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宮本章光/宮本陽の視点「開闢」And EM Official Blog

みやもとあきらのしてん AKIRA MIYAMOTO@And EM

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道はどこまでも

飯舘の夏 photo 宮本章光

どの道を選ぶのか。
どのように歩むのか。

この地にある道は、同じ状態の道としては永遠に続くことはありません。
どこかで行き止まりになったり、いずれは併合したり。
しかし、
その後には、再び道が続くのです。


すべての魂の歩みと同じだと感じます。
学び成長するその道は永遠に続きます。
ただ、
途中で行き止まりもあれば、どこかで乗り換えたり、他の道と併合したり。

どのように道が表現されるのかは、自分次第。
それが選択という言葉で示されます。


選択が未来を創り、
選択が因果を生み、
選択が拡大と成長の手段・方法を決定づけます。

然るに、行き止まりがあるか併合されるかどうかは関係なく、永遠に続いてゆきます。
それが道の本質。
どのように道を楽しむのか苦しむのか。
それが自分の意志表示。

道はどこまでも続きます。




そのままでよい

そのままで photo 宮本章光

そのままでよい。
そのまま。

何もしない、という勘違い。
大切なこの地の波動を安定させ維持する。
それが「する」こと。「やる」こと。

何かし続けなければならない。
走り続けなければならない。
忙しくしなければならない。

そんな洗脳で、結果として不要なノイズに触れ続け、挙げ句の果てにこの地を収集がつかないレベルにまで穢してしまったのはすべての人間。

そして、
ここに氣がつけばこそ、過ちを詫び浄化し、この先に望まれる波長のエネルギーを生み出してゆきます。
それが人間の役目。
これが人間の仕事。

この状態をキープすることそのものが、そのままでよい。という本質に他なりません。
伝え教えてくれる存在へ礼を捧げ。




旧いエネルギーは水に流して

大きな川も小さな川も photo 宮本章光

大きな川も、小さな川も。
早い流れも、緩やかな流れも。

水の流れから生み出される力があるように思われます。
それを感じようとしてみる限り、その波長が示す力を受け取ることができます。

合わせてみようとしない限りは、その周波数に合致することは絶対にあり得ません。
自ら能動的に。です。
何も受け取れない。何〜にも感じない。
それは、自分から合わせるという行動を行なっていないから。


昨日の記事にも記しました。
【こどもたちは知っている】2025/06/29(Sun) [Link]

素粒子の挙動は「観測者の有無」によって振る舞いが変わり物質化・顕現化すること。
量子力学を学ばなくとも、もう耳タコ状態でしょう。
観測者とは、水が発する波長に合わせにゆく、というその行為そのものが観測者存在の有無であることを知りましょう。です。

-- 観測者不在=自ら感じようとしない。
-- 観測者が存在=自ら感じようとしてみる。
素粒子は、観測者が存在した瞬間に挙動が変わるとされます。摩訶不思議。
それがこの世のみならずすべてを包括するエネルギーの法則。


この国には貴重な言靈があります。
旧い役にたたない波動は「水に流し」、新たな世を創り上げるため心の底から洗い流すことです。
有耶無耶にすることではなく、過去を無かったことにする。とも少々異なる感覚ではありますが、一切合切を更地にしたあとでしか新しい建物は建たないのと同じで、ここはすべてを水に流して新たなエネルギーを生み出し拡大してゆく必要がありましょう。

洗脳され隷属化されてきた世の標準仕様、自分から感じようとしなくても勝手に流れてきて口に入れてくれる感覚。
そんな旧い考え方など、とっとと水に流して、新たな世に即した生き方をすることです。

それが、自らの意志表示と選択だと。




こどもたちは知っている

ヒルザキツキミソウ photo 宮本章光

この時期、あちらこちらで見かける「ヒルザキツキミソウ(昼咲月見草)」。
住宅街の谷間にポツンと位置する公園でも、放置され少々荒れた歩道の端にその姿と出会うことがあります。


小学生と思われるこどもたちが、スマホカメラで撮影しています。
それも、しっかりと「同じ目の高さ」になるようにしゃがみこんで。
Z世代・α世代のこどもたちは、彼ら花々と会話ができるに違いないと感じます。

昭和世代(もしかすると平成でも)おとなたちは、立ったままスマホを花に向けるだけ。
写真を撮る以前の、単に画像を記録するという観点でしか捉えていない証拠でしょう。カメラを向けてシャッタータップするだけ。
これでは植物たちの周波数に合わせ会話をすることはできないように思われます。
なるほど、物理・物質次元的かなと。


さきほどの小学生は、次はこの先で草をつついている鳩の前に座り込み、彼らの姿を捉えに行きました。
元氣な鳥たち。
鳩以外にも美しく囀る小鳥たちが、周囲の木々の枝で歌います。
人間も、これからの世代:今のこどもたちは、氣を感じ取ることができる。
そのように見えました。

氣とはエネルギー。
それを「感じようと能動的に合わせに」行かない限り、その波長を感じることは不可能です。例外はありません。
口を開けて待っていれば流し込まれる。
そんなオールドメディアに麻痺した感覚そのものがもはや時代遅れ。
いえ、もうこの先の世ではお呼びではない生き方そのもの。
SNSの無限スクロール然り、youtubeの無限次の動画提案然り。


素粒子の振る舞いは「観測者」があってこそ顕現化・物質化する。
この量子力学で語られる有名すぎるフレーズが脳内に響き渡ります。

「感じられない、そんなもの。」
「だいたい、氣なんて無い。それは氣のせいだ。」
などとというのは、激しく時代錯誤な恥ずべき発言となりました。
それは、
「あなたが感じようとしていない」から。
入り口の時点で鍵のかかった扉には何ものも入ることはできません。

こどもたちは知っているのです。本能レベルで。
ようやくこの大原則に氣がつくおとなも増えつつあるようです。




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