こんなところにスナップの楽しさ

薄曇りの朝早く。
運河を渡りながら少し立ち止まってみる。
樹々と構築物の並び。
柔らかい空気と精細感の同居。
いつもポケットにカメラがあるありがたさ、こんなところにスナップの楽しさがある。
情報発信って何だろう?

自分の好きなようにwebに情報発信できる時代。
そのアクション自体に何も問題はないはずだけれど、いつから第三者や外野がうるさくなったのだろうか。
面識もない、その人の経歴も功績も知らない相手に対し、やかましく批判をするだけ、何でもケチをつけることしかしない。
正論テロ、とか言うらしい。
これも情報発信なのか?
その時間、その労力で何か創造的な活動をしたほうがいい。
写真に内包される撮影者の心

古いアーカイブHDDを開く必要があったので、2004年の撮影データより一枚。
13年経過してみると、当時「何を感じ、何を思って撮った」のかといった記憶が完全に消え失せている。
何も感じず、単に目の前にある被写体を記録しただけだったかもしれない。
どこにも押しを感じず伝える力が弱く、どことなく寂しい。
この後、半年経過してから病床に臥すことになる。
写真に内包される撮影者の心。
そういったものが存在するのかしないのか。といった論議は不要かもしれない。
何も考えないという言葉

何も考えずに撮る。という言葉。
設定に始まるさまざまな事項に気を配り撮影する、といったようなプロセスを重たく意識するのではなく、もっと気軽に楽しく撮りたいね。という意味で使われることが多かったように思う。
でも知らぬ間に、本当に頭を一切使わずにただスマホを構えてシャッタータップするだけ、な時代に。
気軽なお散歩撮影の楽しみを語る人も少なくなった。
そして今、
作品として残すべき写真は、webに無秩序にアーカイブされトラフィック稼ぎのためだけに単なる消耗品に成り下がった画像データの巨大な山に押し潰されてゆく...。