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宮本章光/宮本陽の視点「開闢」And EM Official Blog

みやもとあきらのしてん AKIRA MIYAMOTO@And EM

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撮影は楽しくそして美味しく

チェリーイメージ
自分は何を伝えたいのだろう?
自分はどのようなイメージをこの一枚に込めているのだろう?

写真は感性も必要とされるが、感性だけで撮るものではない。原理原則を知り、そのわずか数点のポイントに考えを巡らすだけ。

難しいことを考える必要など全くない。
だが、アタマを使うことを忘れてはならないと思う。

漫然とシャッターを押すだけ。
そして「見る人に意外性を与える」点のみに頼った奇抜なエフェクトをかける...。
もう数えきれないほど書いてきたが、これでは写真という素材をダメにしているだけではないのだろうか。

「アタマを使う」とは、
自分が伝えたいことをほんの数秒だけで良いので思い描く。
奇抜なイメージを狙ったスクエアな枠組みではなく、過去から練り上げられ歴史を刻んできた2:3の縦横比の中に何をどのように配するのか。
シャッターを押す、その前に数秒だけで良いので四隅を見渡し構図を考えてみる。

「ポイントに考えを巡らせる」とは、
光の向きを考え、露出はどの程度が良いのかを見極め、絞りやレンズ焦点距離によりボケ具合を考慮する。これも慣れてくれば数秒で決定できるようになる。

アタマを使わず、指先やマウス操作の単純作業で同じことばかりを繰り返しているから延々と意思決定できないのではないのか。

こうしてアタマを使うプロセスを体験すると結果が目に見えて変わってくる。
結果の変化を体で感じとれるようになるから撮影が楽しくなる。
被写体がフルーツやスイーツなら、あとの楽しみも派生的に生まれてくる。
美味しそう!と感じるから、それを記録するためにどうすれば良いかを考える。

楽しめるから結果が変わる。
結果を変えるのは、エフェクト加工ではなく自分のアタマであることを忘れてはならない。

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写真は「使い捨てティッシュ」ではない

IMG_7845s.jpg

「まるで一眼レフで撮ったようなボケが出せる」というエフェクトが幅を利かせてきた。
なんでもエフェクト全盛、お手軽加工万歳”、といった風潮。
これはこれで仕方ない流れなのだろう。が、問題は...、

メインとなる部分とそうでない部分の対比を語るためにボケた部分を構図の中に作りだす。
単に、ボケていない部分とボケた部分が存在していれば良い訳ではない。
どの程度のボケ具合が良いのか。どの程度の対比を望むのか。
絞りやレンズ焦点距離による特性を知り、その設定や選択によって「対比」を作りだす。
これが写真の表現。

これらの度合いを自分の思うままに出せるように知識を活用し、設定・操作を行い試行錯誤し、結果が導きだせたときの満足感を味わう。
これが写真の楽しさ。

同じように、後加工でも自らの意図したイメージに近づけるべく処理を行う。
これがフォトレタッチの面白さ。

なのに、テキトーに撮ってテキトーに後加工...。
もう何度もこのBlogで記事にしたが、後加工を否定するものではない。逆にデジタル時代には必要なプロセス。こうした加工を楽しむのもそれはそれで良いと思う。
マズいと感じるのは、テキトーに撮っただけでなく、後加工もテキトーにしてしまう。

いい加減に撮った写真は、そしていい加減に加工した写真は、いい加減な気持ちが伝わるものだ。
あなたは何のためにその一枚をwebに上げているのだろう?
まるで「使い捨てのティッシュペーパー」のように写真が扱われるのはよろしくない。

写真を刹那的な消費材にしてはならない

階調を意識して作品を撮る
写真は、自らを表現する手段であったはず。どうやら今の時代は、この考え方が変わりつつあるようだ。

この写真のようなシチュエーションでは、丸いボックスの天面は窓からの外光が当たっているためにオーバー気味になり、ラックの奥の影は潰れがちになる。
1ショットの中で、飛ばさない・潰さない範囲(=カメラの持つダイナミックレンジ)は限られているため、その範囲内での調整にはなるものの、ハイライトを落とし、シャドウを上げることで柔かい印象にすることが可能になる。
このプロセスで階調を意識した調整を加えることで作品のイメージを作り出すことができる。

フィルム時代では、明暗差が強いイメージが欲しい場合、反対に柔らかく階調を維持したい場合、と、フィルムの銘柄を使い分けて撮影をしていた。

これは取りも直さず、撮影前(撮影時点)から最終アウトプットを意識して撮影することであり、現在のデジタル全盛時代においても留意しておきたい事項であるはずなのだが、こうした意識を持つことが無くなりつつあるように感じる。

「撮影は楽しく思いを込めて!後処理で何でもできるから。」的なメンタル面にしかフォーカスを当てないセミナーが流行る...。
果ては「一眼なんていらね。スマホで十分。あとはエフェクトで遊びましょ”」という時代...。

何も難しいことを微に入り細に入り考えろ、というのではない。楽しく撮影を楽しみましょ。
だが、文字を通して人に想いを伝えるには「てにをは」にこだわって考え抜くはずだ。また、人前で自分の考えを提案し説得するには、周到な準備をするもの。
自らの表現手段であるずの写真を、刹那的な消費材にしてしまう流れに大きな疑問を感じるのである。

なぜ基本というものがあるのか考えてみる

白いものは白く見せる
表現はすべてが自由で、何をどう撮ろうがその人の感性である。
という考えに異論はない。

ただ、その表現や作品を「見た人がどのように捉え、何を感じるか?」ということを考えてみる必要はないだろうか。

過去から一般論として語られてきた大多数の人が感じる認識とでも言うべき模範的な基準や基本というものがある。
温かい料理は、食する人が「温かい状態だから美味しく」感じる、という基本的な条件があるはずだ。
暖かい料理として作られた蕎麦は、冷えて伸びきってしまうと多分美味しくない。だが、ある料理人が「自分は冷めて伸びたものが好きだから」と、客に対し「冷めて伸びた麺」を出すとどうだろう?
あるいは、アイスクリームなどの冷菓を、「ドロドロに溶けて温かくなったクリーム」が好きだと感じるショップオーナーが、「ドロドロのヌルいクリーム」を客に販売することができるだろうか?

写真表現の世界でも「基準となる見せ方」といった考え方が存在する。
明るく見せる方が、伝えたいことがより伝わりやすい、という被写体やシチュエーションがある。

そうした被写体や環境であるにも関わらず、自分は暗めのイメージが好きだから、と、単に露出不足の状態で撮ってしまう。
暗めのイメージが好きなら、暗めのイメージにマッチするような光や影を生かした環境において、暗めの方が良い結果を生む作品にしておく必要がある。
冷たい蕎麦が好きなら「ざるそば」にすれば良いし、温かいクリームが好きなら「スープ」という料理を作れば良い。最終アウトプットを変えておかなくてはならない、ということ。

暗く撮るだけなら単なる露出不足。
見る人にとって、冷めて伸びた蕎麦や、溶けてドロドロのヌルいアイスクリームを出しているのと似ているかもしれないということを忘れてはならないと思う。
自己満足の世界にとどめ、壁にプリントを掲示するだけなら何でも良い。しかし、少なくとも、見てください、というスタンスである限りは。
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