撮影も画像処理も共に楽しみたい

このところ噴水のイメージが続く。
同じ日、数分程度のほぼ同じ時間帯で撮影したものばかり。
でも、シャッター速度を変える、ホワイトバランスを変える...、といった変化をつけることによって随分とイメージが変化する。
ただシャッター速度だけは撮影時点で変更しておく。
「水の流れの度合い」は、後処理では無理(それっぽく加工することはできないこともないだろうが所詮ニセモノになってしまうし、恐らく止まっている水滴--->流れている水滴の一方通行だろう)なため。
未だに撮って出し至上の人たちもいらっしゃるが、色調を変更するためのホワイトバランスに至っては、フィルム時代であってもW4だとかW8だとかのフィルター(スマホエフェクト等のフィルターではなく、レンズの前に取り付けるサングラスのように色のついた一枚の板のこと。)を掛ければ似たような色目になる。
当然「自分の意思でアンバー系にしたい」と考えてレンズの前に装着する。
撮影時点でアンバー系にしたい、と考えアクションを起こすか、データを取り込んだMacやPCの前でイマジネーションを働かせ色温度を調整するのか。
そのタイミングの違いだけでしかない。
どのタイミングでアクションを起こすかによって価値が変わる。というのも確かに理解できるが...。
撮影も画像処理も共に楽しめると良いな。と。
テキトー感は見る人に伝わる

「見る人の環境がまちまちだから、公開側は別に色も明るさもテキトーでいいや。」
といった意見があった。
確かに、webに画像を公開して見ていただく以上、見る側の環境は千差万別。
故に、公開側が意図した絵と同じものが再現されている可能性は低い。
ここまでは周知の事実であるし、公開側もそれを知った上で公開しているはずだ。
それならば、「公開側は思い通りの再現がなされないからいい加減な絵作りでも良い。」のだろうか。
個人の趣味Blogならそれでも良いだろうし、ご自身が納得している限り何も問題はない。
しかし、よく考えてみたいのは、「テキトー感」とでもいうのか、いい加減な感じは伝わるということ。
似たようなシチュエーションで撮影された絵であっても、都度、明るさも色もまちまち。
同じ被写体が複数枚掲載されているのに、どれも全て色が違う。
しかも、それぞれ意図的に色彩や明るさを変化させたのではなく、単なるバラツキと思われる差異...。
統一感、というのはこんなところに滲み出る。
料理人が、「食べる人の味覚はそれぞれ違うから、作る側も毎回まちまちでいいや。」
と、やってしまうとリピーターは得られないし暖簾は続かない。
見る側の環境を論じる以前に、自分は何を表現し何を伝えたいのか?
この部分が抜け落ちているケースが、色々なフィールドで増えてきたように感じる。
撮りたい光を撮りたい階調で表現する

撮りたい光を、
撮りたい時間に撮る。
最終的に手に入れたい明るさは、
最終的に階調が残るかどうかのバランスを考え、
最終的に画像処理によって完成させる。
撮りたい時に、撮りたい明るさで撮ってしまうと、
撮りたい時点での、撮りたいという自身の欲求を満たすことだけはできる。
しかし、
webという狭い階調、狭い明暗差の表現範囲しか持たない空間では、ハイライトは飛びシャドウは潰れる。
それは、自然界のダイナミックレンジをそのまま一次直線的にデータ化するには、カメラ側のキャパが圧倒的に低く、且つモニターの表示能力の限界を超えているために起きる。
幸いなことに、
ハイライトはいとも簡単に飛ぶものの、シャドウは潰れずに階調を残すことが多い。
そのため、ハイライトを飛ばさない範囲で暗めに撮る。
そして、後処理でシャドウの階調を復活させる。
この復活時点で「何をどの程度見せるか?」にこそ感性が滲み出す。
見せたい階調は、撮影時点の感性だけではなく、画像処理とともに表現する。
「シャドウは潰す。それがカッコイイ。」
といったフィルムライクな世界ももちろん楽しい。
だが、もっと階調豊富な世界も楽しんでみたい。
画像処理の楽しい世界

「画像処理は楽しいよ。そのプロセスを楽しみましょ。」と伝えて行きたい。
もちろん、その世界を良くご存じの諸先輩方はスルーしていただいて構わないのだが、スマホカメラスタートの人口が劇的に増えている現在、このボリュームゾーンにリーチする必要があると思う。
撮って・フィルター・SNS...。
いいね!を集めるため。といった目的が果たせるならそれで良い。という人たちはそれでいい。
いつもの但し書き。何が良いか悪いか、ではない。
だが、限られた種類のフィルター・エフェクトに「自分のとっておきの一枚」を押し込む。
その時点で限られたテイスト、画一的な印象の檻の中に「自分のとっておきの一枚」を閉じ込めてしまう。
一枚の写真には、撮影者の意図と想いが込められているはずだ。
それを単なる画像データとして扱い、使い捨てにする。そして更には檻の中に閉じ込めてしまう。
構図の変化や光線状況、色彩感を感じながら撮ると、撮影はもっともっと楽しくなる。
そして、それを自分が感じたようにより印象的に・魅力的に仕上げて行くプロセスは更に楽しい。
もう、後処理が邪道などという時代ではないし、その処理を経ることでようやく「カメラが作った半製品がとっておきのあなたの作品」になる。