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宮本章光/宮本陽の視点「開闢」And EM Official Blog

みやもとあきらのしてん AKIRA MIYAMOTO@And EM

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無限スクロールに麻痺した心を

歌舞伎座に見る photo 宮本章光

次から次へとやってくる。
それが「Noise:ノイズ」。

四六時中、ノイズに触れることで心のセンサーは疲弊し麻痺します。
そして、本当に大切な「信号」それは、天とつながり道標(みちしるべ)となる導き。それを感じとることができなくなります。
この極めて重要なエレメントである心がダメージを受けてしまう。その現象にすら氣がつきません。

そのプロセスは、まるでSNSタイムライン表示の「無限スクロール」のごとく。
結果「口を開けて待っているだけでエサを与えられる家畜」のように、自ら思考せずそのコンフォートゾーンに居続ける。
それが「いまの大半の人々」。

語ることだけは勇ましい。
--行動なくして結果なし?
--数こそパワーだ!

やりたいだけ取り組んでください。自由です。
けれど、今、リフォームレベルではなく完全建て直しをする「この地」ではなく、そのための学びの家に引っ越しをしてからにしてください。
この地は、もはやその場所ではありません。


もう、叫び・踊る姿を見ることは、ほとんどなくなりました。
フワっていただけ・綺麗ごとに自己陶酔しただけの「うわべの愛も光も」もう消滅しました。
見えなくなりました。


遠くを眺めて心を洗い流します。
自然に触れセンサーを磨き直します。
けれど、
それが叶わない時には、大空に意識を馳せ呼吸を整えます。
歴史というエネルギーに触れるのも意味があるように感じます。


無限スクロールに麻痺した心は、自分自身がリセットしない限り「誰もそのボタンを押すことがない」と、いま一度確認します。
それが、自分の道を自分で選択する。ということ。
誰も与えてくれません。
誰も選んでくれません。
だから、
自分で選び、自分で歩きます。



自分が「選んだ道」をゆく

自分の選んんだ道を行く photo 宮本章光

自分が選んだ道を歩みます。
それは、
自分の選択であるから。

しかし誤りに氣がつけば、その都度、選び直しを繰り返します。
それが、心から描き出す現実創造。


目の前の風景は、仮想現実に過ぎない。
そう伝えている事象は数多く。
そう証明できる論理も数限りなく。

踊る・叫ぶ。
VRの世界を体験し尽くしたなら、もうゲームから離れます。
さっさと勉強部屋に戻りなさい。
そう語る声が聞こえてきませんか。
いつまで遊び続けますか。

自分が行う選択の繰り返しにより、自分自身の現実創造が顕現化してゆきます。
こうして作り上げられた人々のエネルギー総和が、目の前の現実という名の風景となる仕組み。

知った人から・学び終えた人から、望ましい風景を創り、道を拓きます。
それが、自分の選択であるから。
それが、これからの世における自分の果たす責任であるから。



これからの風景を創り出す

川の側で photo 宮本章光

痛めつけ汚し続けたこの地に。
負の力を溜め続けたこの地に。

すべてを詫び、すべてを綺麗に流し、すべてを整え。
そして、
新しく作り上げる。

作るのは、心の中から。
創り出すのは、これからの世に相応しい眺めと風景と。

創り上げるのは、ともに響き合える心と意識の波長を合わせ。
生み出すのは、同じ波長で響き合う仲間とともに。




ただ耐える

ただ耐える photo 宮本章光

永遠に続くものではないのだから。
いずれ生まれ変わるものだから。

物質的媒体を纏って学ぶこと。
それを堪能すれば、その衣から離れます。

ただ耐える。
そしてその味を堪能する。

それを望んだのだから。
それを選んだのだから。



ただ佇む

そこにただ佇む photo 宮本章光

意味を求めず。
価値を探さず。

静かに。
穏やかに。
ノイズから離れ、不要な波長を外し。


そこに、ただ佇む。
そこに、ただ在るだけ。



「お土にお返しした後」に

朽ちた樹木から学ぶ photo 宮本章光

この地において、形あるものは必ずその物質的存在を「お返し」する機会がやってきます。
それは、物質としての命の期限を迎えた時に。
生命を受けた存在として学び、体験できたのなら、そのために使用させていただいた媒体は、お土にお返しするという仕組み。


美しく、あるいは見窄らしく。
勇敢に、あるいは脆弱に。
そうした対比を体験するからこそ、それぞれ対極にあるエネルギーの真の価値を実感することが可能となるこの地。
学びの教室、体験を重ねる練習の場。

道具・媒体・体という名の衣をお返ししたあとには、本当の自分を表現する機会に恵まれることでしょう。
学びが足りず、経験が不足している状態では、お返しした後に「再びやり直し」をするだけのことだと伝えられてきました。
その再教育コースを「自分の意志で選択」した方々は、すでに他星系転送が確定済みだとされます。さようなら。


この期を最後に、今後、再教育・再履修・補習の教室ではなくなると言われるこの地球。
これまでに、途方もなく激しく痛めつけ、汚し、さらには目に見えない負の力としての膨大な因果を蓄積した責任を取る必要があるでしょう。
ここに残り、そうした「わたしたち・自分たちが膨大に積み上げた負の財産」を解消するために行うこと。
それは、
物質的存在としての衣をお返ししたあとに、限りなく暖かく明るく心地よいエネルギーを心の底から生み出し、その波動をお返しすることだと思われます。

もし、この大転換機においてこの物質的「衣」をお借りし続けることが叶うのなら、
同じく衣を身に纏ったまま、限りなく暖かく明るく心地よい力を生み出し続けることによって、お返ししたい。と意を新たにすることです。
それが、
心に抱き・心に描き、心から生み出すという感謝の表現ではないかと。
感謝とは、支配者に仕組まれた貨幣経済基盤の上で、それを最大化しお金を得て幸せになろう。などと唱える「魔法の呪文」ではありません。
いつまでやりますか。見るものも恥ずかしい。


踊らず。
叫ばす。
古い意識や旧い支配構造の洗脳の波長に同期することなく。
静かに。
心おだやかに。

お土にお返ししたあとに。
あるいは、お借りし続ける道を選択可能であるなら、いまこの瞬間から。



選んだものが創り出される=想念

岩場で出会うひたむきな存在 photo 宮本章光

極めて重要なタイミングを生きています。
この先の道を決める重大な分岐点に立っています。


人それぞれ。
自分が選ぶ、というその言葉の本質を理解できていない人が多いように見受けられます。
この期に及んでなお、2025年の災害だ何だ...と、あらたな「念」を生み出す人が後を絶たない。
いつまで振り回されているのでしょう。恥ずかしくありませんか。

いま、この目の前に展開する「現実という名の風景」は、
わたしたち自身が「過去(これまでに)心に描いた想念が顕現化し」現実となっているのだということ。
これはもう証明されているのですから、この先に「何を創り出せばよいのか」十分に理解できているでしょう。

量子論の「二重スリット実験:観測問題」もしっかりと学んだはず。
この地のみならず、すべての世の仕組みとは、
「あらゆるモノ・コト・事象は想念によって創り出される」と、すでに証明され語られているのです。
妄想でも何でもありません。


赤信号で幹線道路に飛び出したら○○ますよ。
高層ビルの屋上から飛び降りたら間違いなく○○でしょう。
と、誰でも知っているはず。
(実はそれさえも、完全100パーンセントの人の意識が延々とそのように認識し続けているから、そのように顕現化し物質化し現象化しているのだというのですが、論旨から外れるのでここでは触れず置いておきます。)

「心に抱いた想念」が目に見えないエネルギーフィールドに生み出されます。
多くの人間が同じように描き続ければ、その力は巨大化し、具現化の速度を早め、一氣にこの世に顕現化してきます。
ここまで、きっちりと学びましたでしょう。

それなのに、幹線道路になぜ飛び出そうとするのか。どうして屋上から飛び降りようとするのか。
まだ言いますか。
実際に道路に飛び出してみないとどうなるか判らない?
屋上から飛び降りをやってみないことには結果は見えない?
2025年に何が起きるかなど、自分が決めて創り出すことですから。いつまで心を「操られている」のでしょう。
これこそが、目に見えない世界にある「負の力」によって自分の心を乗っ取られ操られているということ。しかもその負の力は、わたしたちの集合意識が、恐怖や怒りに基いて創り出してしまった「念」であることまで説明されていますでしょう。
量子力学と最新の科学は、それらを解明し、隠匿されてきた真実を知らしめてくれているのです。


これ以上の文字をここに記すと、わたし自身がその想念によって現実化の種を生み続けるので、急停止した上で一切をクリアします。
(と言いますか、ここまでの段階ですでに生み出してしまったあとなのです...。)

選択とは、
念を抱いたものが自分の意思表示として選んだことになるのだということ。
知らなかったのではなく、知ろうとしなかった。これがあなたの選択だったということです。


ですから、いつまでもフェイクメディアに触れ、負の力が渦巻くSNSに身を置き、必要ないノイズに浸るような愚行はやめましょうと語られてきたのでした。
そうした貴重な教えをしっかりと身に付けたのですから、この先に、望み・願う風景を創り出すにはどうすればよいでしょうか。

自分自身が心に抱き・描き、意識したもの。
それが自分の選択として、この先の道を作り上げるのです。
想念とは、こうして生み出されたエネルギー。そのエネルギーを生み出す人が増えれば増えるほど、強力な顕現化の推進力となります。

もう、この地を負の力で覆い尽くすのはやめにしましょう。
一人ひとりが責任を持つこと。
それは、何を意識し何を思うかということ。
だから「想念」と書くのではないでしょうか。

望ましい道を作りあげて参りましょう。
ともに築き上げてまいりましょう。



選んだように・行った通りに

しっかり自分の道を歩む仲間たち photo 宮本章光

注いだ愛情に見合うだけのものを受け取ることができる。
注いだ手間とプロセスに見合うだけのものが結果としてもたらされる。

いい加減に生きると、いい加減な結果が「この体をお返しした後」に自分に返る。
一瞬一瞬を大切にすると、その波長に応じた結果が「少しのタイムラグだけで」起きるようになる。
結晶化・具現化のタイムラグがどんどん短縮されています。


身近な先人、祖母あたりまでの人たちは、因果の仕組みを「悪いことをすればバチが当たる」と語ってきました。
バチが当たるのは、自分が行った結果なのですよ、と教えてくれていたのでした。

しかし、天はバチを当てませんし、神もまたバチを与えることはありません。
それが証拠に、毎瞬毎瞬を大切に生きれば、そのように結果が生まれてくることを見ても判ります。
どちらを選ぶのか。
それが自分の判断だという、極めてシンプルな仕組み。


もう食わず嫌いはやめる時間ではないでしょうか。
--目に見えないものなど信用できない?
--心がすべてを生み出すなど馬鹿げた話だ?

自分の近未来を・自分のこの先の道が、明るく心安く平穏であれと願うのなら、心からそのように生み出すことです。
いつまでもノイズに触れ、必要ないエネルギーに接し続けるのはやめることです。
信用できない、馬鹿げた話だ。と、自分が心に抱き自分自身が描くから、そのように現実となる仕組み。


いつまで意固地を通しますか。
いつまで人体実験を続けますか。
行った結果は、すべて自分に返るのみならず、溜め続けた因や業は、必ず自分で「返済し償う」ことになるのですから。
そして、
その学習教材を学び終えたなら、次は暖かく心地よい波動を、周りへと拡げる役目を果たすことです。

ニコニコ笑顔でいるだけで平和な雰囲気を放っていた「お年寄り」は、今となってはなかなか見かけることがなくなりました。
そう、そうした波動を消滅させ、この地を負の力で満たすためのアジェンダが、支配者層により進行したからでしょう。
だから、病氣という名の負のエネルギーに浸り続けるよう、食をはじめとしてこれでもか!と仕組まれ、薬という名の魔法の石油製品によって、特定層へ富の移転が行われるよう、ジワリじわりと、この地が変えられてきたのです。

ここまで学び、氣がついたのならば、
それを他の人にも知らせるんだ!などと走り回らない。もっと多くの人たちに知らせなければ世の中変わらない!などと叫ばない。
なぜなら、
あなた自身がそのエネルギーに同期し、同じ負の力を増幅し撒き散らし続けるからです。
それは、世の中を変える原動力でも何でもなく単なる自己顕示欲の塊にしか過ぎないことを知り、初級学習教材はさっさと卒業することです。
だからこそ、
ニコニコ笑顔でひたすら平穏に生きることそのものを馬鹿にし、お花畑だ・お氣楽だ・アホな輩。ツボを買わされるなよ!と、高いところから見下し蔑むように教育洗脳されてきたのです。

そうやって自尊心をくすぐられるのを良いことに、いつまでも踊り続けないことです。
騙されていたんだよ、これまでは、この世は!
これを知らせることが行動なんだよ!
と、叫ぶこと自体が「騙されているのです」。

そう、このようにして、負の力・負のエネルギー増幅装置が量産されてしまう「巧妙な仕組み・落とし穴」に見事にハマったのがわたしたちの過去だったのです。
もうやめましょう。
そうやって踊り続ける姿は、すでに恥ずかしさ以外の何ものでもなくなっていますから。



選んだように・行った通りに、この瞬間から先は顕現化してゆく。
そういう仕組みです。
より多くの方々へ、この暖かく穏やかな力を届けます。
ともに響き合い、ともに歩み、ともに創り・未来を拓く方々へ。



与えられるのを待たず創り出す

出番を待つ桜並木 photo 宮本章光

何を待ち続けているのでしょう。
いつまで待ち続けますか。


何か与えられる。
絶対、与えられるはずだ。と。
それまでおとなしく待っている、いまの大多数の人たち。
そのように「飼い慣らされて」きた過去。
隷属化され、果てしなく長く続いた暗い歴史。
もう誰一人として望んでいませんでしょう。それなのに...。

ならば、
自分で作る。自分で描く。
「塗り絵」よりも「白紙に自由に描く」ほうが楽しいのではありませんか。

待ち続ける、とは、
その例えで言うところの「塗り絵でさえもなく」印刷された「他人の絵」が渡されるということ。
その絵が「もし氣に入らなかったら」どうしますか。
その絵が「望んでいたものと違っていたら」どうしましょう。
ペラペラの<48>や<53>ベース用紙のチラシが一枚かもしれません。


その時点で初めて氣がつくのです。
ああ、自分の道は間違っていた。と。
それが人間の学び。
自分で失敗しないと学習しない・できない。

けれども、
何かヒントを受けることによって、待ち続けている「待機時間」に少しでも成長が果たせるなら。
だからこそ、こうして暖かい力を送ります。
それが「一になる」という究極の姿に「達する前」にやることだと思うから。

言葉の上でだけ、表面上だけ、無こそ悟りだ・ワンネスだ・一になれ...と、威勢よく掲げる割りには、心が描き上げる青写真がどこにも見えないのです。
それを踊り続ける、と、わたしは例えてきました。

踊りたい人は、いつまでも踊ればいい。それは自由。
しかし、
踊っている限り、そこに設計図も工程表も何ら存在していないので、何も具現化しないのではありませんか。


自分の心から描き出す。
そのためには、まず心に抱く。
さらにその前には、ノイズから離れる。
重ねてそれ以前に、旧い洗脳の呪縛を自分で解き自分で牢屋から飛び出す。
けれども、
そこに至るには、心のセンサーが腐り切っているので、取り替える必要があったのです。
そのための最後のチャンスが、この4年間に与えられていたのでした。

取り替えるには、口にするもの二つ「食べものと発言する言葉と」がトリガーになりますよ、と多くの道しるべが示されてきたのです。
従わなかったのは、自分自身。
だから、
その結果は、自分がいま受け取る。それだけ。
そして受け取るだけではなく、逆噴射して積み重ねたマイナス点は、物理的に体を失ったあとも未来に渡って償い続ける。それだけのこと。


氣づいて、そしてその強大な心のパワーを知った人たちは、もう実行しています。
心から描きだす、その本質を。
それが、これからの世における「行動する」ということ。
何を抱き、何を描けば、何が顕現化してゆくのかを。


与えられるのを待たずに創り出す。
それは自分自身のためでもあり、そうして個々が成長すればこそ、相互理解と助け合いによって、ここで初めてホンモノの「一になる」ことができるのだと。

与えられるのを待たずに創り出す。
いまこの瞬間から、ともに力を合わせて...。
それは心の中から。



時間は存在しないんだよ

梅が謳歌する photo 宮本章光

春に先駆け、この瞬間を謳歌しています。
梅の花たちは、早くも1月からその姿を披露し始め、すでにピークを迎えているようです。


彼らは、こう話すかもしれません。
「時間なんてものは存在しないんだよ」
「わたしたちには時計は無いんだよ」と。

ひたすら時計を睨み、時間という呪縛に追われ続ける。
ケイタイが手のひらに接着されたかのごとく激しく追われる生活は過去のものになりました。
しかし、過密スケジュールは続きます。
それは、
自分がそのように意識するから、そのように時間が流れる。
という、その仕組み通りに展開していることを感じます。


彼らは時計を睨み続けなくとも、最も適した瞬間に花開き、その最盛期を謳歌します。
そして、こう語るでしょう。
「時間は、もともと存在しないんだよ。」と。

時計を持ち、時間という目に見えないものに追われるのは、この地球上で「人間しか」存在していないことにあらためて氣がつきます。
--時間は有限だ。
--限られた時間内に如何にマルチタスクを増やすかだ。

はい、物理次元地球の歩き方を離れることはできませんので、それは正しいです。
しかし、
すでに「正しいか正しくないか」の論議自体が、もはや旧いタイムライン上の出来事となったようです。
そして、
人間というすべての存在が「時間と戦う」という意識から離れることが叶った瞬間に、時間という存在は優しく微笑むことでしょう。

すべての事象は自分が創り出しているから。
それは時間という存在に対しても。

時間なんて存在しないんだよ。
と、時間と戦うといった意識を乗り越えた時には語られるに違いありません。

いつも暖かい波動でシンクロできる皆さま、本当にありがとうございます。



周囲へ大きく拡げる暖かい力

この池とともに成長する photo 宮本章光

日々、激しく「降りて」くる強い力。
パタっと止まりました。

黙って周りへ拡げる。
静かに意識を拡大する。
見たいと感じるもの・コトだけを観る。

少なくない数の人たちが、同じように、自分の生み出す暖かい波動を周囲へ波及させていらっしゃる姿。
それは物理的な姿ではなく、目に見えないエネルギーの存在として。
伝わるものは伝わる。

「もっと広く大きく暖かく」拡げるにはどうすれば良いでしょうか。
それを考えてみましょう。
と、一言。
今朝はここで停止・終了しました。


大きな自然の力をこの場に落とし込む。
それがいまのわたしにできることでしょうか。
もちろん、業務上の演奏会記録制作も同じく。

暖かく。
静かに。
穏やかに。

多くの生命と存在が、仕組みとして絡み合う。それが大自然、それが先人の奉った神そのもの。
取り戻してください。
DNAの奥深くに眠るその感覚を。

大きく暖かい波動で響き合うみなさま、ありがとうございます。



「和する日本人」の本質を取り戻す

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「和する」。
この言葉の意味が通じないのであれば、この国の人ではないかもしれません。

辞書に記載するような正確性を持った説明ではなくとも、なんとなくその意味は理解できるでしょう。
和する。その意味を。

大前提として、
わたしたちが日常で目にするもの・コト・話す言葉・食べるものから始まって思考する事項に至るまで「すべてものモノ・コト」は、正反対だったと言っても過言ではない状態に置かれている現状。まず初めに確認・相互理解しておく必要があるでしょう。
それこそが教育洗脳。
もうここで重ねて記すことはいたしません。必要に応じ過去アーカイブを参照いただければ。


ここ数年ずっとお世話になっている理髪店のオーナーとの会話の中で。
「ご親戚や身内に地震の被害はありませんでしたか」と。
ええ、理容業界の定番でしょう。時事問題や社会一般的な話題を話すのは。それが最も早くしかも簡単に共通の話題に乗ることができるからだと思われます。

彼は腕もセンスも良く、細部にまで意識が届く立派な方だと感じます。
そして、彼には何の悪氣もないことは承知の上で、以下続けます。
ストレートに直球で言葉に落とし込みますので刺さりますが、失礼を申し上げる意図は皆無です。

こうした負の力を会話のテーブルに載せると、その負のエネルギーにシンクロしそれを「会話の当事者が増幅」してしまいます。
ここ、難しいところです。
「見て見ぬふりをするのはダメ」というものとは論点のテーブルが異なる点を誤解してはなりません。
負の力は、それを認め受け入れる。ここまでは必須の工程です。
ただ、
それは、もうこの国の人であれば松の内の期間(もっと言えば三が日)で十分に行ってきたはずなのです。
ですから、さらに重ね塗りをしてそこのネガな力を焚き続ける必要はないでしょう。

はい、もちろん現在も現地で大変なご苦労をなさっている方々が存在することは理解しています。
阪神淡路1.17の時点で、実家のお隣まで焼失した経験もあるので、遠く離れた場所の人たちから「大変だったねぇ」などと声をかけられると、心底腹立たしく怒りが爆発したものです。
当時数日間、近隣の方々は、崩壊した家財道具を割り、家の一部だった折れた柱を切りドラム缶に焚べて焼き、頬を流れた涙の跡がススで真っ黒になりながら、ありがとう家具たちありがとう家の柱たち、と唱えながら、その火で暖をとったのでした。

けれど、それも必要な体験と学びだったこと。
ここでしっかりと物事を俯瞰してみます。
それも自分に必要で自分が過去に原因を作ったからこそ結果が生まれているのだと。因果応報。大原則大法則。

この大原則を知る限り、すべて受け入れそういった体験をさせていただいたことに感謝を捧げてこそ、その時点で初めて浄化ができる。と伝えられている通りではないかと。


結論を急ぎます。
「和する」という言葉の本当の意味は、苦しいことをいつまでも苦しいね苦しいね。と傷を舐め合うことではないはずです。
これ、まさに教育洗脳の極みでしょう。
「みんなでお手てつないで全員一等賞」という、いわゆる「悪平等」を刷り込んできたこの国の悪しき歴史です。

であるならば、
「被害はありませんでしたか」ではなく、他の言葉や話題が望ましいに違いありません。
こうやって、メディアは常に「負の力を一般民衆に生じさせ、それをいつまでも拡大し続ける。」のが役目なのであって、同じ波長に触れている限り「自分自身が善の仮面を被った悪」として、その負の力をいつまでも増幅してしまうのではないでしょうか。

言葉を置き換えます。
「和する」とは、
この先に必要とされる望ましい世界を創り出すために、その暖かく明るい力をみんなで束ね併せて大きく広げ、この世・物質次元に顕現化させてゆきましょう。というところを教えてくれています。
よって、
誤った教育により間違った理解として凝り固まった、毒にしかならない「垢」は、早急に流し去ることです。
そして、
この望ましい力と、そうではない負の力、この両極の二つの事項は、
望ましい力の本当の素晴らしさを知るために「その真逆を」体験させていただけたこと。ここにまで意識を巡らせ、感謝を捧げることではないかと感じるのです。

悪平等の誤った洗脳から脱出し、本当の意味での「和する日本人」として、心から暖かい波動を生み出してゆきたく思います。
いつも穏やかな波動をお送りいただける皆さま、ありがとうございます。



わたしたちが「この地で果たす役割」

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心に抱き・心に描き続けます。
それが現実という名の目の前の風景となってゆくからです。

この地点にまで到達できた方々が、この場でシンクロし響き合います。
飛躍的に増えている様子が判ります。


わたしたちが「この地で果たす役割」とは何でしょうか。
それは、
「望ましい現実という名の風景」を創り上げること。


混乱に満ち、恐怖と怒りに溢れ、搾取と侮辱と隷属化される世の中。
誰が作りましたか?
他の人でしょうか?
自分は関係ないと思っていますでしょうか。
故意に仕組まれた、その落とし穴にずっとハマり続けてきました。
被害者かもしれませんが、同時に、その原因はわたしたち自身が作り上げてしまったという点で、加害者・当事者でもあることを。

メディアに触れ、その策略に見事に引っ掛かってきました。
教育という洗脳装置で、自らの心のセンサーを自分自身で台無しにしてきました。
食事という不可避なプロセスで、多くの生命を必要以上に過剰に失ってきました。
宗教という心理ゲームで、いまだに牢獄に居続ける選択をしています。
医療という周到に組み立てられた自滅の道に誘導され、今もなお特定層への富の移転に自分から進んで命を捧げます。
貨幣経済という見事な詐欺に導かれ、今日も今日とてそれを崇拝しその道具に感謝を捧げるという悪趣味に興じます。


だれか他の人が「この現実を作った」のではなく、
わたしたち一人ひとりが「この世の現実」を作り上げてしまったのです。
ええ、そんな意識などまったくないうちに。

騙されていたのかどうか、それは一切関係なく。
結果として「一人ひとりが抱く意識」を束ねたその集合意識がこの地を作りだしてしまったのです。
お見事!としか言いようがありません。
あらゆるモノ・コト・仕組みによって、これでもか!と、洗脳し騙され続けてきた、わたしたち一人ひとり。

繰り返します。
騙されたかどうか、それは関係がありません。
自分たち・わたしたちが心に抱き・描くものがエネルギー集合体として、現実を創り出したのでした。
騙されるには「騙されるだけの因果」が自分にあり、「騙されてしかるべき幼稚で稚拙な魂レベル」にとどまり続ける、自分自身の責任でもあります。


だからこそ。
いま、この瞬間からは「心から創り出す」とてつもなく大きな力・能力を「違う方向へ」使ってみませんか。
ということなのです。
いい・わるい。二極化がどうのこうの。無に至らなければ次の段階へ上がれないだとか。愛と光だとか。
はい、
それらのワードや教えといったものは決して間違いではありません。念のため。

しかし、そのワードで踊る前に、
自分が「抱き・描く」心の中の見えない力に責任を持ちましょう。ってことです。
心で喧嘩し、心で蔑み、心で威嚇し、詐欺と欺瞞のシステムに従事し続けておきながら、愛も光も語れる立場にありませんでしょう。


わたしたちが「この地で果たす役割」は、
この地を、どの次元の存在を目の前にしても恥ずかしくない、悦びと歓喜に満ちた世界に造り替えること。
もちろん、二元性二極化の「学習教室」である限り、両極がともに存在する大前提は残り続けるでしょう。しかも体をお借りしている以上は。
しかし、それを認め・受け入れ・感謝し、その次にはより望ましいほうを選択するだけのこと。

わたしたちが「この地で果たす役割」とは、
取りも直さず「心に抱き・描き、その計り知れない強大な力によって、現実という名の世を創り出すこと」だと。

まだ戯言を言い続けますか。
目に見えないものは信じられないなどと。
まだ「石ころからやり直し50億年コース」を希望しますか。
浮ついてフワっていないで売り上げ上げてこい。勉強していい学校出て高給取りの医者になれ。などと。

さようなら。
すばらしい「学習教材」を与えていただきありがとうございます。
そして、
美しい大自然、素晴らしい仲間に感謝を捧げます。



「いま」を生きるその本質

森から陽を受ける photo 宮本章光

恐れに対処する備えとは何なのか。
今を生きるというその言葉の本質は何なのか。
究極の境地に入ろうとしています。


少なくとも、「物理次元地球の歩き方」を外れた形では、わたしたちの体そのものが存在し得ません。
生きながらえることさえ叶いません。
ところが、
その「制限・枠」の中だけで生きると、今度は進歩や進化が望めません。

制限を無視することはできないながらも、その制限という檻の中で「飼われているだけ」では、何のためにこの地で今生を生きているのか、ということなのです。
ここを超えてゆく必要があるように感じます。
そのための「身と心」「物質社会と精神性」の、両輪を磨き上げるプロセス。
ともに重要なエレメントをどうすれば高められるでしょうか。


この段階に足を踏み入れるには、最低限のエントリーシート審査に合格していなければなりません。
それは、
「洗脳を自分で解く」ということだと思われます。

支配と隷属化の歴史を「知る」こと。
知ったなら「その仕組みを体験させていただけたことに感謝し受け入れ」次の段階に必要な選択をすること。
ところが、この段階でつまずいて足踏み状態ではないでしょうか。

知ることで世の中変わるんだ。けしからん世だったんだ。もっと多くの人知らせなければならない。それが行動するということだ!
と叫び続ける限り、その段階で進歩は停止し、しかもその負のエネルギーに油を注ぎ続ける「自分が悪役になり下がってしまう」ことに氣がつきません。

このたった2段階だけですら超えられないのです。
ですが、
このエントリーシート審査をパスできた方々は、そのあとのプロセスを「思考ではなく心に響くエネルギー」として理解できているはずです。

心が描き出す力を拡大することで、目の前の風景が創り上げられることを。
すべての存在は固有の周波数を持っており、同じ周波数である限り必ず共鳴することを。
次の段階が本試験である限り失敗することはできないのですが、もはやここにたどり着くと、失敗という言葉が存在しなくなってきます。

失敗を「自分が選択しなければよい」だけ。
ここを理解するとともに、選択しない、とはどのように体現するのかも。
極めてシンプルな仕組みだったことを体得してゆきます。
そして、いま本試験真っ最中。
もう答案用紙への記入を終えられた人たちも多いでしょう。
用紙を裏返して席を立ちます。そして会場を後にします。


表に出ると、多くの仲間が迎えてくれますでしょう。
一緒に伸びてゆきましょう、とささやきが届きます。
同じ周波数で響き合う体験。それは「いま」ここで展開されていることに氣がつきます。
この瞬間瞬間を大切にし、その波長を維持・拡大すれば、その先が約束されることにまで。

いまを生きる。
とは、
隷属化支配構造の底辺で刷り込まれた、浮ついた意識・お花畑思考なヤワで現実逃避な姿ではなかったのです。まさに正反対・真逆に染み込んでしまった頑固な垢・教育洗脳でした。
恐怖を根底に刷り込み、常に恐怖と対峙し続け、その負のエネルギーフィールドに縛り付けておくのが目的だったこと。

いまだにエントリーシート段階で燻っているのは恥ずかしさの極みです。
その姿こそを、裸の王様だというのではありませんか。
ご一緒できる方々が一人でも増えますよう、暖かい心持ち、その目に見えない力を広げます。
集合意識の閾(しきい)値が一定ラインを超えない限り、この地の世は変わりませんから。



何の心配もいらない

飯舘の冬を感じる photo 宮本章光

足跡。
丸い形は動物のものでしょうか。
人間は靴底の模様がそのまま残ります。


人が心に描いたもの、意識したもの。発言したこと・行動したこと。
それらも足跡のように、目に見えないところに、すべてが残されているといいます。

わたしたちは、唯物主義の時代を長く生きてきたためでしょう、まず頭ごなしに否定から入るのです。
「君はその世界を見たのか!」
「目に見えない世界など科学的に証明されていないやろーが!」

もういい。
沢山です。
だから、これからはそういった心の世界を学んで行きましょう。ということなのです。

何か「入力」されると、まず否定から「出力」する。
そんな思考回路。
スマホの録音機能でさえ、人が聞きたいとされる音だけをある程度ノイズと分離して記録できるものですが、人の思考は「わざわざ存在していないかったノイズを作ってまで記録しそれを再生する」そんな回路になっているようです。
そして、
その回路を設計し実装しているのは、あなた自身。


忙しすぎる...。
バタバタして何もできない...。

そうでしょうか。
「心を亡くす=忙しい」ように仕向けているのは自分自身でしょう。
手のひらにケイタイが貼り付けられているかのような生活を送った人間には分かります。
まさに息もできない。寝る時間さえも存在しない。その言葉そのものを体験をしたなら。

離れればよいのです。
間違った道を乗り換えることです。
極限状態に置かれた上で確かな導きがあれば、強制終了の道が作られます。
しかし、
その「極限状態」ではないのなら、「あなたにはまだまだ学ぶべき課題が残されていますよ」ということでもあります。

その学びとは、
思いっきりポンコツな入出力:I/O設計・設定を見直し、正しく運用するよう修正しなさいということでしょう。
そして、
そのためには「心から生み出す仕組み」を知り、その「心」が正常に機能するよう、借り物の体をメンテしなさい。と教えてくれているのだと。
だから「口にするもの二つ(食べ物と発する言葉)」を、最も重視しましょう。と。

ここまでのことさえも実行せずして、
現状から離れられない。カネのため・生きるため。と言い訳をするのは恥ずかしさの極みかと。
その割には、毒を喰い体を痛めつけ、忙しい忙しい...といいながらSNSに投稿する...。
ご先祖がご覧になったら、間違いなく「ア○か!」と叫ぶでしょう。


正しく設計・設定し運用すれば、その心のセンサーは「導き」を間違いなく受け取ります。
そして、汚れた心の居場所をクリーンにすればするほど「何の心配もいらない」との言葉が降りてきます。
仮にその言葉を信用できないのなら、
あなたの魂は、そのレベルに相応しくない幼稚な段階だという証明でもありましょう。

嗚呼、御霊(身霊)相応とはまさにこのことなり。
何の心配もいらない。
わたしのご先祖はいつもそう送ってくれているように感じます。

ありがとうございます。



片側に集中するほど他方も激化する

日暮れを見送る photo 宮本章光

重すぎるテーマはもう満腹でしょう。
しかし、
わたしたちはみな、いつまでも重すぎる課題を自分から増やすばかりです。
そして「もう持てない!もうやめてくれ!」と叫び続ける。
自分から「"苦"というタグがついた」荷物を増やすばかりのベクトルを真逆にして楽になればよいだけのことなのですが。


平和を祈る。
そういったエネルギーを抱けば抱くほど、その対極の負の事象が増大し続けます。

幼稚園児の時代に、シーソーで遊んだことがありますでしょう。
片側が重いので、反対側に誰か一人が座ってみます。
すると今度は反対側が沈んでしまいます。
仕方ないので、またこちら側に一人座ります...。

シーソーの場合は、物理的に座ることができるスペースが限られているので、無限に人を追加することはできません。しかし稀に、体重の重い軽いの差が大きな児童によって「バランスが取れる瞬間」があったりします。
あるいは、
後に座る場所がないために、中心(支点)に近い場所に座ったりしますと、またまたバランスが取れたりするのです。
その微妙な動き・発生するバランスを楽しんだ幼稚園時代でした。

この「たまたま」の出来事に頼っている限り、そこから学ぶ進化・進歩の速度は極めて遅いだろうと思われます。
ここは、シーソーバランスの仕組みを論理的に教えてもらえる大人の存在があれば、一氣にバランスが取れるのかもしれません。
ところが、
その「原理原則たるタネ明かし的な教え」をいきなり受け取ると、シーソー遊びから学ぶプロセスが省略されてしまいます。


わたしたちは「自分で経験し自分で味わってはじめて」すべてを学ぶのだと言われます。
バランスを取ること。それは目的のように見えて、実は「教科書や教材の最後に綴じてある解答編」にしか過ぎなかったこと。
ここを知ることです。

だまって人目を盗んで、解答を書き写す。
結果は100点満点。そりゃそうでしょう。答えを丸写ししたのですから。
けれど、
ひねりを加えた別の問題に当たると、答えを導くプロセスが分かりません。今度は0点です。
いま、多くの人たちがこのワナにはまっているように見えます。
言葉づらだけでは、愛だ光だ、ワンネスだ無こそ悟りだ。と騒ぎ立て踊ります。けれど0点。

それなら、キミは理解して行動してるんかい!
と、立腹するなら、今度はマイナス1000点。そういう仕組み。
御霊(身霊)相応とはこういうことなのだと思い知ります。すべてはお見通し、取り繕いや化けの皮は瞬時に剥がれ落ちます。
先人は、これを「お天道様はいつも見ている」と言葉に込めたものです。


いま、この大転換機で大切なこと。
それは、
「正しいとされる答を丸写しする」ことではないはずです。
100点満点、えらいね。すごいね。とアタマ撫で撫でしてもらうことではないでしょう。
答えを導くための経験をすることだと思うのです。
それなのに「答はああだこうだ」と、うわべの事柄だけに一喜一憂し、教え導く言葉が備える本来の意味さえも取り違えて騒ぎ踊り続けます。

この地のエネルギーは必ず「対(つい)」でしか存在できないのですから、片側(それは、平和だけを祈り争いよ消えろ!と叫ぶ行為にみられるような。)に偏った思いを描く限り、その反対側も永遠に増大し続けるのです。
だからこそ、
「なぜそうしたエネルギーが生まれるのか」
「心に描くものが現実として生じてくる仕組み」
これらを知り、いつまでも旧い発想に浸って悦に入る、そんなぬるま湯から飛び出すことです。
これこそが「成長」であり「進歩」であり、無限に拡大する進化の道筋だと。
わたしは、これを「自分の心の手綱(たずな)をコントロールする」ことだと、繰り返し記してきました。

そのためには、
モノだけ至上の世から卒業し、心を満たす・精神性の世界を充実させる。
ここにポイントがあるように感じます。

そして、これほどまでに美しい大自然のエネルギーから受け取るものがあるはずです。
日々一枚の画像に「感じる力」を込めて。
今日もありがとうございます。



「真実はひとつしかない」の間違った思い込みを解放する

空に広がる意識と心 photo 宮本章光

これまでの物質社会の世では。
という条件を添えて、です。

物質社会・物質次元では、結晶化した物質ありきだったこと。
そして、モノを中心とした経済社会という名のピラミッド構造が意図的に仕組まれ、その地に永年生きることで「それを当然のもの・当たりまえのこと」として認識してきた大前提がありました。
この大前提に立脚した、個々人各々が創り上げる心のエネルギーは、集合意識として、さらにタイムラグを経て物質化をより強固なものとしてきたのでした。

その中でもとりわけ強大なもの。
それが、「真実は一つしかない。」という言葉ではないでしょうか。

ええ、表情が鮮明に目に浮かびます。
---当たり前やろ!
---あんたアタマ大丈夫か!
と。

重ねて書きます。
「これまでの物質次元の世では」です。

一人ひとりの心が生み出す巨大なエネルギーは、まず目に見えないフィールドに影響を及ぼします。
そこには、必ず何らかの結果が産み出されること。もう繰り返す必要がない段階に到達したはずです。
産まれたエネルギーは、一人ひとりの「完全オーダーメイド」であるため、結果は千差万別、十人十色となることは自明です。
当然ながら、真実という一人ひとりの固有の識別ラベルを付けられたエネルギーは、一つではありません。
最初にここを理解しておく必要があります。


ところが、です。
昨今の精神性の拡大と、またその分野のビジネスが盛んになるに伴い「すべては一つ」「無こそが究極の悟り」といったようなキャッチが一人歩きをし始めています。
誤解を避ける意味で、初めに但し書きをつける必要があるでしょう。
これらのワードに「間違いはない」と思われますし、その世界で語られている内容には「どこにも誤りなどない」はずです。

しかしながら、受ける側のシチュエーション(そのワードだけを受け取る人の精神性の拡大度合い)により、語られている内容とは「異なる」ものとして取り入れてしまうケースが多々あるように見えます。


--- すべては一つ。と聞くと、
それをこれまでの物質社会の既知体験レベルに落とし込み「だから言ったでしょ、真実はひとつだけなんだよ!」と。
--- 無こそが極み。と聞けば、
同じように既知の知識のレイヤーに当てはめ「だから言うてるやろ、変化したらあかん。無がすべてや!」と。

もうこれ以上の説明は不要かと思われます。
個々の受け止め方が、まったく違うものになってしまっているのです。
そして、
多くの人々、大半の方々といってもよいでしょうか。その大半の方々が少しづつ精神性を拡大し、凍結されていた心のセンサーも復活しつつある現在、これらの「キャッチコピー・ワード」だけを既知のモノサシで勝手に解釈してしまわないことが大切ではないかと感じるのです。


真実は一つしかない。
それは物質次元における「イイもの・ワルもの論」のレベルではありませんし、政治の裏側の悪事を暴くために「一つしかない真実」を突き詰める。そんなフィールドの「一つしかない」話とは異なるのだ。と理解したいところです。

ある程度の精神性の領域を復活させ、自らの存在、そしてすべての存在が「モノとココロ」の両輪で成り立っていることにまで成長できたのなら、ようやくその先に「うっすらと見えてくる世界」。
その先にこそ、「すべては一つ」と語れるだけのエネルギーが生じてくるのだと感じています。
少なくとも、
メディアに揺さぶられ、SNSでブレまくっている状態において、すべては一つだ。と語られるワードに「望ましいエネルギーが内包されている」ようには到底感じられないのです。

言葉は生きています。特にこの国の言葉には「言霊」が宿るとされます。
その言葉を発した人のエネルギーレベル、その人の精神性レベルによって、「コトのは」は生き物として伝える力がまったくことなるものに変化する驚愕の事実。
そして、同じように受け取り側のレベルによっても、そのエネルギーが完全に逆方向に向いてしまうこともある驚きの真実がここにあります。


ここまで理解を得たあとから、その時点で初めて、
「真実はひとつしかない」と口にしたいと思っています。
磨くべきは、自らの魂レベルだと語られている通りでしょう。
御霊(身霊)相応。その通り。

本日も深いエネルギーのシンクロをいただく皆さま、ありがとうございます。



多くの場合「違和感」こそが正しい

見上げた空からVサインを受け取る photo 宮本章光

そのまんまです。
違和感を感じるなら、その違和感が「何かを伝えて」くれたのだと認識する。
(違和感のその対象が正しいと言う意味ではありません・念のため)


忙しいと、その違和感さえもスルーしてしまいます。
心のセンサーが働かないからです。
だから「心が亡くなっている」と書いて、忙しいと読むのだと。

意図的に忙しくしなければ生きてゆけない社会構造を作り出し、心に感じるもの・コト、そのものを台無しにされてきました。
誰がそう仕向けたのか。そんな論議自体が、もはやどうでもよいフェーズに入っています。
くだらない思考に、取るに足りない論議こそが、上述の「心を亡くす」原因だから。
そして、その体験をするために、わたしたち自身が創り出した世の中だったのですから。


違和感は、多くの場合、自らの道を歩む上で必要な周波数とは異なる状態に「変化」していることを指し示しています。
道を外れていますよ。そちらの道ではありませんよ。と。
もちろん、
正しいとされる道であっても、激しく大きなノイズにより「ブレて」しまった場合にも、違和感として盛大に降りかかってきます。
その時点で、心のセンサーの許容値を超えているからでしょう。


違和感さえも「感じられないほどに」忙しくする。
いまだに「それが美徳」だと思ってしまうこと自体、深層心理レベルでこびりついている頑固なアカだと知ることです。

ランチを口に放り込む。片手にスマホ...。
車の運転をしながらパンを口に放り込む。片耳にイヤフォン...。
手帳やオンラインスケジュールは「真っ黒・分単位」で項目が並ぶ...。
テレビを見ながら食事を口に掻き込む...。
そんな姿。
カッコいいとでも思っているのでしょう。

はい、わたしも同じことをやりました。カッコいいとは思いませんでしたが。
やむに止まれず。です。
携帯の電源が無くなって切れない限り手から離せない。まるで瞬間接着剤で手のひらに貼り付けられているように。
そして食事はできず、果ては寝る時間も無くなって、あとは冷たい板の上に伏すだけです。
よく生きて戻れたものです。
先般39年ぶりに再会した友人は、精神科を体験してしまったようですが、でも彼もまたよく生還したものです。


ここまで自分がトレースしてしまったから書き記します。それを勲章にする低レベルな発想ではありません。
もう奴隷生活はやめることです。
ましてそれがカッコいいなどと思うなら、もう救いようがないと断言できるレベルでしょう。
棲み分けする必要がある現時点で、今後は同じ地で生きる存在ではありませんから。

食べ物として命を捧げてくれた存在に、なぜ感謝を捧げないのですか。
借り物として貸し出されている「体」を、どうして痛めつけ悦に入るのですか。

ええ、違和感を感じないからでしょう。
それは感じられないほどに「心が亡くなって」いるから。
まず、その感覚を取り戻してください。
そして、その誤った道を乗り換えてください。この地においてはもう間に合わないでしょうが、次の生ではすこしでもマシな生き方ができるかもしれませんし、激しいマイナスポイントは幾らかでも減るかもしれません。


違和感とは、進むべき道ではありません。と教えてくれていることを。
物質社会・貨幣経済という「カリ・ユガ」の時代はもう終わったのです。
違和感こそ、正しい。
(違和感のその対象が正しいと言う意味ではありません・再度重ねて)
もちろん、ものごとには何でも100パーセントはありませんが、しかしほぼ間違いなく。


見上げた空からVサインを受け取ります。
今日も素晴らしいエネルギーにシンクロいただける皆さま、ありがとうございます。



「変わり続ける」が標準仕様

冬の日差しを受けて photo 宮本章光

変わる。
それは違うと言われましたが、わたしは「変化し続ける」こそが標準仕様だと感じています。


--変わるのではなく無になる。
--そうでなければ永遠に変わり続けることになり答えが導き出せる状態に至らない。
--そうでなければ悟りに到達することはできない。

はい。その観点とその境地は理解できているつもりです。
しかし、
現時点では、その高い境地に到達する以前の状態であり、その低位を脱出するプロセスが必要だと考えます。
少なくとも「初級編・初等教育レベル」である以上、それらの段階から上を目指し階段を登り続ける。
その学びの行程を歩むことによって、より上位の意識に到達できるはずですから。
だから「変わる」必要があると考えます。無を語ることができるのは、そのあとです。


もうひとつ重要なファクターがあるように思われます。
それは、
何もかもごちゃ混ぜにしている状態では、そうした論点に達する以前の状態であり進化が叶わないことを。
そのためには、まずは「カテゴライズ」のようなプロセスを経る必要があるはずだと。

絵をお描きになる方は体感されているでしょう。
絵の具のパレットは、各色ごとに同じ色を保存する場所を決めているはずです。さもなければ「必要な色」を必要なタイミングで選択できないから。

この地は、遥か昔に「自然観察園」のような、あらゆる生命を共存させるテーマパーク的な場にしたかったのだと語られています。
ところが、その「ごちゃ混ぜの状態」では、いずれカオス化し滅亡に至ること。この期に至るまでに5度も6度も失敗が証明されたと伝えられています。
あらゆる存在が「共創し繁栄」する姿を狙ったはずなのに「競争し破滅」に向かう。
それが「ごちゃ混ぜ」にするという実験の行き着く先であると。


よって、もう6度目や7度目の失敗は繰り返すことはできない、とされます。
そのためには、
まず、棲み分けをする。

例えとして語られる言葉には「海のものと山のものは一緒に住むことはできない」という語りがあります。
水が必要な魚は山では生きることはできませんし、その逆も然り。
だからこそ、
今回の大転換期において、それぞれ相応の行き先へ「振り分けされて」いるとされます。
体をお返ししたあとは、自分が選択し自分が望んだ先へと。


こう言うと必ず返るワードがあります。
「君はその世界を見たことがあるのか」
「前世も来世も科学的に証明されていない」
「そんな戯言を語る者は頭と心を病んでいるのだから病院へ行け」と。

しかし、そろそろそうした旧社会・旧世界の洗脳から脱出する時間を迎えていることは確かでしょう。
前出のワードは、過去記事でも何度も何度も触れ、検証し、科学こそが洗脳だったことにも。
これも少し前に書きました。
「裸の王様になっている君、恥ずかしくないか。」と、上から叫んだ人自身が裸の王様であったこと。
さらには「ツボを買わされるなよ!」と、高いところから語っていた人自身が、後生大事にご自分が「科学という名のツボ」を両手で抱えた裸の王様だったことが白日にさらされている現在。
いまこそ、ごちゃ混ぜを卒業する機会だと感じます。

現在、わたしたちには「直感」という最強のツールが備わっていることに氣がつきはじめました。
且つ、自分が心に描くものが目の前の現実として顕現化してゆく仕組みにまで理解は到達しました。

であるならば、この先は自ずと見えてくるでしょう。
望むものを創り出す。
そのためには、必要な道を都度選択し続ける。元々存在していないのですから創り上げる。
間違っても、他人が作った道を見て「荒れてるぞ」だとか「曲がりくねりすぎやろ」などと、そこにフォーカスしないことです。


これが、取りも直さず「変わり続ける」ことではないのかと。
「変わり続ける」が標準仕様。進化と成長、拡大のために。
「種」の段階で無を語ってみても、芽さえ出ずに腐ってしまうだけです。
無からは何も生じない以上、そこに進化も進歩も生まれません。

わたしはそのように考えますし、今生、勘と直感を選択しなかった場合には大失敗を重ねたことが、逆説的に人体実験の結果として証明されてきたように思います。

本日も共鳴・共創できるエネルギーをありがとうございます。



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