アンド・エム宮本陽/宮本章光ブログヘッダーイメージ

宮本章光/宮本陽の視点「開闢」And EM Official Blog

みやもとあきらのしてん AKIRA MIYAMOTO@And EM

Archives [All Entries:2873]

何を選ぶのかは自由ではありますが

美しく語り合う photo 宮本章光

心を合わせたものに波長が合います。
同じように、
心に抱いたものが生み出されます。

視線を向けた先に波長が合います。
同じように、
視線を合わせた対象に響き合います。


わたしたちは、何にフォーカスするのかを自分で選ぶ権利があります。
しかしながら、無意識に「望まないものに心を向けさせられる」ことに麻痺しています。
そして、
麻痺している状態にさえ氣がつきません。

腐ったセンサーを復活させるには、
食べ物と発する言葉と、この二つの「口にするもの」を劇的に変えること。
もう大丈夫でしょうか。

いまだにジャンクフードを口にし、よくない言葉を口から発し、それを掲げて人目を引くような遊びはもうやめましょう。
それを続けるのは、続けたいという意思表示。
滅亡と崩壊が決定している旧いタイムラインで「居残り勉強」したいという宣言でもあります。


何を選ぶのかは、人それぞれ、ご自身の自由。

何を選びますか。
何に心を合わせてゆきますか。
心を合わせたものに波長は合い、シンクロし、その周波数に響くものがこの世に顕現化してゆきます。

世の建て直しとは、
人の心の入れ替え・大掃除でもあることに再度意識が届きます。
であるからこそ、
御霊を磨き、振動周波数を高め、精神性の拡大・成長と霊性の進化を掲げ、それを体現してゆきます。




誰でも初めはビギナーだった

華麗に光を放つフリージア photo 宮本章光

学ぶために生きています。
成長し進化するために日々存在しています。

それを、
変化している限り「無」にはなれない。永遠に高い境地には辿りつかない。
と、言葉面(づら)だけで語っていては、その語り自体がそもそも進化も成長をも齎しません。


誰でも初めはビギナーで、
誰でもビギナー体験を経て体得し、
そして、
階段を一つづつ上がってゆくはずです。

一段ごとにしか成長ができない。
それがこの地のみならずすべての根底に流れる仕組み。
そのためには、失敗を重ね、時には「この地でお借りしている体さえも失う」ことがあるでしょう。
それが、その人にとって必要だったから起きること。

九死に一生を得たのなら、
それは、まだ「このお借りしている体」を使って「この地」において学ぶべきことがありますよ。まだまだ役目がありますよ。というシグナルだと。

確かに、段階を経るごとに「無」に近づく感覚は理解できますし、それが正解なのだと肌感覚でわかります。
ところが、
その段階に至る前に、そのレベルに達する前から「変化は間違いだ」というのは、まさに「その進化をストップさせようとする悪意」さえも感じます。
なるほど、これも仕込みなのか!と。
見事な仕組みの世の中です。


誰でも最初はビギナー。
だからこそ、
一つづつ体験を積み上げてゆきます。
その必要があるから体験してゆきます。
それを変化と呼ぶのであって、それがこの世もあの世も大宇宙すべての大原則・大法則・摂理。

そして、
自ら心に抱き・描くものが自分自身の目の前の風景として顕現化する仕組み。
すべては仕組み。
それを知るところに至って、また、それを使いこなせる境地に達してこそ無を語ることができる存在なのだと感じています。
これを、
ある分野では悟りと呼び、またあるフィールドでは高次元意識と呼び、あるいは至高の愛と光の境地と呼ぶのだと。

言葉の上だけで遊ぶ。それも大いに結構でしょう。
しかし、自分自身が「そのレベル」に達していない限りは、永遠にビギナー。
ええ、それはよくないことではなく、ビギナーを楽しみたい、という自分の選択。

誰でも最初はビギナーでしょう。
その感覚をいつまでも味わい続けるのもその人の自由です。
そして、それに満足したのなら、次のステップへと登ります。それが成長・それが進化だと感じます。
御霊(身霊)相応。
これこそが、個々の固有の振動周波数であることに理解が届きます。
であるからこそ、
御霊を磨き、振動周波数を高め、精神性の拡大・成長と霊性の進化を掲げ、それを体現してゆきます。




認め受け入れるから成長する

夕日を見送る photo 宮本章光

未確認飛行物体か?
と、いつまでも、光の具合によって記録された画像を掲げて叫び踊るのはみっともない、と知りたいものです。
いい加減に大人になりませんか。

そもそも、太陽系x2,000億個で銀河系。銀河系x2,000億個で大銀河構造。とさえ言われる(諸説あり)規模の中に、地球だけにしか生命が存在せず、しかもそこに生きる人間だけが最高の存在だとする意識に激しく違和感を感じないほうが狂っているわけでして、他の存在そのものは認めざるを得ないでしょう。
いえ、何も強要はしませんし、頑として否定し続けるのもその人の生き方であり選択ですので、ご自身がその現実を創造してゆくだけのこと。もう重ねてトレースする必要さえありません。


ここで学びたいこと。
それは、
「否定する人を判らせようとして」自分がその波長に同期してしまうことは避けたい。と。
結果として、こういった語り口になるケース、多いのではありませんか?
「ええ、そうだよね。自分もそんなことはあり得ないと思うんだけど。」と、前置きをすること。

人との会話をスムーズにするための一つの方便なのかもしれません。
しかしこの段階で、エネルギーは「激しく否定の方向に振れる」という変化に氣がついていないのです。
歩み寄りをしたつもりが、
持論や自分の考え方さえも「相手に合わせることを最優先」し、否定の論調に置き換えているわけです。
(これ、よい子ちゃんで居たい・認められたいという自己顕示欲と承認欲求の類かと。)

自分の意識と発する言葉そのものが、否定論調に路線変更している時点で、その「否定」を自分で現実創造してしまいます。
そして、それが集合意識としてタイムラグを伴いこの地の現実として顕現化してゆきます。


僅か数年前、ほんの3年前に何を学んできたのでしょうか。
「自分もおかしいと思うんだけど、世の中そういう流れになっているし。」と、大切な借り物の体に毒を入れてしまい、そのまま他界した人たちも多数。
その時点で「自分の直感・勘というセンサー」が腐っており使い物にならなかったのですから仕方ないのかもしれませんが。
こうして、一人ひとりが創り上げるエネルギーが集まり集合意識として具現化し物質化し、目の前の風景となってゆきます。

痛い思いをするにとどまらず、物理次元の体まで失って(あるいは取り返しのつかない激しい障害を被って)もなお、人に合わせることを最優先する姿勢。
美徳でも何でもありません。ただのイタイ人に過ぎない。ただの○カ、恥ずかしさの極みです。
そういう教育洗脳が体に染み込んでいるのですから、いい加減にその枠組みから飛び出して、と言い続けて何年になりましょうか。


時代はこの地球やこの物理次元を超越するレベルにまで来ています。
他星系の存在を認め、そして受け入れるところまで成長したい。それは鎖国を解いて諸外国と交流をするという例と同じく、その拡大版として考えたいものです。
わたしたち一人ひとりが、その意識を持ち集合意識を形成しない限り、永遠にそれは実現しません。
なぜなら、わたしたちが「わたしたちの自身の現実を創造」しているからです。

その第一歩として、
理解できないものが写った!これは間違いない!だとか騒がないことも必要でしょう。
多くの場合、それは光の加減によるいたずらであるケースが大半です。いつまでも幼稚園児レベルな行動をしない。
そして、ここ極めて重要!です。↓
本当にアクセスをしてきている友好的な存在ならば、そのエネルギーを強烈に感じるかと思われます。
それが無いのなら、光の屈折による単なるレンズが作る物理現象に過ぎないと知ることです。

自分のセンサーは、この瞬間にこそ最大感度で使うのではありませんか。
ピーク値まで振り切る、そんな感覚があるのなら、それは間違いないということ。
こうした感覚を養うために、日々、他の生命:植物や昆虫などのエネルギーを感じ取る練習をしているのではないのですか。


感じ取るべきは、自分の心のセンサーが示す感覚です。
この部分を蔑ろにして、しかも光のいたずらに叫び踊るのはもうやめたいもの。
この大転換機を迎えたからこそ、新たな存在を認め受け入れたいと思うのです。
まして、自ら否定論調でその否定の現実を創ってしまうのは避けたいところ。

このようにして、学びが成長の一つのステップとして刻まれるのではないでしょうか。




御神木にご挨拶を

御神木に挨拶を photo 宮本章光

御神木にご挨拶を。

社殿(本殿)は人が作ったもの。
そもそも、この樹が先に存在していたからこそ、この地を囲って神社を建立したはずです。
また、
御神木は、神依木(かみよりぎ)一つだけではなく、境内に生きるすべての樹々ではないかと思うのです。

一番見た目が立派だとか、一番樹齢が長いだとか。
あるいは、この地を奉った先人が「そう決めた」からなのか、あるいはしめ縄がかけられているからだとか。
その一つだけの神依木以外に目もくれない人が多いように見えます。
しかも、根本を無造作に踏みつける。

枝葉が広がるその範囲と等しく、目に見えなくとも地下には根が張ります。
そうして樹々は地上部分と地下部分のバランスを取っています。
ここにエネルギーの循環が生じ、そこにトーラス構造の聖域が形作られているという仕組み。

ですから、枝葉の範囲と同じだけ「足元」にも注意を払うのが望ましいはずなのです。
樹皮に触れなくとも、その範囲に入ることで会話が可能になります。

孫たちとともに日頃の守護に感謝を伝える。
祭りの日、御神木にご挨拶に伺う理由はこれだけで十分だと感じます。




105774780
rss_logo

New Entries

Archives / Serch

Categories