おかしなこととは接点を持たない
ホンモノを見分ける力を持ちたい[ Link ]という記事を先般書いた。
しかし、ホンモノを見分けられない人(や権力)が既に蔓延している場合には、いくら正論を並べたところで勝ち目がないのかもしれない。
「木を見て森を見ず」で、些細なあるいは僅少であり、大勢に影響がないことであっても、権力にモノを言わせて正論を通そうとはしない。
そんなサービスや業者(あるいは権力)とは付き合わないことだ。
なまじ文句を言いながらでも利用しつづけるから生きながらえる。
おかしなことが多すぎる。
と文句を並べる前に、おかしなこととは接点を持たないことがスタートではないか。
おかしくない正しいこと、をもっと伸ばして行こうではないか。
個別レッスンにて、生徒さん所有のマクロレンズ。
いい道具をお持ちで、向上心も高い。
こうした方々との接点こそ大切にしたい。
ホンモノを見分ける力を持ちたい

間違ってはいけない。
ホンモノを見分ける力。今こそ必要だと思う。
いつから客観評価よりも主観的観点が世の中を席巻するようになってきたのだろうか。
「自分が良いのだからそれは正しい」という判断。
個人レベルにとどまるなら何でも結構。
自分が良いと思ったのなら、自分自身の範囲である限りそれはご自由にどうぞ。
といった世界。
だが、自分自身に優劣や善し悪しの判断基準を持たない人たちが増えるに従い、こうした人たちが「最初に良いと発言した人の意見」に無条件に賛同するようになる。
初めに正しい、と発した発言や言動が「実際には間違いであっても」それが規範になってしまう。
旗ふりをしたがる人たち、何かをリードしたがる人たちは、得てして「間違った」内容を「客観評価せず」に、自分が言うのだから正しい。という。
流されてはいけない。
ホンモノを見分ける力と、客観評価を下せる力。
写真の世界も一緒。スマホのカメラで業務用大判機器のアウトプットと同じものが撮れるわけがない。
何でも心が大切なことは事実だ。だが、心を込めているだけでは結果は出ない。
極端な発言には、どことなく危険な宗教的空気が漂う。
大切なのは次に活かすこと

考え過ぎは逆効果かもしれません。
非常に熱心で高い向上意欲をキープなさっている方が多いカルチャーのクラス。
考えることが多くて撮れない時がある。との声も。
なかなか難しいところでしょうか。
ある程度のレベルに到達すると、表現のための操作に思考を巡らせるため、このようなハードルに遭遇するのかもしれません。
あまり難しく考えず気楽にやってください。
デジタル全盛の現在、撮影後すぐに画像が確認できるので、撮影後に良くないところを直せばよいかと思います。
わかりまへんわ!では状況は変わらない

最近「わかりまへん」(私には良く判らないです)の言葉に接する機会が多い。
私自身が判らないのではない。
難しいことではないと思われる事柄でも、頭を使って考え、理解しようと努力する態度が欠けているケースが多々あるように感じる。
確かに、自分自身でもいい加減なアクションで安易に判断をし、問題先送りをすることが無いわけではない。また、商談をスムーズに運ぶための一つの言い方であることも理解している。
昨今の世の中のさまざまな問題について、誰が悪い、これがマズイ...ばかりを評論家気取りで述べるサイトは有り余るほど存在する。たがそれは誤った自分自身の「投票」の結果であることを忘れている。
他方、カルチャーをはじめ写真・カメラのレッスンに参加いただく方々は全く姿勢が違う。
疑問点を明確にしたうえで参加され、的確な質問として投げかけてこられる。
しかし本当に稀だが、6回のシリーズの中でも前回に習った事項がまったく残っておらず、身につかないケースも...。
これは、参加さえすれば自動的にスキルが上がると勘違いしているような感覚が見てとれる。
習ったこと、知ったことは、実践して初めて自分の身に付くもので、散髪のように黙って座っていれば知らぬ間に髪型が整っている。ってなことにはならない。
授業時間に席に座っていれば自動的にできるようになるものではない。
「わかりまへん!」と、努力をしないのは、自ら成長を拒否しているのと同じなのかもしれない。
植物が、いつ開花したらよいか「わかりまへん」と言うなら、これは自らの命を絶つことに他ならない。
自ら考え行動することを止めた時点で、以後の進展も改善もなされない。それは取りも直さず「退化」であり、これだけは自動的に起きてしまう。