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宮本章光/宮本陽の視点「開闢」And EM Official Blog

みやもとあきらのしてん AKIRA MIYAMOTO@And EM

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何の心配もいらない

飯舘の冬を感じる photo 宮本章光

足跡。
丸い形は動物のものでしょうか。
人間は靴底の模様がそのまま残ります。


人が心に描いたもの、意識したもの。発言したこと・行動したこと。
それらも足跡のように、目に見えないところに、すべてが残されているといいます。

わたしたちは、唯物主義の時代を長く生きてきたためでしょう、まず頭ごなしに否定から入るのです。
「君はその世界を見たのか!」
「目に見えない世界など科学的に証明されていないやろーが!」

もういい。
沢山です。
だから、これからはそういった心の世界を学んで行きましょう。ということなのです。

何か「入力」されると、まず否定から「出力」する。
そんな思考回路。
スマホの録音機能でさえ、人が聞きたいとされる音だけをある程度ノイズと分離して記録できるものですが、人の思考は「わざわざ存在していないかったノイズを作ってまで記録しそれを再生する」そんな回路になっているようです。
そして、
その回路を設計し実装しているのは、あなた自身。


忙しすぎる...。
バタバタして何もできない...。

そうでしょうか。
「心を亡くす=忙しい」ように仕向けているのは自分自身でしょう。
手のひらにケイタイが貼り付けられているかのような生活を送った人間には分かります。
まさに息もできない。寝る時間さえも存在しない。その言葉そのものを体験をしたなら。

離れればよいのです。
間違った道を乗り換えることです。
極限状態に置かれた上で確かな導きがあれば、強制終了の道が作られます。
しかし、
その「極限状態」ではないのなら、「あなたにはまだまだ学ぶべき課題が残されていますよ」ということでもあります。

その学びとは、
思いっきりポンコツな入出力:I/O設計・設定を見直し、正しく運用するよう修正しなさいということでしょう。
そして、
そのためには「心から生み出す仕組み」を知り、その「心」が正常に機能するよう、借り物の体をメンテしなさい。と教えてくれているのだと。
だから「口にするもの二つ(食べ物と発する言葉)」を、最も重視しましょう。と。

ここまでのことさえも実行せずして、
現状から離れられない。カネのため・生きるため。と言い訳をするのは恥ずかしさの極みかと。
その割には、毒を喰い体を痛めつけ、忙しい忙しい...といいながらSNSに投稿する...。
ご先祖がご覧になったら、間違いなく「ア○か!」と叫ぶでしょう。


正しく設計・設定し運用すれば、その心のセンサーは「導き」を間違いなく受け取ります。
そして、汚れた心の居場所をクリーンにすればするほど「何の心配もいらない」との言葉が降りてきます。
仮にその言葉を信用できないのなら、
あなたの魂は、そのレベルに相応しくない幼稚な段階だという証明でもありましょう。

嗚呼、御霊(身霊)相応とはまさにこのことなり。
何の心配もいらない。
わたしのご先祖はいつもそう送ってくれているように感じます。

ありがとうございます。



片側に集中するほど他方も激化する

日暮れを見送る photo 宮本章光

重すぎるテーマはもう満腹でしょう。
しかし、
わたしたちはみな、いつまでも重すぎる課題を自分から増やすばかりです。
そして「もう持てない!もうやめてくれ!」と叫び続ける。
自分から「"苦"というタグがついた」荷物を増やすばかりのベクトルを真逆にして楽になればよいだけのことなのですが。


平和を祈る。
そういったエネルギーを抱けば抱くほど、その対極の負の事象が増大し続けます。

幼稚園児の時代に、シーソーで遊んだことがありますでしょう。
片側が重いので、反対側に誰か一人が座ってみます。
すると今度は反対側が沈んでしまいます。
仕方ないので、またこちら側に一人座ります...。

シーソーの場合は、物理的に座ることができるスペースが限られているので、無限に人を追加することはできません。しかし稀に、体重の重い軽いの差が大きな児童によって「バランスが取れる瞬間」があったりします。
あるいは、
後に座る場所がないために、中心(支点)に近い場所に座ったりしますと、またまたバランスが取れたりするのです。
その微妙な動き・発生するバランスを楽しんだ幼稚園時代でした。

この「たまたま」の出来事に頼っている限り、そこから学ぶ進化・進歩の速度は極めて遅いだろうと思われます。
ここは、シーソーバランスの仕組みを論理的に教えてもらえる大人の存在があれば、一氣にバランスが取れるのかもしれません。
ところが、
その「原理原則たるタネ明かし的な教え」をいきなり受け取ると、シーソー遊びから学ぶプロセスが省略されてしまいます。


わたしたちは「自分で経験し自分で味わってはじめて」すべてを学ぶのだと言われます。
バランスを取ること。それは目的のように見えて、実は「教科書や教材の最後に綴じてある解答編」にしか過ぎなかったこと。
ここを知ることです。

だまって人目を盗んで、解答を書き写す。
結果は100点満点。そりゃそうでしょう。答えを丸写ししたのですから。
けれど、
ひねりを加えた別の問題に当たると、答えを導くプロセスが分かりません。今度は0点です。
いま、多くの人たちがこのワナにはまっているように見えます。
言葉づらだけでは、愛だ光だ、ワンネスだ無こそ悟りだ。と騒ぎ立て踊ります。けれど0点。

それなら、キミは理解して行動してるんかい!
と、立腹するなら、今度はマイナス1000点。そういう仕組み。
御霊(身霊)相応とはこういうことなのだと思い知ります。すべてはお見通し、取り繕いや化けの皮は瞬時に剥がれ落ちます。
先人は、これを「お天道様はいつも見ている」と言葉に込めたものです。


いま、この大転換機で大切なこと。
それは、
「正しいとされる答を丸写しする」ことではないはずです。
100点満点、えらいね。すごいね。とアタマ撫で撫でしてもらうことではないでしょう。
答えを導くための経験をすることだと思うのです。
それなのに「答はああだこうだ」と、うわべの事柄だけに一喜一憂し、教え導く言葉が備える本来の意味さえも取り違えて騒ぎ踊り続けます。

この地のエネルギーは必ず「対(つい)」でしか存在できないのですから、片側(それは、平和だけを祈り争いよ消えろ!と叫ぶ行為にみられるような。)に偏った思いを描く限り、その反対側も永遠に増大し続けるのです。
だからこそ、
「なぜそうしたエネルギーが生まれるのか」
「心に描くものが現実として生じてくる仕組み」
これらを知り、いつまでも旧い発想に浸って悦に入る、そんなぬるま湯から飛び出すことです。
これこそが「成長」であり「進歩」であり、無限に拡大する進化の道筋だと。
わたしは、これを「自分の心の手綱(たずな)をコントロールする」ことだと、繰り返し記してきました。

そのためには、
モノだけ至上の世から卒業し、心を満たす・精神性の世界を充実させる。
ここにポイントがあるように感じます。

そして、これほどまでに美しい大自然のエネルギーから受け取るものがあるはずです。
日々一枚の画像に「感じる力」を込めて。
今日もありがとうございます。



多くの場合「違和感」こそが正しい

見上げた空からVサインを受け取る photo 宮本章光

そのまんまです。
違和感を感じるなら、その違和感が「何かを伝えて」くれたのだと認識する。
(違和感のその対象が正しいと言う意味ではありません・念のため)


忙しいと、その違和感さえもスルーしてしまいます。
心のセンサーが働かないからです。
だから「心が亡くなっている」と書いて、忙しいと読むのだと。

意図的に忙しくしなければ生きてゆけない社会構造を作り出し、心に感じるもの・コト、そのものを台無しにされてきました。
誰がそう仕向けたのか。そんな論議自体が、もはやどうでもよいフェーズに入っています。
くだらない思考に、取るに足りない論議こそが、上述の「心を亡くす」原因だから。
そして、その体験をするために、わたしたち自身が創り出した世の中だったのですから。


違和感は、多くの場合、自らの道を歩む上で必要な周波数とは異なる状態に「変化」していることを指し示しています。
道を外れていますよ。そちらの道ではありませんよ。と。
もちろん、
正しいとされる道であっても、激しく大きなノイズにより「ブレて」しまった場合にも、違和感として盛大に降りかかってきます。
その時点で、心のセンサーの許容値を超えているからでしょう。


違和感さえも「感じられないほどに」忙しくする。
いまだに「それが美徳」だと思ってしまうこと自体、深層心理レベルでこびりついている頑固なアカだと知ることです。

ランチを口に放り込む。片手にスマホ...。
車の運転をしながらパンを口に放り込む。片耳にイヤフォン...。
手帳やオンラインスケジュールは「真っ黒・分単位」で項目が並ぶ...。
テレビを見ながら食事を口に掻き込む...。
そんな姿。
カッコいいとでも思っているのでしょう。

はい、わたしも同じことをやりました。カッコいいとは思いませんでしたが。
やむに止まれず。です。
携帯の電源が無くなって切れない限り手から離せない。まるで瞬間接着剤で手のひらに貼り付けられているように。
そして食事はできず、果ては寝る時間も無くなって、あとは冷たい板の上に伏すだけです。
よく生きて戻れたものです。
先般39年ぶりに再会した友人は、精神科を体験してしまったようですが、でも彼もまたよく生還したものです。


ここまで自分がトレースしてしまったから書き記します。それを勲章にする低レベルな発想ではありません。
もう奴隷生活はやめることです。
ましてそれがカッコいいなどと思うなら、もう救いようがないと断言できるレベルでしょう。
棲み分けする必要がある現時点で、今後は同じ地で生きる存在ではありませんから。

食べ物として命を捧げてくれた存在に、なぜ感謝を捧げないのですか。
借り物として貸し出されている「体」を、どうして痛めつけ悦に入るのですか。

ええ、違和感を感じないからでしょう。
それは感じられないほどに「心が亡くなって」いるから。
まず、その感覚を取り戻してください。
そして、その誤った道を乗り換えてください。この地においてはもう間に合わないでしょうが、次の生ではすこしでもマシな生き方ができるかもしれませんし、激しいマイナスポイントは幾らかでも減るかもしれません。


違和感とは、進むべき道ではありません。と教えてくれていることを。
物質社会・貨幣経済という「カリ・ユガ」の時代はもう終わったのです。
違和感こそ、正しい。
(違和感のその対象が正しいと言う意味ではありません・再度重ねて)
もちろん、ものごとには何でも100パーセントはありませんが、しかしほぼ間違いなく。


見上げた空からVサインを受け取ります。
今日も素晴らしいエネルギーにシンクロいただける皆さま、ありがとうございます。



「変わり続ける」が標準仕様

冬の日差しを受けて photo 宮本章光

変わる。
それは違うと言われましたが、わたしは「変化し続ける」こそが標準仕様だと感じています。


--変わるのではなく無になる。
--そうでなければ永遠に変わり続けることになり答えが導き出せる状態に至らない。
--そうでなければ悟りに到達することはできない。

はい。その観点とその境地は理解できているつもりです。
しかし、
現時点では、その高い境地に到達する以前の状態であり、その低位を脱出するプロセスが必要だと考えます。
少なくとも「初級編・初等教育レベル」である以上、それらの段階から上を目指し階段を登り続ける。
その学びの行程を歩むことによって、より上位の意識に到達できるはずですから。
だから「変わる」必要があると考えます。無を語ることができるのは、そのあとです。


もうひとつ重要なファクターがあるように思われます。
それは、
何もかもごちゃ混ぜにしている状態では、そうした論点に達する以前の状態であり進化が叶わないことを。
そのためには、まずは「カテゴライズ」のようなプロセスを経る必要があるはずだと。

絵をお描きになる方は体感されているでしょう。
絵の具のパレットは、各色ごとに同じ色を保存する場所を決めているはずです。さもなければ「必要な色」を必要なタイミングで選択できないから。

この地は、遥か昔に「自然観察園」のような、あらゆる生命を共存させるテーマパーク的な場にしたかったのだと語られています。
ところが、その「ごちゃ混ぜの状態」では、いずれカオス化し滅亡に至ること。この期に至るまでに5度も6度も失敗が証明されたと伝えられています。
あらゆる存在が「共創し繁栄」する姿を狙ったはずなのに「競争し破滅」に向かう。
それが「ごちゃ混ぜ」にするという実験の行き着く先であると。


よって、もう6度目や7度目の失敗は繰り返すことはできない、とされます。
そのためには、
まず、棲み分けをする。

例えとして語られる言葉には「海のものと山のものは一緒に住むことはできない」という語りがあります。
水が必要な魚は山では生きることはできませんし、その逆も然り。
だからこそ、
今回の大転換期において、それぞれ相応の行き先へ「振り分けされて」いるとされます。
体をお返ししたあとは、自分が選択し自分が望んだ先へと。


こう言うと必ず返るワードがあります。
「君はその世界を見たことがあるのか」
「前世も来世も科学的に証明されていない」
「そんな戯言を語る者は頭と心を病んでいるのだから病院へ行け」と。

しかし、そろそろそうした旧社会・旧世界の洗脳から脱出する時間を迎えていることは確かでしょう。
前出のワードは、過去記事でも何度も何度も触れ、検証し、科学こそが洗脳だったことにも。
これも少し前に書きました。
「裸の王様になっている君、恥ずかしくないか。」と、上から叫んだ人自身が裸の王様であったこと。
さらには「ツボを買わされるなよ!」と、高いところから語っていた人自身が、後生大事にご自分が「科学という名のツボ」を両手で抱えた裸の王様だったことが白日にさらされている現在。
いまこそ、ごちゃ混ぜを卒業する機会だと感じます。

現在、わたしたちには「直感」という最強のツールが備わっていることに氣がつきはじめました。
且つ、自分が心に描くものが目の前の現実として顕現化してゆく仕組みにまで理解は到達しました。

であるならば、この先は自ずと見えてくるでしょう。
望むものを創り出す。
そのためには、必要な道を都度選択し続ける。元々存在していないのですから創り上げる。
間違っても、他人が作った道を見て「荒れてるぞ」だとか「曲がりくねりすぎやろ」などと、そこにフォーカスしないことです。


これが、取りも直さず「変わり続ける」ことではないのかと。
「変わり続ける」が標準仕様。進化と成長、拡大のために。
「種」の段階で無を語ってみても、芽さえ出ずに腐ってしまうだけです。
無からは何も生じない以上、そこに進化も進歩も生まれません。

わたしはそのように考えますし、今生、勘と直感を選択しなかった場合には大失敗を重ねたことが、逆説的に人体実験の結果として証明されてきたように思います。

本日も共鳴・共創できるエネルギーをありがとうございます。



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