する:WidowsならAlt+F4でしょうか)を押したのだと思っています。
はい、心理的なショックもほとんどありません。
一回だけ、ため息が出ただけで終わりました。
誰でも撮れる空の絵。
でも、
他の人には絶対に撮れないその中に込められているエネルギーをどうぞ。
そこにある、言葉には置き換えられない何か。
そこにある、目に見える形にはならない何かを。
この場で、ともに同じ方向のエネルギーを束ねていただけるみなさま。あらためて貴重なご縁に感謝申し上げます。
併せて、常に強力な導きのエネルギーを送り続けていただく諸先輩方・高次存在への感謝の言葉を忘れぬように。
ありがとうございます。感謝しています。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。
「不要な考えを持たなかった」幼少時の記憶

考えることをしない。
考えると意識や感情が一人歩きするからです。
本日もお越しくださいましてありがとうございます。
幼少時のかすかな記憶を辿ってみます。
本当に僅かな記憶しか残っていないそのライブラリーにアクセスを試みます。
いえ、実際にはすべて記録されている巨大なエネルギー体としてのアーカイブがあるのでしょう。でもそこに繋がることができない・繋がる方法を忘れてしまっているために、古い記憶はほとんど残っていないと錯覚するのだと言われています。
畳の部屋に一人で座っている風景。
手の届く範囲には、ガラガラや幼児向けの人形があります。
一歳に満たない時期なのだと思われます。
少し暑さを感じるような感覚もあります。
シーンが切り替わって、わたしは別の部屋に居ます。
深夜の南向きの窓に「水色を基調とした輝く船」がやってきて浮遊しています。
大きさは、30cmほどの長さ。その船の周囲を天使のような存在が輝きながら輪を描いて取り巻いています。
このシーンについては、以前にも書いています。
【真実探しの旅を終える】[Link] 2022/01/21記事
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この記憶は夢の中の出来事なのかどうかはっきりしていないものの、当時の家のパーツや釘、色やサビなどの状態や位置までも克明に関連づけられ、現在でも極めて鮮明記憶していますし、その時の寝間着の色や布の質感まで記憶に残っていることから、幼少期の実体験だと確信しています。
抱き抱えてもらった祖母(あるいは叔母の可能性も)に聞こうにも、もう存命せず叶いません。
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祖母は、その宝船のような未知の船を左手の上に留まらせて、右腕で幼少のわたしを抱き抱え微笑みかけます。
その船は、本当に美しく水色と緑色の混ざった色で光り輝いていたのでした。
束の間の創作ファンタジーか?と思われた方も多いと思います。
失礼いたしました。
この時期(1歳から3歳にならないまでの時期)の記憶を辿りますと、思考と言う名の意識が完全に消滅します。
まさに、現在語られているような、その瞬間瞬間だけを感じ、いまを生きている。
その状態で感じる、心の状態・身体的感覚。そうしたものが微かに蘇るのです。
考えずに感じる。というその感覚が。
この時期の心の感覚と身体的な感触を思い出すのが、わたしにとっては最もノイズから遠ざかる方法だと感じています。
すべての思考から離れる。
切り離されてしまった12番DNAの活性化をするのは、自分自身に委ねられています。
この場で、ともに同じ方向のエネルギーを束ねていただけるみなさま。あらためて貴重なご縁に感謝申し上げます。
併せて、常に強力な導きのエネルギーを送り続けていただく諸先輩方・高次存在への感謝の言葉を忘れぬように。
ありがとうございます。感謝しています。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。
感謝しすぎることなどない

今朝の未明のアドバイス。
「感謝に、しすぎることなどない。」
でした。
もう但し書きのような前置きは、この場でご縁を続けていただいている方々には不要だと思っています。
本日もお越しいただきありがとうございます。
毎夜、午前2時頃から4時頃あたりの時間帯に目が覚めます。
そのタイミングで南向きの窓の外を眺めますと、いまの時期にはシリウス(おおいぬ座の一等星)の輝きが目前に現れます。
地球で観測できる恒星としては一番明るい星だと習った記憶がありますし、青白い光を放つ(色温度が高い)星とされてきたように思いますが、ここしばらく、そのシリウスは虹色に輝くミラーボールのように見えます。
まぁ遠視・乱視が混在する老眼で、その時間帯の感覚ですから、何がどのように見えようと何の説得力もありませんが。
ここから本題です。
多くの場合、この未明の時間帯に、何らかのダウンロードメッセージが流れてきます。
非常に難しいメッセージであることも多く、またいわゆる「痛い部分を突いてくる」内容であるケースも少なくありません。
今朝は「感謝に、しすぎることなどない。」と。
確かに。
納得してから再び布団に入りました。
こうした言葉、感謝の言葉をツラツラと真顔で書き連ねると誤解を受けた時期もあったでしょう。
いえ、いまでもそうかもしれません。
ちょっと精神性に触れる発言をすると、スピってる・危うい奴!と、蔑まれたのはほんの数ヶ月前でもありました。
感謝・感謝と綴りますと、途端に自意識過剰だとか、自己顕示欲が裏返って認めてくれちゃんになってる。だとか罵る人もいるでしょう。
ですが、
だから何?というところへ到達できたと感じますし、本心から礼を捧げる氣持ち・感謝の氣持ちを言葉として表現するに際し、人に後ろ指を指されるような疾しさは一切存在しません。よって今日はこの文面を綴っています。
「感謝に、しすぎることなどない。」
はい、さまざまな生き物、多くの生命とともにこの地で生かしていただいているのですから。
他人の「ノイズ」は、ようやく聞こえなく、そして見えなくなりつつあります。
写真集作成の取材で伺った農家さんのお庭で、背景を含めあまりに美しくアピールしていたので、この一枚の画像が存在しています。
ありがとう。美しいエネルギーをいただいてありがとう。
ええ、「感謝に、しすぎることなどない。」です。
この場で、ともに同じ方向のエネルギーを束ねていただけるみなさま。あらためて貴重なご縁に感謝申し上げます。
併せて、常に強力な導きのエネルギーを送り続けていただく諸先輩方・高次存在への感謝の言葉を忘れぬように。
ありがとうございます。感謝しています。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。