手綱(たずな)は絶対に自分の心で握る

手綱(たずな)
--- Wikipediaより ---
手綱(たづな)は、乗馬する際、馬とコンタクトをとるための道具の一つ。乗り手はこれを手に持って、左右の方向指示や止まれなどの合図を馬に与える。
--- Wikipediaより ---
上記説明のように、乗馬時に馬に合図を送るためのもの、が本来の意味ですが、これを自分の心を制御するためのものという意味でも使うことが多いように思います。
自分の心は、本来は自分以外にはコントロールできないはずなのです。
ところが、アタマの中で捏ねくり回し、他人にその「手綱」を渡してしまうことで、いとも簡単に「他人に制御されていまう」結果を招きます。
昨日の記事、【「どうでもいい」感覚】[Link]
でも触れましたが、
精神世界は「悪の側が仕組んだ悪徳ビジネス」だから、そこに触れそれを語る奴は頭が狂っている。と一方的に決めつけて排除しようとする動きが突如として増加してきたように見えます。
まぁ、これも二極化と二元化を学ぶ地だからこそ具現化しているいわば教科書教材の一つなので、もうわたしたち:この場で深くシンクロする皆さまにとっては、既に学び終えた学習項目、軽くスルーしておけば良いのです。
そして、
極端に増加してきた理由は、この「手綱」を渡さないようにしなければ、と考えるその意識が「渡すなよ・渡すなよ・絶対渡すなよ」(熱湯風呂コントのようですが...)と心の奥底に存在しているから現れているのだと理解できます。
ところが、仮にここで手綱を人の手に渡してしまいますと、その瞬間に道を踏み外します。
---精神世界こそ、成長のために必要なプロセスなんだ!
---精神世界を体験してこそ、本来のエネルギーに開眼できるわけで、スピっているバカな奴と罵られる筋合いはない!
といったように「応戦」してしまうのです。
昨日の文章の中で、わたし自身も一部そちらに振れてしまう瞬間が何度かありましたが、振り子を戻す方法はもう体得済みですので怪我には及びませんでした。
本来、自分の心の制御権は自分にしかないのです。
それを他人に渡してしまう時点で、その他人に依存していることになり、自分軸は消滅します。
こうした言葉には、またまた反論・反撃する存在が出現するのかもしれませんが、もうスルー検定最上級まで合格してる皆さまは、まずブレることはないでしょう。
依存しない、手綱を渡さない。
そもそも、そうしたエネルギーがアンテナに掛かってこない。
ここに到達するまであと少しです。
そして、今日は以下の大きなポイントを伝えたいと思い綴ります。
強固な自分の心の制御権というエネルギーは、実は、木々の姿・植物の生きる姿から得られることも分かってきました。
強風で枝の一部をもぎ取られようが、烈火に焼かれるごとく強い日照にも負けず、厳冬の豪雪に手足を折られようが、決してひるむことなくその存在を全うします。
そこに存在していること自体に意味があり価値がる。そんな木々のパワーは並々ならぬ強大なものであること。
この強大な力に周波数をチューニングしてみますと、その流れと渦を受け取ることができるはずです。
ところが、その強大な力は、
実は、いかにも「強力だ!強大だ!」といったような圧力を一切感じないものであることまで理解が深まってきました。
そのパワーには一切の圧力的感覚はなく、
「暖かく心に響く感覚」
「安心感や安堵感」
といったような、穏やかな感覚に近いこと。ここまで理解し体感するようになっています。
まず、力を抜かなければ、その波長にチューニング自体できないこと。
そして、感じてやろう、受け取ってやろう。などとアタマで考えている時点でもうそれは不可能になっていることです。
言うなれば、
手綱を「アタマで考える思考」に明け渡さないこと。
手綱(たずな)は絶対に自分の心で握る。
これがポイントでしょうか。
この場でご縁のあります多くの皆さまとともに、常に強力な導きのエネルギーを送り続けていただく諸先輩方・高次存在への感謝の言葉を忘れぬように。
ありがとうございます。感謝しています。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。
2022/07/26(Tue) 20:51:26 | New Age