ひとつだけの存在

同じ幹・枝から数多く咲く花の中には、二つとして同じものがありません。
形や大きさ、微妙な色合いまで。
そして、その花を眺めるわたしたち自身も、同じ人間は誰一人として存在していません。
(この世は、Android/botが大多数という論説もかなり目にするようになってきましたが、ここではあまりにも論点が飛躍・乖離しすぎるため触れません。)
何より、人と自分は違う。
人それぞれ、誰一人として同じではありません。
その分離状態を体験するためにこの地に生存しているのですから。
ひとつだけの存在。
それは、
もともとが一つであった。と思い出しましょう。の意とは正反対に、
誰ひとりとして同じではない、唯一無二の存在である。の意味もあるはずなのです。
いえ、むしろその感覚こそが実感できる肌感覚ではないでしょうか。
もっともっと、この地での学びを味わい尽くしませんか。
さらに大きく深く。
違いを感じ、違いを楽しむ。
それを可能にするのが、この地であり、そのための場所ですから。
恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。
失敗なんてないのです。そこには体験があるだけ。

失敗?
昔からよく言われていますね。
「自分が失敗だと断定しなければ、どこにも失敗など存在していない。」と。
でも、望ましい結果を期待していながら、その期待値を得られなかったとしたら、それは失敗ではないのか?という考え方も当然あるでしょう。
ここで、期待値を得られなかったのは現実の結果として認めます。
しかし、期待値を得ることだけではなく「得られなかった」体験をする必要があったのだと考えます。
望んだ結果を得ることだけではなく「得られなかった」体験をする。
この部分、大変貴重であると知る必要があるのではないでしょうか。
学校の試験で、常に100点だけしか取れないとしたら?
いかがでしょう?
とても退屈ではありませんか。
何をやっても、何度受けても、必ず100点満点。
期待値を実現したことには違いありません。けれども「期待値を得られない」体験は、その時点で永遠にできないのです。
(自慢する意図は皆無です、初めにそうお断りした上で続けます。過去、そうした時期があり自分自身が体験していました。非常に退屈なのです。100点以外が取れないので「それ以外の結果を得る」という体験ができなかったわけです。)
そして、ここで氣がつきます。
期待値を間違いなく得る・実現するといった、望んだ結果を導くことだけが成功の証だと考えてきた、そのこと自体が「片方だけの体験」しかできていなかったことに。もっと言えば、これこそが支配者の仕組んだ洗脳の一部であったことも。
(そのためには努力しなければならない。苦しみがあるから成功できるんだ、などと貨幣資産を築き上げることだけに血眼になる、いまだにその呪縛から逃れられない方々も多数…。いつか理解できる日が訪れますように。)
この地は、成功も失敗も両方セットで体験するための場所。
十干十二支が一巡りする長い期間を費やして、ようやくここに至ることができたと感じています。
もともと失敗なんて存在していないのです。
そこには体験があるだけです。
素晴らしい体という衣をお借りし、
素晴らしい体験をさせていただき、
素晴らしい氣づきに至ることができた、この現実に感謝しかありません。
これ以上に、何を引き寄せる必要がありましょうか。
これ以上に、何を望む必要がありましょうか。
ありがとうございます。
感謝申し上げます。
恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。
何を見て何を感じますか

よい空気に触れると、その感覚が心に響き渡ります。
心地よい感覚を抱き続けると、周囲の環境が心地よく変化してゆきます。
心に描くものが現実になる。
このようにして、わたしたちは学び、成長を重ねてきました。
発言・言葉に注意し責任を持つ。
口にする食べ物を意識し命を捧げてくれる生命に感謝する。
多くの体験をさせていただける借り物の体に感謝する。
そして、いま。
心に抱く感覚を、心に描く感情を、
最も注視し、その感覚を望む近未来の青写真として創り出してゆきます。
このサイクルをさらに拡大し続けます。
これほどまでに満ち足りて、これほどまでに恵まれていることに氣がつきます。
感謝の氣持ちが溢れます。
これほど嬉しいことはありません。
ありがとうございます。
すべての生き物・仲間とともに。
恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。
何ごとも目一杯に詰め込まない

目一杯に詰める。
それが良いことだと。
そのように無意識に感じてきたのかもしれません。
目一杯にスケジュールを埋める。
そうすることで安心する。
目一杯に時間を使い切る。
そうすることで充実感が感じられる。
果ては、
移動中の列車内で、スマホ片手に駅弁を口に掻き込む。まともに噛むことさえもせずに。
「俺は鉄の胃袋の持ち主さ!」と、豪語する人たち。平成初期のバブル期には、そうした人たちが溢れていました。
彼らの多くは、その後病院のベッドに横たわり、それを勲章にしてきました。
それを学びとして得たのであれば貴重な体験でした。
わたしも同じ過ちをトレースしたひとり。そして、あろうことか繰り返しました。
でも、いまも尚、同じことをずっと続け、
還暦過ぎたってさぁ。何を喰っても健康そのものさ!たとえ毒でもへっちゃらさ!と豪語する方々。
ええ、素晴らしいです。その恵みに感謝なさると尚よいかもしれませんね。
いつか氣がつく時がくるはず。と、暖かい心で見守ります。
同じだと思うのです。
目一杯に詰め込む。
余裕がないのは、何も胃袋だけではなく心の状態。です。
余白を作ってみると、そこには「新しいエネルギーが入って」きます。
そんな体験をしてみても良いのではないかな、と感じることが増えました。
捨てなければ入らないものがある。
でも、
それとともに、空白を作らなければ、その居場所がないのですね。
何ごとも目一杯に詰め込まないほうが良い結果が導かれる。
わたしは、失敗を繰り返したからこそ、その本当の意味を感じています。
その「隙間」に味わいがあると思いませんか。
詰め込まず。詰めすぎず。
恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。