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宮本章光/宮本陽の視点「開闢」And EM Official Blog

みやもとあきらのしてん AKIRA MIYAMOTO@And EM

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わたしは「直感で生きる」を地で通してきました

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直感で生きる。
さまざまな場面で、わたしはその言葉を記してきました。
文字のみならずラジオの音声でも何度も語ってきました。
そして嘘偽りなく、それを自ら人体実験してきました。

直感で生きるとは、直感を100パーセント信じること。
100パーセント信じる、とは、それ以外の「選択肢」は存在していません。

ところが、あぁ間違いだったのかもしれない…と感じる現実がやってきます。明らかにミスジャッジだった、とでも言うような結果がもたらされるのです。
ここで「やっぱり間違いだったんだ」と断定してしまうと、その後、間違いだと感じる現実を実現するための道へとルート変更してしまうのです。
心のナビが勝手にハンドルを切って自動運転されてしまう感覚でしょうか。

その瞬間に、間違いだったのかも?と思ったとしても「具現化に時間が必要な物質社会」に生存している以上、目先の結果に一喜一憂しないことです。
結局、遠回りをしながらも、望ましい結果が現実になってゆきます。
時間が要るのです。タイムラグがあることを忘れてはなりません。


大変重要なポイントは、
「やっぱり間違いだったんだ」と感じる心を一瞬でも持たないこと。
そして、
「遠回りしても必ず望ましい結果が手に入る」と、確信することです。

そのように頭で理解しておきながらも、ここで失敗する理由は、
1. そうは言っても、目の前には失敗とされる現実が広がっているし。と考え、
2. そうは言っても、そんな思考は単なる思慮不足で浮足立った人間だと思われるのが嫌だし。と感じ・考えるところに原因があります。

この2点目が、実は非常に大きな失敗原因になるのです。
ここ、赤線アンダーラインを二重線で引くところです。必ず試験に出ます^^。
---人の目を氣にする。
---人にどのように思われるかを意識する。

2023年春。
もう、この場でご縁の繋がる皆さまには釈迦に説法ですね。
100パーセント信頼していたはずの自分自身の直感が、人目にどのように映るのかが判断基準として置き換えられてしまいました。

人目など、どうでもいいのです。
人の判断など、自分には関係ないのです。
そして、
正しいか・誤りか、これも関係がありません。
間違いなのか。そうでないのか、どうでも良いわけです。
いつまでも、その論説は誤りだ。だとか、正統派はこうだ。真理はこうだ。歴史はこう学んできたからこれが正しいんだ。と。

はい、それをそのように思うのであれば、それがご自身の現実になります。
ご自身が強く確信するものがご自身の現実として、ご自身が創造してゆくからです。
だからこそ、自分が正しいと思えばそれが正解であり、正しいも正しくないも、どうでも良いのです。


最も大切なこと。それは、
結果は「自分が失敗だと感じ判断しない限り失敗とはなり得ない。」ということ。

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もともと失敗なんて存在していないのです。
そこには体験があるだけです。
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この極めて重要な点を理解していれば、
失敗という観点が消滅、といいますか、存在していませんので、先ほどの心の自動運転が「成功」にしか向かわなくなります。
そして、
貴重な体験を積むことができた現実に、感謝の氣持ちしか生まれてこなくなります。


直感をより満足度の高い結果に向かうよう磨いてゆくことも怠ってはならないでしょう。そのためには、「口にする言葉・口にする食べ物」この二つを忘れてはなりません。
いつまでジャンクフードを食べ続け、いつまでSNSに流し、そしていつまで「人目を意識して」いいね!やスキを集めることを続けますか。
あるいは、
いつまで、それは間違いだ!それはこうだ!と言い続けますか。

そこには「体験」があるのみ。
大切な体をお借りし、このうえない貴重な体験を積むことができた現実に、感謝の氣持ちが溢れ出てきます。
本当にありがとうございます。

恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

恵まれています・満ち足りています

2023年のさくら photo 宮本章光

標題のようなワードを並べますと「横目で見るクセ」が抜けきらない。自分自身にそうした癖が、まだ残っていることを感じます。

その裏側には、
伝えたい意識とは反対に「否定的」感覚で捉える人がいるに違いない。
伝えたい意識と裏腹に「浮ついた」者と思われると嫌だ。
こんな感覚が映し出されているのだと氣がつきます。

でも、
それも、もうどうでもよいレベルまで小さくなりました。

取るに足りない、どうでもよいこと。
その昔に比べると、意識の外に置くことは難なく実現するようになりました。
そして、
執着する考え・意識そのものが消滅したように感じます。


昨日の記事【ゆるりと生きる】にて触れていましたように、
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この感覚。
いつか来た道。
幼少の頃に味わったはずです。
わたし自身いつも思い出すのが、おそらく一歳前後の「お座り」ができた時期の感覚だと感じています。
ゆるりと生きる:2023.03.27
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その幼少の時期に、
単に「おすわり」をしているだけで、満ち足りていたこと。
単に「おすわり」しているだけで、十分に恵まれていたことに理解が及びます。

その後、成長とともに言葉を学び、知識を得て、さまざまな体験を積む。
それが目的だったのですから否定はしません。けれども、そのプロセスを重ねるうちに、どんどん思考が巨大化し、本来の姿を忘れてしまいました。

だからこそ、
当時の肌感覚を思い出し、もう一度同じ感覚に戻るために、この言葉を記します。
「恵まれています・満ち足りています」と。

その言霊が持つエネルギーと響きとが、渦を巻いてさらに強固な現実になります。
数えきれない素晴らしい体験をさせていただきありがとうございます。

恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

ゆるりと生きる

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多くを語る必要性が消えつつあります。
多くの言葉を綴る必要性を感じなくなってきました。

人目を氣にする必要がなくなりました。
人の言動に左右されることが皆無になりました。


この感覚。
いつか来た道。
幼少の頃に味わったはずです。

わたし自身いつも思い出すのが、おそらく一歳前後の「お座り」ができた時期の感覚だと感じています。

少し暑い感覚で、ちょっと丸みを帯びた独特なフォルムを持つ、ベージュ色をした古い扇風機がカラカラと周期的に音を立てゆっくりと回りながら首を振っている。
その横で、乳幼児用布団の上に、ちょこんと座っている風景。
そこでは、
わたしは、何もしていませんし、何も考えていません。
ただ、その場の空気を吸い、その場の音を聞きいているだけ。

この感覚に近づいてきていること。
この感覚を思い出していること。
間違いありません。同じ感覚です。

何も考えていない瞬間。
何も雑念が存在していない空間。

ああ、これがわたし自身だったのだと。
それから十干十二支ひと巡り。
数えきれない体験をさせていただくことができました。
貴重な学びに感謝申し上げます。ありがとうございます。

これからは、ゆるりと生きてゆきたいと感じています。

恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

疲れたら休んでゆきな

Iitate2020_img_0121p.jpg

疲れたら休む。
疲れたら元氣のもとを補給する。

それは、今までの社会では、飲み物かもしれませんし、食べ物だったかもしれません。
でもこれからは、
チャージする「元氣のもと」は、目に見えないエネルギーに違いありません。

物質社会に永く長く、そして固く硬く、固まり切ったのは、この借り物の体だけではなく、意識そのものまでも固着してしまったのでした。


エネルギーをチャージする。
そのお手伝いをしてくれるのは、このとてつもなく大きな、そして暖かい振幅のパワーを放つ植物たちです。

広大な沼地に限りなく広がる原生水芭蕉。
これほどの規模の原生地にはお目にかかったことがありません。
ここには、背筋が震えるほどのパワーが存在していたのです。

バッテリー残量が「僅か2%」とでもいうような感覚に陥っても、このエネルギーをもって急速充電すれば、50%ほどまでは一氣に回復できるように感じます。


「疲れたら休んでゆきな」
「はい、お言葉に甘えます。」
ありがとうございます。

恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。
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