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宮本章光/宮本陽の視点「開闢」And EM Official Blog

みやもとあきらのしてん AKIRA MIYAMOTO@And EM

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まず意識が「先」にありき

美しく語るチェリーセージ photo 宮本章光

この道はいつか来た道。
ああ、そうだよ。

小学校時代に感じた「モヤモヤ」とまったく同じ違和感です。


「意識が先」
その意味・本質を本当に理解できている人がどれほど存在するでしょうか。
美しく咲き誇る花を見て「美しい」と感じるのではない。ということ。
順番が逆なのです。

はぁ?君、アタマ大丈夫か。と、もうこの段階で理解不能かもしれません。
--そこに花があるから。
--それを見たから感じるのでしょ。

この思考プロセスは、この物理次元独特のもの。
「どうしてそこが理解できないのか!」
「こんな簡単な問題、どうして即答できないのか!」
そんな感覚、小学校時代に毎日のように感じていたモヤモヤ。いえイライラだったかもしれません。
今もまったく同じだと鮮明に思い返しています。

唯一異なるのは、あの小学生時代は「わたしにとっての第一次大失敗時代」だったこと。何度かこの場にも記しました。
◆参考アーカイブ【生後21,916日めに思う】[ Link ]
今回は失敗は許されません。ここだけは踏み違えしないよう慎重に歩みを進めます。


先に花があったからではないのか?
違うのですね。
そこに花があるのは、自分が創り出した究極の選択とその結果かと。
今では知らない人のないシュレーディンガーの猫と同じく、そこには花がある・ない、の両方が重ね合わせで存在している。
「ある」ほうを選んだのは自分の意識。
これが「量子力学の観測問題」と呼ばれている摩訶不思議(=それは物理次元の頭で考えるから)な事象とされます。

意識とは量子そのものだと思われます。
だから意識が創り出すものが顕現化し物理次元に出現する。
ここまでは、何となく「この世界をかじった人」には判るはずです。


ところが、ここでまたまた誤った理解の道に進んでしまいます。
「この世はホログラムなんだよ」
「目の前の風景はVR(ヴァーチャルリアリティ)なんだから実態はないんだ」と。

ええ、恐らくそのVR論は、ほぼ間違いないでしょう。そう感じます。強く感じます。
脳に電極が刺され水溶液に浸された(かどうかは分かりませんが)どこかの世界で、そこに繋がったAIが見せる「この世というVR」を見ている状態。多分これが事実なのではないかなと。
けれども、
目の前に「顕現化したあと」の物質はホログラムではないはずです。
重ねて文字に記します。
「顕現化したあとは物質になってしまっている」です。

映画のようなもの。と例えで固着してしまうから、そんなもの電源切ったら見えないやろ!ってな発想になるのです。
この地のVRは、そこまで「安物(やすモン)」ではないでしょう。70億人を数千年間、騙し続けるレベルなのですから。


試しに、大きめの重いマグカップを目の高さから落としてみるとどうなりますか?(実際に行って被害が出ても一切責任は持ちません)
下手をすれば、自分の足指の上に落ち、激しく指の骨が砕けるはずです。もちろんカップも粉々でしょう。
(繰り返します:実際に行って被害が出ても一切責任は持ちませんのでくれぐれも実際に実験なさらないようお願いいたします)

この重要ポイントを間違ってしまうのです。
「意識が創り出したエネルギーが、一旦、顕現化して物質化したものは、この地においては物質に他ならない。」と。
青酸カリの入った箱の中で「猫が生きているか・死んでいるか」(上記シュレーディンガーの猫)は、
重ね合わせの状態で「量子状態で共に存在している」でしょう。
けれど、
観察者が意識を持ってその箱を開けたなら。その段階で量子が顕現化して「生きている状態」か「死んでいる状態」かが決定した「猫という物質」に具現化することを。
ここ。一旦「顕現化」した「後(あと)」は、そこに物質として存在してしまう。という部分なのです。


止めどなく続きそうなので結論を急ぎます。
地球上に70億人だか80億人だか不明ですが、その「すべての人」が、そこに花が咲いていたから美しいと感じたんだ。
という思考回路で「この地に顕現化」させているために、そのように物質化してしまいます。
同じく、
「すべての人」が、台風は低気圧が発達して地球の自転の影響によって回転を始めて勢力を増すんだ。
との(支配者層により騙された)思考で固まっていたから、台風やハリケーンとして「顕現化」してきた過去があったのです。
いま、どうですか?
ここ数年。もう目が覚めた人が増えましたでしょう。気象操作という悪事を知った人が増えた結果、どうなりましたか?
気象庁のwebを調べるまでもありません。
だから、
いつまでも負のエネルギーに燃料を投入し続けるのはやめなさい。と言われるのです。
故意にその方向に導こうとして仕組まれているのですから、まんまと自分からハマってゆかないことです。


「意識が先」とは、
長年、気象操作され騙されてきたんだから、そこにフォーカスしない。という人が「台風の発生」あるいは「この国への上陸」を「顕現化させないよう・具現化しないよう」な現実を創り出している、と理解することができます。
これを更に進めてゆきますと、
「言葉を話さない限り、相手に意図が伝わるはずがない。」---> 「テレパシーの実現」へ。
「人間が空を飛べるはずがない。」---> 「反重力の仕組みを知り使いこなす」へと。
といった展開が見えてくるのです。
それは、決してSFの世界ではなく。故意に劣化させられてきた「地球人」が逆襲^^を始める時を迎えています。

この先に進むべき道は、
「意識が先」であるはずです。
ある意味では、何も考えずニュートラルのまま居るだけで良い。というのも大正解に違いありません。
あるいは、
わくわくして幸せ引き寄せて。も、一つの見方としては正しいのでしょう。
但し、その幸せ=モノ=お金、という図式で解釈しているから間違いですよ。ということなのですが、ま、それはここでは触れずに流します。


今日はいきなり難しくなったかもしれません。
自分自身の整理を兼ねて文字に落とし込みました。まだまだ足りません。
ともに試行錯誤しながら、意識を先に・望ましい風景を顕現化させてゆきたく思います。
まず思い描く。そうすればこそ、目に見えないフィールドにその想いがエネルギーとして出現し、それがこの地に顕現化してゆきます。




それが「人類の進化」ではないかな

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人類の進化?
それ、新喜劇のネタやろ?
と言われそうなので、一応最初に掲げます。

そもそも人間は猿から進化などしていませんし、よくよく調べれば「これも嘘・洗脳の一つ」であったことに辿り着きます。
この地の人間は、原始先住民をDNA操作して作られていること。
そうやって他星系からの訪問者が大昔には数多くやってきていたこと。
自分たち(先住原始地球人)の能力をはるかに凌駕する存在に対し理解ができなかったため、それを神として崇めたこと。

当然、よくない方向に力を向ける存在もあるわけで、彼らこそがわたしたちのDNAを故意に劣化操作し、隷属化させるべく永年に渡り仕組んできたことまで。
事実、それが成功したからこそ、ここまで激しく劣化した地球人が出来上がっているわけでして。

そんな情報はアテにならん!だとか、ウソに決まってる!君は狂ってる!などと言わざるをえない、自分が教育を受けてきたことを否定されるのが当たり前でそれが真実だったのですから、もうね、このあたりで心を入れ替えて「精神的に成長して大人になる」時期だと思います。
あぁ確かに、太古のネガティブ存在の企みは成功したんだな、と。そのあなたの反論発言を見る限り。


忙しすぎる。だから、スマホ片手にメシを掻き込む。
体によくない「体を壊し健康劣化目的に仕組まれた」食べ物を大量摂取する。
早いことが美徳、コストを下げることが最優先。
そんな「企業戦士」がカッコいいとされたこと自体が洗脳。そもそも世の企業自体、一つ残らずグローバリストの遠大な支配構造を築き上げるために存在していることに意識が及ばない。
(だからこそ聡明な諸氏は大企業から卒業したのです・今だに在籍している以上、その企みにご自分が加担し続けているということになりましょう。)

資本主義という富の移転の仕組み。それを実行するツールとしての貨幣経済。
そして、臣民劣化と隷属化のための教育という仕組み。
石油利権と絡めた上に食の支配と健康という聖域に紐つけた医療という見事な魔法。
さらには宗教とメディアまで徹底されてきたこと。
極め付けは、それらを学問として威厳を持たせ、その仕組み自体を絶対視する感覚までも刷り込んできました。

そもそも、生きるために・カネのために。だとか、成功とは貨幣資産の蓄積と増大にある。などと隷属化と支配化のための道具を崇めている時点で、あなたの人生は終わっているのです=この先のロードマップとは完全に異なっている。ということです。

もういい加減に卒業なさってはいかがでしょう。
古い洗脳というコートを脱ぎ捨ててしまえば楽になるのはずなのに。いつまでも、そんなバカなことあるかい!だとかやっているのはもう恥ずかしさの極みでしかありません。
はい、自分もそれをやりました。
とことんまで実行しました。だから言います。

忙しすぎるから休暇の日には、目一杯仕事から離れたい。そして存分に遊びたい。
結局、そうやって「借り物の体」は、いつになっても労り・休めるための時間が与えらえない。
これこそが、借り物の体を痛めつけ負の因果を重ね続けていることに氣がつきません。
あろうことか、被害者意識さえ抱きながら、自分が生み続ける負の想念を増大するばかりであるこにも理解が及ばない。
積み上げた負の因果は、必ず解消しなければならず特大のブーメランが自分に返ります。

結果として病床に伏すことになります。
強制終了の合図は、天の助けであったことに理解が至ります。
生きながらえ、まだまだ学ぶことがあるぞ!と。


こうやって「大失敗」を重ねてきた、人生という名のハンドリングが思いっきり下手な人間が果たせる役割。
それは、
間違ってもそれを勲章にすることではなく、同じ過ちをする(しかかっている)人たちへ、その体験を伝えること。
でも、伝えたところで、本人は「過ちの道をトレースしない限り学習しない」ので、同じ失敗をせぬように、とは言いません。
失敗して学んでいただければいい。
それは、もしかすると、今世でお借りしている体を失うレベルかもしれません。
しかし、それが自分の選択であると知り・学習するためには、そこまでの痛みも必要なのでしょう。

そこに至った時に、
何か人生の運転が稚拙な輩が、そんなこと言うてたな。と思い出してもらえれば、その時点でようやく学びとして・糧として体得できるのだと思っています。

このようにして、一人ひとりが成長できること。
このように、一人ひとりが精神的に成熟度合いを高めてゆくこと。
これこそが、まさに「人類の進化」ではないかと感じるのです。

いつまでも同じことを繰り返していては進化は望めません。
進化を選択しない限り、その世は崩壊し滅亡します。いま、その崖っぷちに立っています。
古い道を選びたい人は選べばいい。しかしその道は崩壊し滅亡が決定しています。
進化できるかどうか。
それは、個々人の「目に見えない」精神性の拡大・成長・成熟にかかっています。




何をどう受け取りますか・初めの第一歩

ミントが発する力強い氣 photo 宮本章光

力強さでしょうか。
暖かさでしょうか。
あるいは、
繊細さかもしれません。

鮮やかさ。
とは、
人の目が認識する「さまざまな色彩感」だけではなく、そこから発せられる「異なる力の種類」でもあることを知りたいものです。
それが、可聴帯域の振動・周波数になったとしたならば、それは「音色の違い・音階や響きの違い」となって伝わるでしょう。

わたしたちは、本来、そうしたエネルギーの波動・波長の「違い・差」を感じる心を備えていました。
それが証拠に、
モノクロ写真から大きなパワーを感じることができるはず。
水墨画に込められた繊細な響きを受け取ることができるでしょう。

何もかも。
すべて画一化・単一化させることで「感覚を麻痺させ」「思考を止めさせ」られてきました。
違うのです。
何もかも。

違いを感じること、すなわちエネルギーの違いを感じること。
違いを感じること、すなわち波長と周波数が異なるという感覚そのものを感じること。

すべては違って当たり前なのに、みんな同じで「お手てつないでみんな一等賞」などと悪平等に飼い慣らされてきた、悪しき教育の縛りから抜け出します。
教育機関従事者が偉いとでも思っているのでしょうか。この大きな時代の転換期に至っても、古い洗脳に冒された思考のまま、子供たちをダメにし尽くす愚かな年寄りが多いのには辟易します。

みんな違う波長なのですから、受け取り方も違っていて当然。
受け取る側もそれぞれ違うのですから、感じ方も違うのが当たり前。
だから、学ぶことができる。
それこそが、この地で体験すべきことでした。

ここにまで至って初めて、それぞれを尊重しその体験をさせていただけたことに感謝を述べ、ようやくそれらを超越してゆきます。
学び体験し成長する前から、世界は一つ・みんな一つ。とやっていては何も学べません。
まして、決まったこと・枠に入れて画一化するのが教育だなどと考える教育者など害悪以外の何ものでもありません。
(と、感じる自分の心さえ、自らの超えるべきハードルだよなと、天から啓示が降りてきます。)
いつまで「VR世界の中でごっご遊び」を続けますか。

違いを感じる。
違いを受け取る。
それが「はじめの第一歩」だと。




「裏側」を知ったあとに

紫陽花の葉を通り抜ける光 photo 宮本章光

ものごとには「表も裏も」ある。
それがこの地のお約束。

いま、永きにわたり「騙されてきた」歴史が覆されようとしています。
ここにさえ意識が到達できない方とは、双方で波長が響かないのでご縁は消滅したことと思います。
また、この感覚を否定し分離思考だと叫ぶのは「悪平等」そのもの、旧来のエネルギーなので、ここで終了です。
いつもの前置き・但し書き。


裏側を知ってしまいますと、それを誰かに伝えたくなるもの。
その昔、小学生時代、休み時間になれば「あれ知ってるか!これ、凄い秘密や!」と叫びまわる姿を多く見かけました。
わたしは、そんな話に「まったく響くことがなかった」ので、うさぎ小屋・鳥小屋の向こう側でひたすら本を読み続けた休み時間(室内に留まることができない決まりだったため本を持って外に出た)のでした。

裏側をすでに「知ってしまった」人たちは、いまこのタイミングで何をすれば良いでしょうか。
特大スクープだ!暴露情報だ!と踊ることでしょうか?

叫び踊るのは、それをやりたい人に任せておけばいい。
すでに答を得て、自分の糧としたはずのわたしたちは、別の役目があることに氣がつきます。
先に「答えを知っている」状態で、試験の答案用紙が配られている段階、それが今。

これ知ってるで!あれも判る!全問正解や!
この答案用紙に100点満点を狙い、鉛筆の芯が折れるほどの力を込めて記入することではない、と、ハッと我に返るのではありませんか。
はい、それが物理次元の実際の試験なら話は違うかもしれません。
けれども、ここは、
「黙って白紙で裏返し」退出することです。
もうこの教室とは、おさらばするのですから。

自分で選択する。とは、そういうことではないのかなと。
自分で創り出す、とは、こうやって新たな道を切り拓くことではないかなと。
そして、
「ものごとの裏側にも学びのための重要な役目があったこと」に感謝を伝えます。
「ものごとの裏側にも意味があり美しい(?かどうかは不明ながら)面も持ち合わせていたこと」に礼を述べます。


この展開に至って初めて、一(いつ)になる感覚に手が届くのではないかと思うのです。
みんな騙されてきたんだから、みんなに知らせて世の中変えなけれならない!それが行動するということや!
てな感覚で、「いつまでもみな同じになる必要がある」という悪平等に洗脳されたままの意識から「脱する」のです。
それは「一つになる」などという、誤った「言葉面(づら)だけ・うわべだけの精神世界」。
いつまでもやりたい人はやり続ければいい。


「裏側」を知ったあとには、それを認め受け入れ感謝とともに流し去ります。
それが自分の選択。
それが自分の意思表示。
裏側にも、必ず美しい姿が見えるはず。

こうして、意識が想念となりこの地の「もう一つ外側の目に見えない世界」に創り出されたものが実体となってゆきます。
真っ黒な負のベールに覆われたこの地を、綺麗な「氣」に置き換えてゆくのは、それを「やる人」が必要です。
もうこれ以上、負の力に燃料を焚べ続けるのはやめることです。

その仕組みを知ること。
その仕組みを使いこなすこと。
それが今生の学び。
それが今世の役目だと思っています。




成長し続けるのが標準仕様

紫陽花に意識を合わせる photo 宮本章光

その昔、高校時代の同級生。
映画研究部(のような)活動の中で、少々エグ味を盛り込んだ作品を制作していたことを思い出しています。

何てことはない、ストーリー性に隠し味があるわけでもなく(^^失礼)。
話は、こういった組み立てでした。
「食堂で食事を終え食器を片付けずに席を立つ生徒。」
「そこに現れた教師(だったか?学級委員か)、食べ終えたならきちんと元に戻しなさい。」と指導。
キーワードは「元に戻しなさい」。

画面が生徒にフォーカス、あろうことか食べ終わった食事がすべて口の中から吐き出されたと思いきや、そのまま食器に盛り付けられ「元通り」に戻る。
お察しの通り、フィルムを早回しで逆再生したものを一方向の時系列で見せている、というタネ明かし。
なかなか独創性がある、とも感じる、えっ!?と意表をついた作品でした。
かれこれ43、44年ほど前の前衛クリエイター。彼はどうしてるでしょうか?


いま、このストーリーが回想されたのは、
「この地でのすべての学びは一方向」だと感じるからではないかなと。

美しく花開いた状態から、その花が萎んでつぼみに戻り、葉が縮んで枝だけの姿に戻る...。
その昔の、口から食事が吐き出されるのと同じ逆回しのイメージでしょう。
決してそういった成長過程となることはないはず。いえ、少なくともこの地・この世では絶対ないと思われます。

成長とは、
学び・拡大し、そのプロセスを経るからこそ得ることができる。
体験したからこそ、結果として成長という果実を享受できることを知ります。
ところが、
いつまでも「口に入れたり吐き出したり...」を繰り返す、わたしたち地球人。
いつになれば成長するのでしょう?
我々を創りたもうた神も、痺れを切らしているのではないでしょうか。

成長し続けるのが全宇宙の標準仕様。
意表をついた逆回し再生の意外性は、映画の中でこそ素晴らしいのであって、この地の学びの工程にはふさわしくないように思われますがいかがでしょう。




さまざまな色があるように・形があるように

カモミールが輝く photo 宮本章光

煌びやかな色があります。
独特の形状があります。
それぞれ、自分らしく。

人は、みな違っていて当然で当たり前。
みんな同じでなくてはならない、と教育されてきたこれまでの世。
それを「悪平等」という。

その思考回路の延長線上で「一(いつ)になれ」「みなひとつ」それが悟りの境地だ。とやってしまう過ち。
激しく勘違いしています。
著しく間違った論理展開だと、いつになれば氣がつくでしょうか。
その回り道も、必要な学びだと見守ります。


さまざまな色があるように、
さまざまな形があるように。

自分の得意なことに取り組みます。
自分が心地よく過ごせる生き方を選びます。
そうすればこそ、それが自分の現実となってゆきます。




「救いようがない人」に贈る心からの暖かい波動

よもぎから受け取る力 photo 宮本章光

「よもぎ」
漢字ではどのように書くのでしょう。

webからは「四方草」「善燃草」「善萌草」などを知ることができます。
そして、
モチグサ(餅草):春に若芽を摘んで餅に入れることから
ヤイトグサ:葉裏の毛を集めて灸に用いることから
[ wikipedia ]
と呼ばれることも知ります。
これらは、確かに幼少の頃に聞いた記憶があるように思います。
餅草。
祖母はよくよもぎ餅を買ってきてくれました。草餅(くさもち)だとか呼ばれていたこともあるかもしれません。

多くの効能は言わずもがな。
飲用用途もあれば、上記のもぐさとしての利用までさまざま。
先人は、身近にあるこうした仲間とともに生きてきたのです。
ところが、
花が終わったあとには大量の花粉が飛ぶため、秋に発症する花粉症の原因だとの汚名まで掛けられてしまう始末。


いま、春の時期においても杉をはじめとする多くの植物たちが同罪の槍玉に挙げられ、花粉症を語る人々が多いのが現状です。
しかし、世の中の仕組みを自分でよく調べ、自分の頭で理解した方々は、それらは「医療という名の利権・裏側の仕組み:そこには予防接種などという都合のよい言葉に包んだ一般臣民劣化への目論み」と「支配者層により仕組まれた食生活」そして「母子手帳の段階からの強烈な洗脳」によって起きていること、既に朝飯前レベルな理解を得ているはずです。

ここを否定し続けるのは、目に見えないものを信じない。と同レベルの強烈な洗脳に染まった自分自身を露呈しているわけで、もはや恥ずかしさを超えて、直視できない裸の王様だと言わざるを得ません。
正直なところ、
身内にも同様の感覚を持つ強烈な洗脳に固着した世代が存在しており、救いようがない状態。


しかしこの4年間ほどで学んだこと。
それは、
真実を知ろうとせず、今世今生を「騙されたまま」生きるという脚本を持って生存している人たち。
彼らに「何かを説明し説得しようとしても無駄」だということ。
わたし自身も、激しく知らせたい・理解させたい:目を覚まさせたい。と感じてきました。そしてそのように激しく語り綴ってきました。
けれども、彼らは「何ら意識を変えようとはせず」「何ら態度を変えようとせず」頑なに、自らの生き方を貫きます。

それが、彼らにとっての今世の生き方、それが彼らの今回の転生の学びと目的だった。と理解するならば、
もう「何が正しいか正しくないか」を説得するような「負の方向に燃料を注ぎ続けるエネルギー」を拡大しないことが重要である。と、大人の対応をすべきと感じます。
事実、どれだけ力説したところで、この4年間で何か変化がありましたか?
根本は何も変わりませんでしょう。
そういうことなのです。

いつまでもその負の方向に向いたエネルギーを焚き続け、その負のスパイラルを強固に維持するばかりの役目を「自分がやってしまっていること」。そして、その重要な観点に氣づくべきは、他でもない自分自身・あなた自身だということに。
目を覚まさない人が多いから世の中変わらない!のではなくて、
あなたがいつまでも負の力を焚き続け自分の現実を作っているから目の前は変わらない!
ということに。

もちろん、この場(web)は、さまざまなレイヤーとフェーズの方々が入って来られるので、過去の(誤った)アーカイブも恥をしのんでそのまま残してありますし、これからもある程度の「めざまし」になるトリガー的な記載は継続してゆきます。
そして、
心の中から、心地よく素晴らしい未来を、ともに築きあげられると嬉しいですね。と送り続けます。
それが、真実を知れ!と叫ぶことではなく、いま最も求められている態度であることを悟ります。

間違っても、負の方向にガソリンを大量投入するような行動(それをわたしは「踊り・叫ぶ」と例えていますが)は慎むようにしたいと、心新たにするのです。
(最後に但し書き:味噌もクソも同じにしてはなりません・ここはそれぞれ魂相応のもの同士が響き合うという大原則を超えることはできないとの理解を土台に持つことを忘れず)
これが、
「救いようがない人」に贈る心からの暖かい波動だと確信しています。




穢れ(ケガレ)を流し去る

祓え給え清め給え守り給え導き給え photo 宮本章光

氣が感じられない人はお役御免。
もうこの地には必要ありません。学びのためのお役に感謝した後は、もう二度と会いたくありません。

氣が枯れて無くなってしまうので、氣が枯れて「氣枯れ=ケガレ」だと。
穢れを祓い清め、流し去り、この先には自分から能動的に選択することはありません。

身近にある氣。
何もかも氣に満ちている感覚。
すべてがエネルギーで固有の振動周波数を持つ存在。

それを伝えるのが氣。
それを伝える周波数が可視光線帯域になれば「色」になり、可聴帯域になれば「音」になり、魂レベルでの振動を包括的に認識するそれ自体が「氣」であると。
極めて明快な物理法則。

自分から自分のセンサーを台無しにしておいて、そんなもの存在しない。と否定するのは恥ずかしさの極み。
旧い洗脳教育の残骸にしがみつき周囲を穢す(けがす)のは激しく迷惑行為。
離れたくとも、
見たくなくとも、
聞きたくなくとも、
それが見え聞こるのは、その波動から離れる練習がまだ足りないということか。

穢れを流し去り離れたく。
枯れてしまった氣を、再び目一杯補給したく。
枯れた氣の状態から、満ちた氣の状態に戻したく。

祓え給え
清め給え
守り給え
導き給え
ひふみよい




静かに会話する・静かに受け取る

静かに会話する photo 宮本章光


やかましい声は不要です。
意図的にデカい声でアピールする必要はありません。
自己顕示欲・自己承認欲求の塊のような醜い波動は要りません。


静かに過ごします。
静かに会話します。

そうでなければ繋がらないものがあります。
そうしなければ受け取れないものがあります。

人の空間を汚すことなかれ。
人の氣を穢すことなかれ。
人の心に土足で踏み込み暴れるなかれ。




店じまいを決断された人

厳しい冬を乗り越えて photo 宮本章光

「旬(しゅん)」という言葉があります。
どことなく瑞々しさや活力に溢れる感覚が伝わります。

他方、
旬を終える、という使い方をされる場合もあります。
厳しい冬その辛い時期に、目一杯の明るく暖かい力を披露してくれました。
暖かい春を迎え、その労を労う(ねぎらう)感謝のことばを手向けます。


数日前、同業のある方から電話がありました。
年齢は、ほぼひと回り(わたしより11歳年上)違いの、ヘルプで何度か現場をご一緒したり、業務案件をご紹介いただいたり。そんな方。
「もう店じまいしようと思う」との声に、まだまだ活力は残っているものの、ある程度の疲れや鈍った響きを感じました。

過去、この方との電話の会話はいつも一時間超えコース。
非常に頭のキレる(頭脳明晰の意味)人で、一つの対象(項目)について、とんでもなく多くの「並列同時思考」をなさる方でした。
例えば、ある一つの業務機VideoCamera(Camcorder)について語るに際し、
「このモデルは4:2:0記録やけどズーム倍率が高いし、それに重量がマイナーチェンジ前より僅かながら軽くなって...。」といった具合で、一つの対象について、さまざまな視点から考察をなさる。
そして、その考察を会話の中に挟み込んでくるので、話題のフォーカスがどんどん飛び散ってゆきます。

え?、データのハンドリング容量のことを話してましたよね?
で、SDXCカードは256は要る?でも、事故があればすべて道連れで失いますから、128で分割できるなら保険になるでしょ。けれど、○○さんの主業務では、途中でメディア交換できる尺じゃなかったですよね。
あ、2枚をリレー記録の設定にしたら? それ、つなぎ目はどうなるかな?

といった具合で、とめどなく会話が続いたものです。
35年間、お一人でいまのお仕事をされてきたとのことでした。
残念ながら現在では、わたしがお請けできる業務接点はなくなっているので。と会話を終えました。

過去、言葉の端々(はしばし)にビシビシ感じる「あれも話したい・これも話したい」並列思考のそれぞれのレイヤーが手にとるように伝わってきた感覚が消えかかっていること。あるいは、もう「そこまで語る必要もない」とでも言うような感覚に、確かに年齢的な限界かもしれない、と、痛いほど伝わってきたのでした。


旬を終える。
けれど、新たなタイムラインに移行し「何度でも旬は作り出せる」ことを感じます。
それは、この地ではなくとも。
この地この世は、「体と心」をお借りして、その極めて狭く苦しい制限下で学ぶ、永遠に続く脚本の中の「わずか一コマ」でした。

いずれ、自分にも借り物の「衣」をお返しする時がやってきます。
しかし、新たな学びのための地と、未来永劫、決してとどまることのない永遠の成長にフォーカスすればこそ、いまを目一杯生きようと思うのです。
なんてことはない、そんな至ってシンプルな思考と行動があるのみだと理解が追いつきます。




共存共栄の「栄」を根本から認識し直す

共存共栄の本質 photo 宮本章光

卒業後、商社へ就職した時点で、徹底的に叩き込まれた感覚。
それは、
企業の目的は「利益追求にある」ということ。
言い方を変えてみますと「儲けるために存在している」「いかに会社の懐にカネを増やしてゆくか」であると。
(学問的に文字を並べるなら、資本たる株主への利益還元とも。)

世の企業に籍を置くサラリーマン諸氏は、全員一人残らずこの思想が骨の髄まで染み込んでいます。
そうでなければ勤まらない。
この世・この地はそういう仕組みだから。


いま、この宇宙規模の大転換期、すべてを建て替える大掃除のタイミングを迎えています。
ここに異論はないでしょう。
この感覚さえ持ち得ない方々は、物理次元やり直しコース居残り勉強希望なので、もうご縁はありませんし既に視界から消滅しました。

世の中変わらない。貨幣経済の仕組みがある限りは。
まさにその通り。理想とは裏腹に、自分の足許を客観視するにつけ、ここから逃れられないことに失望します。

この仕組み(貨幣経済)は意図的に仕組まれ、特定支配層に富が集中するように作られた詐欺システムである、と認識できているでしょうか。
ここまで理解が到達している方々が、この場でご縁が繋がっているはずですが、そこに「まだ理解が到達していない」方々も一部あるように感じます。
それが証拠に、いまだにそのシステムの一員として働き、自分がその歯車として世の詐欺システムを維持継続し続けていること。そしてそれが「自分の意思表示」であると氣がつかないまま。

僅か2,3年前にも同じような理論展開がありました。
仕事は変えられない。生きるために。
そして、仕方ないから...と、自分の体に毒を入れた人たち、それも一度ならず何度も。あろうことかそれを勲章として掲げた者まで現れた恥ずかしさの極みとも感じる世がそこにありました。

膨大な「負の因果を背負った」のは、自分の意思表示・自分の選択。
背負った負の因果は、今世今生のみならず、その力がバランスしニュートラル(ゼロ)になるまで、必ず解消し続けなければなりません。
すべては自分の選択。
後悔先立たず、という大変貴重な学びでした。


共存共栄とは、
多くの企業が掲げる社是やスローガンにも見受けられます。
そこに語られる美しい文言に異論を唱える意図は皆無です。素晴らしいと思います。
しかし、
「共栄」の「栄」とは、貨幣経済の仕組みの中で「富を築き上げる」ことにしか言及されていません。
少なくとも、この世の企業である限り「例外はなく」儲けることなくして存続できませんから。
巧みに美辞麗句に包まれてはいますが、それは貨幣経済という名の奴隷システムを回し続ける宣言でもあること。社員は誰一人として氣づかず、朝礼でその美辞麗句を繰り返し謳います。
そして、そこで発する言葉・その言霊(ことだま)が自らの因果として延々蓄積されてゆきます。


「共栄の栄」とは、
ともに望ましい生き方を通して学び・成長し、この世あの世、未来永劫、全宇宙に拡大する精神性の成長・成熟に至る姿が語られているはずでした。
論点を蒸し返すことはしませんが、ピラミッド構造の最底辺に隷属化させ、それに氣づかせず、永遠の負のループで奴隷として馬車馬のように走り続けさせることが、故意に仕組まれていた、それがこれまでのこの世。
経済社会などという、これまた美辞麗句に包まれた「他人(他社・他者)から如何に富を奪い取るかレース」だったわけで。
だからこそ、
その悪しきシステムを根本から根絶させ、一からの建て直しを行うのです。それは、個々人一人ひとりが心に描き生み出す、巨大な潜在能力を使いこなすことによって、です。

望ましい風景を描けていますでしょうか。
それは、浮ついて・フワって・お花畑思考だ。と、その顕現化に至る強力なポジティブ波動を持たせないよう・抱かないように仕向けてきた支配者層の企みにしか過ぎなかったのですから、いい加減にその上から目線の蔑視意識を捨てることです。

共栄の「栄」とは、
カネをいかに儲けるかではありません。この先に求められる極めて重要な感覚です。
いつまでやりますか。幸せを引き寄せるために感謝して、お金を手に入れよう...などと。
いつまで続けますか。詐欺システムの一員であり続ける自分の身の振りを。

経済・財政・貨幣経済を新たに学ぼうとなさっている世代の若き存在が、そのプロセスを経たあとに「本来の道」を見出せますよう、心から祈念いたします。




もっともっと勘を磨く?

葉牡丹のきらめき photo 宮本章光

自分から合わせてゆかなければ、その力を感じることはない。

黙って口を開けているだけでベルトコンベアから流れ込むように餌を与えてくれる。そんな隷属化された生き方に満足する人たち。
まだまだ、その体験が足りない。という意思表示ですから、それを尊重し離れます。
さようなら。


さらにセンサー感度を高めるにはどうすれば良いのか。
もっと勘に響く感覚を強めるにはどうしたらよいのか。

その答えは、
「力を抜く。」ではないかと思われること。

受験を経験した方は、きっとその極意が理解できるはずです。
キーっと力んでいる限り、固着した思考が「解けるはずの問題さえもその回答から遠ざかる」原因になっていることを。

力を抜けば、思考のために利用できるメモリー領域が一氣に拡大する感覚があるはずです。
力を抜けば、閉じていた思考回路のあらゆるポートが開放される印象が理解できるはずです。

もっともっと勘を磨く。
しかしその必要はない。ということ。
これが悟りに繋がる感覚かと感じます。

無理に、力でねじ曲げて「ねばならない論」に終始している限り、永遠に到達することのない境地。
無理矢理、わくわくして幸せ掴もう、などとやっている限り、絶対に掴むことができない幸せという感覚。

幸せって何ですか。
モノを手に入れることではなく、そう感じる感覚こそがその答えであることに氣がついていないのです。
支配の世の道具にしか過ぎない貨幣経済というピラミッドの底辺たる奴隷で満足し、貨幣資産を増大することにしか意識が及んでいないのです。

その昔、成人式の式典の祝辞に「人生の成功とは貨幣資産を築き上げ社会的信用と地位を確立すること」と豪語した人があったことを思い出します。もうその御方の会社はありませんし、ご自身もこの世にはいらっしゃいませんが。
ああ、確かにそうだ。と感じるならば、まだまだこの隷属化の仕組みを味わい足りない人なのでしょう。
さようなら。


もっともっと勘を磨く。
その、凝り固まった発想こそが、磨ききれない要因だったと知る時間を迎えました。
自分もずいぶんと遠回りをしてきました。いつものことながら、自らイバラの道を希望する本当に低級な魂だと。

磨く必要がない。という意味ではなく、磨く・磨く・磨け・磨け。と力み続けている限り、その固着した意識が「入学試験」の正解・合格のための回答から遠ざかってしまう最大の原因だと知る必要がありましょう。




「合わせるからこそ受け取れる」をもう一段上がる

美しく響き photo 宮本章光

すべての存在は、固有の振動周波数を持つ。
それは、生命であろうとなかろうと関係なく、無機質な物質の塊であっても。

その波長に合わせてみるからこそ、そこにある目に見えない力やエネルギーを受け取ることが可能になります。
ただ待っていれば「ベルトコンベアに乗って自動的に何かが与えられる」。
そんな隷属化され・家畜化され、能動的に感じようとする感覚が麻痺した状態から卒業したいもの。


中学・高校時代の恩師の言葉。
「ラジオもテレビも、そのチャネルに合わせるから聞いて見ることができる。」
「電波は見えなくても、この周囲には無数に飛び続けている。」
「そこに自分から合わせてゆくからこそ視聴できることに氣づこう。」と。

自分から合わせてゆく。
だからこそ受け取れる。

同じ周波数は必ずシンクロする。
自動的に同じ波長は響き合います。物理法則・大原則。
問題は「その響き合う感覚」を「感じようとしない」自分の心のセンサーが腐っていたことに、氣がつかなければならなかったのです。

スマホもエリア内に居れば自動的に電波を掴みます。
ですが、圏内にいますよ。と感じ取るセンサーとそのアルゴリズムがあればこそ「エリア内」として認識できるのではないでしょうか。
その機能がなければ、アンテナピクトも表示されませんし、センサーチップ自体がシンクロしません。まさに電源Offの状態と同じかと。

なるほど、すべての大原則、同じ周波数は必ず響き合う。これは正しい。
しかし、響き合っているのかどうかを感じる部分が麻痺していては、その現象そのものを認識できない。
こういうことだったと。

そこにあるエネルギーに合わせようと試み、そこにあるものを感じてみる。
自ら能動的にアクションを行うことさえも奪われてしまったことに氣がつきます。
ここまで理解が到達したのなら、あとは、自分で感じようとしてみる。

これこそが、この先の世で必要とされる「行動すること・行動なくして結果なし」であると。
いつまでも肉体を酷使し、走り回り叫び回るのは恥ずかしいと知ります。いえ、それが学び足りないと感じる方々にとっては、その姿こそが自分の意思表示・自分の選択だと納得するとともに、その姿を尊重し見守ります。
それがご自身の表現であると。


美しく華麗に花開く。
彼らは、そこに何を表現しているでしょうか。
そこに心を合わせてゆき感じてみることによって初めて受け取ることが可能だと知ります。
そして、
それをこのように受け取り、このように文字と画像とともに表現してゆきます。
それが、わたしの表現。
どのようにお受け取りいただけますか。




そのままで完成形

美しく存在する photo 宮本章光

歩くことはできず、
言葉を話すこともできず。

人間の感覚からすれば、それは「できない」というネガティブな方向のエネルギーとして認識しています。
しかし実際にはどうなのでしょう?

人間は「五感」しか持ち得ないところを、植物という生命は22や23種もの感覚を備えているとされます。
そして、何の恐れも怒りも生み出さず、そのままで完全体として存在しているのではないかと思われるのです。

第二密度の低級な生命だ、と人間は勝手に決めつけてしまいます。
けれども、実際には完成された素晴らしい存在かもしれません。
この地においては、動かず・話さず。
しかし、
植物同士は、波動によってコミュニケーションを図っていることが種々研究によって確認されていますでしょう。
そして「この地以外の場所・異なる次元」では、人間など比べものにならないほど、もっともっと優れた生命体として認識されいるのかもしれません。

古代エジプトのオシリス神は、最終的には植物の神として認識され、ナイル河の氾濫を予測しそれを活用することで、五穀豊穣に結びつけるための占星術・天文学の指導をも行なった。という論説があるようです。
ここに、不思議な一致とすべての点が線になる瞬間を感じるのです。わたし自身のルーツと...。
この話題は、ここで一旦ペンディングとします。

さらには、
昆虫のような生命は、植物から生み出されている可能性さえ感じます。
春になれば、蝶が舞い、蜂がこの世を謳歌します。
しかし、彼らは「どのタイミングで生まれてきた?」のでしょうか。
卵から孵ったあと成虫になるまでには時間(日数)が必要です。では、その卵は誰が産みましたか?成虫が越冬したのでしょうか。暖かい日になることをどのように逆算して成虫にまで成長したのでしょうか。
暖かくなれば、その日のうちに空を舞う昆虫たち。どこからやってきたのでしょう?

植物は、異なる世にすでに生存している昆虫たちを特別なポータルから出現させる役目も担っているのかもしれないと。
生命の謎は、科学という名の物理次元限定な「発展途上の学問」では解き明かすことは不可能かもしれません。
いまだに多くの人たちは、そうした語りに対してトンデモ論だと決めつけ、そんな感覚を持つ人を蔑み見下します。しかし、すでに旧い物質社会から卒業できたのなら、これらの可能性について学び、この先の世に必要な感覚を習得するタイムラインを感じてみたいものです。

今日はこの話題にこれ以上触れることは避けます。
「多くの人間にとって」まだこの話題は時期尚早だと感じるからです。




浄化するその本質とは

板橋区小豆沢薬師の泉庭園門構 photo 宮本章光

偏った力・過去のやり方をそのまま放置し続けると、いずれ破綻します。

「この地独特のローカルルール」は、すでに過去になったと理解したいものです。
これまでは、それでよかった。
これまでは、それで成功した。
これまでは、そのやり方で問題なかった。

いずれも、振り子が反対側に転換しようとしている今、この極めて重要な瞬間・期間。
これまでと同じやり方では破綻します。
まさに、真逆・正反対に動き始めています。

では、何をどうすれば良いのか。
答えは、これまでに散々語られ伝えられてきました。
綺麗に掃除洗濯しなさい。と。
それは物理的に掃除機をかけることではなく。
そして、直感として受け取るセンサーである心の感度と精度を高め磨き上げなさい。と。
そのためには、口にするもの二つ(言葉・言霊と食べ物)を劇的に変えましょう。とも。

webの情報を集めただけで、インフルエンサーとしてもてはやされた時代。
それが成功の証だと胸を張った時代。
もう終わっています。
あるいは、この大転換期の大きな変化・変動や様々な事項を、自分の手柄にしてしまう。
ほら言ってた通りでしょ。だからわたしの言うことを聞きな。
というスタイル。
(また、この姿を盲信し崇拝する人が多いのが厄介ではあります。)

単に「イタイ人」になってきつつあることに、ご本人だけが氣づきません。
裸の王様が、また一人、こちらにもあちらにも次々に作り出されてゆきます。

自分自身も、似たような道を通ってきました。
けれども、非常に恥ずかしい「その時点の思考」である過去の記述も、そのまますべて残してあります。
同じフェーズ、同じ段階の意識を持つ方が、その記述に辿り着いた場合に何らかのお役に立てればと。
しかし、
この瞬間も、次の1秒後、1時間後、一年後には過去となり、誤りであったり恥ずかしいアーカイブになっている可能性が高いと知ります。

だからこそ、
これまでのやり方を綺麗さっぱり流し去るのだと教えられてきました。
当然、そのプロセスでは混乱を生じるでしょう。
大掃除のその場では、足の踏み場もなくなりますし、土台からの建て直しには激しく廃棄物も発生し得ます。
そこにある「過去の遺物たる負の力」に同化してしまわないことです。

(あぁ。手洗いをやめてはダメです。氣が通りません、受け取れなくなります。それを実地に体験しているからこそ。それが学びであり得られた糧ではないかなと感じます。何より、お参りするときに御手洗所で手を浄める意味が理解できれいれば。同じでしょう。常在菌というマジックワードで「一方向だけに思考をコントロール」されてしまうと、洗脳・隷属化の過去と同じ過ちに嵌るだけです。感染症と常在菌とは、これまた二つがセットで学びの教材として提供されていたことに納得するわけです。)

必要ないものを流し去る。
心の掃除洗濯。
これまでのやり方から方向転換する。
ここに至ればこそ、いまこの瞬間を大切にする。というその意味が理解できます。
時間なんて存在しないんだから。というその道のビジネスワードを言葉面(ことばづら)だけで知った氣分になり怠惰に過ごすことではなく。

浄化の本質は、余計なものから離れ、過去の成功体験や思考のクセを捨て、ここで感じる感覚が自分自身の現実創造となりますよ。と教えてくれていること。そしてその選択を実行することではないかと感じます。




手を洗え・額を磨け

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狂った洗脳装置の片棒を持つものではありません。初めに但し書きを添えます。

手を洗う。
額を磨く。
それは、
そこから「氣」を受け取るからです。
手のひら、あるいは指先。
そして、額、あるいは頭頂。

氣とは何なのか。
目には見えません。しかしその力を感じることができる人たちが急増しているはずです。
すべての存在は、目に見えようが見えまいが、固有の周波数を持ったエネルギーであること。もう重ねて記す必要はなくなったと思っています。
もちろん、これからそのフェーズに足を踏み入れようとする方々もあるとは思われます。


わずか一、二年前まででも狂った奇妙な風潮がありました。
負の力が拡散するので、これ以上は文字に残すことは控えますが。
そして、
その狂った風潮に対して、こう反論してきたのでした。
「手には常在菌が住んでいる。だから手荒いなど必要ないんだ。」と。

はい、よく理解できています。しっかり認識できています。
けれども、もうそんなビギナーすぎる論説は、とっくの昔に卒業済みです。

わたしが言うのは、ここ。
【常在菌の重要性よりも、手が汚れや穢れに覆われることにより、氣を受け取ることができない。こちらのほうが自分にはリスキーである。】という部分です。

言葉を置き換えます。
【常在菌の役目 <<<( --> もっと重要度が高い-->)<<< 氣を感じ氣を受け取る重要部位が汚れて働かないことの重要性】
そうした微生物の役目は非常に大切なことは知っています。
しかし、
もっともっと重要度が高いと(個人的には)感じる、その瞬間・その場所、にある「目に見えない空気感」とでもいうもの。それが氣だと思われるのですが、汚れや触れた穢れによって覆われることで、その氣をまったく感じられなくなるからです。

別の例えを示します。
下水管が詰まり汚物が湧き出し悪臭を放っている状態。
ゴミ箱のフタに生ゴミの臭気がこびりついて、その臭気のために周囲の空気が汚れている状態。

あえてよろしくない例えを記しました。もうこれ以上は止めます。
そのように、
手が汚れていると極めて重要なセンサーが麻痺して、悪臭に取り憑かれたかのような状態になっている。
という感覚に圧倒されてしまうのです。


その昔には、これを潔癖症だとか過敏症だとかの言葉で呼び、メインストリームではないんだと変人扱いしてきました。
それも、病気として扱い病名を付け、結局は医療と医薬の利権のためだった、という裏事情に通じていることまで理解が及んだはずです。特にこのような感覚的なものは、行き着くところ「精神科」系統に持ってゆき、永遠のネガティヴスパイラルに放り込む。
殺さず生かし続け儲け続ける。カネを生み出す装置に成り下がる。その仕組みは、もはや語る必要はありません。
わたしの父も妹も、その世界の犠牲者となり世を去ったので、自分には許せません。けれども、もういい。手放します。


しっかりと汚れと穢れを流してみると間違いなく「その差」が判ります。
上記のような負の力(臭気が漂ったようなネガな空氣)が、綺麗に取り除かれていることを。
同じように、
額の部分も似たような感覚を感じる、非常に重要部位だと感じます。
いまでこそ、「松果体」がその裏にあるから。と、理解できた人が増えてきましたが、ほんの数年前でも「しょうかたい?何それ。教会で歌う人でしょ?(それ聖歌隊ですが)」などと、真顔で返す人が多かったのです。

今日は触れませんが、肛門についても同様かと感じます。
シャワー洗浄が増えたから大腸癌が増えた。という論法が幅を利かせているようです。
ペーパーだけで済ませると、絵の具をこぼしてしまった机を拭き取ってみてもその色が残り続ける。その現象と同じだと氣がつきます。
会陰部は、この地で使わせていただく体として基本中の基本、ベースチャクラの位置でもあることを知れば、同じようにそこに負の力がこびりつきまとわり付くことで何がどう影響するかは説明の必要もありません。


あくまでも個人的主観にすぎない。と、ここまで書いておいて何ですが、クロージング部分にも但し書きを添えておきます。
ああ、きみはやっぱり変だ。と思うならそれで構いません。人がどう感じようがもはや関係ありません。どうでもいい。
諸説あることは理解していますし、それを否定するものではありません。

わたしは、この2箇所(あるいは3箇所)の部位から、知らず知らずのうちに「氣を受け取っている」ことを、この数年の大混乱によって氣づき理解できたこと。一つの事例としてここに残します。

で、この桜と何が関係あるの?ですが。
夕刻の日差しのエネルギーとそこに揺蕩う姿が醸し出すエネルギーを受け取ります。
受け取るのは、自分のセンサーで。
もちろん、それは心なのです。
が、その前に、物理部位のセンサーは触覚的なストレートな感覚があるので大変判りやすいわけです。まずそこにピピっと信号が響く。それはとても暖かく、多くの場合大変心地よい感覚。
だから、洗い・磨きます。
だから、清め温めます。




一つとして同じものはない

白いツツジに photo 宮本章光

皆それぞれ。
異なるのが当たり前であり、それが普遍的な標準仕様。

みな同じでなければならない。
そんな悪平等に麻痺した意識を、本来の心に取り戻してゆきます。

一つとして同じものはない。
二つと無い。(ふたつとない)

心を拡大した先に見えるもの。
それがこれからの世に求められています。




嵐があるから陽が暖かい

コントラストがあるから魅力が引き立つ photo 宮本章光

コントラストが大きいほど、その片側の体験は劇的に大きく感動的になります。
それが、この地での目的と存在理由とされます。

嵐のあとには、暖かくまぶしい陽の光を臨む。
二極化はダメだとか、変化を続けていては悟りの境地に達することはできぬ。だとかいったような(それが誤りだと言うのではありません。大正解ではあるのです。が、)片側だけにフタをすることなく、ともに尊重しともに受け入れる。
ここをすっ飛ばして究極の理想点だけを語るのはどうなの?ということなのです。

その大きな差を乗り越えるからこそ感動がもたらされる。という仕組み。
これが学びと体験。

片方の存在を味わう。そしてもう片方も等しく体験する。
学びの途中の工程では、どちらも経験を積む必要がありましょう。
小学校の教科書も満足に終えていない小学生が、因数分解だ・連立方程式の解はこうだ・哲学思想ではこうでなければならない!
などと叫ぶのは、滑稽であり、むしろ恥ずかしい姿にさえ見えます。
ええ、実際の小学生ならば、かわいいものですが。


分離ダメ・ネガはダメ。と、初等教育過程を学ぶ前から片方だけにフタをする、頭でっかちな論説が幅を利かせていたフェーズが、ようやく収斂してきたようです。
このようにして、個々人の精神性拡大と成熟が進むことにより、集合体としてのエネルギーも進化を遂げます。
このプロセスを経て初めて、そしてようやく、
その集合体としての力が顕現化し、目の前の風景となってゆく。
それがこの地の仕組み。

嵐があるから陽が暖かい。
多くの仲間へ、美しい姿を披露いただきありがとうと感謝の心を伝えます。
それは、決して浮ついた姿勢などではなく、学び終えたからこそ至る境地であること。
さまざまな痛みや負の力を経験してきたからこそ、到達できる境地。

これこそが「一(いつ)であり無であり、感謝に溢れる」これからの世に求められる姿であることを知り得ます。
何ごとも順序があり、経験と学びがなくては成長が期待できないこと。
この地において、その体験をさせていただいたことに深く感謝を伝えます。




美しいと感じたのなら美しいと伝える

美しいと伝える photo 宮本章光

そこにひっそりと佇む。
過剰に自己アピールすることなく。しかし可憐に、そして華麗にその姿を披露します。


美しいと感じたのなら、
美しいと伝える。
美しさを受け取ったのなら、
美しいと心から言霊に託して伝える。

それが、これから先の世の生き方。
それが、この先に求められる心の使いこなし。

ノイズに溢れるこの地で、ノイズに飲み込まれそうになったなら、
美しい仲間からメッセージを受け取ります。
受け取ったのなら、
暖かく穏やかな心で御礼の言葉を贈ります。




見極めねば先へは進めない

木々の隙間から photo 宮本章光

自動車運転免許を取得するために自動車教習所へ通った方には容易に理解できるでしょう。
各ステップ2〜8教習でしたか(記憶の彼方で不鮮明...)ごとに、次の段階へ上がるための「見極め」の試験がありました。
それぞれの知識と技能が規定レベルに達していなければ、再度の学びのために補習が必要とされたこと、記憶にあるはずです。

同じように、
わたしたちの存在理由と目的は、この体でもなく、また心でも意識でもなく、魂というエネルギー体そのものの「成長と学び」であると理解ができた人が増えてきた感覚があります。

ところが、そこまで「頭で理解しただけ」では次の段階へは進めない、とされます。
この頭で理解しただけ、というのが大変くせ者で、その前に「自分の存在は心である」と誤って認識していることがその原因にあろうかと。

体は借り物。ここまでは到達できた方が多いように見えます。
(このレベルにさえ到達していない方々はもう同じ道を歩むことはありません・あるいは先般の記事のようにこの地の人間とされている存在の大半はAndroid/bot なのでお呼びではない)
しかし、では何なの?というところ。
心で感じ、直感を大切に。と、語るひとたち。
自分もその道を通ってきました。と言いますか、今世今生、すべて直感にしたがって生きてきた証人がここに居ります。
けれども、
自分の存在は、心でもなければ直感というエネルギーを感じる存在でもない。という地点に至るまでは、再び試行錯誤を重ねることになりましょうか。


「心」はセンサー・道具にすぎない。
体という物質体とセットで貸与されている、目に見えない側のもう一つのツール。
すでては両輪で、すべては対(つい)である。それがこの地のお約束。

この仕組みを見極めなければ、卒業検定はおろか修了検定の資格さえ与えられないのだと。
よって、各段階の検定をクリアするには、
まず「体は借り物だ・自分の存在とはこの心なんだ」という誤った認識を撤回することが、まずスタートでしょう。
そして、
「戦争反対」だとか「負の力を選ばないことが大切ですよ」「幸せになるためにお金を引き寄せましょう」といった、片側だけに「フタをして見て見ぬふり」をしたり、隷属化の道具を崇拝するのも、第一段階(あるいはそれ以前)レベルだったと知ることが必要ではないかなと。

第二段階まで終えると、路上教習になったのではないでしょうか。
ところが、
ここでも「すべて教室で習ったことしか起きないと勝手に仮定しない」ことが大切です。
突然の飛び出しもあるかもしれません。危険を予測しないで進んでまいますと、横の教官に強制的に激しくブレーキを踏まれます。
これは、まさに、
「闇ではなく光を選んでわくわく過ごしましょう」などといった、その道のビジネスの落とし穴に捕まらないことも大切ではないかなという部分に酷似しています。

勝手に片側をフタをせず、すべてを認め受け入れる。当然両方ともに尊重する。その真意をしっかりと理解する。
その先に答えが待ち構えているのです。
なぜなら、
シーソーは片側だけに乗っかっても動かないから。動かないとは、すなわち「変化できない」こと。

最後に、卒業検定で突然強制ブレーキを踏まれ、あろうことか卒検やり直しなどという稀有な生徒が出来上がります。
変化などしていては、いつまでも永遠に悟りには達しない。
と、やってしまいますと、卒検「中止」。強制終了です。
この地もあの世も、すべての宇宙も。標準仕様は「変化し続ける」変わりつづけ、学び成長を続ける。
これがデフォルトなのですから。

はい、実際に卒検中止をやったわたしです。
それまでの各段階を、すべて補習なくストレートに上がってきたので「教習所として儲からない生徒」は、最後で落としてやれ。となった可能性を感じた、40年ほど前の出来事でした。

見極める。
それは、頭の中だけで知ったつもりになることではない。やはりこの地では痛い目にも遭わなければ学べない。だが、痛い目に遭ったのなら、しっかりとそれを糧として成長しなければ。と再認識すべき段階を迎えているように思われます。







「氣」とはそこに合わせるからこそ感じられる

鳥の囀り花の輝き山の氣を受け取る photo 宮本章光

目に見えないものを信じない。
そんな唯物主義を貫き通し、これまでの物質社会を継続体験したい方には無縁の感覚に違いありません。

氣とは、
目に見えない特定の波長を持った何らかの力。
そこに合わせて行けばこそ、その力に響き合います。


人の話し声など要りません。
周囲10メートル四方に響き渡るような大きな声で、取るに足りないくだらない世間話をする。
それも人それぞれ、自由ではあります。
けれども、
そのノイズが自動的に耳に入ってしまう者も周囲には居る場合があるわけで、もうこうした自己顕示欲の塊のような行動は慎みたいものだ、と感じます。

自分はこんなにすごいだぞ。
自分はこれほどまでに「よい子ちゃん」なんだぞ。
そんなアピールは終えたいもの。
もう沢山です。満腹を通り越して嘔吐してしまいます。

しかし、
そんな波長を自分が選択したから見えてしまう。そういう仕組みを再認識する瞬間でもあります。
自分の周波数が思いっきり低下しているからこそ、そこにシンクロする。
その場を去る以外、その波長から焦点を外す方法はないことを、身を持って感じます。


何のノイズに影響されることなく、一途にその美しさを披露する仲間たち。
美しい存在には、美しいと讃える。
素晴らしい出立ちには、素晴らしいと礼を伝える。
ここにチャネルを切り替えた瞬間に、ノイズから離れる望みが叶います。

氣とは、そこにある特定波長に合わせるからこそ、その力にシンクロし響きあうことをいま一度確認します。
逆に言うのなら、
自ら能動的に合わせない限りは、どんな氣・エネルギーにもシンクロすることがありません。




四大元素「風・火・水・土」に報いる

清水門横から日本武道館の空をのぞむ photo 宮本章光

万物の根源は、風と火と水と土。
もちろん諸説あり、五大元素として語られるものもあるでしょう。

風に波長を合わせその時々の空氣・空間を感じ、陽(火)のエネルギーとともに活動し、土に安定と落ち着き・同化の感覚を得たら、水に順応し変幻自在に...。
人それぞれ解釈の仕方は千差万別、個別に異なりますから、「そう感じそのように思えば」それが自分の現実となる。
それがこの地のお約束。
ここに氣づくことで、この地の学びを終えてゆきます。


---変わらないこと・無になることが悟りの境地だ。
---ニュートラルに維持することが、ネガな波長を避ける心の使い方だ。
---二元性を超越してこそ一(いつ)を知り得る悟りである。
いずれも誤りではなく大正解に違いありません。
けれど、いつまで無限ループで「泥んこ遊び」を続けましょうか。

どれもこれも、物質次元的ベースの上に留まったままで捏ねくり回し、ああでもないこうでもない。と迷路を彷徨う地球独自の「うまくゆかない現実ゲーム」。

「風・火・水・土」は、何を教えてくれるのでしょうか。
万物に意識を馳せ、その固有の周波数に心のセンサーを合わせてみませんか。と、ささやきかけてくれます。
そこに、意識を合わせるためには、
物質体としての借り物の「体」とセットで貸与していただいている、物理体としては見えない「心」という名のツール。

自分の存在は、体ではありませんが、しかし「心」でもありません。
すべてが対(つい)で対称で対照的。
何もかもがセットで与えられ、どれもこれもすべてが対となった環境に置かれたら、それをどのように使いこなして行きましょうか。
正義だ・悪だ。戦いだ。などといつまでゲームセンターで踊り続けましょうか。

答えを導き出すのは、自らの心と体を使った体験の中から。
導き出せたのなら、その後は何を選択してゆきますか。
それが自分の意思表示。
そして、
お借りしたツールを最大限に活用し、この先に創り上げるべき風景を描き、道を切り拓きます。
それが、お借りした稀有で貴重な道具に報いる(感謝を込めてお返しをするの意)ことではないかと感じます。




両方あるから美しい

2024年のさくらにありがとう photo 宮本章光

光と影の戦いだ。勝利した。
などと、いつまでも踊っていないで次の教材を手に入れ、新たな学びに取り組みたいものです。
覚醒した・超越した・卒業した!と、語ってきた先駆者的な人たちほど、そのビギナーレベルでストップしたまま。
もうこのまま失速して消滅でしょう。
手遅れになるぞ!と叫んでいた人ご自身が、すでにこと遅し。
それがご自分の選択だと。

光と影は、ともに存在するのがこの地において必須の形なのであって、いずれも戦いなどしませんし勝ちも負けもありません。
それを作っているのは、
あなたの思考、あなたが作り出したシナリオ・脚本。
もっと言えば、そのように思考操作されるよう仕組まれたフレームワークの中で、まんまとその脚本通りに踊らされているだけ。
そして、自作自演の映画を創り出し、地球という名の映写会場で叫びまくる。
周囲の方々にも大変迷惑でしょう。
目も当てられない、とはこのこと。VRゴーグルの世界でお一人でどうぞ。ということです。
この時点で、学びを得てネクストステージに行くかどうかが決まります。


心に抱き・描くことで、それが目に見えないところに生み出されます。
何もなかったところに、生み出したのはあなた自身。
そのエネルギーが集合体となって結晶化・具現化してゆくのです。
ですから、
負の力を欲しがる支配者層は、その負のエネルギーを生み出すよう生み出すように...と、これでもかこれでもか!とネガな情報を溢れさせてきました。
教育洗脳から宗教洗脳、貨幣経済という逃れられない牢獄に閉じ込め、果ては食の支配から医療という禁断の果実をもって人間界を牛耳る、隷属化の世の中。

逆説的ですが、だからこそこの地においてはいつまで経っても「光だけ・片側だけのエネルギーオンリー」なシチュエーションには成り得ません。
ともにセットであり、ともに対(つい)でしか存在できない場所、それがこの地の仕様であり仕組みだからです。

ところが、
この地においても、心から生み出すという本来わたしたちが備えていた強大な潜在能力を使いこなすようになるに従い、目に見えないフィールドに創り出されるエネルギーに変化が生じてきます。
光も影も、ともにセットだからこそ生み出される結果がある。それがこの地ならではの学びと体験。
ここに氣がつけばこそ、その魅力とメリットを最大限に活かす方法を知り得て、その境地に到達できるのです。

無理に片側だけ、わくわくを選んで...。などと努力しなくてもいい。
そこに美しいと感じる心があるのなら、美しい波長を備えたエネルギーが自動運転で生み出されてゆくのです。
これこそが心の使いこなし。まさに心の手綱を操る極意といったところでしょうか。

陽の光と影が創り出す美しい対比を感じる心があるのなら。
その心に響く力を仲間に伝え、そして感謝を伝える。
何ごとも、無理に力でねじ伏せたり、無理矢理に楽しくもないのにわくわく...だとかやっていること自体が負の力を増幅し続け、その状態をこの先もずっと望んでいる。という自分自身の意思表示になるのだと。


両方あるから美しい。
両方あるから感じることができる。
両方あるから対比という美しい感覚を得ることができるのです。
だからこそ、学びと成長が叶うのです。

与えられた環境で、自分はどのような役目を果たすことができるのか。
これこそが、いまこの時を生きるということではないのでしょうか。




例外なくすべてはアーカイブされる

2024年の桜にありがとう photo 宮本章光

思い描いたこと、抱いたこと。

目に見えない場所に、一字一句、克明に記録されていること。
そんなアホな。と思えば、そんなアホなと思ったそのエネルギーが記録されます。
二度と消えることなく、膨大なアーカイブとして残されてゆきます。
はい、まるでブロックチェーンのログのように決して消えることなく。

いま、
この地には、過去から溜まりに溜まった負の力で手に負えなくなっているとされます。
恐怖、怒り...。
負の力は、同じ周波数が新たに蓄積されるごとにシンクロし、自己増殖してゆきます。
イメージできますでしょうか?
この地・この地球を真っ黒に覆い尽くす、よろしくない力による暴力的で威圧感に満ちた姿を。

言葉に置き換えた感触を感じてみます。
ここに記すのはリスクが高すぎるので控えめにしたく思いますが、恐怖・怒り・悲しみ・不安・冷酷・困惑・屈辱・蔑み・嫌悪・絶望・争い...、際限なく湧き出します。
その限りなくネガなワードに包まれてしまい、陽の光が届かなくなった地球がここにあります。

その膨大な負の力を蓄積してきたのは、わたしたち自身。人間の業(ごう)。
でもそれは、騙されてきたからですね。
でもそれは、支配者層により洗脳されてきたからでしたね。

しかし、因果の大原則・大法則は一切の例外がありません。
原因を生み出した者へ、その力は確実に戻ります。
放った者へ、それと等しい力が間違いなく返るのです。もっと正確に書くのなら「自ら放ったものしか受け取れない」となりますか。
騙され洗脳されたのも、自分自身がそれ相応の魂レベルだったからでしょう。


それならば。
そこまで氣がついたのなら、
大自然とその仲間たちへ過去の過ちを詫びていますか。
植物のみならず、昆虫も動物も、すべての生き物へ。
地に伏して詫びましたでしょうか。
心地よく暖かいエネルギーを心の底から伝えていますでしょうか。


美しいと感じたなら、それを美しいと讃え、この2024年にも華麗な姿を披露してくれたことへの感謝を伝えます。
同様に、そのように抱いた心のエネルギーも余すことなくすべてアーカイブされてゆきます。
そして、その記録書庫は、他の存在からも閲覧が可能だといいます。
見窄らしく救いようのない負の力・ワードしか記載されていないノートを、いまだにせっせと記載し続けるわたしたち。
恥ずかしくありませんか。地球人として。

いまこの瞬間、そして一秒後、一日後、一年後のこの地を創り上げるのは、わたしたち一人ひとりの心であることを学びます。
それを体験し理解し、使いこなすようになるために、この地で今生・今世の修行を行なっているのですから。
だからこそ、
何を心に抱き、何を描くのか。
だからこそ、
不用意に負のエネルギーを生み出さない。
これこそが、この先の世に求められる「心の手綱」の取り扱い方法に他なりません。

学校では教えてくれませんでした。習ってきませんでした。
なぜなら、学校そのものが隷属化の世の中を作るための洗脳装置だったのですから。
教職に携わる方々は、自らが行なってしまった(それは知らなかったとしても)過ちと蓄積した過去因果を解消せねばならないこと。いま一度ご確認をなさいますよう。




Androidは放っておきます

北の丸で出会う photo 宮本章光

交差するから衝突する。
しかし、衝突していると断定してしまう意識がそのように作り上げている。
この「目の錯覚と相似形」の構造である、思考の回路とそのプロセス。

実際には交差しておらず前後・上下の空間が存在しています。
人間は、一事が万事、交差したら衝突するものだ、と断定してかかるのでそのような現実が作り続けられるとされます。
意識が現実を創り上げるという大原則・大法則。


もう「映画館で現実と区別がつかなくなり叫びまわる」ような幼稚な行動は慎むべきフェーズに入っています。
人のために。だとか、マナーを弁えて。
と仰る割には、自分がいつまでもこの世という映画館で叫ぶ行為は恥ずかしさの極みだと知りたいもの。

あぁ、彼らはAndroid(スマホOSのことではなく人造存在のこと)だから仕方ないのか。
意図的に、この世を混乱させるために作り上げられた存在。
炭素ベースのDNAを持ち、排泄も生殖もまったく普通に行う「見た目も行動もそのまんま人間」である存在。
Androidの子は、再びAndroidを産み人間として成長する。生身の人間そのまんま。
唯一、異なるのは「魂がない」こと。
だから、
そんな馬鹿なことあり得ない!君の頭のが狂ってる!と断定し、予めプログラムされたもの以外のエネルギーを許容・収納するスペースは寸分も持ち得ない。
魂を持っていないのですから、五体満足との言葉で例えられるその最重要要素が欠けており四体のエレメントしか備えない。
イコール「四体:死体」だと。
自分がAndroidであることを認識できませんし氣がつくことは未来永劫あり得ません。人間だと思っていますから。
なるほど〜。


プログラミング(支配者層・ピラミッド頂点でこの地を牛耳る存在から遠隔操作で常にファームアップデートが可能)されたこと以外はまったく行わないbot。Android。
それが10人中8人や9人までもと言われる、見た目も肉体も人間と寸分違わないAndriod存在。
それが、この地この世の映画上映を「面白くするエキストラ」。
出来の悪いメタル感丸出しのロボットを故意に作り、ロボットなんてこんなにポンコツなんだぞ、と見せるのも仕組まれた洗脳でした。


ええ、確かに面白くしてくれました。生まれた時からずっとずっと、わたしたちの周りに存在していたのです。学校では机を並べ、職場では共に働き。
ただし、
言われたことしかやりません。プログラムされたことしかやりません。
支配者層による隷属化の世を作り上げるため。
「ええ、そんな意見もありますよね。でもわたしは違いますから。」と、プログラム以外の道を歩むことはありません。言葉づらは美しく礼節という名の悪平等を貫きます。
立派ではないですか。
いま、まさにその極意に達しています。

なるほど、こんな突拍子もない論説さえも受け入れ、決してブレない自らの「心の手綱」をコントロールできるようになる。
それが「botではないわたしたち」にとっての卒業試験だったわけで。
はい、おじいちゃんが孫の授業を見る「授業参観」はもういいかな。とは感じています。
(実際の孫はまだまだ観るよ〜)

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【「心」も道具の一つに過ぎないと知る】2024/03/31[ Link ]




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