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宮本章光/宮本陽の視点「開闢」And EM Official Blog

みやもとあきらのしてん AKIRA MIYAMOTO@And EM

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人は「自分が知っているその人」がすべてだと思ってしまう

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自分ではない、他の人のこと。
その人に対する認識は、「○○さんはこんな人・〇〇さんはこんな性格の人」という、自分自身の思い込みに過ぎない。

ええ、よく判っていますよ。
はい、そんなこと十分承知していますから。
でも、いちいち、
「この人は、もっと懐が広いはずだから。」
「この人には、もっと知らない世界があるはずだから。」
などと考えないでしょう。

日常のちょっとした会話の中でも、「その会話で交わされる言葉面だけで判断してしまう」ことが多いはず。


Aさんという人を、自分は「その人の100ある性格の中で90程度は知っているんだ。」長い付き合いだからね。
そんな誤解。
実際には、自分が知っていると思っている「その100」どころか、Aさんは「1,000も10,000も、いえ、1,000,000も10,000,000もの広がりを持っている。」に違いありません。

反対の立場でも同じことが言えるでしょう。
Bさんは、わたしという人間を「100ある性格の中で70くらいは知ってもらっているはずだ。」長い付き合いだからね。
そんな誤解。でもそれは、とんでもない誤解かもしれません。
実は「わたしの100のうちの0.1にも、あるいは0.0001に満たない部分しか」知ってもらっていない。


だから、もっとよく知りましょう。というのもひとつの学び。
けれども、
人の心を深く深く理解して…と、やっている限り、永遠に答えは出ないのです。
なぜなら、
その人と「わたし」とは別人だから。
少なくとも、わたしたちはいま、物理次元に体を持って存在していますから。
そして、この地この制限のある環境での学びを続けていますから。

人を「深く深く」知るために努力するパワーを惜しむ、ということではありません。ですが、その力を「自分に向ける」ようにしませんか。
リソースは限られているのです。
寿命という、この借り物の体を使わせていただける時間が。


努力を惜しむのではありませんし、苦労も必要です。学びのためには。
でも、
その方向とタイミング、そして「学びのどの段階において」必要とされるのか。
ここはやはりきっちりと認識したいと感じます。

人は「自分が知っているその人」がすべてだと思ってしまう。
だから、もっともっと知る努力をしましょう、というのか。
それとも、
限られたリソースは、自分を磨くためにももっと使いましょう。というのか。

ここは、やはり「物理次元・地球の歩き方」のメソッドに基づいて、制限のある中で成長と学びを重ねたいと思うのです。
理想郷や桃源郷にゆくのは、そのあとではないでしょうか。


恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

放置されたボールに宿る命

放置されたボールに宿る命 photo 宮本章光

もう何ヶ月間もこの場所に放置されたままのボール。
縫い目の糸が解け、傷んだ皮も痛々しい。
持ち主は、家を空けたまま数ヶ月が経ちました。どこかへ行かれたのか、はたまたどこかへ戻られたのでしょうか。

ボールは生き物ではないから感情なんて無いんだよ。
ボールは単なるモノだから痛みも苦しみも存在しないんだよ。
そんな声が聞こえてきます。

果たしてそうでしょうか?

この世(物質次元)に結晶化・物質化しているものは、すべてエネルギーの波動を持っているはずです。
例え、人間が感じるような五感と同じではないとしても、その元となった皮には、動物として存在し生存していた時期があったでしょう。
縫い糸にしても、その組成が天然素材であるなら、大地からの栄養分を吸収していた植物時代があったはずです。
そうしたすべての「履歴」は、宇宙のアカシックレコードにすべて記録されているとされます。


ボールは生き物ではないから感情なんて無いんだよ。
ボールは単なるモノだから痛みも苦しみも存在しないんだよ。

いま、このひとつの単なる放置されたボールから学ぶこと。そしてその課題は。
それは、
そのように「モノ」でしかないから、どうでもいいんだ。感情などあるわけがないから。と、自らの心の中に「描いてしまう」ところにあるように感じます。
すでに物質至上主義の時代は終わりました。
これからは、心と精神性・感性を磨く時代に入っています。

心に描くもの・コトは、それを自分自身がエネルギーとして発生させていることに氣がつくかどうか。
どうでもいいんだ、モノなんて。
そういった感覚を描けば、そのようにエネルギーが生まれます。
そして、どうでもいいと感じたエネルギーが、いずれ異なる時間と違った形で自分に戻るのです。
でも、
牛という動物として存在していた時代もあるでしょう、その材料である皮は。
大切なことは、動物だったから大切に。ではなく、すべてのモノを大切にする心。
ここに至ることができるかどうかが求められているはずなのです。


過去、この地に存在したとされる文明は、その地で生を営む人間の「精神性」が失われたために滅亡したと伝えられて(諸説あり)います。
いま、
この大転換機を過ごしているわたしたち。
過去文明崩壊・消滅の過ち、それは今度で6度目だとか7度目だと言われるその失敗と過ちを再び繰り返すことなく、心から共感できる精神性を高めた存在でありたい、と願うばかりです。


たかが一個のボール。
されどひとつの立派な存在としてのボール。

この地球における、いま最も重要な精神性の向上と高揚には、一人ひとりの「心」と「思いやり」が求めれています。

これこそが「愛」ではないのでしょうか。
キラキラと輝き、美しい言葉に包まれた愛も、もちろん素晴らしい。
でも、美麗な響きに抱かれなくとも、心を込めて伝え、そして祈ります。
それこそが「愛」そのものだと確信しています。

恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

自分から出る杭になって打たれてみな

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出る杭は打たれる。
才能があっても妬まれ潰される。

そんな歴史も、支配者による洗脳だったのでしょうか。
ともあれ、
長いものに巻かれていれば安心。
大多数に合わせていれば安心。
そんな感覚の人々が、どんどん旧いタイムラインから脱出している様子が手に取るように判ります。
大きな大きな、その流れがさらに激しくなっています。


世界で・この地球で、一番洗脳が深く一番長く眠り続けるお寝坊さんな国。
きっと、ある瞬間に一斉に流れが変わるに違いありません。
自分の心に感じるものを感じるままに体現できるようになれば。
そして、
きっと、ある瞬間に一斉に心をひとつに合わせることができるはず。

スロープではなく階段を上がるには、
その一段分の「段差」はデジタル的とでも言うべき段差を超えるための跳躍が必要です。一氣に力を込め、グイッと踏ん張ることで、その一段分を上がることができるのです。
ジワジワと、いえ、ちょっとイジワルな言い方をするならば、「ダラダラと」人の顔色を伺いながら、なんとなく大勢の中で目立たぬように生きる。
これも人それぞれに違いありません。
ただ、それでは階段は上がれないのではないでしょうか。


この場でご縁を繋いでいただいている方々は、もう釈迦に説法かもしれません。が、ここはひとつ「出る杭になって、自ら打たれてみては。」と思うのです。
いえ、心の中からその氣持ちを伝えてみるのです。

肉体を使って走り回る物理行動に比べ、心から願う・心から祈る、そのパワーは数万倍も力強い作用をもたらすとさえ言われます。
むしろそれは当然でしょう。わたしたち本来の姿は、唯一無二の魂たるエネルギーそのものなのですから。


この国の人々は、みんなこの美しい言葉を話し、この素晴らしい感覚を共有できる仲間であるはずです。
胸の奥から、とびっきりの暖かい心、とびっきりの優しい心でもって、一緒に新しい時代を創って参りませんか。と波動を送るのです。
急がなくてもいい早くなくてもいい。二度寝したい方はいつまでもどうぞ。
でも、
いつかきっと同じ心を持ってその力を合わせることができるはずだと祈ります。
必ず、この同じ言葉を通し、この同じ心が通じると願って。

これこそが「愛」ではないのでしょうか。
キラキラと輝き美しい言葉に包まれた愛も、もちろん素晴らしい。
でも、美麗な響きに抱かれなくとも、心を込めて伝え、そして祈ります。
それこそが「愛」ではないのでしょうか。

出る杭になってみませんか。
共に創り出す新しい世界に向けて。

植物たち。彼らは、自分だけ大きく成長してもそれを恥ずかしむことなどありません。
そして、同じ苗の仲間は、その成長を応援し、ともに美しくこの世を楽しんでいるはずです。

恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

「いのち」が表現する色彩感を感じてみる

おだまきの花が開く photo 宮本章光

何だか難しい標題になったかもしれません。
ですが、難しいと感じている時点で、古い洗脳が解けていない証でしょう。

わたしは、幼稚園児の時期に「人のオーラ(であろう)の色)」が見えていました。その時には、それが見えるか見えないか、という観点すら持っていなかったために、誰でも万人に備わった感覚だと思っていました。

赤い花を見れば「赤い色をしている」と感じ、
緑の葉を見れば「緑色なのだ」と。
そうやって色の名前を覚えてゆくのとまったく同一の感覚だったのです。
残念ながら、現在ではもう全く見ることができません。但し、何らかのエネルギーを感じようと努力してみれば、なんとなく感じることはできるようですが。


以前にもどこかで触れたように思います。
幼稚園の図書室にあるすべての幼児書を読み切った園児2名のうちの一人がわたしでした。
毎日、登園すればまず図書室に向かい、書棚に並んだ書籍の中から、それぞれが放つパワーの強いものから手に取ってゆきました。

背見出し(背表紙)の色使いや文字が一風変わったフォントで記載されている本は、記憶に残りやすいのでお氣に入りでもありました。
また、初期の頃は文字がほとんど読めなかったため、本編に記載されている図柄や絵、そしてその色彩感から感じるエネルギー=心地よさを感じる、目に見えない感覚を楽しんでいたことを思い出します。


この時間帯にもう一人、メガネをかけた園児がいつも同じようにそこに居ました。
記憶が相当薄れてしまっていますが、多分、女の子だったように思われます。
二年保育でしたから4〜6歳児でしょうか。それでも分厚いガラスのメガネは印象的でした。

その子供は、体の周囲にピンク色の「繭(まゆ)」のような光のベールがあったように記憶しています。
もちろん、他の子供たちを見ても、同じようなものが見えていたはずです。
けれども、それは服を着ているのとまったく同じ感覚だったので、この子は青い服をきているぞ、だとか、この子は赤系統の服を着ているんだな。などとひとつ一つ考えながら見ることはないのと同じように、意識さえしなかったのです。
そして、
小学校へ上がる頃には、もう感覚の外に消滅していたように思います。
いつの時点でそのような感覚が消えてしまったかさえも判りません。


あれから40年…ではなくて、あれから50余年60年近くの時間が流れました。
いま、この大転換期に、生命が放つエネルギーに色があることを思い出しつつあります。
いえ、
それは、花の色が「赤い」だとかそういった感覚ではなく、そこから滲み出している「目に見えない何らかのもの」を。

もしかして、
これは幼稚園児の頃よりも、もっと凄いことになってるんじゃないか!とも。
そう、そのように感じれば「そのように現実になる」。
本来備わっていた潜在能力を取り戻しつつあることを感じています。

ともに同じ感覚を共有できる皆さまとともに、新しい空間・時間を創造してゆきたく思います。ご一緒しましょう。

恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。
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