自分で立てたはずの高いハードルに怯む

自分で立てた高いハードル。
自分で設定した困難な試練。
それを一切合切忘れ、白紙状態で超えて行きます。
その山が高いほど成長が見込めるから、という理由で、ギリギリの苦しさの限界点(あるいはその少し上)を設定したはずです。
ここまで「思い出した」のであれば、
その道中を楽しみましょう。
-- どうしてこんなに苦しいのか。
-- どうしてこんなに困難なのか。
いえ、
筋力トレーニングだと思えば、坂道ダッシュも苦にならないでしょう。
筋力を鍛えるためだと思えばこそ、割れるような心臓の痛みも苦しくないはず。
最終ステージは、最も困難で最高に難易度が高い設定にしてあるのです。
それだからこそ面白い展開になるはずだ。
だからこそ、大きな結果と喜びが手に入るはずだ。
そのように、自分自身で考えて、自分自身が組み込んだのでした。
息切れしてしまいましたか。
もう止めにしたいと感じていますか。
自分で立てた困難なハードルを目の前にし、怯んでしまってはいないでしょうか。
止めるのも自由。
離脱するのも自由。
道を変えれば、その先の展開も大きく変化します。
但し、そこに桃源郷はありません。
いままで取り組んできたこと、それらすべてがリセットされるだけ。
もう一度、一からやり直すだけのこと。
筋力トレーニングだと思えば、坂道ダッシュも苦にならないでしょう。
筋力を鍛えるためだと思えばこそ、割れるような心臓の痛みも苦しくないはず。
楽しむ。
とは、まさにいまこの期の自分自身のために用意されていたかのような言葉ではないでしょうか。
苦しい・止めたい。難しい、訳わからん!
そして逃げる。
そういったイメージを描くことで、自分の目の前には「さらに輪をかけて苦しさが現実化」してゆくのです。
そういう仕組みだから。
はい、学び直し!リセット。
やり直しです!
自分で立てたハードルに怯むことなく、その行程を楽しみませんか。
これから先に創り出す世界は、わたしたち自身が心に描くエネルギーによって創りだされること。
いま一度、その言葉を反芻しながら。
恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。
さあ出番ですよ

大切な本番の前に力尽きてしまう。
ここ一番の大舞台の前に疲れ果ててしまう。
そんな失敗をなさいませんよう。
いまから本番です。
さあ、出番です。
舞台で最高のパフォーマンスを発揮できてこそ一人前。
一世一代の大舞台で最高の結果を叩き出してこそプロフェッショナル。
25,800年ぶりでしょうか。
あるいは20万年待ちましたでしょうか。
それとも、50億年という氣の遠くなる時間を経たでしょうか。
いいですか。
本番の舞台は「一度限り」。
数えきれないオーディエンス、それは目に見えない観客。
数えきれない存在の前で披露する一発勝負。
そのために、この機を選び、この体をお借りし、そして披露するその機会。
100万人に一人の狭き門をくぐり抜け、この地・この期に臨みます。
ご一緒しましょう。
共に進みましょう。
舞台のクライマックスは、もう始まっています。
さあ、出番ですよ。
恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。
自然の一員として恥ずかしくない生き方を

わたしたちは大自然の一員。
今、まさにこの意識、この感覚が求められているはずです。
この記事でも触れたことがあります。
この国の魅力的な季節を感じ、
この国の美しい言葉に触れ、
この国の多くの息吹とともに歩む時、
その大自然とともに生きることができ、大地から「借りた体をその地へお返しする」までに、この地における大変貴重な体験をさせていただけること。
ここに、ひたすら感謝の氣持ちが溢れるばかりです。
素晴らしい大地に、
唯一無二の生命に。
ともに仲間として恥ずかしくない生き方を、
ともに仲間として恥ずかしくない今この瞬間の氣持ちを。
何を心に描きますか。
何を心にイメージしますか。
わたしたちの心に描くものが目の前の風景を現実化させてゆきます。
恥ずかしくない生き方とは、
この尊大な大地や仲間とともに望ましい未来を創り出す心を持つこと。
そして、
その心をさらに拡大し続けること。
恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。
もうどうでもええやろ!

人を知る、自分を知る。その限界を知れば学習終了。
そんな感覚を昨日の記事に載せてみたのですが、いまひとつ練り込みが足りず不完全燃焼で終わってしまいました。
今日は、少々横からフォーカスを当てます。
「もう、どうでもエエやろ!」です。
何のために。
どうして。
なぜ。
答えを探す、答えを求める。
それ自体が「答え」。
その体験をしたら、それが「答え」。
答えなんてないんだ。
答えなんて探している時点でまだ未熟なんだ。
そう言っていること自体が「答え」であり、
そう考えていること自体が「学び」でした。
そして、
すべては「一(いつ)でなければならない。」
と語っている時点で、一ではなく、
そう語っている段階で、永遠に一には至らない。
けれども、
そう語った時点で答えに到達し学びを終える。
そういう体験をする場所。
そういう体験をするために、自分から手をあげて「100万人に一人の狭き門」とも言われるこの地において、この貴重な体をお借りして体験を積んでいるわたしたちです。
もう、どでもエエやろ。ってことでしょう。
そのプロセスを楽しめれば。
その論議を楽しめたならば。
春になっても、落ち葉のまま芽を出さない木。
このまま枯れ木で終わるのかもしれません。
その敷地には、いまだにテレビの音が響き、おもてに出ても万年スマホゲーム。と、成る可くしてなったエネルギーフィールドがそこにあるように感じます。
(失礼を申し上げる意図はありません。それぞれ人の自由であり、客観的事象として感じることに過ぎません。)
でも、
こうして、その葉やその枝を、横から眺めてみます。
光とのコラボレーションは、見事な姿を披露してくれます。
「美しいと思えば美しいエネルギーを生み出す」
「残念な枝葉だと思えば残念なフィールドが生成される」
もうどうでもええやろ。
自分が「心地よく」過ごせるエネルギーを選択するだけのこと。
もうどうでもええやろ。
自分が「ありがたい」と感じ、「感謝する」心持ちになれるエネルギーを選択すれば良いのだと。
ありがとうございます。
素晴らしい学びに、素晴らしい環境、素晴らしい体をお借りして素晴らしい体験を積めることに感謝申し上げます。
恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。