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宮本章光/宮本陽の視点「開闢」And EM Official Blog

みやもとあきらのしてん AKIRA MIYAMOTO@And EM

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インチキ波動に繋がらないよう

美しい光と影の芸術 photo 宮本章光

この風景に巡り会った時。
わたしの後ろから二名のハイカーが通り過ぎて行きました。

「何の珍しいものがあるんや?」
「大したモンどこにも無いやろ!」
そういったエネルギーを激しく放って通り過ぎてゆきました。

ええ、先を急ぐ目的があったのでしょう。それに時間も夕刻ですし。
けれど、
「放つ意識・エネルギー」は、しっかりと心の中に伝わるのです。
チクチクする感覚、あるいはズケズケと土足で入り込み押してきます。

この感覚こそが、目に見えないエネルギー。けれど、確実に伝わる「何らかの波動」だと理解できます。
この感覚をスポイルされてきたのです。隷属化させるために。
その行き着く先は世界統一政府:NewWorldOrder。
このところそのワードに触れる機会が完全に消滅しました。もう周波数が違いすぎるからでしょうか。


こういう話になりますと、必ず湧いてきます(いえ、湧いてきました=過去形)。
「それは思い過ごしだ」「自分がそのように感じた単なる妄想に過ぎない」と。
耳にタコが無数にできています。

何もないところにエネルギーは生まれないわけです。
大原則・大法則。
それなら、その「発生源」は、どこにあるでしょうか。ええ、わたしが妄想として生み出した。とも言えることは理解できています。


今日の本題はココ。
必ず発生源がある。
無からは何も生じない。とされます。だからこそ発生源がある。と考えます。

思考は「いとも簡単に操られる」という体験を数多く重ねてきたはずなのに、それを認識していません。
誰が操るのでしょう?
ここで再び、悪しき洗脳ループに嵌まり込みます。

そんなものあるわけがない。
そんな存在があるはずがない。と。
(わたしたちが過去に生み出した負の念、想念がエネルギー体としてその存在になっているのですが、今日の記事では触れません。)

ここで「違和感」を感じ取るセンサーを動員するのです。
大きな違和感を感じるなら、何らかの影響を受けているな、と体感から得たものが理解に及ぶわけです。


繋がった大元が、負のエネルギーを持つ・あるいはそれを目的としているなら「大きな違和感とともに激しく不快感」を感じます。
そうではなく、望ましい方向の力であるなら、そこに違和感は皆目存在せず、心地よさと恍惚感しかありません。
しかも、それは大変穏やかで静かです。

戦闘映画や戦いモノのゲームのように、威勢よく旗印を掲げ突撃...的なエネルギーは、その時点で負の方向=対立と怒りを生むことを目的としている、と瞬時に理解できるはずなのです。
けれど、
その戦いモノRPGのような世界に麻痺してしまった感覚は、突撃!悪よ滅べ!消えうせろ!とやってしまうのです。
あろうことか、口先だけは「戦争反対・平和な社会を」だとか語りながら。
極めつけは、「行動せよ!世の中を変えるには行動しかない!老害よこれまで放置した責任を取れ!」などと叫ぶのです。

これこそが、思考を操られている証。
対立し怒りを増幅するエネルギーに自分からマシマシな燃料を注いではなりません。
氣がつかないのはご本人だけ。という笑えない現実。裸の王様。
この惨状は、自らが氣づいて方向転換するしか救いはありません。今生はもうムリかもしれませんが。

このようにして、どうしようもなくなった文明の末期・最期は、過去5回も6回も地軸のシフトとともに大海に沈んだのだと。
よく判ります。
地球が、地軸をひっくり返すしかクリアする方法がないほどにまで、病み・痛めつけられ・腐敗した原因は、人間という愚かな存在(しかも当人は善行を重ねていると信じ込み、スーパーヒーローにでも昇り詰めたかのごとく錯覚した「善の仮面を被った悪」として負の念を撒き散らす邪悪な力の拡散者)により汚染され尽くしていたことを。

再び、またこの期においても同じ失敗を繰り返すのですか?


瞬時に感じるはずでしょう。まともな意識・感覚を持っている人間・日本人ならば。
よく確かめることが必要ではないでしょうか。
どのような存在に繋がっているのか。何にシンクロしているのか。
それは過去のわたしたちが創り出してしまった負の想念が目に見えない状態で顕現化しているネガティブエネルギー存在であると。

くれぐれもインチキ波動に繋がることのありませんように。
思考はいとも簡単に操られてしまいます。そして当人はそれに氣がつきません。




結果をコントロールしようとしない

朽ちてゆく美 photo 宮本章光

「朽ちてゆく美」がここにあります。
形を持ったもの、物質化したものは、必ずその姿が崩壊し消滅します。
物理次元に例外は存在しません。

この地で体験する一つの項目として、
美しく朽ちて行くプロセスを学ぶ必要があるように感じます。


いま、わたしたちが「やっていること」は、
なぜ朽ちるのか、どうして痛むのか、誰が痛めているのか・誰が悪いのか!元に戻せよ!
と、物理法則・大原則に真正面から対抗し、
しかも、悪はけしからん!悪よ消えろ・悪を滅ぼせ、こんニャロメ〜!
と叫ぶばかり。
それを選択するのはその人の自由ではあります。


しかし、ただ一つはっきりしていること。
それは。

その波長に同期している限り、そのレイヤーを永遠に体験し続ける。ということ。
その波長を自分から選択している限り、そのレイヤーの負のエネルギーを自分自身が永遠に増幅し続ける。ということ。

悪よ滅べ!と叫ぶ限り、悪の「役割」のエネルギーを自分が創り出していることに氣づいていないのです。
自分が悪に成り下り、それを自ら希望すると意志表示をしていることにさえ。


もう語り尽くされています。
「結果」は、今よりも前の段階で「自分が創り出した」エネルギーが時差を伴って顕現化していることを。
だからこそ、
唯物主義・物質至上の意識から脱却し、物ごとの両輪であったもう片方となる精神面での浄化を心がけ、クリアにした心を維持した上で、この先に望む青写真を描く必要があるのです。

そして、もう一つ大切なこと。
それは、
必ず朽ちてゆくこの物質界のプロセスに感謝を捧げ、その美しさを讃えることです。
顕現化のプロセスで美しく物質化し、物質化したあとは、その美しさを披露し機能・役目を果たし、そしていずれ消滅する。
これは一つのサイクルであって、トータルで完成されたプロセスであることを忘れてはなりません。

幼児・子供の稚拙さをバカにするな。自分も通ってきた道。
老齢・年配者の劣化を蔑むな。自分も通る道。
というあの語りと同じ。


悪も同じ。まったく同じです。
両極をエネルギー的にバランスするために、善と悪・表と裏が等しく均衡状態にあるからこそ、いずれも体験できるという稀有な学校なのです。
それなのに、片側だけに対して「滅べ・消えろ、けしからん!」と、やっているのが如何に愚かで恥ずかしいことでしょうか。

朽ちてゆく物質と同様に、役目としての悪に対しては感謝こそすれ、滅べだとか消えろ、だとか罵る対象ではありません。
繰り返します。それを続ける限り、自分がその悪に同化し自分が悪を増幅し続けるのです。
幼稚な精神性・低い靈性を自ら選んでいる限り、高次の存在とはいつまでも繋がることはできません。その周波数で繋がっているのは「その周波数と等しく共鳴する」低次元の悪しき存在(それさえもわたしたち自身が過去に創り出した想念の顕現化)であり、思考そのものを操られ・憑依されている証明でもあります。

このように「善の仮面を被った悪」が、本人の氣がつかないまま、いつまでも蔓延っている。
問題は、本人がまったく氣づかず、善行を重ねていると思い込んでいるところにあります。
この段階で、大きな「違和感」を感じているはずなのに、それをスルーしてしまうのです。
これが、今のこの地の窮状かと。


結果をコントロールしようとせず、その結果に至った・生み出した自分の想念を見直すことです。
そして、この先に何を生み出し何を具現化させたいのか。
ここにこそ、一極集中の最大エネルギーを注ぐのです。

一旦物質化させてしまった結果に対しては、感謝を捧げ美しく朽ちてゆく姿に敬意を払う姿勢が望まれます。自分の発言と行動に責任を持つ、とはこういうことかと思われます。





違和感をスルーした結果を受け取っている

エネルギーを受け取ってみる photo 宮本章光

目に見えないもの。
その重要性に氣がついた人たちが、ある程度の数として増えている様子が伝わってきます。


先の記事で触れいますようなポジティブ側のエネルギーは「やんわり」とした雰囲気で「氣がする」といった感触にとどまるため「氣付かずにスルー」してしまうのかもしれません。
では、
その反対側、ネガ方向のエネルギーはどうでしょうか。
これは違和感として大きなフリクションを感じるのです。間違いなく。

ポジティブ方向の波長が柔らかく氣付かずにスルーしてしまうのなら、ネガティブ方向の大きな違和感を感じれば、それをしっかりと捉えて認識することが必要でしょう。
そうすればこそ、道を誤ることはないのでは?ということなのです。


---どうしてこんな目に遭うのか!
---どうして酷い体験ばかりが続くのか!
そう語る前に、自分が行った過去の因果をよく振り返ることが必要ではないかなと。

まずは、因果応報の仕組みに従って「自分の蒔いた種が実をつけた」ことを棚に上げ、クレームを叫ぶのは恥ずかしい限りです。
そして、分岐点・選択が必要な無数にあるそのタイミングにおいて、選択を誤った自分が下した判断、それを忘れ去って、なぜ苦しい現実ばかりが起きるんだ!と怒るのも、ビギナーすぎる行為に違いありません。


よく語られる例えがあります。
オフィスを契約する時に、実地に訪れたその部屋に「何か違和感を感じる」「どこか重い雰囲気がある」というような場合、それが「ここはやめておきなさい、との導きである。」とされます。
明確に感じるわけです。違和感の場合は。

また、何らかの障害が起き、乗車予定だった列車や飛行機に乗り遅れる。そんな事例もよく引き合いに上がってきます。
その直後、当初の乗車予定だった交通機関が事故に見舞われる、だとか激しくトラブルに巻き込まれる。
結果として、遅れたことが幸いだったという話もよく語られます。

この場合には、遅れたことに「激しく違和感」を感じないものです。
予定が乱れたことに関して苛立ちを感じたとしても、それは「違和感とは異なる」ものです。


このように、
違和感、これこそが「センサーが麻痺している人間であっても」明確に感じるものだと判ります。
ところが、強く押してくるこの違和感をスルーしてしまうのです。多くの人は。
何でもかんでも、氣のせい・氣のせい...と、物質至上の教育洗脳に染まった頭は、それを見極めることができないわけです。


--災害に遭う。
--事故に見舞われる。
--トラブルに巻き込まれる。
それは、
「違和感」をスルーし無視し続けた結果が、そこに「実をつけた」ということなのです。
その果実が生まれた原因は、自らがタネを蒔いたから。
そのタネを蒔くと事故を生みますよ。と「違和感」というエネルギーとして助言が降りてきているにもかかわらず。

どうして?
なぜ?
原因は、自分が蒔いたタネ。
立派に実を結びましたでしょう。
とりわけ、3年前の判断が、ここに来て見事にネガな果実となっている事例が溢れかえっています。

違和感をスルーし続けた結果を、いま、受け取っているのです。
それならば、
次は、どんなタネを蒔きどのように育ててゆきましょうか。
こういうことだと思うのです。




違和感こそが波長のシンクロ可否を示す

樹木に波長を合わせてみる photo 宮本章光

すべての存在はエネルギー。
各エネルギーは固有の波長を持っています。


その波長に意識を合わせてゆきます。
言葉は聞こえません。
もし聞こえるなら、それは何らかの存在に操られているのかもしれません。

言葉で例えるなら、
「そんな氣がする」。
これが最も近い感覚ではないでしょうか。

明確ではありません。
しかし、もし異なる波長であったなら、氣がする... 感覚は皆無です。
また、
もし拒否されるエネルギーが放たれていたなら、そこには違和感として大きな齟齬を生む感触があります。
こちらは明確に感じるものですから、「シンクロしない感覚」がはっきりと体感できます。


こうした違和感から、導き出すのも一つの方法だと思うのです。
違和感こそが、波長が響き合うかどうかの判断材料だと。

違和感がある:波長はまったく合わず且つ負の方向への放射もあるかもしれません。
違和感がない:そんな氣がする。これが、同じ・あるいは似た波長である証明でもありましょう。

逆説的ではありますが、一つのシグナルとして違和感の感じ方に意識を巡らせるのも有効かもしれません。




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