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宮本章光/宮本陽の視点「開闢」And EM Official Blog

みやもとあきらのしてん AKIRA MIYAMOTO@And EM

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さらに色鮮やかな

2024紫陽花 photo 宮本章光

外を歩きますと、地面にペイントされた歩道の白線が従来になく眩しく見えます。
そして、
色とりどりの花々が、以前にも増してさらに色鮮やかに感じます。

はい、氣のせい。ですか。
そうだと思います。
氣というエネルギーがそこにあり、同じ周波数に合致した瞬間に響き合うのですから。

エビだソースだ、と叫び続ける唯物主義者に捧げます。
これこそが正論・真正面の物理法則であることを。
精神世界を馬鹿にし無きものとして扱いたい、頑固洗脳固着組は、今後この地で生きてゆけなくなることが確定しているにも関わらず、それを自ら選択するのですから、どうぞご自由に。


美しくその姿を披露し、この瞬間その時を謳歌する。
素晴らしい仲間に感謝を伝えます。
それは、この先に繋がる道を「自らの手で現実創造」する姿であることに。




感触という感覚

道端から呼ぶ声 photo 宮本章光

感じようとしてみるからこそ感じることができます。

質感という感覚。
この地のVR論に入ってしまいますと、そもそも脳が刺激を受けているだけ。とも言えるかもしれませんが、それとは別に、この地で体験することを最大限に感じればよいのだと氣がつきます。

物質次元で、体をお借りして「感じる」体験を重ねる。
物質次元で、体をお借りして「感じる」のは、その周波数に合致しているからという法則を知る。
だからこそ、
この「質感」という「感触」を大切にしたいと思うのです。

ここに注目して!
と、エネルギーを送っている、その波長に合ったからこそ、その声が聞こえます。
声が聞こえた、などといいうのは妄想に過ぎない。
と否定ばかりに溢れる世界は、もう脱出できたでしょうか。

聞こえたような氣がするのは、
そこに、そのエネルギーがあるから。


感触として感じるのは、過去の体験から。
そう、その体験という「体を使った」感触を、数多く重ねることが目的でした。
そして、
そこには、同じ周波数が響き合うという大原則に則った体験が行われていることにまで理解を到達させること。

素晴らしい体験をさせていただけることに、
感触という感覚をイメージできることに、感謝を捧げます。




そのエネエルギーをそのように受け取る

エリゲロンから受け取る photo 宮本章光

塀の隙間に白と赤とピンクの小さい花。

「よく見つけたね。」

そのように伝えてきます。
普通に歩けば意識することのない道端の小花たち。
そのように感じるのは、
そのように発せられたエネルギーがそこにあるから。

これを単に「氣のせい」だとか「思い過ごし」、あるいは妄想だ。と、無きものとして扱ってきたこれまでの歴史。この地の誤った教育と隷属化のための洗脳でした。

変な思想に染まった少々頭のおかしい人の言うことでしょ。
大体、花が話すことなどあり得ないんだし、聞こえもしない声が聞こえるだなんて狂ってるでしょ。
その話し、聴いてあげたら、変な人からはさっさと離れなさい。
などと教育されてきたのでした。
いえ、現在は、さらにエスカレートしているはずです。そこに不審者あり、注意喚起などと通報される狂氣の時代。


この場でも何度も綴ってきました。
「氣のせい」とは、そこにある「氣というエネルギー」が発する信号を感じ取っている状況が語られていること。
決して思い過ごしではなかったのです。
目に見えないものは信用しない、そもそも存在しない。といった片側だけにしか意識を合わすことができない「半人前以前」な未熟な人間を大量生産してきました。
それが、支配のためには必要だったから。

本来備わっている能力の半分、と言わずその大半を「無いもの」として生きてきたわたしたち。
思い出す意志があるのなら、自分で取り戻すしかありません。
そのためには、何をどうすれば良いのか。
それは、
口にするもの二つ(言霊と食べ物)を劇的に変えなさい。と教えられてきました。
そして実践してきました。

結果として、そこにある何らかのエネルギーを「何かわからないけれど感じる」ところまでは到達したはず。
この先は、
妄想だとか思い過ごしだとか、心のゲートウエイ入り口で「勝手に否定する」フィルターを通さないこと。
これが極めて重要だと思われます。

そして、ここにプラスしてナレッジとして学んだものを重ね合わせてゆきます。
すべては既に存在しており、どれを選択するか。それだけのことだ、と。
すべては、同じ周波数だけが響き合うという大原則、大法則に則って、同じ波長だけがシンクロすることも。
だからこそ、思い過ごしなどではなく、
よく見つけてくれたね。と、その波長に合致したという事実があるわけで。


何もかも、すべてが正反対。
何もかも、すべてが誤った教育の結果として、いまの目の前の風景が具現化しているのです。

だからこそ、それを綺麗さっぱり洗い流して、且つ、本来わたしたち自身が備えていた能力を取り戻す必要があるはずです。
それは、自分でしかできないこと。
それは、自分自身が意志を持って行うこと。

やらないのは、それがご自身の意思表示と選択だ。ということ。
やらない人は、今後同じフィールドとタイムラインには存在できないのですから、もう触らないことです。
この先は、
棲み分けし、学びと成長とを追求しどこまでも意識拡大する意志のある者が、この地を繁栄させてゆくフェーズに入りました。
先駆者はいつでも孤独を楽しめる存在であるはずです。




「まじめ」と「良い子ちゃん」を混同しない

2024のアジサイが開く photo 宮本章光

真面目(まじめ)に生きる。
その姿に対し、何か訳もなく反発してしまう。
まるで、おすまし顔をした学級委員長に反抗するかのごとく。
ちょいワルがいいんだ。てな感覚。

他方、
良い子ちゃんで居ること。
言われたまま、人と同じようにすることが偉いと思っている。
これが正しい道だと取り違える。


いつまでも真逆ばかりに向き続けています。
それも、その人の霊性そのもの。
御霊(身魂)相応。

真面目に生きる。とは、
生きとし生けるもの万物に感謝し、この地でこの体を使わせていただき学ぶことができる。
ここに最大限の感謝を忘れず、借り物は大切に扱う。
口にするもの二つ(言霊・食べ物)を大切にする。
すべての生命に対する感謝の心を忘れない生き方。
植物の存在がなければ、一回の呼吸さえできないのです。

良い子ちゃん。とは、
この地を支配する権力者によって教育段階から刷り込まれてきた洗脳。
人と同じことをするように思考が固着し、自ら考えることを放棄、言われた通りに生きることが正しいと思ってしまう。
人と同じであることが正義であり第一優先順位、毒をも食らう。
それが良い子ちゃんとして生きる姿。


どちらが正しいか・正しくないか。
その論点は、とうの昔に過去になったはずです。
どちらも正しく、どちらも正しくない。

自分の心がそれを決めています。
どう思うのかは自分次第。
それが、身魂相応。

借り物の体をお返しした時点で、相応の道に進むだけのこと。
人間として再び生きることはもう叶わない。そうした存在が多数とされます。
その結果を生み出したのは、過去の自分。過去の判断と意思表示。


真面目に生きてゆきます。
美しい姿を披露する仲間とともに。




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