アンド・エム宮本陽/宮本章光ブログヘッダーイメージ

宮本章光/宮本陽の視点「開闢」And EM Official Blog

みやもとあきらのしてん AKIRA MIYAMOTO@And EM

Archives [All Entries:2627]

世の中を変えるためにとても大切なこと

街角で出会う花壇に photo 宮本章光

どうやらフェーズが切り替わりました。そのように感じます。

望ましい方向へ向かっているのか、そうでないのか。
それは「自分が決める」こと。
その意味が本当に理解できているのかどうか。この本質が試される段階へと移行したようです。


標題負けしてしまいそうなうえ、激しく長文になる予感がするので触りだけにとどめます。

もはや語り尽くされてきました。
思い描くエネルギーが時差をもってこの世に顕現化する。そしてすべては因果による結果であると。
もう分かり切ってるぞ、と返ってきそうですが。


わたし自身の体験の一つを例示しながら書いてみます。
私立中学校へ進学した時点で、それまでの人の接点とはまったく異なる世界に入りました。友達も完全に見ず知らずのひとたちばかり。環境から何から、すべてが完全に違う世界だと感じたのでした。

この時の肌感覚を50年ぶりに思い出しています。
あまりの違いの大きさに、あぁ、この道は間違った選択をしたかもしれない、と初めは感じたものでした。しかし程なく、その世界に馴染めるようになったこと、過去にも幾度となく綴りました。
同時に、まさに世界線を乗り換えるとはこういうことなんだな、と13歳なりに漠然と感じたのでした。


現実を変えるのは「心に感じる感覚」によって齎されるのだということ。
仮に、それほどまでに大きな環境の変化でありながら、別にたいしたことじゃない。と受け取る人たちもあったでしょう。友達がすべて入れ替わり、長い時間をかけての電車通学など環境が変化したとしても。
そういった人たちにとっては、それは世界線が変わったなどとは思わないとともに、いつもの生活のバリエーションに過ぎなかったことでしょう。


ここが重要ポイントかと。
少々難しいと思われます。上記のようなご自身にとっての何か大きな環境変化体験があったならば、それを思い出してみてください。
その感触を、現時点・現在地点の出来事に重ね合わせてみます。

---他国の大統領が世の中を変えてくれる。
---世界規模の法律が施行され隷属化の世から開放される。と。
あるいは、
---聖書に記された通りに再臨が起きる。
---携挙で選別される・患難期に入る。と。
ええ、おそらくそうなることでしょう。わたしたちの集合意識・無意識が「それを現実として作り上げる」からです。

でも、
それを待っている、あるいはその印象の延長線上にイメージを置いている限りは、そのレイヤーからは脱することができません。
友達も全員まったく知らない人ばかりだし、電車通学なんて経験したことないし。これ本当に大丈夫なのか。
と思っていたならば、その現実をいつまでも作り続けていたはずです。
しかし、
見たこともないようなAV(AudioVisualのこと)機器を備えたスゴイ部屋や、教室ごとにすべてVTRが備えられていたり巨大な望遠鏡を収めたドームも屋上にある。
それに、稀少生物の標本や膨大な蔵書数がひと目でわかる見たこともない図書館もある。
これ、すごいぞ!と、心が切り替わった瞬間に「見る風景」がガラリと変わったのです。13歳ながら。今から50年前のことです。
そして、わたしの第一の黄金時代10年間のスタート地点となったのでした。


結論を急ぎます。
現在見えている世界の「延長線上」に自分の世界を描いている限り、この世界線から抜けられません。

これまで騙され搾取された大金が取り戻せたとして、それをどう使いますか?
パチンコや賭博でスったり、またまた詐欺師に引っかかるのがオチでしょう。まさに国が言うから間違いない!などと投資に突っ込み大火傷した人たちが多数となった現状を見ても分かります。毒を自分の体に打ち込むのもしかり。
精神性が「追いついていない」からです。

幸せとは、貨幣資産を溢れるほどに築いて、好きなものを買ってリゾートアイランドで過ごすことだ。などと妄想している限りは、同じくその世界線から脱することを望んで「いない」意志表示そのものです。


では、どうすれば脱することができるのか。

わたしにとっての世界線の変更は、
すべての生命すべての存在と望ましく心地よい波動を共有し生きてゆくこと、です。
自分ができることを提供し人に喜んでいただくこと、です。(いますでにその下地を積み重ねています)
これは、
一人ひとり異なるので、何が正解とは言えません。

ただ、上記のように「現在の世の延長線上」にそれを描いている人たちはそれがご自身の望みなのですから、世界線の変更はないということ。
然るに、肉体の死後は他星へ転送され、再度の体験とともに学び直しだと伝えられている通りです。


さらに結論へつなぎます。
世の中を変える。とは、目に見える物質物理実体を、デモしたり叫んだり、走り回って仕事し変えることではありません。
心から生み出すとは、わくわくして大金が手に入るのを待つことでもありません。
ここ、極めて難しいように感じます。

まったく異なる世を望めばこそ、その巨大なエネルギーが顕現化の原動力となります。
繰り返しになりますが、
そこまでの変化を望まないのなら、それはご自身の意識・精神性の成熟が「現在の世の範囲内」でしか実現できていない証でもありましょう。
この先も、この世の「ちょっとだけ上位版で実質変わらない世界」を望んでいる意志表示かと。


お金の不要な世。そして病氣にならない世。
心地よく穏やかな心持ちで過ごす世。

それは、
ガラリと変わったわたしの中学生のスタート地点と同じように、ガラリと意識を極端に大きく拡大する必要があります。
そうしなければ、周波数は変更されません。
まったく異なる世を望まない限りは、そのエネルギー周波数が顕現化の原動力となり得ないのです。

よって、その精神的成熟を果たし閾値が臨界点を超えた時、周波数はデジタル的に瞬時に変わり、瞬間的に世は変わる。とわたしは感じています。
但し、心・精神性の向上・成長は、徐々にしか実現できません。それが限界だからです。ここに大きなギャップがあります。
この地は・この世は、それほどまでに難しい学校だったことを感じています。


明確に描き出してください。
貨幣経済を卒業し終わらせる世を。
限りなく明瞭に描きだしてください。
心地よく穏やかな波動に満ち、多くの存在とともに生きる世を。

ワルものには感謝を捧げることも忘れず。ここまで成長させていただく役割を担っていただいたのですから。
悪を滅ぼしてはなりません。ただしその波動にフォーカスする必要がないことは理解のうえで。





御神木を見上げ礼を奉り

御神木に礼を奉る photo 宮本章光

想いは固有の周波数を持った念となり生まれ出づる。
固有の振動周波数は周囲の同じ波長と共振共鳴を始める。
共鳴する波動は周囲の僅かな違いでしかない振動周波数を許容・同化し次々と増幅する。

こうして拡大の一途を辿るエネルギー波動は、拡大を続けながらさらに増大する。
物質界へ顕現化する閾値を超えた瞬間に、この世へと具現化する。

共振から拡大へと変遷しない特定周波数のエネルギーは、その固有の波長を維持したまま消滅することなく永遠に幽界に存在し続ける。
何らかのトリガーとなる外部入力されたエネルギーがあると、上記のようにそれに引かれ同化し同様に振幅拡大を始める。
同じく、物質界へ顕現化する閾値を超えた瞬間に、この世へと具現化する。


これこそが、想いが現実になる仕組み。
よって、負の方向性を持った念を生み出し続けると、近い周波数の念を巻き込み負の方向へ一途に拡大を続けます。
この仕組みを悪用することによって、この地・この世を恐怖と破滅のエネルギーで満たし続けた結果が現在地だと思われます。

このベクトルが指し示す先には、滅亡と崩壊しかありません。
分割分断・細分化された破片は、いずれその形状形質を維持できなくなり崩壊する自明の理。


ここまで物理的に、あるいは科学的に説明を受けてさえ、尚もオールドメディア・オールドインフルエンサーに触れ続け、そのエネルギーに協力し拡大し続ける念を生み、そこに燃料を注ぎ焚き続ける理由はどこにありますか?
然るに、
真逆のベクトルを持った、望ましく・心地よく・穏やかな念を生み出し続ければ、その周波数に合致した世が顕現化してゆきます。

故意に負のエネルギーを増大することを仕組んだ存在により、それらは「お花畑思考」や「頭の弱い間違った意識」だと揶揄され蔑まれ、そのエネルギーを持つことそのものから離れるように刷り込まれてしまったのです。この地を支配せんとするがために。
であるならば、
その誤った意識を覆し、自らが望ましい方向性を持った波動を生み出すべく生きてみる。その必要があるはずです。


時間がないだとか仕方ない、といったような言い訳を発し類稀なるこの国の言靈を汚し、同時に自らの体を痛めつけ毒を盛り、支配したい者の望み通りに騙される生き方。
併せて、感謝を忘れ、モノを大切にすることを忘れ、右肩上がりの世を作ることこそが究極の経済活動だ、などと激しく勘違いし間違った波動を生み続けてきました。

わたし自身、その生き方を見事にトレースしてきた過去があります。
42歳の時点で舞台袖に引き上げた瞬間、天は再度の学びのチャンスを与えてくださいました。
【関連記事】
「生後21,916日めに思う」2023/05/28(Sun)[Link]

しかしながら、その後も古き発想の延長線上を彷徨い迷走を繰り返しながら、上記記事の21,916日を迎えたのでした。
本日。生後22,646日目。さらに二年間が経過。

この先は、すべてにおいて「大切にする」という感覚を失わないようにと感じています。
それが62年間生かしていただけた恩返しだと。
そして、この先に望む風景を創りあげるために。

御神木を見上げ礼を奉り。




進むか戻るかそれは自分で決めること

山道をゆく photo 宮本章光

ある商業地の街道を歩いていますと。
バイクショップ(工場)の技術者・オーナーっぽい雰囲氣の人が店頭で話すこのような声が...。

「人間、生きているうちに頭を使わないと。」
「考えることをやめた人が多いからこそ、自分の頭を使うことを考えて。」と。
話す相手は、点検修理に訪れた20歳代に見える人。

何か軽微な事故に遭ったのか、そんな雰囲気。
頭を使わないから、そういった出来事に遭遇する。というようなイメージの話題。あくまでも前を通り過ぎる十秒間程度の断片的な発言ながら。
あぁ確かに。
そう思いながら店の前を通り過ぎたのでした。


すべてにおいて、などと上から目線で言うのではないのですが。
振り子はある一方に振り切れたのだと思います。
まったく自分のアタマを使わず、言われたままに従う。先生に言われた通りに。親に言われた通りに。
大人になっても社会へ出ても。オールドメディアの言う通り。webのインフルエンサーの言う通り。
それが優れた人間の歩む道だと信じて疑わない。
そうやって、結果としてお借りした大切な体さえも痛めつけ失ってしまう。そうやって自ら体験して学びを得る。

振り切れた振り子は、今度は反対側に揺り戻されます。
それが仕組みだから。

この先には、自分のアタマで考える。
もっと正確に言うのなら、
アタマではなく、心で感じる感覚を磨き上げる。

旧来の物理次元的な、あるいは唯物主義的なモノの世界も、当然両立させながら。
これまでよりもさらに成長し上昇すると意志表示している限り、より高度にバランス感覚を発揮して。この先不要な仕組みは終わらせて。
それがこの先の道。

もちろん、古いレイヤーが名残惜しく、そこに残り続けるのも自分の意思次第。
そもそも、こうした分岐点での判断そのものが、人が決めることではありませんでした。
この点だけは今世で体得したはずです。

進むか・戻るか。
それは自分自身で決めること。
ただし、片側に振り切れた振り子は逆転し、もうこれまでとはまったく異なる世が始まっています。

進むか・戻るか。
それは自分自身で決めること。





センサーとは見えない氣を受け取る道具

モチツツジらしく光り photo 宮本章光

これはモチツツジではないかと。
漢字で書くと「黐躑躅」となるようです。これは手書きでは無理な感じです。

この植物に初めて出会ったのは小学校5年生の時。いわゆる自然学校の行事で、山中の植物観察記録の記憶があります。
指で触れますと、確かに餅のように粘ります。


それぞれの存在は、自分らしさを目一杯披露していることが判ります。
他人の目を氣にすることなどあり得ません。みてみてわたしよい子ちゃん!アピールもありません。
そんな淀み濁った波長が存在しないだけに、大変クリアで美しく伝わってくる力があります。

普段、指先に汚れが付くと、その汚れが保持している「濁った波動」が耐え難く、手洗いを繰り返すことになります。それは工業成分の油が最たるもの。
けれども、こうした大自然の中で力強く生きる存在から受け取る粘りには、そういった負のエネルギーがありません。
下山するまでに、いつの間にかその粘りも記憶から消えるとともに、実際に粘りが消滅してゆきます。


よく語られる言葉に、手には常在菌が住んでおり、それらは良い働きをするのだから過剰に洗い流すな。という言葉があります。
誤りではなく正しい教えに違いありません。しかしその働き以上に、何らかの力を受け取るための媒体・センサーとしての手/指を考えた場合に、その汚れによってセンサー感度が著しく低下させられることです。
上記の油など最たるもので、まるで目を塞がれ鼻を塞がれ、暗闇で息ができなくなったような恐怖に近い感覚に陥ります。個人的感覚にすぎませんが、理解できる人たちも少なからず存在しているはずです。

過去にも書いた記憶があります。
菌が洗い流されてしまうデメリットと、センサーが塞がれてしまうデメリットと。
どちらを取りますか。だと思うわけです。
ですが、だからこそ逆説的ながら個々人で違いがあって当然ですし、一律の論理で合わされるべきではないはずなのです。


これって、古い思想の延長線上にある発想だと氣がつきます。
何でも画一化した枠組みに押し込む。教育洗脳の最たるものでしょう。
みんな同じでなければならない。というその定規ですべてを測って、その数値で決めてしまう・ラベルを貼る。

同じ図式だと思うわけです。
目と鼻を塞がれたかのような恐怖感に陥る、その感覚は、まさに重要なセンサーとして手指が機能していることを証明しているものだと感じています。
そもそも、氣=エネルギーでありそれは目に見えません。よって、視覚以外の部位で感じ取ることができても、それが過去の事例にはそぐわなくて当たり前だと。

再び逆説的ではありますが、何よりモチツツジの粘りに不快感を感じない時点で、では逆に、不快感を感じる付着物の波動とは合致していない証でもあります。

エネルギーとしての周波数を感じるとは、
合わない波長である場合には、まさにこのような不快感や違和感が強く警告を発してくることをしっかりと知り理解する時期を迎えているように思います。
反対に、心地よさや穏やかさを求めることでその周波数に合致し、そのエネルギーが顕現化してゆくことも。





85043961
rss_logo

New Entries

Archives / Serch

Categories