世の中そんなに甘くない??でしょうか

言い尽くされた感があります。
世の中そんなに甘くない、と。
その言葉、間違いではないと盲信した過去があります。
しかし、
甘いか・甘く無いか、の論議も、ほぼ終焉の期を迎えた感覚です。
それは、
論点そのものが自らが勝手に作り出したものである、との結論に理解が到達したからでしょう。
甘い、と思えば甘い。
結果として、その甘いレベルを選択した自分の現実が具現化する。
甘く無い、と思えば甘く無い。
結論は、その高いハードルの茨の道を選択した自分の現実が目の前に顕現化する。
こういう仕組み。
思考停止するのはよくない。現実を直視せよ。
狂った世を変えるには行動せよ。
そう思えばそのように具現化する。
それだけ。
自分で作り出しているだけのVR。
そこまで知ったなら、
望ましい風景を描き出すことのみに注力すればよいのだと。
実際、この描き出すところそのものが難しかったわけでして。
でも、これさえも「難しいと思っていただけ」だったと理解できたのなら、それを乗り越えられるはずです。
口にするもの二つ(言霊・食べ物)を劇的に変える、と実行・実践してきたならば。
深く理解した人は、すでに実践・体現のフェーズに入っています。
自分の世界は自分で創る。
言葉面(づら)だけ・うわべだけをトレースして終わりの人は、こうした貴重な教訓と仕組みを、高いところから見下し、いつまでもその困難に満ちたハードルを自ら作り続け、超え続けなければならないことに意識が及びません。
それが自分の選択。
それが自分の意志表示。
身霊相応。
取り組むべきは「ただ一つのみ」。
美しいと伝える

踏み潰されそうな歩道の端に、静かに花開く。
誰に注目されることなく。
大声でアピールしなくとも。
数を追い数を誇る道を追い求めなくとも。
それが彼らの生き方。
それが生命の道。
美しいと伝える。
そこに顕現化する可憐なエネルギーをここに伝えるとともに。
真正面から受け取る

真正面から受け取ってみます。
その存在が発する目に見えない力を。
そのためには、
物質次元の感覚とは異なる部分の能力が必要ではないかと感じるのです。
まさに、故意にスポイルされ眠り続ける98パーセントのDNAがここでこそ活躍の場となることを。
ありえない色に画像を加工して、人目を引くことだけを狙うだとか、
奇妙なコントラストや色転びを故意に発生させ、それをアートと呼ぶだとか。
もちろん人それぞれ、自由です。
その世界が立派に存在していることは認めます。
ただ、その「アート」の延長線上には、「そこに在るだけで価値がある生命存在の声を聞く」のは難しいように思うことが増えました。
周波数が違いすぎるのです。
完全に波長が異なるために、別の存在としてしか認識ができなくなっています。
さらに言うなら、
もはや体レベルでさえ「受け付けない」状態になります。瞬間的に。
心が入り込む余地は皆無です。
何かの料理を口にするとしましょう。
〇〇の〇〇です。と出された料理が見るも無惨でしかも味が既知のトーンとかけ離れているなら、それをいただくことは難しいでしょう。
それが新たな料理としての作品です。
と、語るのは創作者たる料理人の自由ではあります。ここを否定することはありません。
しかし、それを喜んでいただくかどうかは、口にする「受け取り側」の自由に委ねられるべきでしょう。
そんな「わざと遠回り」をして人の関心を惹く、という手法は、すでに手垢にまみれた旧いスタイルのように見えてしまうところ。一周回って「元に戻った」ことを感じます。
終末。大転換機。滅亡の瀬戸際。
元に戻すためにすべてを「更地」にする意味がここにあるように見えます。
真正面から受け取ってみます。
そこには、
人の手で弄り倒されたノイズまみれのエネルギーではなく、生命の根源から生まれる、強力で且つ暖かい力があることに氣がつきます。