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宮本章光/宮本陽の視点「開闢」And EM Official Blog

みやもとあきらのしてん AKIRA MIYAMOTO@And EM

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見えないものを見る

森に佇む東家 photo 宮本章光

まず大前提。
見えないものは見えない。

それは、物質観点オンリーの状態では「見えるわけがない」のであって、可視光線帯域にある波長でなければ視覚として認識できません。
至極当然。この論点はもう満腹です。
このタイムラインをこの先もずっと体験したいとの希望を持つ人たちだけが選択なさればよいかと。


この先に展開する精神性の成長と成熟を望むのであれば、心の感覚を取り戻す必要があるでしょう。
もはやこの時点で、相入れない齟齬を生みます。
立ち位置がそもそもまったく異なります。

心の感覚など存在しない、物質至上・物質社会と経済発展というモノとカネの増大と右肩上がりの成長を基盤とした経済学は、モノを土台にしている以上、いずれ崩壊し消滅します。
ここ数日の記事のように、形をとったものは必ずお土に還るという大原則・摂理には逆らえないからです。

そして、普遍的なカレンダーは「もう次のフェーズへと」ページがめくられた、とされます。
この大河の流れのように、個々人の考えや物理実体で変えることなど絶対に不可能な巨大な力の変化、然ればこそその流れに乗ってゆくのが「進化」ではないかと考えるのです。
そもそも逆らうことなど不可能ですから。

よって、その旧い体験を望む人は、それが体験できる地で「初等教育をやり直す」ために転生するのだと語られてきました。しかし、その語りさえも届きません。まさに「聞く耳を持たない」状態。
それが自分の意志表示であり選択だから。


ここで多くの方々は、ハッと氣がつくはずなのです。
「どこかのタイミングで、自分から方向を変え選択を変えなければ、永久に同じことを繰り返すだけなんだ。」と。
いえ、氣がつかないから、何度も何度も氣が遠くなるような2万5800年のサイクルを走り続けます。
これをさらに何度も何度も重ねて50億年でしょうか。

けれども、いまのこの大転換機に氣がついた人たち。
自分の意志表示によって選択を変えてきました。
そして、
そのキーポイントは、物質世界と対になった精神性の向上という部分にフォーカスすることである、と理解できるようになりました。

それなのに、再び「ここで足踏み状態」で停止しているように見えます。
それは、
「待ちの姿勢」を変えないからだと判ります。


昨日の記事のように「よい子ちゃん」を大量生産する世の仕組みが長く続いたのも大きな要因でしょう。
しかし、
ここでも「自分から方向転換し選択を変える」ことで道が拓けます。
言葉を変えるなら「自分で選択を変更する」こと以外に、自分の現実を変えることはできない。との結論が導かれます。

物理次元・物質世界から次の段階へステップアップするための行動とは、こういうことではないでしょうか。


支配者層が仕組んだ貨幣経済の奴隷として、その増大こそが幸福への道だ。なとど体を酷使して走り叫び回るのも、その学びの当事者、その学びのレベルでは必要だったでしょう。
けれど、
これをやっている限り成長は叶わないわけです。

ではどうするのか?
今日の標題「見えないものを見る」ように取り組んでゆきます。


こうして、精神性の向上を希望すると宣言し実践することで、麻痺した心のセンサーを取り戻します。
これを「行動する」と呼ぶのではありませんか。

もう、汗水垂らして走り回るのが美徳などと思わないことです。
もう、大声で自己アピールするのが偉いだとか、力のある者の証などと思わないことです。
もはや、数を追い数を誇るのは、恥ずかしいとさえ感じる世になりつつあります。

それも自分の選択ではあります。


見えないものを見ようとする意志はありますか。
自分の現実にブレイクスルーを作り出そうという氣概はありますか。

それは浮ついた思想や妄想などではなく、真の成長を見極め・望む者だけが選ぶ道。





将来は何になりたい?という愚問

形あるものいずれ消滅 photo 宮本章光

小学生時代には必ず経験する教育過程かと思われます。

「わたしの夢」
「将来になりたい姿」
「大人になったわたしの仕事」。

これらを求め・書かせる。
そういった教育。

意味がない、というのではありません。全否定するのではなくて。
成長過程は人ぞれぞれなのです。
その時点で「なりたい仕事」なんて決まっていない人は多いでしょう。
まして、世の中の無数に存在する仕事をすべて網羅し理解しているとは決して言えない年代に、画一的な枠組みに押し込むのは危険です。どこに・誰がそんな制限を課す権利があるのでしょう。


わたしの小学生時代は、この場でもかなり数多く綴ってきました。
ひとことで言うなら、相当変わった子ども。いえ、もうぶっ飛んだ普通ではない小学生。
そんなわたしが、当時感じた感覚を記憶の端から呼び戻しここに記します。

---なりたい仕事?
---そんなものはない。
---やりたく「ない」仕事なら、三つある。そう発言し続けた小学生でした。

その「やりたくない・なりたくない仕事」三つ。
1.学校教師
2.医者・医師・医療機関従事者
3.警察官・公的機関従事者

あれから50年以上経ちました。
あぁ、あの時の勘・確かに間違っていなかった。と、いまになって確信を持つ状況になりました。


やりたくない仕事ならある。
と発言するわたしに対し、担任教諭はこう答えたのです。
「やりたくない」ではなくて「やりたい」でしょ?質問の意味は理解できていますか?と。

内心、馬鹿にするなよ!わかってるわ! と、怒りが込み上げた瞬間の感情をはっきりと覚えています。
ここから、わたしは大きく道を乗り換えたのです。
ええ、それが大間違いだったわけですが、世の中・世間体の観点からは「大正解」でした。

それは、
「よい子ちゃんとして生きる道」。
言われたことを寸分違わず忠実にトレースする。言われたことだけを満額回答する。
試験はほぼ100点満点以外はないレベルの結果を出す。
学級委員長・代表委員会。すべて頭の席を任される。
地元の有力者からは、頭なでなで。すごいね・えらいね!しか言われない。そんな小学生。


そして、さらに一年の学年が上がった頃だったでしょうか。
創立記念(歴史の長い学校でした)の記念文集?に、将来の夢・将来なりたい仕事を描きました。
まさに「模範的な・100点満点になるような回答」として、無理に「本心では違和感を残したまま」で。

こうして「よい子ちゃん」として生きる道を歩み、6年間を終えたのでした。
通知簿(通信票)には、争いをせず誰とでも仲良く過ごす真面目な生徒。だと「ごじゅうまる=高評価」を多く重ねていました。
(しかし、これ大間違いですから!)


この教育の何が問題なのか。
自分ですべてトレースしたのですからここで論評してもいいでしょう。自分でやらずに言うな!と批判されることもありません。

「模範回答を出すこと」だけに意識が向いてしまうのです。
現在ならYoutuberだとか芸能人だとか書くような感覚でしょうか。
「大多数と同じであることが正解」という意識に固まってしまい、アウェィだけれどもクリエイティブな創造性は一切芽を摘まれてしまう。
こういうことでしょう。

中学進学以降には、この大きな過ちに氣づいて大きく方向転換したことも、過去記事には詳細に記しています。
しかし就職後に再び同じ過ちを繰り返したのでした。
お時間がありましたらどうぞ。
◆関連記事
【生後21,916日めに思う】2023/05/28[ Link ]


昨日の記事で、
「ご自身の役目とは何でしょうか。」と書きました。

この答えは、
「自分の勘・直感に正直に従う」
「穏やかに・静かに過ごす」
「負のエネルギーに燃料を注がない」
だと思っています。

そんなものどこに価値があるのか?と、反論する人はもう随分と減ったはず、いえ、もう決してシンクロしないでしょう。
その物理次元は、すでに崩壊し滅亡・消滅するのが決まっているのですから、そこにフォーカスはいたしません。

形をとったものはいずれ必ず消滅します。
最盛期に美しくその姿を披露した花たちも、いずれ枯れ・散り、お土に還ります。
だからこそ、
物理次元で物質実体をもっている期間に、目一杯その体を使わなければできない役目を果たします。
それは、やはり汗水垂らして走り回ることだったかもしれません。
物質社会、そして経済発展という工程ではそれが必要だったのですから。
そして、自分自身という魂存在を磨き成長させるために必要なプロセスだったことを学びます。
借り物の体を失う、その一歩手前まで痛めつけることさえも学びの一つだと。

けれども、宇宙のカレンダーはもうフェーズが変わったのです。
「ここに存在するだけで価値がある」
こういった時代に入ったのです。だからこそ、そこに負のエネルギー・想念を生み出さないこと。

いつまでも、将来の仕事だとか、くだらない論点で心を悩ませ負の因果を蓄積する行為は、早晩やめさせたいと感じています。





形を持ったものは必ずお土に還る

形あるものお土へ還る photo 宮本章光

自分の選択は自由です。
何を望もうと、何を選ぼうと、それが自由意思。

他方、
この世あの世に普遍的に存在する大法則・標準仕様といった仕組みがあります。
これを摂理と呼び、個々人の自由意思に関係なく永遠に維持されます。

物質・物理次元において「形を持ったもの」は、その物質物理実体は時間の経過とともに必ず消滅すると。
形をとった存在は、一つ残らず「お土に還る」のが標準仕様だということ。

よく語られる、過去に文明など絶対に存在していなかった、といった論説をみますと、
「物的証拠が残っていないから」という観点をその根拠に置いているものがあります。
この仕様を考慮するに、物質次元では物理実体はいずれ必ず消滅するのですから「残っていない=お土に還った」といった可能性を証明できず、それが過去に存在していないという否定材料になり得ないことが判ります。


いまここで原点に立ち返ってよく考えること。
それは、
お土に還った後も「永遠に続く成長のための学びがあること」ではないでしょうか。

大法則・摂理に反し、
「死んだら終わりや。何をやろうと自分の勝手や。」と、この地・今生でさらなる負の因果を重ね続ける。
「知れよ・学べよ」と叫ぶ割には、物理実体=体を痛めつけるばかりの食と言葉を口にし吐き続ける。

蓄積しどうにもならなくなった過去を浄化する稀有な機会(期間)であるにもかかわらず、負の要因をさらに積み重ねるばかり。
こうして山積みにした課題は、
部長席の未処理案件ボックスに眠る書類と同じく、いずれ必ず対応すべき時期が訪れます。
書類は「否決」の印鑑ひとつで無かったことにできても、自分の成長のための学校の教科書は消滅しないわけで。
人生という括りで見れば、それはこの体をお返しした後で、同じ「初歩の初歩」たる教材を永遠にやり直ししなければならない。ということに他なりません。

ところが、
次の機会にも物理実体を貸し出しされるかどうかは大変難しい、と語られます。
せっかく与えられた機会、そしてその貴重な実体を痛めつけるばかりだったのなら、誰も次はもう貸出したい、とは思わないのは当然のことでしょう。

恥ずかしくない生き方。
お土に還る瞬間に、後悔せず、迷惑をかけず、誇りを持って感謝が述べられるように。
日々精一杯生きる、とは、
与えられた環境と条件を最大限に活かし大切に使い、そこに感謝を忘れず、自分の役目を果たすことだと判ります。

ご自身の役目とは何でしょうか。
(わたしは、日々、こうした語りを目に見えない存在から受け取っていることを感じています。)





負の念はストレートに伝わる

みなとみらいの芸術 photo 宮本章光

念は伝わります。
かなりの数の人々が、この能力を取り戻しつつあるように感じます。


負の念は特に。違和感や不快感として極めてストレートに。
では、
その対にある正の念とは何でしょうか。

それこそが、心地よさと平穏な心持ち。
この感覚を受けるからこそ、そこに感謝が生まれる。
こういう循環だと思うのです。

幸せになるために、感謝を毎日10個書き連ねる...。
それは順序が逆だと感じます。

そもそも、幸せとは「心で感じる」感覚なのであって、貨幣資産や物質的豊かさを増大させるような意識とは似て非なるもの。
何を語っているかによって、その方々のシンクロしているレイヤーが見えるようです。


いま、負の念は、あからさまに、そしてダイレクトに判るようになってきました。
それは大きな違和感・不快感とともに。
だからこそ、
もう卒業した旧来のレイヤーに存在するエネルギーにはフォーカスしない。
そして、
心地よさと暖かさに根ざした感謝の波動を維持したいものです。

この非常に難しいハードルを超えることで、またひとつ階段を上がることが可能になるはずです。





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