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宮本章光/宮本陽の視点「開闢」And EM Official Blog

みやもとあきらのしてん AKIRA MIYAMOTO@And EM

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「許諾」という名の印籠(いんろう)

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印籠(いんろう)というと水戸黄門のTV番組を思い出す。
「この紋所が目に入らぬか!」「ははぁ...っ」という、アレである。
すでにご存知ない方も多いかもしれない。

写真を撮るという仕事をしている限り、主たる被写体以外に結果として写ってしまう、必要としないものが存在する。
それは、スタジオのように不必要な要素を全て排除した空間以外では常について回る。

特に、屋外で撮るスポーツの場合には背景に観客や一般の方が写ってしまうケースがある。
望遠系レンズの場合、背景と被写体との相対距離によっては、大きなボケによりその頻度は下がるが、そうでない場合も結構ある。

こうした「望まないモノや人」についての大変厄介な事項。
「許諾」だとか「掲載に対する了解」という言葉に表される事柄である。

苦労して撮影しても、そこに写っている人の了解は得ているのか?
と聞かれると、No.である。
そもそも、意図せず写り込んでしまったもの(人)に対し、一つづつ了解をとることなど現実には不可能である。

また、その場の雰囲気を伝えるためにもっと違った絵が欲しい、と要望され撮影する被写体が「人」である場合には、撮影者自身が、被写体となった一人一人に、その都度了解を得るために走らなくてはならない。
「人の絵が要る、というご要望があったから撮ったんですけど...」ということになる。

こうなると、もう撮影者としての仕事の範疇を越えている。
結局は、当たり障りのない絵を撮ることになるのであろう...。

現実には、1,000カット撮影した中で990カットは没にする。
歩留まり、僅か1パーセント!(まぁこれはもっと上げることは可能だが)
目の疲労と足腰・腕の疲労、99パーセントを捨て選別する作業時間、そしてストレージへの投資...。
リスクは大きい。

このカットもあと一段半程度絞ると、向こう側の観客の表情まで見えるようになると思われる。
考えること、そして対応しなければならないこと、また操作にフィードバックしなければならないことは大量にある。

「好きなことやって稼ぎになるんやから結構やなぁ」
と、気楽に言葉をかけてくださる方が居る。

声をかけて戴くこと自体は有難い。それに楽しく機嫌よくやっているので問題はない。
が、そうそうラクでもないもの。
代わりに一日やってみますか?
そして「許諾は得てるのか?」と一言、言葉の印籠を差し出されたときの気持ちも味わってみて欲しい。

思い返す...。

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前回が2003年の画像であったから...
という訳でもないが、今回は2004年4月25日の撮影カットから。
(過去画像での展開が続きそうな...)

何が撮りたかったのだろうか?
このときは、一面に広げられた花びらの芸術を描く姿、その人の姿だった。

もし今日、同じ光景を目にしたなら、全く違うイメージで撮っていることだろう。

左手の甲で色あわせをしているその絵の具、そして数本の絵筆を握りしめた左手。
その手のアップを撮っているに違いない。


時間の経過とともに、自分自身でも感じるものが全く異なる。

感じ方を左右するもの...
それは天候かもしれないし、
また、肌で感じる空気かもしれない。

人との接点こそ宝物

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先日ある方とお会いする機会があった。
そして、この画像はその日の夜に届いたメール。

この方は、私の撮影写真を大変気に入っていただいた上、作品としてご購入いただくことになった。
もう7,8年前に撮影したカットで、当時はこんな日が来るであろうことを想像すらしていなかったのだが、半切にまで伸ばしたその写真は、額縁の中で生き続けてくれることだろう。

当時の撮影はまだポジであった。
LBフィルターで色を作り、シャッター速度を稼ぐためにISO400のポジで撮影したそのカットは、いかにも高感度!といわんばかりの粒子が見える。
デジタルへ完全移行すると共にこの粒状感(高感度カラーノイズとはまた異なる)を感じることが無くなった今、出来上がった紙焼きを眺めて、改めて時の流れを感じた。

そのプリント。
私は、直接お会いして手渡しすることにこだわった。
一通のメールからのご縁。
ご多忙のところ調整をつけていただき、約2時間強に渡り有意義な時間を過ごすことができた。

会話の中で拝見した、この方の撮影作品は、ご自身の感性で自由に撮影されており大変素晴らしいものだった。

とかく機材フェチになりがちで、理屈や理論ばかりが先行するような趣味の写真撮影。そして皆が評論家になってしまう写真趣味...。

そんな世界とは無縁の感性に感動した。
私は、自分が追求しようとしている感覚と同じ波長をその作品に見たように感じた。

そして、私から連絡させていただく前に、非常に丁寧なメールによるご挨拶。
こうした方とは、長くお付き合いさせていただきたい。

人との接点こそ宝物。と感じる瞬間である。

事業と屏風は広げすぎると倒れる

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湯木俊治 氏(東京吉兆)の言葉だそうだ。
マスコミを賑わせた「船場」ではなく「東京」の店だ。
同族グループでも、これだけスタンスが違うもの。

今日のカットは、開幕戦開始前のフィールドでの一枚。

単焦点(「短」焦点ではない。文字変換した後に確認するのを怠るとこうなる。いただくメールで最も多い変換違いは「連射」。正しくは「連写」だと思うが...)では、ここまでボケを表現できる。
EF135mm F2L レンズを、これでもf4まで絞っている。

よく、ズームと単焦点のメリット・デメリットが論じられるが、どちらも優れているところがあるのだから、それぞれの優れている点だけを利用すればよい。

ズームでボケが綺麗に出ない、とか解像感が甘い、とか...。
その替わり、任意に画角が変えられるのだからこんな便利なものはない。

ただ、ズーム倍率(広角から望遠までの範囲)を広げすぎると画質は極端に低下する。
メーカー純正レンズではなく、サードパーティ製の製品にラインナップされていることがある「超高倍率」ズーム。
それと、コンパクトタイプや民生ビデオカメラにもある「電子」ズーム。

いずれも、利便性(一本、一台でワイドもテレも自在に変更できる)は高いが、引き換えに画質と明るさ(開放f値)は低下する。
特に、電子ズームに至っては、本来の画角から一部分だけを切り抜いて拡大しているのだから画質云々以前の問題になってくる。

当然、その利便性を第一にするのならば問題はない。画質は二の次という判断をその時点で下している訳だから。
要は目的と手段のバランスだと思うのだが、良いところは忘れて悪いところだけを見て不満を言うのは本末転倒ではないか。

多くの場合、一本で全部こなせるから。と高倍率ズームを使って、画質が悪いとか背景が煩いとか感じることになる。
で、「どうしたらいいですか?教えてください...」となる。

目的と、手段としての道具が間違っている、ということだ。
ズームの倍率は「広げすぎない」ものを選ぶと希望に近づくかもしれない。
あるいは、明るい単焦点を手に入れるか。


何事も広げすぎないこと...。
事業範囲も広げすぎず身の丈に合ったものを心がけよ、という教訓。
ズームレンズから学ぶこと。
こんなところに焦点が合った。
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