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宮本章光/宮本陽の視点「開闢」And EM Official Blog

みやもとあきらのしてん AKIRA MIYAMOTO@And EM

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「対症療法」と「原因療法」

存在するエネルギー photo 宮本章光

卒業後、企業へ就職した段階で、幾人かの先輩社員は「対処(たいしょ)療法」という言葉をオーバーアクションと共に使っていました。
新人だった自分には、社会人の姿が新鮮に感じたものです。
けれど程なくして、
それは「対症(たいしょう)療法」が正しいのだと直属の上司から聞くに及び、あぁ「声が大きいだけで間違いさえも正しいことにされてしまう」んだな、と感じたものでした。

当時昭和61年、すでに39年間ほどの年月が流れました。
今でこそ、自分軸だとかのワード語る人たちが増えました。ブレない自分とも言うのでしょうか。

当たり前でしょう。
自分の考えや意志を持たずに流されるまま生きることを教育段階から刷り込まれてきました。それが洗脳でした。
結果として、人と同じように流されることが「正しい」と勘違いしてしまったのですから。

たとえ砂粒ほどであってもしっかりと「自分の考え」を持っているのなら、その大多数が「誤っている」場合には、激しく違和感を感じるものです。
心のアラートが爆音を鳴らすのですから、居ても立っても居られなくなります。
然るに、支配したい者たちは、
この違和感を受け取るセンサー=直感さえも台無しにするように、あの手この手でこれでもか!と、隷属化「仕様」の人を大量に育ててきた歴史があります。
食から水道水から空氣に及ぶまで徹底的に。


いま2025年に及んでさえ、そのセンサーは腐り切ったまま、よりによって崩壊と滅亡が決定している古い仕組みに「身を捧げる」のは愚かだと感じざるを得ません。
でも、それが本人の選択である以上は、他人は触れることができません。


自分のアタマで考えれば瞬間に答えが導かれます。
目先の苦痛・恐怖や、故意に名前をつけた症状から逃れたい氣持ちを逆手にとって、その表面上の物理処理だけで儲ける仕組み。
それが対症療法。
原因追求を根本から行い、土台から改善しようとするのが原因療法。

ここに激しく違和感が生じるのですが、腐ったセンサーは、さらにさらにもっと腐るように上塗りされてゆくことさえ感じ取ることができません。
それが支配者のズル賢さ。
けれど、そこにハマって苦しむのもこの地この世の醍醐味なのでしょう。

新しい長靴で、わざと雨上がりの水たまりに入って歩いた経験をお持ちの方も少なくないはず。
これをやるために、この地にやってきたのだったと振り返りながら。


一つだけ、たった一つだけはっきりしていること。
それは、
この先には、人に流されている限りは、生きてゆくことさえ困難になるのだと。
毒を自分の体に盛ってこの地を去った人たち多数。これを見ても判ろうかというもの。
大多数と同じことをやっている限りは、望ましい世に身を置くことは決してできません。
なぜなら、
自分の道・自分の世界は「自分の心」と「自分が維持する周波数」が生み出すからです。
人と同じ考え、人と同じ行動、人と同じ意識を持ち続ける限り、その集合意識が持つ周波数は、恐怖と怒りと破滅に合致する波長でしかないからです。
それがこの地の「仕様」だからです。

目の前に次々と出現するワルものを「避ける」だけの世界では、まさに対症療法でしかあり得ないのです。
ゲームの中でさえも、その「やり方」が徹底されてきました。洗脳・洗脳・洗脳...。

原因療法によって根本から変えてゆくには、そのタイムラインを乗り換える以外に方法はありません。
自分の心によって。です。




「優秀」だとか「上等」の持つ言靈

アジサイ2025 photo 宮本章光

この国の言葉には言靈が宿る。
聞き飽きたかもしれません。

このところ大きな違和感を感じる言葉が増えました。
それは、
その言靈との波長が合っていない証明でもあります。

まず前提として、波長が合うか合わないかは、正しいか正しくないかではないこと。
良いかよくないか、もまったく関係がないことを大前提として理解しておく必要があります。


「優秀」というワード。
「上等」というワード。
周囲でよく耳にする機会が増えています。
けれど、そのワードからは、あまり「心地よい感覚」を感じることがありません。
これが違和感。
もちろん個人的感覚に過ぎない、とお断りをして続けます。


優秀。上等。
どちらも、いかにも教師・教職立場(洗脳のための媒介人)からの視点だと感じること。
優秀、と語るのは、一見褒め言葉のように見えますが、優秀ではないものとの比較論がそこにあるように感じます。
上等、と口にするのも、同じように称賛の言葉のように聞こえますが、上等ではないものとの比較によって差別化することで褒める手法になっていることを感じます。

ここに違和感を生じるのは、
教職的立場から人を評価する感触が、ストレートに伝わってくる点であろうかと思われます。
いずれも、人を優劣によって選別する判定人という立場そのものに対する違和感だと思っています。
ある意味では、そうしたムズムズ感としての違和感が判別できるようになったのは喜ばしいことでもあります。

繰り返します。個人的感覚に過ぎません。
けれど、
同じように褒めるのならば、
優秀ではなく「素晴らしい」だとか、上等ではなく「立派」だとか。
たとえば、そのように別のワードもいくらでもあるように感じることが多い状況です。


まさに言靈。
ひとつ一つの言葉がエネルギー存在そのものだと学びました。
であるならば、より望ましくより心地よい性質を持った周波数を維持したいもの。
これが選択。
これこそが意志表示だと感じます。




歴史は瞬間瞬間の積み重ねで作られる

春日の大楠 photo 宮本章光

歴史とは、努力と勤勉の結果として作られる。

もしそのように認識しているとしたら、かなり激しく間違いをしている可能性があるかもしれません。
時間は、変化の連続により結果として積み重ねられたもの。その客観尺度に、歴史というワードにくるんだ価値を与え一人歩きさせていたのかもしれません。


まずその前に。
時間という、元から・始めから基準となる「長さ」が存在し、その流れに沿って動いているんだという認識。
これは、これまでの世の支配のために仕組まれた洗脳ではないかなと思われます。
宇宙意識(そんなワードがあるのかどうか不明ですが)が拡大するに従って、時間さえも自ら創り出した瞬間瞬間の積み重ねである、といった意識が多数を占めつつあるように感じます。

まさに、瞬間瞬間の結果の積み重ねが流れとして認識されていただけだと。
瞬間瞬間に自ら作り出したエネルギー波動が蓄積し、結果としてこの地に顕現化し時間となる。

他方、
ボーッと過ごせば何も得られない、走り回って体を酷使して働け!カネを手に入れ資産を築くことが美徳だ。あるいは、体や臓器を痛めつけ・壊しそれほどまでに努力したことが勲章だ!などといった観点もあります(ありました=過去形)。
こちらも同様に、この世を支配せんがための洗脳。そしてそのための枠組みとしての資本主義という名の社会。加えてダメ押しの貨幣経済。
これらはすでに崩壊の道が決定し、目の前で音を立てて沈みゆくさまを眺めている最中です。


仮にボーッとしていても、そこに思考があれば、その思考に合致するエネルギーを生み出しています。
まして眠っていようとも、そこで見る夢というエネルギーを生み出さない者は誰一人として居ないわけで。

どのような種類のエネルギーを「生み出させたいか?」によって、この地を支配したい者たちは、負の波動を激しく生じさせるように仕向けてきたこと。
まさしく、わたしたちは負のエネルギー生成モルモットに過ぎなかったこと。
この場では、もうこれ以上の文字数を必要としません。
(この先には、自分という存在の本当の姿は、水溶液に浸された脳のみが外部から見た時の本当の姿かもしれない、と繋がってゆきますがここでは触れずに置きます。=ムーンショットはすでに形となって稼働していた論。)


結論として導かれるのは、
ボーッとしようが、走り回って肉体を酷使しようが、この瞬間瞬間に「生み出したエネルギーの種類」は何なのか?
これが最も重要であると知り得ます。
そして、自らが生み出したエネルギーにこそ「大きな責任」があることも。

一人ひとりが作り出した周波数によるエネルギーは、集合体となり、時差を伴ってこの世に顕現化・物質化してゆきます。
時差そのものさえも、瞬間瞬間の生成の蓄積により生み出されていると理解してゆきます。


わたしたちは、教育という名の洗脳において、歴史とは偉大であり価値のあるものだ。と刷り込まれてきました。
これは、上記のように走り続けるモルモット育成のためのプロセスにしか過ぎなかったかもしれません。
では、
歴史として語られるほどではない、取るに足りないものは価値がないのか、です。
偉人が血の滲むような努力をしたから偉業が成し遂げられたと美談に仕立て上げられ、比してより劣る一般臣民は、さらにさらに努力をしなければならない。という論法に持ってゆくための手法だったこと、もういいでしょう。満腹です。


繰り返しになりますが、偉業であろうが、取るに足りないボーッと過ごす姿勢であろうが、
そこで意識し生み出した「エネルギーの種類」が重要なのです。
ボーッと過ごしていても、そこに望ましい近未来を描き続けているのなら、それは最大の功績者となり得ます。
一見同じように見えるものの、ボーッとオールドメディアに触れ、その負のエネルギーに同化し増幅する姿は真逆であり、且つそれは人間として「最低の生き方」であることも。
(他の人を評価する権利も立場もありませんが、学び・精神性拡大と成長を目的としてこの地に生かせていただいている機会を無にしているとの観点からは、そのようになりましょうか。)

歴史というワードで語られてきたイメージは、努力を根底に置いた根性論や美学が背景にあったように感じます。
しかし、単純に時間の経過という感覚、その連続の結果が歴史であると知るならば、価値の有無は「エネルギー周波数」が持つ性質・価値に左右されることを学びます。


この御神木、樹齢500年と告知されていますが、それは、決して洗脳メディアに触れることなく、いまこの瞬間瞬間の積み重ねとして500年もの長きにわたり命を紡いできた姿です。
偉業を成し遂げたから偉いのではなく、また歴史というワードに名を残したからすごいのでもありません。

まさに、一瞬一瞬その瞬間を精一杯自分らしく生きてきたからこそ、その姿その巨大な力に圧倒されるのです。
まやかしの捏造された「歴史」など、何の価値もないことを知る瞬間でもあります。

では、わたしたちは、この瞬間に何を抱き何を生み出しますか。




彼らにとってはそれが必要だったから

フォーカス位置で決定する photo 宮本章光

何にフォーカスするのか。
聞き飽きたことかと思われます。

写真の場合には、どこにピントがきているかによってその表現が決まります。
もちろん、正解はありません。
どこに持って来ようと、それが表現者の意図である限りは。


同じように、
この地・この世に存在する「どの周波数・どのエネルギー」に合わせるのかは、個々人の自由。そこに間違いは存在しません。
但し、それが自分にとって本当の意味で正解か、あるいはこの先に必要であるかどうか。
それは、
結果が出るまで理解できないところが、この地が極めて難易度の高い学習教室とされる所以でしょう。

その先の結果を予見する、あるいは「遠い昔・遠い地でその選択はよくない結果を導くと体験済み」の場合には、その直感が指し示す「違和感」に従い、道を変更するのが「あとで泣きを見ない」この地独特の処世術でもあります。

自らそのセンサーに蓋をし、自ら台無しにし、自ら旧いレイヤーの隷属化仕様に合わせると何が起きるのか。
この5年間で十分に理解したはず。
多くの失敗事例を目の当たりにして、何を学んだのでしょう。
お借りした体さえも失った彼らは、今になって後から後悔しても体は決して元には戻りません。
併せて、
この地で人間の立場まで与えていただいておきながら、その役目を果たせなかったマイナスポイントも山のように溜め込んで。
借金はまさに永遠に続き、苦しみ続けます。なんと変わった趣味でしょうか。


この地は、物質次元、物質世界なので、モノとして形質形状を現したものは絶対に元に戻りません。
頭で理解しても、結局は体験しないと学び得ない。
いかに地球人は...と感じるところかと。

彼らにとっては、それが必要だったから。
水戸黄門の印籠のように、その一言で「片付ける」のは簡単です。
けれども、
その波動が周囲や、あるいは他の生命・生態系など数えきれない対象へ及ぼす影響まで考えていない(考えられない)ところが、いかにも未熟な地球人らしい。

同じ地球人として恥ずかしいと感じること然り。
いつまでも勧善懲悪ドラマの主人公氣取りで浮かれている限り、永久に幼稚園児以前の再教育を受け続けるのみです。
彼らにとっては、それが必要だったから。と。




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