アンド・エム宮本陽/宮本章光ブログヘッダーイメージ

宮本章光/宮本陽の視点「開闢」And EM Official Blog

みやもとあきらのしてん AKIRA MIYAMOTO@And EM

Archives [All Entries:2873]

両方あるから美しい

2024年のさくらにありがとう photo 宮本章光

光と影の戦いだ。勝利した。
などと、いつまでも踊っていないで次の教材を手に入れ、新たな学びに取り組みたいものです。
覚醒した・超越した・卒業した!と、語ってきた先駆者的な人たちほど、そのビギナーレベルでストップしたまま。
もうこのまま失速して消滅でしょう。
手遅れになるぞ!と叫んでいた人ご自身が、すでにこと遅し。
それがご自分の選択だと。

光と影は、ともに存在するのがこの地において必須の形なのであって、いずれも戦いなどしませんし勝ちも負けもありません。
それを作っているのは、
あなたの思考、あなたが作り出したシナリオ・脚本。
もっと言えば、そのように思考操作されるよう仕組まれたフレームワークの中で、まんまとその脚本通りに踊らされているだけ。
そして、自作自演の映画を創り出し、地球という名の映写会場で叫びまくる。
周囲の方々にも大変迷惑でしょう。
目も当てられない、とはこのこと。VRゴーグルの世界でお一人でどうぞ。ということです。
この時点で、学びを得てネクストステージに行くかどうかが決まります。


心に抱き・描くことで、それが目に見えないところに生み出されます。
何もなかったところに、生み出したのはあなた自身。
そのエネルギーが集合体となって結晶化・具現化してゆくのです。
ですから、
負の力を欲しがる支配者層は、その負のエネルギーを生み出すよう生み出すように...と、これでもかこれでもか!とネガな情報を溢れさせてきました。
教育洗脳から宗教洗脳、貨幣経済という逃れられない牢獄に閉じ込め、果ては食の支配から医療という禁断の果実をもって人間界を牛耳る、隷属化の世の中。

逆説的ですが、だからこそこの地においてはいつまで経っても「光だけ・片側だけのエネルギーオンリー」なシチュエーションには成り得ません。
ともにセットであり、ともに対(つい)でしか存在できない場所、それがこの地の仕様であり仕組みだからです。

ところが、
この地においても、心から生み出すという本来わたしたちが備えていた強大な潜在能力を使いこなすようになるに従い、目に見えないフィールドに創り出されるエネルギーに変化が生じてきます。
光も影も、ともにセットだからこそ生み出される結果がある。それがこの地ならではの学びと体験。
ここに氣がつけばこそ、その魅力とメリットを最大限に活かす方法を知り得て、その境地に到達できるのです。

無理に片側だけ、わくわくを選んで...。などと努力しなくてもいい。
そこに美しいと感じる心があるのなら、美しい波長を備えたエネルギーが自動運転で生み出されてゆくのです。
これこそが心の使いこなし。まさに心の手綱を操る極意といったところでしょうか。

陽の光と影が創り出す美しい対比を感じる心があるのなら。
その心に響く力を仲間に伝え、そして感謝を伝える。
何ごとも、無理に力でねじ伏せたり、無理矢理に楽しくもないのにわくわく...だとかやっていること自体が負の力を増幅し続け、その状態をこの先もずっと望んでいる。という自分自身の意思表示になるのだと。


両方あるから美しい。
両方あるから感じることができる。
両方あるから対比という美しい感覚を得ることができるのです。
だからこそ、学びと成長が叶うのです。

与えられた環境で、自分はどのような役目を果たすことができるのか。
これこそが、いまこの時を生きるということではないのでしょうか。




例外なくすべてはアーカイブされる

2024年の桜にありがとう photo 宮本章光

思い描いたこと、抱いたこと。

目に見えない場所に、一字一句、克明に記録されていること。
そんなアホな。と思えば、そんなアホなと思ったそのエネルギーが記録されます。
二度と消えることなく、膨大なアーカイブとして残されてゆきます。
はい、まるでブロックチェーンのログのように決して消えることなく。

いま、
この地には、過去から溜まりに溜まった負の力で手に負えなくなっているとされます。
恐怖、怒り...。
負の力は、同じ周波数が新たに蓄積されるごとにシンクロし、自己増殖してゆきます。
イメージできますでしょうか?
この地・この地球を真っ黒に覆い尽くす、よろしくない力による暴力的で威圧感に満ちた姿を。

言葉に置き換えた感触を感じてみます。
ここに記すのはリスクが高すぎるので控えめにしたく思いますが、恐怖・怒り・悲しみ・不安・冷酷・困惑・屈辱・蔑み・嫌悪・絶望・争い...、際限なく湧き出します。
その限りなくネガなワードに包まれてしまい、陽の光が届かなくなった地球がここにあります。

その膨大な負の力を蓄積してきたのは、わたしたち自身。人間の業(ごう)。
でもそれは、騙されてきたからですね。
でもそれは、支配者層により洗脳されてきたからでしたね。

しかし、因果の大原則・大法則は一切の例外がありません。
原因を生み出した者へ、その力は確実に戻ります。
放った者へ、それと等しい力が間違いなく返るのです。もっと正確に書くのなら「自ら放ったものしか受け取れない」となりますか。
騙され洗脳されたのも、自分自身がそれ相応の魂レベルだったからでしょう。


それならば。
そこまで氣がついたのなら、
大自然とその仲間たちへ過去の過ちを詫びていますか。
植物のみならず、昆虫も動物も、すべての生き物へ。
地に伏して詫びましたでしょうか。
心地よく暖かいエネルギーを心の底から伝えていますでしょうか。


美しいと感じたなら、それを美しいと讃え、この2024年にも華麗な姿を披露してくれたことへの感謝を伝えます。
同様に、そのように抱いた心のエネルギーも余すことなくすべてアーカイブされてゆきます。
そして、その記録書庫は、他の存在からも閲覧が可能だといいます。
見窄らしく救いようのない負の力・ワードしか記載されていないノートを、いまだにせっせと記載し続けるわたしたち。
恥ずかしくありませんか。地球人として。

いまこの瞬間、そして一秒後、一日後、一年後のこの地を創り上げるのは、わたしたち一人ひとりの心であることを学びます。
それを体験し理解し、使いこなすようになるために、この地で今生・今世の修行を行なっているのですから。
だからこそ、
何を心に抱き、何を描くのか。
だからこそ、
不用意に負のエネルギーを生み出さない。
これこそが、この先の世に求められる「心の手綱」の取り扱い方法に他なりません。

学校では教えてくれませんでした。習ってきませんでした。
なぜなら、学校そのものが隷属化の世の中を作るための洗脳装置だったのですから。
教職に携わる方々は、自らが行なってしまった(それは知らなかったとしても)過ちと蓄積した過去因果を解消せねばならないこと。いま一度ご確認をなさいますよう。




Androidは放っておきます

北の丸で出会う photo 宮本章光

交差するから衝突する。
しかし、衝突していると断定してしまう意識がそのように作り上げている。
この「目の錯覚と相似形」の構造である、思考の回路とそのプロセス。

実際には交差しておらず前後・上下の空間が存在しています。
人間は、一事が万事、交差したら衝突するものだ、と断定してかかるのでそのような現実が作り続けられるとされます。
意識が現実を創り上げるという大原則・大法則。


もう「映画館で現実と区別がつかなくなり叫びまわる」ような幼稚な行動は慎むべきフェーズに入っています。
人のために。だとか、マナーを弁えて。
と仰る割には、自分がいつまでもこの世という映画館で叫ぶ行為は恥ずかしさの極みだと知りたいもの。

あぁ、彼らはAndroid(スマホOSのことではなく人造存在のこと)だから仕方ないのか。
意図的に、この世を混乱させるために作り上げられた存在。
炭素ベースのDNAを持ち、排泄も生殖もまったく普通に行う「見た目も行動もそのまんま人間」である存在。
Androidの子は、再びAndroidを産み人間として成長する。生身の人間そのまんま。
唯一、異なるのは「魂がない」こと。
だから、
そんな馬鹿なことあり得ない!君の頭のが狂ってる!と断定し、予めプログラムされたもの以外のエネルギーを許容・収納するスペースは寸分も持ち得ない。
魂を持っていないのですから、五体満足との言葉で例えられるその最重要要素が欠けており四体のエレメントしか備えない。
イコール「四体:死体」だと。
自分がAndroidであることを認識できませんし氣がつくことは未来永劫あり得ません。人間だと思っていますから。
なるほど〜。


プログラミング(支配者層・ピラミッド頂点でこの地を牛耳る存在から遠隔操作で常にファームアップデートが可能)されたこと以外はまったく行わないbot。Android。
それが10人中8人や9人までもと言われる、見た目も肉体も人間と寸分違わないAndriod存在。
それが、この地この世の映画上映を「面白くするエキストラ」。
出来の悪いメタル感丸出しのロボットを故意に作り、ロボットなんてこんなにポンコツなんだぞ、と見せるのも仕組まれた洗脳でした。


ええ、確かに面白くしてくれました。生まれた時からずっとずっと、わたしたちの周りに存在していたのです。学校では机を並べ、職場では共に働き。
ただし、
言われたことしかやりません。プログラムされたことしかやりません。
支配者層による隷属化の世を作り上げるため。
「ええ、そんな意見もありますよね。でもわたしは違いますから。」と、プログラム以外の道を歩むことはありません。言葉づらは美しく礼節という名の悪平等を貫きます。
立派ではないですか。
いま、まさにその極意に達しています。

なるほど、こんな突拍子もない論説さえも受け入れ、決してブレない自らの「心の手綱」をコントロールできるようになる。
それが「botではないわたしたち」にとっての卒業試験だったわけで。
はい、おじいちゃんが孫の授業を見る「授業参観」はもういいかな。とは感じています。
(実際の孫はまだまだ観るよ〜)

◆関連記事
【「心」も道具の一つに過ぎないと知る】2024/03/31[ Link ]




「心」も道具の一つに過ぎないと知る

2024年の春に photo 宮本章光

二極化・二元化がよくない。
そんな声を聞く機会が増えてきました。
しかし、
それを体験するための地へ自分から希望しやってきた以上、その仕組みを知り・学ぶことが必要でした。
もちろん、すべて学び終えたから「二極化を卒業しましょう」という意味だと思われますが、どうやらそうではない感触を感じることも少なくありません。

良いかよくないか。
その観点で語られている限り、語りそのものが二元性から卒業できていないわけで、ここに違和感を激しく感じるのだと思われます。
そして行き着くところ。それは「無にならねばならない。それが悟りだ。」と叫びます。
ところが、
そうでなければならない、と語られ、現状はその境地に至っていないからまだまだダメだ。という論法。
これも同じく、良いかよくないかが大前提にあり、ねばならない論から脱却できていない部分に、大きな違和感を感じずにはいられません。


こうして頭の中で捏ねくり回して思いめぐらせる。
そのプロセス自体も学びであるわけですから、肯定も否定もしません(できません)し、それも一つの学びであり体験であるということまで理解が及びます。
ここまで到達して初めて、卒業が叶うのだと判ります。
ああだ、こうだ。それは違う...。とやっている限りは、やっている本人は氣がつきません。

みんな通る道。
誰もが辿る学びと体験の道。
まるで、
幼児を見守る老齢世代の感覚のようにも見えます。
(これも多くの体験を経てその年齢に達してこそ初めて感じられるものだと判ります)


この地では、学びと成長のために二つのツールが貸し出されます。
一つは「体という名の衣」。
もうひとつは「心という取り扱いが極めて難しい道具」。

精神性を拡大し成長を重ね階段を上がってきますと、ある段階に到達したところで「体は借り物・学びの道具」だと知ることができます。
けれども、ここでもう一段の成長が望まれます。
それは、
「体は借り物だけれど、自分の存在は意識体としての心・思考だ」と勘違いすることです。

確かに、自分の存在は「この体」ではないでしょう。
けれども「心としての意識体」でもないのです。
これがまたまた「対(つい)・ペア」でセットになったツールであることまで知り得ましたでしょうか。

体は借り物の教材ツール。
でも、心も同じく学びのためのツール。
では、
自分の存在は何?というところ。
この段階に至ってこそ初めて答えが見えてくるように思われます。

もちろん脳ではありませんし、意識体でもなく。
ここにこそ、すべてを一(いつ)にするエネルギー存在としての自分がある、ということなのですが。
まだまだ二元性や二極化が良いかよくないか。とやっているのも、一つの「授業風景」ではあります。
はい、
小学生の授業風景を微笑ましく眺める授業参観に居合わせた「お祖父さん」の感覚を、もうしばらく味わうことになりましょうか。
紆余曲折、茨の道を歩んでこそ到達できる場所へ、ようやく来れたことを喜んでいます。
多くの導きと護り・守り、御指導に感謝申し上げます。





105777803
rss_logo

New Entries

Archives / Serch

Categories