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宮本章光/宮本陽の視点「開闢」And EM Official Blog

みやもとあきらのしてん AKIRA MIYAMOTO@And EM

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ボケ表現は永遠の課題だ

ボケ具合を楽しむ写真

写真(に限らず映像も同じだと思うが)のボケ具合の表現というのは実はかなり奥が深い。
過去にこのブログ内でも、ボケに関する記事をいくつか書いてきた。

「ボケた」だけで喜ぶのはもう卒業[ Link ]
浅すぎる被写界深度[ Link ]
ボケが注目されているけれど[ Link ]

最近は、フルフレームセンサーのデジタル一眼レフの普及やミラーレスカメラでも大型のセンサーを搭載するものが増えたこともあり、更にボケ追求の流れが大きくなっているようだ。

対比を語る上で「ボケ」は有効な手法だと思うのだが、ボカさない主題にばかり注意が行き、脇役としてボカす部分にあまり注意が払われていないことがあるのではないだろうか。

「ボケ」を使う限り、何を、どれだけ、どのようにボカすのか?に意識をめぐらせなくてはならないと思う。
とにかく目立たせたい主役にフォーカスを持ってきて、あとは全部ボケていればいいですよ〜。という感じの写真が多くなってきた。
映像の世界でも、大きなセンサーによるボケはシネマフィールド以外では馴染みが無かったこともあるのだろうが、DSLRを使用したCMなどを見ていても主役だけフォーカスが来ていて、あとは単にボケているだけ、しかもそれボケ過ぎ...。というのが結構目に付く。

主役だけシャキっとしていればそれでいい。ボケはテキトー、というのではあまりにも薄っぺら過ぎるように感じる。
ボケ具合、その度合いにも色々な段階があるわけで、そこで絞りやレンズの焦点距離を変えながら、そして、被写体と撮影者の距離や背景との距離などを変えながら、試行錯誤し一枚の絵が完成する。

更には、ボケと絡めた色彩の対比や画面に占める割合など、考えはじめると本当に奥が深い。
「ボケただけでよろこばない」
「脇役は全部ボケていればいいのではない」
「そのプロセスを楽しむ」
という【ボケ三段活用】でもっと撮影が面白くなるはずだ。

「ボケた」だけで喜ぶのはもう卒業

ディーカップイメージ画像

「ボケ」味を楽しみたい。
と、一眼レフに入ってくる人。そして単焦点レンズにハマる人...。

初めはメイン被写体以外の部分が「ボケたボケた!」でその世界を楽しむ。
対比を語るための「ボケ」なのだが、単にボケている部分があるだけ...という感じで、その時点で天井にアタマがつかえてしまう。
次のステップは、その対比に「どんな意図」を持たせているのかを語りたい。

コンデジでも「ボケ」を謳うためにセンサーを大型化して商品化してきた。
それをミラーレス一眼と呼んでヒット商品に仕上げたメーカーのアイデアと努力は素晴らしいと思う。(個人的には色々思うところもあるが...)
だが、肝心なのはそれを「道具として使う」人の感性。
これが置き去りになっているのではないか?

極めて浅い被写界深度をどう使うのか。
「フォーカスがきている部分を面で捉える」という一つのアイデアもある。
奥のカップのデザイン部分にもフォーカス位置を感じながら撮影してみた。
ファインダー内のフォーカスポイント(赤く光ることが多いと思う)だけを見つめていては「面を感じる」ことはできない。

「ボケたボケた」だけで喜ぶのはもう卒業しても良い頃ではないだろうか。

浅すぎる被写界深度

浅すぎる被写界深度は逆効果

二つ前の記事【ボケ過ぎた写真になる?】[ Link ]でも触れたが、大口径単焦点レンズを開放、または開放近くで使った表現をする人が増えている。

フォーカスポイントと、そうでない部分との大きな対比を語る手法であるが、最もセンスが問われるのは、どこにフォーカスポイントを持ってくるのか?というところ。

特に、コンデジから一眼レフ、そして汎用ズームから単焦点...という一連の流れを経験してきた人にとっては、とにかく大きくボケることが楽しい。(はずだ。)
それはとても大切な体験であり、行き着いた「大口径単焦点」の世界ならでは。であろう。

しかし、何も考えずに撮ると、ただボケた部分が広いだけの説得力に欠ける写真になってしまう。
ボケ部分が大きいことで、そうではないフォーカスが来ている部分をより強くアピールするわけだから、肝心のフォーカスポイントとなった部分に「意味」が無ければならないはず。


テーブルに運ばれた料理を、「何も考えずに」中央のAFポイントであわせただけの写真。
何も考えていない。というとウソになるが、しかしながらボケ部分とフォーカス部分の対比という観点では、何も考えていない一枚である。

単にボケ部分が広いだけの説得力に欠ける写真...。
になっていることが判るだろうか。
「単」の使いこなしが難しいといわれるのは、こうした部分を言うのだと思う。

また、映像制作の道具としてデジ一眼を使う人たち(私自身も使用しているが)も増えている。センサーサイズが極めて大きいことから、盛大なボケを利用した表現をすることが可能になる。
しかしながら、上記の「ボケとフォーカスポイントの対比に意味を持たせる」ような活用、という観点からは程遠い映像が多いように感じる。

彼らは、いつも「スチルと違って時間軸で語るもっと高度な世界だ」と豪語するが、その世界に上記のような通常では得にくい大きなボケによる対比という手法を加えた。
しかし、単なる目新しさだけに終わって、対比の本質を追及しきれていないように思えてならない。
果ては、「所詮、写真を撮る道具だから、やっぱりおもちゃなんだよね〜。」
で終わってしまう。
問題が数多くあるのは判るが、ビデオ用に設計されていないのだから当然である。
だからこそ、その「対比」という部分に撮影・制作者の感性を盛り込まなければならないはずなのに...。

肝心の表現の本質を追及しないまま、おもちゃ扱いする人たちには、この道具は永遠に使いこなせないように思う。

ボケ過ぎた写真になる?

単焦点でも絞りと距離を適切に

「単焦点レンズ」を入手される方が誤解してしまうこと。

汎用ズームと単焦点を、同じボディ・同じ焦点距離で、そして同じ絞り値で、且つ同じ被写体に対して同じ位置(画角)で使っていれば原則として同じボケ具合になるはずだ。
だが誤解は、その(背景)ボケ具合が、上記のような同一条件でありながら、レンズによって異なるものだと思い込んでしまう。

3列程度並んだ集合写真を撮りたい。でも単レンズだとボケ過ぎるのでダメだ。汎用ズームの方がボケない。
という声があった。
それは、絞りを開放に近いところまで開けたままにしているからであって、適切なf値になるように絞り込めば良いだけのことだ。

まして、開放から絞り込む度合いが大きい(種々収差などの問題があるので限界があり最小絞りまで絞るのは逆効果)ほど画質は向上する。
そのために、f5.6でしか使わないにも関わらずf1.4開放のレンズをf5.6まで絞る。
そうして得られた画質は、開放値がf5.6のレンズを開放で使った絵とは大きく差がつく。

単焦点レンズだからボケ過ぎるのではなく、f5.6よりももっともっと開けた世界に行ってしまっているからボケるのであって、それは意図してその表現のために使う部分である。

明るい単レンズも、絞れば被写界深度が深くなるわけで、常に開放近辺のf値で使わなくてはならないという決まりはどこにもない。
f5.6のレンズは、f5.6より開けた絵は手に入らないが、f1.4のレンズはf1.4からf5.6までの間も使える訳で、その部分こそボケを表現するための世界なのだが...。
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