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宮本章光/宮本陽の視点「開闢」And EM Official Blog

みやもとあきらのしてん AKIRA MIYAMOTO@And EM

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憂うことなく・哀しむことなく

いずれこの切り株も大地に帰る photo 宮本章光

対比・コントラストの大きな体験を重ねてきたこと。
それが可能になる教室で学べたこと。
この体という「衣」をお借りし、大変貴重な経験を積み重ねることができたこと。

さまざまな困難を乗り越え、くぐり抜け、今日もこの地に生を繋ぐことが可能となっていること。
その奇跡的な「いま」の瞬間に、感動と感謝の氣持ちが湧き上がります。


この体験教室で学びを重ねてきた、これまでの記憶と時間。
極端に大きなコントラストを体験する目的に沿った脚本だったのですから、打ちひしがれる、負の力に立ち直れないこともあったでしょう。
しかし、
そこに浸っている限り、その負の沼に居続けるだけ。
そして、そのエネルギーを自ら作り出すばかり。永遠に。
それが自分の選択という、意思表示をしていることに。


屍となった物質は、いずれ大地に還り消滅します。
そして、
負のエネルギーに浸り続ける意思表示をする魂も、この地に続けて存在することはできない、と告げられて久しい状況。

そもそも魂は永遠であり、体という名の衣は、学びのためにお借りしたもの。
いずれお返しするもの。


上を見上げ、一つづつ歩みを進めます。
新たな風景を、自分の心から描き出すために。
描くもの・抱くコトが、自分自身の道となり現実となってゆきます。


わたしたちは一人残らず、
みな恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

ようやく理解が追いついてきたようです:「いまここ」に

現在過去未来 ようやく理解が追いつく photo 宮本章光

花を終えた芽は枝の元で余生を過ごし、
これからの役目を待つ花は蕾の中に。
過去と未来、その間に存在するのが現在だと。

何度も何度も繰り返しこの地に生まれ変わるうちに、それが「当たり前」の感覚になっていたのでしょう。

そして現在。
間にあるのではなく、「いまここ」だけしか存在していない感覚。
その言葉が、身の回りあらゆるところに溢れかえるようになりました。
当たり前のように、日々目にする機会が増えました。


初めは訳もわからず、ふーんそうかい。てな感覚だったでしょう。
ですが、知れば知るほどに、その言葉が持つ「奥深さ」と「シンプルさ」に引き込まれてゆきます。

そもそも「いましか存在しない」との、その意味自体が理解できませんでした。
しかし、ようやく、この地・この体験学習教室こそがイレギュラーだったことに氣がつきます。
続いて、いまこの瞬間が「自分のこの先を描き上げる」ことにまで。


いよいよ次のフェーズに突入したようです。

自分が作っていることにさえ氣がつかない雑念に惑うことなく。
過去の栄光に溺れることなく、苦しみを握り続けず。
まだ見ぬこの先の道を案ずることなく。

心やすく、静かに過ごします。
いつでも仲間とともに。
この素晴らしい環境と貴重な体験に。
ありがとうございます。

わたしたちは一人残らず、
みな恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

道端にただ小さな花が咲いているだけ

道端にただ小さな花が咲いているだけ photo 宮本章光

意識しなければ通り過ぎてしまう、道端の花。
足元に目を配らなければ二度と会うことのない、小さな花。
ただ、そこに咲いているだけ。
ひたすら、美しく花開き虫たちとの会話を楽しむ。


わたしたちが忘れてしまった、とても大切なこと。
心を取り戻す、その時を迎えています。

ここ数年、
ベランダや玄関先の花たちを眺めるだけで。
流れる大空の雲を見ているだけで。
心から溢れ出す大きな力を感じる。

そんな方々、増えているようです。

誰に手入れをされることもなく、道端に小さな花がただ咲いているだけ。
そこから感じる生きる姿。
美しい心、失ってしまった心を取り戻してまいりましょう。

わたしたちは一人残らず、
みな恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

原因と結果・すべては自ら創り出したもの

とけい草2023年 photo 宮本章光

「自分で創り出す。」
言葉だけが一人歩きして、肝心の中身が置き去りになっているように見えます。

自分で創り出すのは、モノだけでなく、力も・念も、目に見えないすべてのもの。


夏場なので少し趣を変えて触れてみます。

「あの家はお化けが出るらしい。」
「あそこでは幽霊が目撃されている。」
そんなワードを、自分のタイムラインに書くことになるとは夢にも思わなかった訳ですが、これ、「人が創り出したエネルギー」だと理解できている方がどれだけいらっしゃるでしょう。

よく言われますね。
低級霊に憑依されている…。だとか。
その存在は、
「ここに犬がいるし、水槽の中には金魚がいる。」と同じ感覚で、怖い存在が「居る」と認識しているはずです。
でも、
それは「誰かが創り出したエネルギー存在」であること。
「居る」のは、初めて創り出した人が居り、初めて作り上げた意識の元があるからこそ。

そして、それは「自分かもしれない」。
心の中で・意識の中で、「何も存在していなかった空白に」創り出してしまったことを。

「そう思えば、そのようになる。」仕組みです。
だから、
何を想い、何にフォーカスし、何を創り出しますか?ということなのですね。
だから、
発言に責任を。から、何を意識し何を心に描くか、ここにこそ責任を。と。

ここ数日、重ねてやかましいほど連ねていますので、もう打ち止めにしますが、
「暑い暑い!」と叫ぶから、あなた自身が「更にもっと熱い現実」を創り出してしまっていること。もう満腹でしょう。


気象操作が当たり前のように裏側で行われ、故意に災害が作り出され、それによって懐に流れ込む利権という名のカネを得てきた支配者層。
それらを、いっそう酷く現実化させるために、「意図的に臣民を怖がらせ、わざと恐怖を煽り、あらゆる手段を使って洗脳してきた。」この現実を知る人が急激に増えたことにより、「そういった事象が具現化しにくく」なったのは、台風上陸数の推移を見ても容易に理解できるはずです、と以前にも触れました。

もう、煩いことをガンガン書かなくても、この場でご縁をつないでいただいている皆さまは十分にご理解なさっているはず。
ここは、さらに「これを強固に推し進める」必要があると感じるのです。


原因と結果。その、不変かつ普遍的な仕組み。

自分が創り出した「結果」に一喜一憂している限り、この学び教室・この「うまくゆかない現実ゲーム」は、永遠に終わらないはずです。
そして、過去の因果を解消すべく「今世で苦しんでいる」のなら、ここまで苦しい体験をさせていただいてありがとうございます。と頭を限りなく低く下げるべきではないかとも思うのです。


新しい世界を、新しい世の中を「創りあげる」のは、わたしたち自身であること。
黙って「よい子ちゃん」をやっていれば、いつか救世主や白馬の王子様がやってくるのではないこと。
あらためて、お化けや幽霊を夏の風物詩として納涼のネタに語る前に、再認識したい重要なことだと思っています。

わたしたちは一人残らず、
みな恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

色が持つ力に触れ心にチャージする

色のエネルギーを心にチャージ photo 宮本章光

「色」とは、特定波長を持ったエネルギーそのもの。
ある特定の範囲(可視光線帯域)に限り、わたしたちには色として認識できるとされます。
その範囲を「外れたところ」に存在する「波」には、音もあり電波もあります。

色に関しては、実際のところ、
対象物が備える色素が、光を反射するか吸収するか、によって、そのもの本体が持つエネルギーとは異なる「色」を見ていることになるのですが、難しいことは触れずに置きます。


心が疲れていませんか。
心そのものが弱っていませんか。

暑い暑いと叫んでいても涼しくなりませんでしょう。
むしろ、その発言・行為自体が「より一層、輪をかけて増幅している。」という事実に氣がついている方は、そういった発言はなさらないはずです。
「自分自身が、どんどん熱くしている。」のですね。

少し前にも触れました。
---◇◇◇----
暑いね〜、熱いね〜。
その言葉が、言霊が、意識が、その状況を現実として具現化してゆきます。

地球地軸の傾きが大きく変化しただけにとどまらず、わたしたちの集合意識が「さらに暑くしている」ことを知りましょう。

台風しかり。
もう上陸して甚大な被害を及ぼす台風。この2年間では記憶にないはずです。

そう、こうして「意識」が現実を創り出します。
---◇◇◇----
[Link]【暑いね〜と言うから熱くなる】2022/07/03(Sun)


自分の意識が、
自分の発言が、
自分の心から発した「目に見えない力」が、
目に見えないフィールドで甚大な影響を及ぼします。
そして、それが顕在界に具現化してゆきます。

自分が発した言葉そのものが持つ力により、さらに、もっともっと暑くしている。
その事実を知れば知るほど、責任重大であることを。
だから、
何を想い、何を発言するのか。

これからは、発言に氣をつけるのではなく、意識すること・心に抱くものに対して責任を。
と、何度も何度も重ねてきました。
数えきれないほどのタコが耳に出来上がっているはず。


弱っているのですね。
疲れているのでしょう。心の中が。

胃袋に冷たいものを流し込んでみても、結局は大切な「借り物」の体を痛めつけるるだけ。
その瞬間だけ、刹那的な満足感を得てみたところで、最終的には「負の因果」を積み重ねるばかり。マイナスポイントが溜まるばかり…。
もうその教室から卒業した人は、恥ずかしさに目を覆いたくなっているかもしれません。
自分自身の過去を振り返って自戒を込めて。です。


それならば、
色というエネルギーから、心へチャージしてみてはいかがでしょう。
カラーセラピーしかり。
カラーリストのコーディネイトしかり。

自分らしさ表現のスペシャリストも、色によるエネルギーを活用しましょう、と語り、その重要性を説いて久しい状況です。

そんなもの…。くだらない…。
でしょうか?
まだ、物質社会、顕在界だけの視点とその反応だけで生きてゆきますか。

わたしたちは一人残らず、
みな恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

メリハリを味わうこの地・体験教室

圧倒的な存在感 photo 宮本章光

「対比」が大きければ大きいほど、その違いを感じることができます。
「違い」が大きければ大きいほど、そこから受ける力が大きくなります。

この地は、こうした対比や差異、違いを体験し、それを味わう場所。
体験学習教室:地球。
メリハリが大きく極端であるほど、そこから受ける学びの総量も拡大します。

メリハリを感じる生き方。
コントラストの大きな生き方。
十分に味わいましたでしょうか。
存分に楽しめましたでしょうか。

当然、大きな力も小さな力も存在するはずであり、それぞれの「絶対値」としての違いは、しっかりと認識できるはずです。


大きければよい。コントラストは高いほどよい。
そんな時代もあったでしょう。
でも、ほんの小さな「差」を見出し、その微妙でデリケートな「僅差のエネルギー差」を感じてみる。といった体験も必要ではないでしょうか。

力が大きい・小さいといった差を感じるだけではなく、
わたしたち自身が感じる「心のセンサー感度」のスケールそのもの(対数表示:長さで例えれば「km -- m --cm -- mmのように」)を変えることによる、感じ方の差を味わう体験もしっかりと行ってみたいと思うのです。
言い変えれば、
「定規の単位を変える」ことによって、どのように心の感じ方は変わるのか。


楽しみ方は無限に存在しているはず。
味わい方も数限りなくバリエーションが存在しています。

力を感じる。
力を受け取る。
そこから何を学びますか。
そこから何を生み出しますか。

わたしたちは一人残らず、
みな恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

みんな自分らしく生きてゆく

みんな自分らしく photo 宮本章光

そのまま、今あるまま。
みんな懸命に生きています。

それは、
努力が不要というのではなく。
苦しいことから逃げろというのでもなく。

何が悪い。何がダメだ。
誰が誤りだ・誰が正しい。

思考そのものを「操られる」よう、自分から泥沼に足を突っ込んでゆく。
意識そのものを「人の手に渡してしまう」よう、教育されてきました。

自分の心の手綱は、自分しか制御できないはずでした。
ところが、
それを、いとも簡単に「人に委ねてしまう」。
だから苦しい。
だから苦労する。

それを味わってみないことには、体得できないのですから、大変貴重な体験だったことには違いありません。
でも、もういいでしょう。
貴重な糧として得られたのですから。


懸命にに生きている。
そのままで十分に満ち足りている。
その姿に、心打たれるのです。
大自然は、いつでも自然そのまま。

どこまでも広く、どこまでも穏やか。そして、どこまでもこころ安く。
あらゆる場所に息づく仲間と、ともに歩みます。

わたしたちは一人残らず、
みな恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

水の神から力をいただく

川の勢いに神の仕組みを観る photo 宮本章光

水に触れます。
水を感じます。

「水の神」は、日本のみならず、世界各地で語られる多くの存在があります。
神とは、
雲の上で穏やかな表情を浮かべる白髪の老人ではなく、この地のあらゆる場所に存在する「大自然の仕組み」そのもの。
神は語らない。
でも、そこに触れることで無限の力を感じられる存在。その仕組みそのもの。

そう確信する日を迎えました。

とるに足りないこと。
どうでも良いこと。
ようやく吹っ切れた感覚に包まれています。

この体をお借りして、触れ・感じることができる体験に。
この底知れぬ無限の力に。
感謝申し上げます。
ありがとうございます。

わたしたちは一人残らず、
みな恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

そろそろ潮時でしょうか

この国の原風景 photo 宮本章光

この国で、体を使わせていただき、地の民として生きる体験をすること。
こんな幸せはありません。

この国の大いなる自然に触れることができるから。
この国の奥深い言葉の力を感じることができるから。


人はみな、
自分の道を自分で描き、その道を歩みます。

機は熟しました。
そろそろ潮時でしょう。

素晴らしい環境、素晴らしい体験、素晴らしい言葉に溢れるこの地に感謝申し上げます。
ありがとうございます。

わたしたちは一人残らず、
みな恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

とめどなく沸き起こる感謝の心

この地で生きるからこそ感じるもの photo 宮本章光

この地に生きているからできること。
この地で生きているからこそ感じられること。

五感に触れ、五感で感じることが可能なもの。

日の光に輝く、多くの植物たち。
日の光を通し、緑に煌めく新緑の葉。
日陰に隠れ、濃淡の色彩感を醸し出す、多数の若葉や役目を終えた葉。


みんな、どれも、この地だからこその体験。五感でキャッチできる体をお借りしているからこそ叶うこと。
その恵まれた環境と、その満ち足りた日々に感謝が湧き上がります。
忘れてはなりません。
わたしたちは、今すでに、これほどまでに恵まれていることを。
わたしたちは、今すでに、これ以上望む必要がなく満ち足りていることに。


物質社会における不足している部分にフォーカスし、
足りないから…、と、欲望を満たすために手繰り寄せる引き寄せではなく。
平和でない…、と、故意に作り出され意図的に仕組まれた世界にフォーカスし、
すでに平穏平静な心を、自ら負の力で荒らしてしまうが故の祈りではなく。


忘れてはなりません。
いま、これほどまでに恵まれていることに。

感謝とは、不満を解消するためや不足に焦点が向いた、この世の欲望を導き寄せるための道具ではなく、心の底から溢れんばかりに、とめどなくどこまでも拡がり続け湧き上がる氣持ちであることを。

ありがとうございます。
当たり前にこそ、感謝を。

わたしたちは一人残らず、
みな恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

脈々と流れ続ける

脈々と流れる川のように photo 宮本章光

無理をしない。
とは、いい加減なことや怠惰な姿勢をとることではなく。

明るく楽しく、心穏やかに。
とは、嫌なことから逃げ出せということでもなく。


言葉面、上面だけを都合のいいように切り取って解釈する。
それはダメだろう。そう語られることが多かったはずです。
けれど、
それさえも、もう起きなくなっているかもしれません。
その負の力を持つ現実を自分が生み出さなければ、発生しないという仕組み。

嫌なことを導き寄せない思考ができるようになると、その現実は目の前に具現化しなくなります。
嫌なことが起きないから、「嫌なこともあるさ。乗り越えて努力してこそ人生だ。」式の思考そのものが生じなくなります。


何が良いかよくないのか。
自分自身の判断と選択。
正解も不正解もなく、それぞれの判断が生み出す目に見えない力と、その結果という循環に則った、因果応報の仕組み。

いい加減がいいんだ。と思えば、それが自分の選択。
好き嫌いで生きればいい。と考えれば、それが自分の選択。

但し、
その思考・判断・行動が生み出す「結果」まで自分自身で享受する。
因果は必ず返るもの。
時と場所と手段を変えて。あるいは世代を超えて。


極めてシンプル。
至って明快。
その仕組みは、いつまでも変わらず、永遠に続きます。
脈々と流れ続ける川のように。

わたしたちは一人残らず、
みな恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

大空はいつでも偉大な芸術家

大空はいつも偉大な芸術家 photo 宮本章光

空を見上げると、姿勢は上向きとなり、呼吸も大きく深くなるように感じます。
わたしたちは、そんな単純なことさえも忘れていたのかもしれません。

撮って。
とメッセージを送ってきたのでしょうか。
僅か1分ほどのちには、見事に消滅してゆきました。


そのイメージを描いてみようとしても、同じものは決して再現できないでしょう。
写真なら残せるでしょうか?
確かに、見た目の形状はデータとして残せるはずです。
けれども、その瞬間に伝えてきた目に見えない力は、受け取る側が「その意図を汲み取ろう」として能動的に受け取らない限り、その力を維持できません。
そして、
そこで語られる大きな力を受け取って、それを残し・伝えようとする意図を持って記録し・伝えない限り、決して響き合うことはないでしょう。


大袈裟でなく。
18年前の創業直前。
冷たい板の上で心に誓ったこと。

「何かを使って何かを伝える役目」
「何かを残して価値を生み出す役目」
それが自分の仕事だと。

もちろん「物理次元の地球の歩き方」を外れることはできませんが、志を忘れない限り、自動操縦のごとく自動的に歩み続けられること。
わたし自身がそれを証明して見ていただくこと。
これからも、忘れずに。

大空は、いつも大きな存在。
大空は、いつでも偉大な芸術家。
その目に見えない力を受け取り、形に残し伝えます。

貴重な素晴らしい時間と、限りなく透き通った大きな波を送っていただきありがとうございます。


わたしたちは一人残らず、
みな恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

「梅雨明け宣言」って何だろうね

植物と昆虫は持ちつ持たれつ生きている photo 宮本章光

-- まだ梅雨が明けないから。
-- まだ梅雨明けしていないから。
そんな枕詞、無意識に口にしていませんか?

だから、何?どうしたいの?
その宣言にどんな価値があるの?

昨日の記事で少し触れました。
こうして無意識に言葉を発する、わたしたちが生み出した「目に見えない力」が束ねられて、現実という風景が形になってゆきます。
---◇◇◇---
「めちゃめちゃ暑いね。どうなってんやろな。」
「今日も暑いね。氣をつけて。」
多くの方々が、そのように言葉を発します。

それ、挨拶だから当たり前でしょ?
それ、時候の挨拶でしょ?

確かに。
でも、そう語るからそのようになる。その仕組み。
---◇◇◇---
【もうそろそろ次のステップへ】2023/07/18(Tue) [Link]


「梅雨が明けたと思われます」と、
そんな宣言は今後止めるんだ、と発表された時期があったように思われますが、結局、また復活しているのですね。
そして、
その「宣言」を待つ人々…。

どうして待つのでしょう?
待って何が変わるのでしょう?


植物も昆虫も、そんなものに一喜一憂することなどあり得ません。
激しい雨に見舞われると命に関わる、そんな生き物の代表。
この季節ならば「セミ」でしょう。
羽化のタイミングに豪雨に合うとアウト。命に関わるはずです。

だからこそ、その稀有なチャンスを本能的に察知し、蛹の中でドロドロに溶けたようなプロセスを経て体の組成を組み替え、ようやく成虫となると言われます。
しかも、羽化プロセスは十分に羽を伸ばし乾かす時間も必要なようですし。

知っているのですね。彼らは。
そうでなければ、即刻、命を落としますから。


何から何まで、この数千年間は隷属化のための策が徹底的に取られてきました。
もうこれ以上語る必要はないと思われるので、ここで止めます。

だからこそ、自分から「創る」のです。

いつまで「居心地のよい檻」の中で囚われの生き方を続けますか。
いつまで「氣がつかないフリをして」自分の直感をスポイルし続けますか。
これからも、勘をダメにする食べ物を、ずっと口にし続けますか。
これからも、勘が効かなくなる言葉を、ずっと発言し続けますか。


まだ梅雨明けしてないし…。
まだ梅雨が明けたと言われていないし…。

「梅雨明け宣言」発表されました!!と、
その言葉を聞くと、途端に「元氣が出る」のですね。
その言葉を聞くと、途端に「やる氣が出る」のですね。
ご自身がそう感じるのなら、それもヴァリューがあるのかもしれません。


自分の意志で、支配からの生き方を卒業し脱出しようとするのなら、古い教室からは、一刻も早く退出したいものです。
ただ、その仕組みの中で燻り続けるのも一つの生き方かもしれません。
それが、ご自身でカスタマイズした「今世のシナリオ」であるならば。ですが。

「梅雨明け宣言」って何でしょうね。


わたしたちは一人残らず、
みな恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

もうそろそろ次のステップへ

川べりに美しく花開く photo 宮本章光

わたしたちが心に描く想念が、目の前の風景に…。
ようやくその本質を理解し、自分の言葉として語ることができる方々が増えてきました。

「めちゃめちゃ暑いね。どうなってんやろな。」
「今日も暑いね。氣をつけて。」
多くの方々が、そのように言葉を発します。

それ、挨拶だから当たり前でしょ?
それ、時候の挨拶でしょ?

確かに。
でも、そう語るからそのようになる。その仕組み。
もう満腹ですね。


実証された事例も増えてきました。
数年前までの「台風上陸数」と、この3年間の比較。
多くの人たちが、もはや氣象操作が当たり前だったことに氣がついた結果だと。
ソースはどこや、エビはあるんか。
と騒ぐ人たちも、もうすっかり鳴りを潜めてしまいました。
これが「集合意識」というものなのでしょう。肌で感じることができるようになりました。

自分たち自身で、さらにもっともっと暑くしていたんだ、ということ。
氣づいてもよい時期を迎えたと思っています。


---◇◇---
暑いね〜、熱いね〜。
その言葉が、言霊が、意識が、その状況を現実として具現化してゆきます。

地球地軸の傾きが大きく変化しただけにとどまらず、わたしたちの集合意識が「さらに暑くしている」ことを知りましょう。

台風しかり。
もう上陸して甚大な被害を及ぼす台風。この2年間では記憶にないはずです。
そう、こうして「意識」が現実を創り出します。
---◇◇---
【暑いね〜と言うから熱くなる】2022/07/03(Sun)[Link]


次のステップ。
次に取り組むことは。

次のステップは、楽に生きる。嬉しく楽しく日々過ごす。
これを実践することではないでしょうか。
心地よく昼寝をするネコたちのように。


君、アタマ大丈夫か?
それをお花畑と言うんとちゃうか!

ええ、大丈夫です。
自分で人体実験してきました。わたし自身がこの一生をかけて。
そして結果がここに出ています。
ここに生きて証明しています。
もちろん、過去には「学び」として、思いっきり遠回りもしましたし、痛く苦しい思いもしました。でも、もう味わい終えました。もう要りません。

昼寝をするネコたちは、人生に失敗したなどと落ち込みませんし、それによって命の危機を感じることもないでしょう。
貨幣資産を築くのが成功者の証。そのために願いを実現させて引き寄せるんだ。
などと考えませんでしょう。
むしろ真逆です。
負の力が渦巻く泥沼に自ら深く嵌ってゆく人間より、よほど幸せなはずです。
優雅な寝顔がそれを証明しています。

こうした、心地よさと幸福に満ちた感覚とされる事例を、数多く示すこと。
その実例を、可能な限り共有すること。
その言葉を実践している方々の波長が大きく広がっていますでしょう。


次のステップは、自分自身で選択し、自分で歩むことでしか実現しないのです。
「行動せよ」
「行動こそ結果を得る方法だ」
そう豪語なさっていた人に限って、ここに至って実践しない。いえ、できない事例も多く見えます。

歩みましょう。
ご一緒しましょう。
自分で道を創り出し、自分でその道を歩みます。
すべては「自分の心の中」から生み出してゆくのです。

わたしたちは一人残らず、
みな恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

この地に桃源郷を創る先鋭隊に手を上げる

夏場の紅葉に意識を合わせ photo 宮本章光

この場でご縁をいただいている多くの皆さま、みるみる「身軽」になっていらっしゃる様子が分かります。
素晴らしい仕組みを手に入れつつあるように見えます。
凄い時代に生きているんだな、と感じます。


わたしたちの本当の役目は何だったのでしょう。
空を見上げると、その答えの、ほんの触りの部分だけでも感じられるはずです。

美しく会話を続ける小鳥たち。
穏やかに頬を撫でる優しい風。
そして、優雅に昼寝をする猫の姿まで。

ここに波長を合わせてゆきます。
そうすればこそ、その同じ周波数が「幸せ」で「美しい」風景を現実のものとして創り上げる力が生み出されてゆきます。
多くの方が語り始めていますように、「幸せを感じる」感覚を維持する。その氣持ちを持ち続ける。
ここにこそ役目があったことを思い出します。
そして、
そうではない!桃源郷などあるわけない!苦しめ!
と叫ぶものは、すべて権力者層が臣民を支配下に置き隷属化するための洗脳であったことまで。
ようやくここに到達できたのだと思っています。


-- 人生、苦あれば楽あり。
-- 楽しいことだけではダメなんだ。
この論法。
もう卒業できた頃でしょうか。

この旧来のメソッドが誤りだと言っているのではなく、わたしたち自身、それを経験して成長を重ねてきました。
これまでは。です。
これまでの教室で使用する学習教材。しかも自分で編集した教科書でした。

でも、そう叫び続ける限り「その現実だけしか具現化しない仕組み=負の感情と負の力に覆われたマトリックス」しか作り出せない&そこから逃れられない仕組みに氣がついたからこそ、その波長が持つ力からはきっぱりと離れたのでした。
ならば、
「そうではない方向・まったく正反対の方向」の力にフォーカスしてみてはどうなのか。

この実験をする「先鋭隊」として立候補した者たちが居ました。
それが、わたしたちだったと、各々が氣づきはじめたのでしょう。


だから、これからの道を歩むに際し「必要ない荷物」は処分したはずです。
だから、この先の道を進むために持つべきものは「心から生み出す力」だと認識しそれを使いこなす練習を重ねているはずです。
そして、
そのために「望ましいイメージ」をまず初めに描き、それを現実に落とし込みます。もちろん、ここでは「物理次元地球の歩き方」の外枠を超えて飛び出すことはできないため、その制限の認識、そして行動を外すことはできませんが。


-- 何を心に描くのか。
-- 何を意識し何を創り上げるのか。
毎日、同じことを書き続けています。
でも、
来る日も来る日も、そうした言葉が降ってくるので、それが消滅するまでキーボードを打ち続けることになりましょうか。それも役目なのでしょう。

この地に、次世代社会としての桃源郷を創り上げるための先鋭隊。
立候補したからには、その役目を全うしたいと思うのです。

わたしたちは一人残らず、
みな恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

耳を澄ませて

雨上がりの虫と花との会話 photo 宮本章光

この国には、音が多すぎる。
この国の人々は、音に麻痺している。

ことあるごとに、そのように感じています。
以前の記事でも、何度も何度も触れてきました。

良いかよくないかという、その論議を超越した部分で、心に響く声や心で感じる波長を、一切スポイルしてしまうノイズという名の数々の音。
いえ、
ノイズになるかどうかは、受け取る人それぞれですから、断定はできませんが。


部屋に響き渡る「時を刻む秒針の音」だけに耳を傾ける。
空に響く風の音や小鳥の会話を聴いてみる。
それだけで、随分と心の中が綺麗になると氣がつきます。

-- そんなこと、教科書には書かれていないし一度も習ったことはない。
-- そんなこと、誰にでも容易にわかるレベルの話には価値がないに決まってる。

いつまでも形だけに囚われてしまうと、その落とし穴にハマり続け脱出不能になります。何度試行してみても、砂が舞い上がるばかりのバンカーショットのように。


とにかく、人の手が加えられた音から離れる。
可能な限り、音を消してみる。
試してみますと、心が鎮まり平穏な世界が無限に拡大してゆく感覚が分かります。

その「下拵え(したごしらえ)」を行ってから、自然との会話に入ります。
すると、途端に世界が変わるのです。
瞬間にレイヤーを跨いだ感覚です。

目の前に、植物と昆虫の会話が繰り広げられていることに氣がつきます。
それまでの雨が、美しい雫となって花を引き立てる姿がそこにあることにも。


目の前の現実は、自分の心が生み出すというその仕組み。
目の前の風景は、自分の心が創り出すというその本質を。
実体験しようとしないから、いつまでも理解できないのかもしれません。

「頭でっかち」な生き方。
もう卒業できましたでしょうか。
そのトリガーとして「音」にズームインしてみてはいかがでしょう。

わたしたちは一人残らず、
みな恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

もういいかい?もういいよ!

壁面に美しく咲き誇る朝顔 photo 宮本章光

かくれんぼ。
誰しも経験がありますでしょう。

もういいかい?
まあだだよ。
もういいかい?
もういいよ。

地域性もあるでしょうか、こういう掛け声ではない所もあるかもしれません。


目隠しをしている人(オニ)にとっては、「もういいよ」と、その声が発せられる場所が、ある程度判明している(=声の聞こえる場所)ので、その場所へ狙いに行きます。
公園などの隠れる場所があまりない所では、木の影などに限定されるため、すぐに見つかってしまいます。
でも、そのプロセス自体を楽しむことができました。
一連の流れそのものを味わうことができたのでした。

ここで思い出す感覚。
それは、
「完璧に隠れなくてよい」ということ。
いえ、むしろ「隠れてはダメなんだ」と、その地域の年長格の兄さん姉さんに指導を受けたのではなかったでしょうか。

時として、意図的に「頭隠して尻隠さず」な、ちょっとだけ「見えるようにしておく」その配慮、といいますか、その「遊び方」の極意です。


完全に隠れてしまうと、探す立場のオニさんが苦労します。
それに、探し回る時間が無駄に流れて、次のオニの役へと変わることが叶いません。何より沈黙の時間は必要以上にあってはならないのです。

息を潜め、そして笑いを堪えて…隠れます。
でも、足先だけをほんの少し見えるように出しておくので、すぐに見つかります。
だからこそ次々にオニの役を交代して、飽きずに繰り返し遊べたことを。

完璧に隠れて、どこに居るのかまったく解らない。
そんな子が一人でも残ってしまうと、「もうええやん、ほっとき。」(もう探す必要ないよ。放置しておけばいい。)と、その時点で仲間外れにされてしまうことさえあったように思われます。
今にして思えば「かなり微妙な心と心の接点」を「感覚的に駆け引きしながら」遊んでいたのだな、と感心します。


そう、その年代(幼稚園児から小学生くらい)には、子供たち同志で、「相手が何を考えているのか」「相手が何を感じているのか」が、お互いに理解できていたことを思い出します。
そして、
(少々言葉が適切ではないながらご容赦願って)そうした「相手の氣持ち」をあまり感じられない子も存在していたわけで、彼ら・彼女らに対しては、地域の年長者が、面倒を観ながら、先ほどの「もうええやん、ほっとき。」と発言する者に対しても、「そう言わんと、みんなで遊ぼや。」と、「お互いに楽しく時間を過ごせる工夫」をしていたこと。
この風景も、しっかりと思い出すことができます。


いつの頃からでしょうか。
人のことに触れるな。人の考えなど放っておけ。
このように、どんどん心の触れ合いが消滅してゆきました。
そして、今。
再び、こうした心の接点を復活させたいと願う感覚が戻っていませんか。
(他人の考えに左右される、という意味ではありません。)


失われた感覚。
故意に仕組まれ、意図的に忘れるよう変えられてきた社会。
極端に片側に触れた振り子は、必ず元に戻ろうとします。
戻そうとする力は、わたしたち一人ひとりの「心」から生み出すのですね。

引力に引かれて勝手に戻るやろ。ほっとけ(放置しておけ)や。
ではないはずだと。
自ら心に描く。
自分から心が触れあうシチュエーションに持ってゆく。

思い出していますでしょう。
ともに、その感覚を拡大してまいりましょう。
同じ波長で響き合える皆さまとともに。

もういいかい?


わたしたちは一人残らず、
みな恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

色々な道をさまざまに歩む

光と影が織りなす石畳 photo 宮本章光

道。
歩む道は、人それぞれ。
そして、行き着く先も十人十色、千差万別。

どの道を選ぶのか。
どういう歩き方をするのか。

この、
「旅行スケジュール」を立てる段階を楽しみ、
「旅行その時・その瞬間」を楽しみ、
「帰ってきてから思い出を」楽しむ。

旅は「三度おいしい」と言われます。
わたしたちは、この3要素の2つ目をエンジョイしている真っ最中。
ここまで理解が到達しますと、楽しまないわけにはゆかないでしょう。


初めての海外旅行。
それなのに、冷凍食材を解凍して切り盛りしただけの「日本食」を、わざわざオーダーし、滞在先の部屋に閉じこもって「ネット経由の日本のメディアニュース」を見て、こう叫びます。
なんだよ、この料理は!
なんなの、この人たちは・この政治家は・このタレントは…!と。

何のために海外旅行に出かけたのでしょう。
その地にしかないものを食し、その地だけの空気感を楽しむためだったはず。
目にするもの、口にするもの、胸いっぱいに取り込むその地の空気感を感じるためではなかったでしょうか。


素晴らしいものを体験し、素晴らしいと感じ、素晴らしいと伝える。
美しいものを美しいと感じ、美しいと讃える。

それが、大宇宙の「標準仕様」だとされます。
デフォルトでそういった仕組みなのだと語られています。

でも、退屈だったのかもしれません。
もっと「苦労」してみたかったのでしょう?
痛み・苦しみ「うまくゆかない現実」という名のゲームを試してみたかったに違いありません。
だから、この地に降り立ったのでした。
自分から手をあげて、自分から希望して、やってきたのでした。

まるで、せっかくやってきた初めての外国で、日本食に文句を言い、日本のメディアに煽られ、負の感情を盛大に溜め込むかのようように。
何のために?なぜここにやってきたのでしょう?
何のために、旅行にやってきたのでしょう?
でも、これも目的の一つだったとしたら?


この地を目一杯楽しむ。
もちろん、その一つの要素として「うまくゆかない現実ゲーム」を体験する時間があり、苦労そのものを味わうのは、標準アクティビティに含まれていたはず。
あるいは、オプショナルツアーとして、病床で苦しむ体験さえも「自分で予約」したはずなのです。
けれども、苦しみのオプションは一度体験すればもういい。もう十分です。
これから先の道では、選択しないだけのこと。

ここまで「思い出した」のなら、もう楽しむしかありませんでしょう。
楽しみ、存分に味わって、それを「楽しい」と表現する。
これ以外にありません。
その波長に共振するエネルギーが、その先に展開する「自分自身の道」を創り上げてゆきます。
まさに、自分だけの完全オーダーメイドのアクティビティとオプショナルツアー。

そして、その心が生み出す力が「感動」を呼び、そこからさらに拡大する充実感と達成感が「感謝」へと繋がってゆきます。

色々な道を、さまざまに歩む。
この素晴らしい仕組みに、あらためて感謝を申し上げます。
ご一緒しましょう。
同じツアーで、同じ波長を保持なさっている皆さまと。

わたしたちは一人残らず、
みな恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

そこに響き渡る音色を

飯舘の初夏を感じる photo 宮本章光

この国に生まれこの国で育った人は、誰でも容易に感じることができるはず。

そこに響き渡る、小鳥の囀り。
そこに流れる、風の香り。
そこに満ちる、心に響く音色を。


感じよう、と、意識してみれば「感じられる」はずなのです。
ところが、
盲目的に、口を開けて待っていれば「自動的に与えられる」というスタイルに麻痺してしまったわたしたちの感性。

感性とは、偉い先生が演台で語る「文字に落とし込めないほどの難しく高い芸術性」のことではなく、特別な能力がなければ「受け取れず・感じられない」、別にそんな高尚なものではなかったはず。


自分から「合わせて」ゆきます。
それは無理矢理に「全く楽しくもないのにわくわく」することではなく。
それは無理をして「感じたくないタイミングに」心を開くことでもなく。

自分から、感じてみたい。
と、響いた瞬間に。
自分から、感じてみよう。
と、閃いた瞬間に。
心を合わせてゆきます。

まさに、勝手に、とでも言うような感覚で心が動く瞬間があります。
そのタイミングを逃さず、そこにある波長に合わせてゆきます。
そうすればこそ、
思いもよらない「大きく、そして暖かく包み込む」力がそこに存在していることに氣がつきます。

自然とともに響き合う。
それは生業として従事するという形ではなくとも、心の波長がガツンとシンクロした瞬間が判る、その感覚。
大切にしたいと思うのです。

そこに響き渡る感覚を。
そこに響き渡る音色が理解できた瞬間に、感謝の氣持ちが溢れ出ます。
こうして生きていることに。
このような体をお借りして、調和と共鳴の波長を体験できることに。

わたしたちは一人残らず、
みな恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

「初心者」ずっと続けます?

美しく花開く photo 宮本章光

--「いえいえ、まだまだです。」
--「とんでもない、わたしなんて全然ダメですから。」


何らかのお褒めの言葉をいただいた時。
高い評価をいただけた時。

無意識に、そのような言葉が口をついて出てしまうことはありませんか。
それが礼儀だと思っていませんか。
それが正しい返答だと勘違いしていませんか。

もちろん、
スゲーだろ!それ見たか!ドヤ、これが実力や!
とは言いませんし、その言葉はちょっと危ない…感覚であることは疑いようがありません。


言霊。
言葉として発したものは、そこに「目にはみえなくとも言葉の力」が存在していること。
「まだまだです。」と言い続けている限り、永遠に「まだまだ」な現実が。
「全然ダメですから。」と発言する限り、いつまでも「全然ダメ」な現実を自分自身が創り出していることに。
もう十分に理解が行き渡ったはずです。
耳にタコがいくつできたか数え切れないものと思われます。

客観視すること・俯瞰して自分が立っている今のステージを認識するのはとても大切なことだと思われます。
これができないと、単なる痛い人で終わってしまいますから。


であるならば、お褒めをいただいたら、何と回答しましょうか。
「ありがとうございます。嬉しいお言葉に感謝申し上げます。」
この感覚
ではないかな、と思うのです。

でも、そこまで発言できない。どうも恥ずかしい部分が残る。
と仰るのなら。
「お褒めの言葉をありがとうございます。これからもより一層磨いてまいります。引き続きご指導のほどよろしくお願いいたします。」
でしょうか。
ここにこそ「感謝の心」「感謝の氣持ち」が必要
だと感じます。
(感謝は、個人の欲求・欲望を満たすための道具ではないこと、再確認です。)


心の世界が重要視されるようになるにつれ、そしてそこに理解が到達するに従い、過去の過ちや不甲斐なさを「客観視し・俯瞰して」認める。
とても大切なプロセスだと思われます。
でも、いつまでも「そのフィールドに居続ける」と、進歩・進化が停止してしまうのです。

--- こんなにダメだった。こんなに苦しんだ…。
--- でももう浄化できたので、いまはスッキリです。

そう仰るのなら、
「もうその部屋からは出てゆくこと」が必要ではないでしょうか。
卒業生は、現役生と机を並べることはできません。
これから先「やるべきこと」にフォーカスしてゆきたいものです。

いつまでも「初心者」です。
と、言い続けるから「万年初心者」にとどまります。
いつまでも「まだまだ」です。
と、間違った言葉を発するから「永遠に旧いレイヤー」から脱出できません。


--- これは自分の失敗だった。
--- 失敗があるから成長できたんだ。
それを知り、十分に学んだのでしょう。
それならば、「体験させていただけた教室」にありがとう、と心からの感謝を伝え「退出」するのです。
こうして、心の底から湧き上がる感謝を伝えてゆきます。


「初心者」
これからもずっと続けます?

認識を新たに、もう一段上へ向いて階段を上がりましょう。
そして、望ましい近未来に続く道を、私たち自身の心から創り上げましょう。

わたしたちは一人残らず、
みな恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

自分のカラーを知り・活かすことによって新しい世界を創り上げる

斜面に咲き誇る朝顔 photo 宮本章光

自分の色。
それを認識し活かすことで、さらに「心のありよう」が拡がるのだと思います。

それは、ストレートに言葉が示す「カラー」そのものではなく、自分らしさだとか、自分の得意分野を知ることでしょうか。
その媒体は、言葉や文字であったり、絵やアート作品であったり。
あるいは、語りやトークであったり。
対象や手段を固定しない、さまざまな表現方法そのものなのかもしれません。

そこには、多種多様な手段・媒体・方法があると思われ、その「使いこなし」を心得ている方ほど、より魅力的で具体的な表現が可能になるはずです。

いま、わたしたちは、
この「自分色の使いこなし」によって「自分という存在そのもの」集大成を編纂中ではないでしょうか。
長大な時間・期間を、途切れることなく埋め続けてきた経験がモノを言う、そんな自分史ならぬ、自分表現大全集…的な感覚。
そして、ようやくそのアーカイブを実地に活かすフェーズに入ったのだと思っています。


多くの方々が、「自分はこんな過去を生きてきました。これほどまで苦しんだのです。」と綴ってらっしゃる記事を拝読しています。
けれども、続いて「でも、それは自分が勝手に思い込んでいただけ。」
あるいは、
「それは必要だからこそ体験させてもらえたのです。」と。
こうして、次のステップへ移行なさっている様子を拝見しています。

この「登り続けよう」「切り拓き続けよう」とする進化の力。
これこそが「望ましい近未来」を創り上げる原動力なのだと判ります。

こうして、心の中から描き続け、創り上げる、
--- そのための「自分のカラー」「自分色の使いこなし」。
こうして、心の中から表現し続け、作り続ける、
--- その時にこそ力を発揮する「心から生み出す力」。


ようやく、わたしたちは「心のありよう」によって、自分自身が望み・願う近未来を創造する方法を「思い出そう」としています。
本当に凄い時代を生きている。と感じています。

でも、そこには「極限まで肩を張り詰めて」自分を追い込み、苦しまなければ結果は出ない!などと叫ぶ愚を繰り返すことなく。
自分のDNAに刻まれたカラーを、あますことなく「その時」が来れば披露する朝顔の花たちのように、美しく自分らしさを表現する。
そして、それが実現する時代の幕開けを迎えたように思います。

ともに、素晴らしい道を創り上げてまいりましょう。
それは大自然の仲間たちだけではなく、同じ波長で響きあえる皆さまとともに。

わたしたちは一人残らず、
みな恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

身近にあるアートに触れて感じるもの

路地裏にあるアート作品を感じる photo 宮本章光

小鳥のさえずりに耳を傾けます。
風のささやきに耳を澄ませます。
そして、
色とりどりの草花・木々のいで立ちに心を合わせてゆきます。

その感覚を維持したまま路地裏に入りますと、こんなところにもアートがあることに氣がつきます。

急ぎ足で通り過ぎれば、恐らく記憶に残ることはないでしょう。
自然や周囲の心地よさを感じる感覚を持たず、スマホ画面を覗き込んでいれば、意識のテーブルに乗ってくることは、まずあり得ないでしょう。


どうして、こんなところ(失礼な意味はなく)に、この作品が?
どうして、こんなところに、この色彩感が?

そう長い年月が経っていないであろうと思われる、数段のコンクリートの階段に、わずかに寒色系(青色氣味に)に振った車止めの半ループ。
ともに並ぶ、シルバーの手すり。
そこに、同じ寒色系に統一感を持たせ、路面一面に散りばめられたこのモザイク。

大きなものではありません。
構成されるパーツそれぞれ、材質も異なるように見えます。
立地的に私道であろうと思われ、近隣にお住まいの方の作品なのかもしれません。


心地よい風に誘われ、小鳥のさえずりに耳を傾ける。
その「自分自身の心の状態」が、こうした環境に引き合わせてくれるのだと。

感じる。とは、
「〇〇でなければならない…」だとか
「XXではダメなんだ…」といったような、両肩に思いっきり力を入れて、張り詰めた意識状態に追い込んだ、そんな感覚とは無縁の世界に存在するのではないかな?
と思われるのです。

ゆっくりと。
そして、ゆったりと。
切れそうなほどに偏って高まったテンションが、心の中から、すっと解放される感覚を楽しみます。
そこにあるアートに彩りを添える、そよ風と小鳥たちのささやきにハートを合わせながら。

わたしたちは一人残らず、
みな恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

無理をしないと結果が出ない?

この色彩感に惹かれる photo 宮本章光

頑張って、無理をして乗り越えてゴールを目指せ。
だから結果が出せるんだ。

一度、その道をとことんまで突き詰め、冷たい板の上に伏したからこそ発言してもよいかな、と思っています。ごくごく控えめにですけれど。


その考え方が良いか・よくないか。
もうその分岐点すら「見えない」ほどに、遠く遠くの過去になりました。
わたしの中では。
それに、洗脳教育の延長線上にある思想は、原因と結果という直接的な因果関係が見出せないかもしれないですし。

無理したい方はどうぞなさればよいでしょうし、しなくてもよいと思われる方は、そうではない道を選択するだけでしょう。
頑張って。だとか、無理して。
そんな言葉にシンクロしなくなりました。
いえ、
怠慢せよ。とか、いい加減な感覚でダラっとせよ。というのではなくて。です。
もうこんな「但し書き」も要らなくなりましたね。

好きな道を選べばよいのでは。
自分の心に響くものを選択すればよいのだと思います。


ちょこっと、今日はそんな響きの言葉…、
「無理を乗り越えるから答えが出せる」
「頑張れば結果を得られる」
「頑張らないからゴールに行きつかない」
がインプットされて、これはもう自分には合わなくなったね。と感じたのでした。
いえ、もうずっと前から合いませんでした。

袖丈が合わない服に腕を通したときの「あ、これ違う。」的な感覚。
似ているな、と感じた瞬間でした。
直感として伝わる感覚。
心に響くもの。
もっともっと大切に。

わたしたちは一人残らず、
みな恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

川を眺めるのは別の理由もあったりします

夏の川床の印象 photo 宮本章光

川床のイメージが続いていますが、夏の印象ということで。

今日、この川を橋の上から眺めていましたら。
年配のご婦人お二人が、怪訝な顔つきで、わたしの顔を覗き込まれました。
ここから飛び降りる、とでも思われたのでしょうか?
目が合った瞬間に、サッと去って行かれましたが。


あるいは、川を流れる水を眺めるなんて、なんと風流な。
と思われるかもしれません。

その昔のこと。
星を眺めて「天体写真」を撮っています。と言おうものなら、瞬間湯沸かし器のように「まぁ高尚なご趣味ですこと。おほほ…。」と、高いところから笑い飛ばされた経験があるので免疫はできています。

でも、川を眺めるのは別の理由もあるのです。
川の水音は「耳の老化」チェックの目的。これが自分にとっては大きな要素であったりします。
一般論的には、同年齢・同年代では10kHzあたりさえ聞こえないとされています。
けれども、体調が良い時には16から18kHz程度まで認識できることも多いのです。
業務上、楽器の音(倍音成分:2次倍音・3次倍音等々)のキャラクターを決定する「色」を感じることが難しいと、現在のこの仕事ができません。
もちろん、色とは例えであり、音を視覚的な「色」と比喩表現しています。
(わかる人にはわかる、と思われます。)

水音のキャラクターの「色」を感じるために、川を眺める。
いえ、正確には「聴く」でしょうか。
そんな場面に出くわした人たちは、なんて奇妙な奴なんだ、と思うのでしょう。


いつもこの場に綴っていますような話題、それは、心に通じる世界の感覚的で、ともすれば「浮ついて・フワって・得体の知れない」とさえ揶揄される話題。
それとは別の、
音域や音の周波数、そこにリンクする音とそのキャラクターを色に例えた感覚と。
そして、楽器と演奏と演奏家と。
論理的思考と、物理的要素と、感覚と、感性と。
それに、
光の具合や、色そのものズバリの写真的感覚も。


すべてがミックスされ、そして右脳も左脳もフルに稼働していることを、常に感じています。
それは、42歳時点の重大な分岐点で選択した「道」に誤りがなかった証明でもあります。そして、49歳からの体質改善と56歳以降の食生活の大転換と。
おかげさまで、年齢を重ねるほどに健康・元氣になる一方です。
やはり、
口にするもの、その大元「言葉」と「食べ物」、その両輪がモノを言います。
おばあちゃんの知恵袋は、50年以上経ってから役に立ちます。

【「おばあちゃんの知恵袋」〜先人の知恵を今日に活かす】[Link]

川を眺めてみませんか。
もちろん、緩やかに心を落ち着けるためでありなら、その一方で、極めて物理次元的な、そして論理的な世界における「センサー」も同時に磨くというスタイル。
歳をとった…と唱えるヒマはないようです。

わたしたちは一人残らず、
みな恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

素晴らしい仕組み:心から描き生み出す

穏やかに流れる川のように photo 宮本章光

自分の心で創り出し、
自分の手で形に残し、
自分の足でその道を歩む。

素晴らしいことではないですか。
素晴らしい仕組みだと思っています。


--そんな綺麗ごとだけではダメだよ。
--そんな浮ついた心ではダメだよ。
--もっと地に足をつけて行動しなきゃダメだよ。
--人間、動いてなんぼや。行動ありきなんや。

わたしは、そんな浮ついた…と仰るその言葉を、自分自身で人体実験し、これまでずっと貫き通してきました。
そして、自らの事業コンセプトにも
「記録する・形に残す・感動を伝える」と掲げ、貴重なご縁をずっといただいてきました。
ここにわたしは在り、ここに実績を残してきています。

自らが心に描くもの。それが自分の現実になってゆきます。
実体験として積み重ねてきたからこそ、こうして書き記しています。
行動することを強調する声。
間違いありません。そしてそれは必要です。
でも、
行動=走り回ること。が目的になってしまっているから、初めに生み出す心というものが抜け落ちてしまっている可能性について考察してみたいのです。

スタート地点の「白紙状態の心のキャンバス」に、自らの青写真を描く大切さ。
誰しも新年には「今年の抱負」を心に描きましたでしょう。
氣持ちを整え、机に向かって毛筆で文字に落とし込みましたでしょう。

硯に墨を仕込み筆を構えている暇があれば、今から走って一円でも売り上げあげてこい!
などとは、決して言いませんでしょう。

わたしたちは、
人に何か指摘を受けると腹立たしく感じるクセがついているのかもしれません。
自分が否定されたように感じるからでしょう。


いまこそ、この素晴らしい仕組みの本当の意味と、その重要ポイントを再認識する機会を迎えています。
素晴らしい仕組みだからこそ、素晴らしい。と感じ響き合いたい。
美しい仕組みだからこそ、それを美しいと言葉に残します。

こうして、心に描くものが自分の現実になる仕組みです。
それは、
行動するなという意味ではありませんし、夢うつつな姿で居よ。という意味でもないのです。
とにかく否定から入る。
とにかく人の声の「重箱の隅を突いて」粗探しをする。
そんなクセからは脱出したいものです。

穏やかに流れる川のように。
望ましい風景を心から描いて参りましょう。
流れ去るもの追わず。流れ来るもの拒まず。

わたしたちは一人残らず、
みな恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

わたしたちはいつでも完全な状態です

空に描く願いと希望 photo 宮本章光

-- 忙しすぎる。
-- 過密スケジュール。
-- 慌ただしく流れて行く時間と日々。

昔のわたしは、そのように追われ続け、それが当たり前だと思っていました。
今のわたしは、その選択をしない道に乗り換える瞬間を経て、ここに在ります。
もちろん、
強制終了の啓示が降りてきたからこそ実現したものです。
強制終了のタイミングを迎えた時にリセットボタンを押せなかったならば、既にこの世には存在していないはずです。
そして、この記事も存在していないことになります。


すべて「自分自身」の選択。
そして、自分が行った判断の結果が、現実として生まれ続ける。
永遠に。です。

わたしたちの存在は、エネルギー体そのものとされます。
だからこそ、心に描き心に抱くものが共振共鳴し、具現化してゆきます。
それならば、望ましい波長と響き合いたいと思うのです。

残酷かもしれません。けれど、それが大宇宙の仕組み。
あるいは、至ってシンプル。単純明快とも受け取れます。


そして、この地に降りる前にサインした契約書の「重要事項説明書」には、赤い文字で目立つように以下の文字が書かれていました。

---◇◇◇---
【わたしたちはいつでも完全な状態】

学びと成長のために、自分から立候補してこの地での体験を希望しました。
二極化と二元性の世界を味わうために。
それが大きな成長になるからだ、と。

重要事項説明書には、赤い文字で目立つように以下の文字が書かれていました。
「99パーセント以上の確率でその泥沼から抜け出せなくなるリスクがあります」
「抜け出すには自分自身の心の潜在能力を使う以外に方法はありません」
「どれだけ苦しんでも救助・救援は一切ありません」
「何度も氣がついたと錯覚しますがそれでも次々に卒業試験をクリアしなければ脱出不可能です」

了解する、にチェックを入れご丁寧にサインまでしてこの地に降り立ったのはわたしたち自身。
---◇◇◇---
Official Blog / 宮本章光の視点 2022/09/15 [Link]

そして、いまを生きながら、毎瞬ごとに「選択」し続けているとされます。

現状に満足していないのであれば、なぜ、これからもずっと「現状を選択し続ける」のですか。
現状が満ち足りていないと感じるのなら、なぜ「そう感じるのか」その仕組みを理解しようとしないのですか。


すべては、自分が創り出した「学習教材」。
すべては、自分が行った「選択」だったのです。

いま、すでに十分に恵まれていますでしょう。
いま、何ら一切の不足はありませんでしょう。
それなのに、
なぜ、更にもっともっと、と願い続け、引き寄せ続ける必要があるのでしょう。

引き寄せるために感謝するのではなく、すでに満ち足りて、すでに恵まれているからこそ「感謝せざるを得ない」氣持ちが湧き上がってくるのです。
強く強く上ってくる力が「先にあって」、そこから押し出され止めることができず溢れ出てしまうのが「感謝の心・感謝の氣持ち」だと、わたしは感じています。


すでに恵まれており、すでに満ち足りているはずなのです。
こうして、ここに自分が在り、満足に生きていることに。
さまざまに苦しんだご経験をお持ちの方ほど、現在ここに在る、その感覚は強いでしょう。
そして、湧き上がる感謝の氣持ちも大きいことが伝わってきます。


わたしたちは、いつでも満ち足りています。
わたしたちは、いつも恵まれています。
そのこと自体に感謝が湧き上がるのです。
引き寄せの「道具」や「材料」に使うのが「感謝」ではない。
と、わたしは強く思っています。
よって、
わたしの目の前の現実は、そのように具現化し続けています。
それが、自分の選択だからです。

わたしたちはいつでも完全な状態なのです。

わたしたちは一人残らず、
みな恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

何を描き・何を創り上げますか

夕暮れ時の大空アート photo 宮本章光

感じるものを大切に。
見えるもの、見えないもの、いずれも分け隔てなく大切に。
上も下も、右も左も、どちらも分け隔てなく大切に。

価値は自ら創り出し、意義も自ら認め合う。
変化を恐れず、変化を楽しむ。

必要以上に「力」をかけすぎず。
必要以上に「力」を抜きすぎず。

何に合わせ、何を望み、何を得ますか。
何を抱き、何を描き、何を創り出しますか。

足りないものを引き寄せようとせず、すでに満ち足りていることに感謝を忘れず。


わたしたちは、いまここに存在していることに意味があると知り、いまこの時を生きています。

わたしたちは一人残らず、
みな恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

存在していることに意味がある

木の切り株に宿る魂 photo 宮本章光

何ものも。
何ごとも。
そこに有り、そこに存在していることに意味がある。

価値があるのか、ないのか。
そのように「考え・悩む」体験をしたかった。
何のために生きているのか。
そのように「思いめぐらせる」感覚を味わってみたかった。

こうした目的を果たすために、自分から希望してこの地にやってきたのでした。

体をお借りして「生きて」いる間に味わうこと。
体をお返ししたあと「魂」としての存在に戻ってから活かすこと。

これを、何度も繰り返すことによって成長を成し遂げる、とされます。
だからこそ、
いま生かせていただいている瞬間を十分に味わうこと。
それぞれの瞬間に十分に役目を果たすこと。
ここに意味がある、と理解が深まります。

存在していることに意味があります。
存在していることに価値があります。
満ち足りた心地よさを維持し、望む風景を描き続け、さらに大きく拡げてまいりましょう。

わたしたちは一人残らず、
みな恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

「考える・感じる」をともに満たす

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考えずに感じよ。
そのように語られて久しい昨今です。
ところが、何をどのように感じればいいのか。
この段階から、すでに躓いてしまいます。

習っていないから「そんなことはできない」と。
わたしたちは、「心で感じる」ことさえも忘れてしまった可能性があります。


そして、知らぬ間にメインストリームに躍り出てしまったワードだけが一人あるきしはじめます。
「考えることはダメで、感じなければならない。」と。
しかしながら、そのように偏った教えは、少々リスキーな香りがします。

この言葉によって伝えられている本筋・核心は、
思考で弄りまくるのではなく、直感や心に響く感覚を大切にする練習をしましょう。との意だったはずなのです。
それが、伝言ゲームのごとく劣化コピーされてしまったのかもしれません。
語り手により、独自の主義主張がアドオンされ、また手垢にまみれ、まさに「流派」が生まれ、知らぬまに経典になってしまったのでしょう。


ですが幸いなことに、芸術やアート、文学の世界からヒントを得ることができそうです。
絵画はその最有力候補かと感じます。
もちろん、文学も同じく。

そこに描かれているのは、作者の意図によって創り出された世界そのもの。
意識を寄せてゆくことで、その独自の世界に引き込まれます。
描かれているものが「文字」であれば、さらに鮮明に。
そして、写真であれば、よりストレートに明確に。

そこは、現実でもなく夢でもない、ある種の不思議な世界が展開されているのです。
そして、ハッと氣がつくのは…。

考える・感じる。
これを共に満たしているのではないのか?と。
な〜んだ、別々のものじゃなかったんだ。と。


多くの人たちの伝言ゲームに付き合っているうちに、
自分自身が、見えない鎖に繋がれ、自分から制約を課し、本末転倒な世界に囚われてしまっていたことに氣がつきます。

見て・観て・読んで・味わって。
そのプロセスには、頭で考えることと、心で感じる感覚的な感触と。
同時に、そして両刀使いできてるじゃないか。と。

無理に分離しなくてよかったのですね。
メインストリームに乗ったワードや名言的な響きに翻弄される必要がないこと。
まさに、ここでも学びと体験を得ることができたのでした。

感じる。考える。
ともに使いこなしてみませんか。
と言いますか、元々、それらは表裏一体だったのですね。
ともにセットで味わう、この地の約束ごと。あらためて目が覚めるとともに再認識する瞬間です。

わたしたちは一人残らず、
みな恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。
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