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宮本章光/宮本陽の視点「開闢」And EM Official Blog

みやもとあきらのしてん AKIRA MIYAMOTO@And EM

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この年の春を過ごす

この年の春を過ごす photo 宮本章光

静かに。
穏やかに。
緩やかに。

この年の春を過ごします。
この年の氣を感じ受け取ります。

受け取った氣に、感謝の意を込めて返信します。
ここにエネルギーの循環が生まれることを感じながら。

今日は、天からは一切の語りが降りてきません。
静かに、穏やかに過ごす日。




会話とはエネルギーの交換

美しい存在に美しいと伝える photo 宮本章光

言葉を話さない存在と会話などできるはずがない。
と、旧い凝り固まった意識を乗り越える時期を迎えています。


隷属化を仕組んだ者による世で誤った教育を受けたため、そのように「自らの意識で現実を作ってしまう」だけだったのだと。
では、
自らの意識で、すべての生命・存在と会話ができるはずだ。との現実を創ってみてはいかがでしょう。

すると、
言葉ではなく、そこには判らないながらも、何かどことなく感じるものがあることに氣がつきます。
これこそが固有の生命ごとに存在するエネルギーだと。
言葉ではないために、何も明確な言語的な伝達はありません。けれど、感じることは可能でしょう。
初めは、なんとなく暖かい印象かもしれませんし、あるいは弱い風に触れる感触かもしれません。

幼少期にそうした感覚を持っていたことを思い出しませんか。
頬を撫でる風は、実際の空気の流れとしての風だったかもしれません。しかしそれが物質的観点からの実際の空気の流れであろうが、感覚の世界の流れであろうが、どちらでも関係がないことに理解が及びます。どちらでもいい。

このように何らかの感覚・感触を得ることそのものが、エネルギーの行き来が発生している状態だと判ります。
そして、
その行き来・交換という変化そのものが「会話」であったことも。
コミュニケーションは、言葉だけを使うのではなかったことに。
会話とは、まさしくエネルギーの交換であることに。





顔から滲み出る人柄とエネルギー

顔から滲み出る生命の波長 photo 宮本章光

顔を見れば判る。
顔は自分の履歴書。

顔については、このような言葉により数多く語られてきました。
この国の言葉には言霊が宿ります。
これから先の生き方を180度転換するには、口にするもの二つを劇的に変更する必要があります。
その一つ。「ことだま」。


顔とは、
その生命・その存在の性質や性格が表出している場所。
顔とは、
その存在が持つエネルギーの表現キャンバス。

だから顔を見れば、その存在の性質・性格が一目瞭然。

旧字体である「顏」は、
鉱物性顔料と流れる髪を表現した、まさに顔そのものを示していたと言われます。


多くの生命のみならず、わたしたち人間も例外なく、
言霊の媒体としての言葉を口から発し、
性格・性質を顔によって表現し、
エネルギー体そのものである自らの存在を掲出していることが判ります。


ある程度の年齢を過ぎれば、自分の顔に責任を持て。と、語られてきました。
正しい教えだと判ります。
けれど、そのためには時差があるこの地では、積み重ねた過去からの履歴が必要です。
一朝一夕には「顔」は作られないからです。

自分の顔にそれほどまでに自身があるのか。
と言われても困りますが、自信などありません。
大切なことは、このいまの瞬間を悔いなく精一杯生きることで、その履歴が刻まれてゆくという事実。


隷属化を仕組んだ者たちによる、くだらないエネルギーやノイズに触れ続け、体にダメージを与えることを意図して製造されたジャンクフードを口にしながら言霊を台無しにするような発言を繰り返す。
恥ずかしいと感じることさえできなくなった者は、やはり幼児教育から再度やりなおし、あるいは石ころからやり直しをする、との意味がよく判ります。

岩石で50億年を過ごし、やっと動物に踏んでもらって自分は石だったんだと氣づく、遠大な旅。
動物の糞をかけてもらって、やっと自分が石だったと目が覚める。
ここで「ああ、氣づかせてくれてありがとう、イノシシさん。」という境地に達するかどうか、その次元のプロセスからのやり直し。

そのレベルではなく、現在・いま、ここで人間として体をお借りして生きてゆけること。
ここに感謝が湧き出るのです。
無理やりに・エセわくわくするなど一切必要ありません。
この瞬間瞬間を大切にすることで、この先に顔が形作られてゆきます。

顔から滲み出るのは人柄のみならず、その生命存在「そのものの姿」「そのもののエネルギー」であることに理解が及びます。





体調不良と生命としての振動周波数

美しく謳歌する生命たち photo 宮本章光

体調不良を訴える人たちが急増している様子を感じます。
それは、もしかすると「生命としての自分の周波数」に対して違和感を感じているのかもしれません。
(今日の記事では、4年前に自分から体に毒を取り込んだことによる不具合に関しては横に置き考慮せず進めます。)


---具合が悪いから医者へ。
---調子がよくないから病院へ。
などと安易に走ってしまう姿があります。人それぞれ、その人の自由です。
当然、放置して状況が悪化することもあるでしょうが、それはその人の選択なので誰も口を挟む余地はありません。

けれど、
「有料屠殺場」とさえ揶揄される現代の医療業界に、自分から飛び込んで、尚且つ少なくない費用を投じて、さらには石油利権の塊である魔法の粉(錠剤や液体もあるでしょう)を、何の疑いもなく自らの体に放り込む。

この数年の間に世の裏側で行われてきたことを、なぁ〜にも知らない。いえ、正確には「知ろうとしない」。
それもその人たちの選択なので、もはや触れる必要もなく放置するのみです。


ここで氣がつくこと。
それは、
自分の波動が落ちると不快感を感じるケースが極めて多いという事実。
反対に、その波動が上がれば心地よさと安堵感、満足感が高まるという体感。誰しも経験しているはずです。

まさに心のセンサーとともに、肉体の振動周波数に対しても、同じように極めてデリケートな波動の違いを感じ取るセンサーがあることが判ります。
ところが、
ここでまたまた大きな過ちを繰り返します。


わたしを狙ってネガティブ存在が攻撃しているんだ、などと。
はい、もちろんそれはあるかもしれません。いえ実際にあるでしょう。経験もあります。
でも、
この場合には、極端に強い負の念に囚われるので、逃げられない:まるで手足を含め五感すべてを塞がれたかのような苦しみがあります。
怨念といったような言葉で表現されるものでしょうか。詳しくないのでいい加減なことは言えませんが、生き霊ともされる「他の人・生命から放たれた負の念」は、初めに記した「周波数が異なることによる違和感」とは、まったく異なる感覚だということが理解できます。
同じ不快感・負のエネルギーであっても、まだマシな負なのか、極限まで真っ黒な負なのか。
例えるなら、それほどの差があることがわかります。


これらをごちゃ混ぜにして、よくない存在に狙われている・襲われている...等々、これはどうなのか、と感じる事例が意外と多いように見えます。
多くの場合、自らの波動が大きく下がっていることによる不快感に過ぎないケース。かもしれません。
もちろん、この地で体を持つ人間ですので、さまざまな要因で周波数が低下することなど日常茶飯事だと理解できていれば恐れることはないはず。

喜ぶべきことかもしれません。
そうした不快感を感じられるところにまで精神面の成長が実現したのだと。
寝食を惜しんで馬車馬のごとく走り続けることで、病床に伏すまでその違和感をスルーし続けた、あるいは感じられなかった時代がありました。
しかし、いまならば、激しく大きな違和感がシグナルを発し、緊急停止するであろうことが予想できるからです。


すべての生命そして物質さえも、固有の振動周波数により生存・存在している。
その周波数の乱れにより、病にもなり不具合も生じる。
逆に言えば、その周波数をうまく採り入れ活用するのなら、そうした災いとは無縁になるのだと。
その言葉の本質を知る時代に入りました。






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