アンド・エム宮本陽/宮本章光ブログヘッダーイメージ

宮本章光/宮本陽の視点「開闢」And EM Official Blog

みやもとあきらのしてん AKIRA MIYAMOTO@And EM

Archives [All Entries:2625]

進むか戻るかそれは自分で決めること

山道をゆく photo 宮本章光

ある商業地の街道を歩いていますと。
バイクショップ(工場)の技術者・オーナーっぽい雰囲氣の人が店頭で話すこのような声が...。

「人間、生きているうちに頭を使わないと。」
「考えることをやめた人が多いからこそ、自分の頭を使うことを考えて。」と。
話す相手は、点検修理に訪れた20歳代に見える人。

何か軽微な事故に遭ったのか、そんな雰囲気。
頭を使わないから、そういった出来事に遭遇する。というようなイメージの話題。あくまでも前を通り過ぎる十秒間程度の断片的な発言ながら。
あぁ確かに。
そう思いながら店の前を通り過ぎたのでした。


すべてにおいて、などと上から目線で言うのではないのですが。
振り子はある一方に振り切れたのだと思います。
まったく自分のアタマを使わず、言われたままに従う。先生に言われた通りに。親に言われた通りに。
大人になっても社会へ出ても。オールドメディアの言う通り。webのインフルエンサーの言う通り。
それが優れた人間の歩む道だと信じて疑わない。
そうやって、結果としてお借りした大切な体さえも痛めつけ失ってしまう。そうやって自ら体験して学びを得る。

振り切れた振り子は、今度は反対側に揺り戻されます。
それが仕組みだから。

この先には、自分のアタマで考える。
もっと正確に言うのなら、
アタマではなく、心で感じる感覚を磨き上げる。

旧来の物理次元的な、あるいは唯物主義的なモノの世界も、当然両立させながら。
これまでよりもさらに成長し上昇すると意志表示している限り、より高度にバランス感覚を発揮して。この先不要な仕組みは終わらせて。
それがこの先の道。

もちろん、古いレイヤーが名残惜しく、そこに残り続けるのも自分の意思次第。
そもそも、こうした分岐点での判断そのものが、人が決めることではありませんでした。
この点だけは今世で体得したはずです。

進むか・戻るか。
それは自分自身で決めること。
ただし、片側に振り切れた振り子は逆転し、もうこれまでとはまったく異なる世が始まっています。

進むか・戻るか。
それは自分自身で決めること。





センサーとは見えない氣を受け取る道具

モチツツジらしく光り photo 宮本章光

これはモチツツジではないかと。
漢字で書くと「黐躑躅」となるようです。これは手書きでは無理な感じです。

この植物に初めて出会ったのは小学校5年生の時。いわゆる自然学校の行事で、山中の植物観察記録の記憶があります。
指で触れますと、確かに餅のように粘ります。


それぞれの存在は、自分らしさを目一杯披露していることが判ります。
他人の目を氣にすることなどあり得ません。みてみてわたしよい子ちゃん!アピールもありません。
そんな淀み濁った波長が存在しないだけに、大変クリアで美しく伝わってくる力があります。

普段、指先に汚れが付くと、その汚れが保持している「濁った波動」が耐え難く、手洗いを繰り返すことになります。それは工業成分の油が最たるもの。
けれども、こうした大自然の中で力強く生きる存在から受け取る粘りには、そういった負のエネルギーがありません。
下山するまでに、いつの間にかその粘りも記憶から消えるとともに、実際に粘りが消滅してゆきます。


よく語られる言葉に、手には常在菌が住んでおり、それらは良い働きをするのだから過剰に洗い流すな。という言葉があります。
誤りではなく正しい教えに違いありません。しかしその働き以上に、何らかの力を受け取るための媒体・センサーとしての手/指を考えた場合に、その汚れによってセンサー感度が著しく低下させられることです。
上記の油など最たるもので、まるで目を塞がれ鼻を塞がれ、暗闇で息ができなくなったような恐怖に近い感覚に陥ります。個人的感覚にすぎませんが、理解できる人たちも少なからず存在しているはずです。

過去にも書いた記憶があります。
菌が洗い流されてしまうデメリットと、センサーが塞がれてしまうデメリットと。
どちらを取りますか。だと思うわけです。
ですが、だからこそ逆説的ながら個々人で違いがあって当然ですし、一律の論理で合わされるべきではないはずなのです。


これって、古い思想の延長線上にある発想だと氣がつきます。
何でも画一化した枠組みに押し込む。教育洗脳の最たるものでしょう。
みんな同じでなければならない。というその定規ですべてを測って、その数値で決めてしまう・ラベルを貼る。

同じ図式だと思うわけです。
目と鼻を塞がれたかのような恐怖感に陥る、その感覚は、まさに重要なセンサーとして手指が機能していることを証明しているものだと感じています。
そもそも、氣=エネルギーでありそれは目に見えません。よって、視覚以外の部位で感じ取ることができても、それが過去の事例にはそぐわなくて当たり前だと。

再び逆説的ではありますが、何よりモチツツジの粘りに不快感を感じない時点で、では逆に、不快感を感じる付着物の波動とは合致していない証でもあります。

エネルギーとしての周波数を感じるとは、
合わない波長である場合には、まさにこのような不快感や違和感が強く警告を発してくることをしっかりと知り理解する時期を迎えているように思います。
反対に、心地よさや穏やかさを求めることでその周波数に合致し、そのエネルギーが顕現化してゆくことも。





この先への道を創り上げるために

輝かしく純白に photo 宮本章光

2つの破片は4つに、そして8個へ16個へと。
分離の道は、さらに分解され続け、分離すればするほど個々の断片は縮小し、いずれは形質を維持できずに崩壊してゆきます。
いま、同じ図式で滅亡するタイムライン、その様子を目の当たりにしています。


過去の残像に踊らされることなく。
これまでに誤って生み出した負の波動を増幅することなく。

この先に必要な周波数のみにフォーカスし、その力を拡大してゆきます。
そのままで美しく、過去の残像に踊らされることのない存在とともに。

この先の道を創り上げるために。



肩書きとバッジの世の中を終える

黄菖蒲の世界 photo 宮本章光

キショウブ(黄菖蒲)。
水辺に生えているのでアヤメではない、と思ったものの杜若でもなさそう。
調べてみると外来種のようでした。

こうして、従来の知識が役に立たないことを知ります。
そして、旧来の発想の延長線上でしか思考していなかったことまで。


この数十年、何もかもが「肩書きの世」だったことを思い返しています。
多くのセミナーや講演会では、開催趣旨や概要には、必ずこのように「枕詞(まくらことば)」が掲げられていました。
「○○で有名な◇◇様を講師に迎えて...」
「XX著書が大ベストセラーとなり今注目の○○先生を講師として開催...」といった具合で。
これ、結局のところ◇◇先生や○○先生が目当てだったのかもしれません。
肝心の論旨は何だったのでしょう?


もう肩書きの時代は終わりました。
もう会社のバッジや看板にモノを言わせる商売も終わりました。
結局のところ、何がその会合でもたらされるのか。何が知識として得られるのか・体験できるのか。
ようやくここにフォーカスを合わせる人たちが増えてきたのは喜ばしいことだと感じます。

この流れはもう止まらないでしょう。
そして、枕詞ではなく論旨が何なのか。この部分に意識を合わせる人が増えるに従って、それに合致する周波数が拡大してゆくことは間違いありません。

旧来のフォーマットを書き換えてゆくのは、わたしたち自身だと。
役に立たなくなったモノを置き換えてゆくのも、わたしたち自身だと。
この発想さえ忘れなければ、明るい道が切り拓かれてゆくことを確信しています。





84902576
rss_logo

New Entries

Archives / Serch

Categories