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宮本章光/宮本陽の視点「開闢」And EM Official Blog

みやもとあきらのしてん AKIRA MIYAMOTO@And EM

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嵐があるから陽が暖かい

コントラストがあるから魅力が引き立つ photo 宮本章光

コントラストが大きいほど、その片側の体験は劇的に大きく感動的になります。
それが、この地での目的と存在理由とされます。

嵐のあとには、暖かくまぶしい陽の光を臨む。
二極化はダメだとか、変化を続けていては悟りの境地に達することはできぬ。だとかいったような(それが誤りだと言うのではありません。大正解ではあるのです。が、)片側だけにフタをすることなく、ともに尊重しともに受け入れる。
ここをすっ飛ばして究極の理想点だけを語るのはどうなの?ということなのです。

その大きな差を乗り越えるからこそ感動がもたらされる。という仕組み。
これが学びと体験。

片方の存在を味わう。そしてもう片方も等しく体験する。
学びの途中の工程では、どちらも経験を積む必要がありましょう。
小学校の教科書も満足に終えていない小学生が、因数分解だ・連立方程式の解はこうだ・哲学思想ではこうでなければならない!
などと叫ぶのは、滑稽であり、むしろ恥ずかしい姿にさえ見えます。
ええ、実際の小学生ならば、かわいいものですが。


分離ダメ・ネガはダメ。と、初等教育過程を学ぶ前から片方だけにフタをする、頭でっかちな論説が幅を利かせていたフェーズが、ようやく収斂してきたようです。
このようにして、個々人の精神性拡大と成熟が進むことにより、集合体としてのエネルギーも進化を遂げます。
このプロセスを経て初めて、そしてようやく、
その集合体としての力が顕現化し、目の前の風景となってゆく。
それがこの地の仕組み。

嵐があるから陽が暖かい。
多くの仲間へ、美しい姿を披露いただきありがとうと感謝の心を伝えます。
それは、決して浮ついた姿勢などではなく、学び終えたからこそ至る境地であること。
さまざまな痛みや負の力を経験してきたからこそ、到達できる境地。

これこそが「一(いつ)であり無であり、感謝に溢れる」これからの世に求められる姿であることを知り得ます。
何ごとも順序があり、経験と学びがなくては成長が期待できないこと。
この地において、その体験をさせていただいたことに深く感謝を伝えます。




美しいと感じたのなら美しいと伝える

美しいと伝える photo 宮本章光

そこにひっそりと佇む。
過剰に自己アピールすることなく。しかし可憐に、そして華麗にその姿を披露します。


美しいと感じたのなら、
美しいと伝える。
美しさを受け取ったのなら、
美しいと心から言霊に託して伝える。

それが、これから先の世の生き方。
それが、この先に求められる心の使いこなし。

ノイズに溢れるこの地で、ノイズに飲み込まれそうになったなら、
美しい仲間からメッセージを受け取ります。
受け取ったのなら、
暖かく穏やかな心で御礼の言葉を贈ります。




見極めねば先へは進めない

木々の隙間から photo 宮本章光

自動車運転免許を取得するために自動車教習所へ通った方には容易に理解できるでしょう。
各ステップ2〜8教習でしたか(記憶の彼方で不鮮明...)ごとに、次の段階へ上がるための「見極め」の試験がありました。
それぞれの知識と技能が規定レベルに達していなければ、再度の学びのために補習が必要とされたこと、記憶にあるはずです。

同じように、
わたしたちの存在理由と目的は、この体でもなく、また心でも意識でもなく、魂というエネルギー体そのものの「成長と学び」であると理解ができた人が増えてきた感覚があります。

ところが、そこまで「頭で理解しただけ」では次の段階へは進めない、とされます。
この頭で理解しただけ、というのが大変くせ者で、その前に「自分の存在は心である」と誤って認識していることがその原因にあろうかと。

体は借り物。ここまでは到達できた方が多いように見えます。
(このレベルにさえ到達していない方々はもう同じ道を歩むことはありません・あるいは先般の記事のようにこの地の人間とされている存在の大半はAndroid/bot なのでお呼びではない)
しかし、では何なの?というところ。
心で感じ、直感を大切に。と、語るひとたち。
自分もその道を通ってきました。と言いますか、今世今生、すべて直感にしたがって生きてきた証人がここに居ります。
けれども、
自分の存在は、心でもなければ直感というエネルギーを感じる存在でもない。という地点に至るまでは、再び試行錯誤を重ねることになりましょうか。


「心」はセンサー・道具にすぎない。
体という物質体とセットで貸与されている、目に見えない側のもう一つのツール。
すでては両輪で、すべては対(つい)である。それがこの地のお約束。

この仕組みを見極めなければ、卒業検定はおろか修了検定の資格さえ与えられないのだと。
よって、各段階の検定をクリアするには、
まず「体は借り物だ・自分の存在とはこの心なんだ」という誤った認識を撤回することが、まずスタートでしょう。
そして、
「戦争反対」だとか「負の力を選ばないことが大切ですよ」「幸せになるためにお金を引き寄せましょう」といった、片側だけに「フタをして見て見ぬふり」をしたり、隷属化の道具を崇拝するのも、第一段階(あるいはそれ以前)レベルだったと知ることが必要ではないかなと。

第二段階まで終えると、路上教習になったのではないでしょうか。
ところが、
ここでも「すべて教室で習ったことしか起きないと勝手に仮定しない」ことが大切です。
突然の飛び出しもあるかもしれません。危険を予測しないで進んでまいますと、横の教官に強制的に激しくブレーキを踏まれます。
これは、まさに、
「闇ではなく光を選んでわくわく過ごしましょう」などといった、その道のビジネスの落とし穴に捕まらないことも大切ではないかなという部分に酷似しています。

勝手に片側をフタをせず、すべてを認め受け入れる。当然両方ともに尊重する。その真意をしっかりと理解する。
その先に答えが待ち構えているのです。
なぜなら、
シーソーは片側だけに乗っかっても動かないから。動かないとは、すなわち「変化できない」こと。

最後に、卒業検定で突然強制ブレーキを踏まれ、あろうことか卒検やり直しなどという稀有な生徒が出来上がります。
変化などしていては、いつまでも永遠に悟りには達しない。
と、やってしまいますと、卒検「中止」。強制終了です。
この地もあの世も、すべての宇宙も。標準仕様は「変化し続ける」変わりつづけ、学び成長を続ける。
これがデフォルトなのですから。

はい、実際に卒検中止をやったわたしです。
それまでの各段階を、すべて補習なくストレートに上がってきたので「教習所として儲からない生徒」は、最後で落としてやれ。となった可能性を感じた、40年ほど前の出来事でした。

見極める。
それは、頭の中だけで知ったつもりになることではない。やはりこの地では痛い目にも遭わなければ学べない。だが、痛い目に遭ったのなら、しっかりとそれを糧として成長しなければ。と再認識すべき段階を迎えているように思われます。







「氣」とはそこに合わせるからこそ感じられる

鳥の囀り花の輝き山の氣を受け取る photo 宮本章光

目に見えないものを信じない。
そんな唯物主義を貫き通し、これまでの物質社会を継続体験したい方には無縁の感覚に違いありません。

氣とは、
目に見えない特定の波長を持った何らかの力。
そこに合わせて行けばこそ、その力に響き合います。


人の話し声など要りません。
周囲10メートル四方に響き渡るような大きな声で、取るに足りないくだらない世間話をする。
それも人それぞれ、自由ではあります。
けれども、
そのノイズが自動的に耳に入ってしまう者も周囲には居る場合があるわけで、もうこうした自己顕示欲の塊のような行動は慎みたいものだ、と感じます。

自分はこんなにすごいだぞ。
自分はこれほどまでに「よい子ちゃん」なんだぞ。
そんなアピールは終えたいもの。
もう沢山です。満腹を通り越して嘔吐してしまいます。

しかし、
そんな波長を自分が選択したから見えてしまう。そういう仕組みを再認識する瞬間でもあります。
自分の周波数が思いっきり低下しているからこそ、そこにシンクロする。
その場を去る以外、その波長から焦点を外す方法はないことを、身を持って感じます。


何のノイズに影響されることなく、一途にその美しさを披露する仲間たち。
美しい存在には、美しいと讃える。
素晴らしい出立ちには、素晴らしいと礼を伝える。
ここにチャネルを切り替えた瞬間に、ノイズから離れる望みが叶います。

氣とは、そこにある特定波長に合わせるからこそ、その力にシンクロし響きあうことをいま一度確認します。
逆に言うのなら、
自ら能動的に合わせない限りは、どんな氣・エネルギーにもシンクロすることがありません。




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