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宮本章光/宮本陽の視点「開闢」And EM Official Blog

みやもとあきらのしてん AKIRA MIYAMOTO@And EM

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学び体得したこと・この先へ

飯舘村あいの浮き橋にて photo 宮本章光

多くのことを学びました。
多くの体験を重ねてきました。

まもなく2024年を終えるにあたって、この一年間だけではない、まさしく10年単位での学びのプロセスがあったことに理解が及びます。
この過程を、写真撮影という切り口から振り返り辿ってみます。


スマートフォンのカメラが高性能・高機能化するとともに、あるいは搭載されるチップや周辺プロセッサの能力を持て余すようになってきますと、撮影時点での画像処理にその余力が使われるようになってきます。

後処理でパソコン画面に向かい、自分の望む結果を得るために試行錯誤する。
そんな楽しさまでも、スマートフォンのカメラは「シャッタータップの瞬間(あるいはそれまでの間)に」処理し、望ましいとされる結果にまで仕上げて保存するようになったのです。

こうして「何も考えずにシャッター押すだけでキレイに撮れる」と言われるスマホ写真の出来上がり。
時代はここにまで一氣に到達してしまいました。
並行して、
Instagramに見られるような、故意に階調や色調を破壊して遊ぶ、といった成熟した時代の落とし子のような道も作られました。

成熟し切ったカメラと画像処理のセット性能・プロセスにより、撮影者は、もはや「やることがない」状態になったとも言えます。
撮って・フィルター・秒速でSNSアップロード。
そして、
どれだけ短時間でどれだけ多くの「いいね!」を集めるか。人々の関心は、そんなところに落ちぶれて(個人的感覚)行きます。

---もうやることがない撮影者。
—だれが撮っても似た様な写真ばかりのSNS。

ところが!です。
ここでブレイクスルーが起きます。


同じ空を撮っても、全然パワーが違う。
同じ花を撮っても、まったくエネルギーが異なる。
そんな写真に巡り合う機会。間違いなく増えてきました。

答えを急ぎます。

それは、
撮影者が「撮影時点で心を込めている」からではありませんか。
撮影者が「撮影時点で被写体のエネルギーを閉じ込めている」ことが判りますでしょう。
そして、
鑑賞者が、その心やエネルギーを「感じよう」とすると、その瞬間にシンクロし強力な力となって語りはじめます。


そんなバカな!
そんなことあるわけない!

果たしてそうでしょうか?
もう実体験している方も多いはずです。

この世には、目に見えることや形として触れることができないエネルギーが数多く存在しています。
—- 新年に神社に参って手を合わせるのはなぜですか?
—- お盆にご先祖にお参りするのはなぜですか?
そこに、目に見えて形として触れることができるものはありますか?


こういうことなのですね。
もう、世の中は、
「この目に見えないけれども強力なパワーを秘めた何か」
について、朧げながらでも理解しようとし、それを本心から信じ・感じることによって、その力を味方にする人たちが急激に増えています。
いえ、もう分岐した片側一方の道を歩むひとたちすべてが、この感覚を自分のものとして感じられるはずです。


こうした精神世界に通じる感覚をバカにし、古い枠組みの中でしか思考できない人たち。
そうした人たちは、まず「写真」というアート・芸術から、そしてクリエイティビティの分野から「接点を失って」行きます。
そして、
自らの感性がまったく役に立たないレベルに腐っていると知ることになります。
しかし、それを真に知り理解できるのは「この地にお借りした体をお返しした後」でなければ判らないのです。
そして、25,800年サイクルや果ては50億年サイクルの「学び直し」を、石ころになって踏みつけられるところから学習し直す。
(こういう話さえも、いまだに君のアタマは狂ってる!スピってるバカな輩!としか受け入れられない。ある意味では可哀想な人たちかもしれません。)
それが彼らの選択であり自ら望んだ道だったのですから仕方ありません。
ともにこの地で同じ時代を生きたことに感謝いたします。ありがとう、そしてさようなら。


もう「心で撮る時代」になったことを感じますでしょう。
食わず嫌いをせず、まずそのパワーを感じてみませんか?
食わず嫌いをせず、まずその力を受け止めてみませんか?

ますます楽しく、ますます深いところに進化してゆく世界。
写真だけではなく、新たな世の中がもうその方向に進んでいるのですから。


ところが、進化・深化・学びは止まるところを知りません。
魂の成長は永遠だと語られる所以でしょうか。
このようにして、心の重要さを認識しながら撮影を続けているにもかかわらず、ある時点で限界に到達します。

これは、いわゆるスランプとは、また違った現象だと思われますが、
「感じることができない」
という天井を見てしまうケースです。

「感じることができない」

それは、心の目を開いておらず、物理面だけの処理をどんどん進めていった結果だと感じています。

レンズに投資し、
望ましい性能を実現するボディを入手し、
後工程での画像処理のスキルも高めてきました。
並行して、スマートフォンカメラによるお任せ処理の恩恵にも預かりながら撮影を楽しんできたはずです。


ここで、大きな階段を一つ上がる必要がある、ということです。
心を大切に。と、頭では理解していたはずなのに、うわべだけ・言葉づらだけしか判っていなかった、ということでしょう。

PCの世界で例えるなら、
CPUの性能は、ムーアの法則に則って間違いなく進化してきました。
メモリーやストレージの性能も、飛躍的に進歩を重ねてきました。
そして、
その法則は限界に達します。
その性能は「もう使う場所がない」状況にまで達してしまったということでしょう。
物質次元的な成長はすでにその先が頭打ちだと。
結局は、PCたるその道具を使って「なにをなし得るのか・何を成し遂げたか」が、完全に抜け落ちているのだと。


この状況を乗り越えるためには、
「心の目を開いて被写体と会話する」道を進みましょう。との天からの啓示を受けている証ではないでしょうか。


ようやく、この部分を前面に出して語れる時期がやってきたように思います。
2024年は、過去10年あるいは12年間の総決算だったことが理解できます。
望ましい風景を心から描き出してまいりましょう。
自分の望む道は、自分の心が生み出す波動から創られます。
その先に、2025年から拡大する輝かしい近未来が拓けてゆくはずです。






顔を見ればわかる

顔を見ればわかる photo 宮本章光

顔を見れば伝わる。
顔を見ればその存在が放つエネルギーを感じることができます。


植物は花だけが顔ではないのでしょうが、この地においては、美しくアピールする花こそがストレートに表情を伝えてきます。
いえ、表情という言葉は適切ではないのかもしれません。
それぞれの存在によって異なる波長を持っていることが理解できるように。

人間はさらにストレートでしょう。
例えがよくないとは感じますが、カネの亡者は完璧に顔に出ていることが伝わります。もちろん話し方もですが。
顔に出る...というよりは、その存在が放つエネルギーがピュアではない、と言えば理解できるでしょうか。
重い。自分だけ良ければいい。自らの利益のためには相手構わず強要するよろしくない感覚。同じく詐欺師の類の顔も、汚れたエネルギー。
(え?そんな存在など見たことも会ったこともない?ですか。メディアやwebに溢れ返っていますけれど。)

もっと言えば、自己顕示欲満々の波長もかなり汚い。オレが俺が...な波長は真っ黒、重すぎるエネルギー。胃につかえてしまった食べ物のように。戻しそうになる感覚。
口先・話し語る言葉だけは美辞麗句を纏い飾り立て。


これらの対極にある波長はどのように感じるでしょうか。
上記のように極めてピュア。非常に純粋な美しさを感じる力。
軽い。けれどもしっかりと存在感を放つ大きな波。それは言葉ではなく。
あるいは、
暖かい日差しのような包容力に似た安心感さえも。

顔を見ればわかります。
その存在が持つ周波数、その生命が放つその時点でのエネルギーを。
この延長線上に、言葉なくして意思疎通が叶う世があるのだと理解できます。
はい、それは自分がそのエネルギーに合致し増幅することを許可した証でもあります。

顔を見れば伝わる。
顔を見れば理解できる。
その世に相応しい生き方を選択する限り。





20年間の成長と学びと

20年前のテーブル装花を思い出す photo 宮本章光

まるで別人のよう。

わたしが20年前に撮影した、あるバンケットのテーブル装花。
さすがに若かった。時間が経ったからこそ感じる感覚。

光の「感じ方」が現在とはまるで違います。
だから他人の作品のように感じるのでしょう。


良いかよくないか。
そういった観点ではなく、その時どきの感覚・感性は違って当たり前だと。
20年も経てば、その間に数えきれない経験を重ねてきたでしょう。数えきれないショットを押してきたでしょう。

逆に言うのなら。
その瞬間・その一瞬は、決して同じものが存在しないことも。
だから一期一会。
かくして、いまを目一杯生きるのだと。

それが成長と学び。
膨大な体験と濃密な学びと。

卒業証書をいただくのが目的ではなく。
永遠に続く学びの旅の区切りにおいて。





波長を感じる・生み出すとは

波長を合わせる photo 宮本章光

波長を感じてみます。
周波数を合わせてみます。

同じこの地に生きる生命だから。

でも、繋がっている先は人間とは天と地ほどの違いがあるのでしょう。
その先にまで意識を拡大してみます。
必ずつながることができます。
感じるためのセンサーが、これまでは腐りきっていたのですから、少しづつ戻してゆきましょう。

色を感じることは多くの方にとって難しくはないはず。
「色」も可視光線帯域にその振幅が存在する、人の目に認識できる周波数。
色の違いは「波長の違い」そのもの。

このような「色の違い」を感じるのと同様に、波長の違いに自分の心をチューニングしてゆきます。
すべての生命・あるいは物質でさえも、固有の周波数を持ったエネルギー存在であること。もはや語る必要さえなくなりました。
その「違い」を「色の違いを見分ける」ように認識してゆきます。

難しくないことが容易に理解できるはずです。
緑色と黄色。
黒と白。
このように、個別・固有の波長があることを、当たり前すぎる感覚として感じるはずです。

暖かい力があるでしょう。
穏やかな力を感じるでしょうか。
あるいは、
多少荒っぽい波があるのかもしれません。

そして、自分の心の状態によって、また人によって千差万別。まったく異なる感覚を受けることさえあるでしょう。
それは「氣のせい(=思い過ごしとして誤って洗脳されてきました)」などではなく、自分の心が合致している周波数であることを学ぶ機会を迎えています。
そこに存在する「氣」とは、その特定周波数のエネルギーのことを指し示しています。


自分が心に描くこと。
それは「自分がその波長に合致・シンクロさせ、それを増幅し目に見えないフィールドにエネルギーとして生み出す」というアクションを行なっているのだと。
高次的な感覚では、それは「自分が許可証を出した波動」「自分が生み出すことを選択したエネルギー」といった感覚で伝えられることも多いでしょう。
物質次元的には、そして幼稚園児や小学生であった地球人にはこれらの語りは難しすぎたのです。
色の違いを感じるように、自分の心がシンクロするエネルギーを選ぶこと。
選んだ。とはまさしく自分がそのエネルギーを増幅すると許可したことなのだと。


何もないところに生み出すのは「自分の責任」。
その本質はここにあります。
発言と行動に責任を持つ...といった旧来の意識は、この先の世では「何を思い何を生み出すか」に非常に重要なポイントがあり、そこに責任を持つことが求められます。
そして、
地球人の集合意識が等しく同じ方向へのベクトルを持って拡大し、特定閾値(しきいち)を超えた瞬間に、世の中という目の前の風景は一転するはずです。






信ずるものが間違っていないか

ゲートをくぐる

自らが信じ・信ずるものが間違っていないか。

間違っている。
間違っていた。
と認めることが浄化であると。


--モノを捨てれば浄化できる。
--わくわくして待っていれば大きなお金を手にできる。
--某国大統領が変わるから世の中よくなる。
--間違いのない宗教を信仰すれば必ず救われる。

それこそが間違っていたと認めること。

なるほど、終戦の体験と同じだとの論説がありますが、言い得て妙。
すべての価値観がひっくり返る。
すべて信じていたものが180度ひっくり返される。

それはもう間もなくかもしれませんし、あるいは、まだまだ苦しみが続くのかもしれません。
それは自分が創る道、その道次第。
自分の心次第で結果が変わる。


自らが信じ・信ずるものが間違っていないか。
静かに過ごし、静かに自然と会話するのは、そのために必要なプロセスでしょう。





この満ち溢れる力を伝える

飯舘の氣を伝える photo 宮本章光

溢れんばかりの大きな力を。
そこに満ち溢れる温かいエネルギーを。

ここに伝えるのが役割だったと理解した日。
これが導きだと伝え降りてきた場所。

受け取ってみてください。
受け入れてみてください。
伝わる人には伝わります。

それが同じ周波数を持つ証。
この満ち溢れる力を伝えます。





大自然との一期一会

飯舘村民の森に photo 宮本章光

どこにでもある風景。
しかし、
どこにも同じものは二つとして存在していません。
そして、
ここで出会う仲間はこの瞬間にしか巡り会いません。

いまを大切に生きる。
その本当の意味・本質を思い知る瞬間でもあります。



蓄積した体験を

飯舘きこりを臨む photo 宮本章光

もう忘れることはないでしょう。
もう転生のたびに過去世を忘れ去り、白紙からやり直す道は辿らないでしょう。

学び体験したものを糧として。
学び得たものをこの先に生かすために。




すべてタイミングがある

まだ蕾は固く photo 宮本章光

ものごとには全てタイミングがある。
よく語られる言葉です。

--早ければ早いほど良い。
--早さこそ美徳。
そんな時代もありました。

--直接利益を生み出さないリードタイムやインターバルは極力削れ!
--移動するなら早いほどよい・生産性向上のための時間を確保せよ!

そんな会社員時代も、必要だからこそ経験できたのだと。
おまけに、借り物の体まで痛めつけて苦しみの中から新たな道を導き出すという結果を得られ、あらためて感謝しかありません。
しかし、遠回りはしなくても良いように感じることは多々あります。
そのためにここにアーカイブを積み重ねています。


ものごとには全てタイミングがあります。
真冬に花を咲かせても極寒の外氣で枯れてしまうでしょう。
いつまでも、早いことが美徳!早いことがコスト削減!だとか掲げて走り回るのは卒業したいものです。

ものごとには全て関係性に基づくタイミングがあります。
相手のある関係における時間感覚の食い違いは、迷惑行為になることさえあります。

流動的で大局を見失わない思考は、これからも必要であるはず。
時間感覚が、この物理次元に根ざしている限りは、まだこの世この地に生存している限りは。






陰から陽へ・冬から春へと向かう

冬至に思う photo 宮本章光

陽の光がもっとも弱い日。冬至。
この日を境に、これからはどんどん陽のエネルギーが強くなる登り階段を歩みます。


地球の地軸は[23.4度]傾いているために季節ごとのキャラクターが明確に現れるとされています。
これもひとえに実験と検証・体験と成長のための設定だったのではないでしょうか。
何より、
直角を示す[90度]から[23.4度]を引き算してみます。
答えは[66.6度]。

太古の宇宙戦争によって破壊された惑星の断片が着弾したことによりその衝撃により傾いたのだ。偶然だ。その反動で飛び出したのが衛星である月だと。そんな論説もあります。
どう解釈し何を信じるかは、ひとそれぞれ。
真実は一つではないことを学びましたし、正しいか正しくないかさえ、もはや不要不毛の論議となりました。


数字と大いなる普遍的摂理とが無関係ではないこと、偶然が存在しないことはすでに周知の事実でしょう。
[66.6度]の数字が示すもの。
それが【666】であるのは偶然ではないはずですし、また、ここで「プラス・マイナス/正と負/善と悪」といったような「対(つい)」になる関係を実験し学び体験するための仕組みであったことにまで理解は届きます。

666が示すネガティブな意味だけが流布されたのも「偶然ではない」こと、すでに語りつくされたこの地における魔の仕組みでした。
そして当然、対(つい)となる、ポジティブなエネルギーも、同じだけバランスする割合で存在していることも。


こうした対になるエネルギーは、シーソーや振り子のように揺れ動きながら、その対極を体験するVR実験場・地球として存在してきました。
冬至のエネルギーとは、
どこかからやってくる救世主が何か目に見えない魔法のビームでパワーを送ってくれる日ではないのです。
ここを取り違えませんよう。


地球の細胞、地球の一員としての地球人自らが、そのエネルギーの「転換点」を認識し、その流れを理解し、ともに成長し伸びてゆくことを思い出させるための区切りの日。
宇宙のカレンダーが、今日を境に「春に向かいますよ」と印を示してくれています。

わたしたちは、この地に生きるすべての構成員として心から創り上げる集合意識により、この地を浄化し発展・拡大してゆく義務があります。
まして、以前の記事にも綴りましたように、この地をゴミ屋敷にしてしまった以上は、綺麗さっぱり「原状回復(はじめの状態に戻す)」させる責任があります。

騙される(騙されたままの)人は、騙されるだけの御霊・身魂であるという客観事実だけを受け止めたなら(それが良いかよくないか・優れているかそうでないかは関係がありません)もう触れることなく離れます。
彼らは、この地に体をお返ししたあとは、再び同じ学びの教室を、他の惑星で繰り返すだけのこと。
こうした学びのサイクルが、いまここで一区切りとなるのか、あるいは再度繰り返すのか。その違いだけだと。
いずれは、その教育課程を終え、同じように拡大と上昇の螺旋を登ってゆくことに変わりありません。


いま、非常に重要な期を迎え卒業式に臨んでいる以上、過去の教科書を引っ張り出して「ドヤ、すげーやろ!なんでも知ってるで!!」などと自己顕示欲を丸出しにした言動を続けるのは恥ずかしいと知ることが必要でしょう。

離れましょう。そしてさようなら。


陰から陽へ。
そしてこの区切りをもって冬から春へと向かう峠地点(あるいは谷底)に立ち、その清々しいエネルギーを咀嚼し、自分らしさの表現を通してこの地に浸透させてゆくこと。
これが、この先を切り拓く意志を持った者の成すべき行動であり姿であると確信しています。






季節とともに

季節とともに photo 宮本章光

季節とともに。
多くの仲間とともに。





後ろを振り返らず

飯舘の冬の風情 photo 宮本章光

振り返る必要?
ありません。

学び直す必要?
必要とする人だけが再トレースすればよい。

前に。先へ。
創り出します。登り続けます。
この土の匂いと樹々の逞しさ、切れるような空氣の冷たさ、暖かい日差しの優しさを感じ取れる人たち、共有できる方々とともに。






騒がず穏やかな光を受け取るように

大田アプリコで見上げる photo 宮本章光

オレがオレが...の世界。

自分を大切にする、という重要な感覚と、何でも自分の手柄にしアピールすることと。
この違いを間違えないようにしたいものです。

自分を犠牲にすることが美徳だという洗脳から抜け出すための学び。
ここを卒業できたなら、完璧な状態に維持した自らの心の波動を、多くの人たちの役に立つよう拡大するのです。
そこに言葉も大袈裟なアピールも不要です。

まるで、暖かく、そして穏やかな光を感じ受け取るように。
自らの感覚を無限に拡大・拡散してゆきます。
そこには、
俺が俺が...、なアピールは似合いません。
もうその世界は終わったのです。





そのままで芸術作品

オレンジ色の芸術作品・薔薇 photo 宮本章光

わざとデータを破壊するようなフィルター・エフェクトを掛けてみたり。
故意に色や階調を転ばせ破壊し、人目を引くことを良しとしてみたり。

終わりました。
続けたい人はいつまでも続ければいい。もう要りません・もう沢山。


精神性拡大と成長のための次のステップに進む意識があるなら、
---○○がちょっと不本意だけど。
だとか、
---XXな環境だったからXXがこうなってしまったけど。
最たるものは、
---ちょっと太陽が雲に隠れてしまったので...。
などど「言い訳を付け加えるクセ」。
このレイヤーから脱出すること。


くだらんクレーマー対策だったのかもしれません、ことの始まりは。
重箱の隅を突ついて負の力を撒き散らす人たちに、あらかじめ自分で「ここはどうだ・これはこうだ」と至らぬ点を認識しており、それを知った上でwebに(SNSに)出してるんだぞ。と。

その昔、鉄道を被写体として追っていた時期がありました。
わたしの撮った図柄は、私鉄のプリペイドカードで何度か世に流通しました。ご存じの方もおありでしょう。
その後、一切その世界からは離れました。
そして、
SNSから完全に距離を取って離れたのも、その界隈で語られる上記のような「但し書き:もっと正確に言うのなら言い訳」を、自分自身の絵につける人たちが溢れ返ったこと。
純粋に好きな対象、として楽しむ人たちが傍に追いやられ、声と態度だけデカい輩が幅を利かせるようになったこと。
そして、何でもかんでも言い訳・但し書きをするような姿勢に辟易したこと。
そこに充満する負の力に触れたくない一心で、もう決して戻れないことを理解しました。


言い訳のクセから離れてはじめて、その後で見えてくるもの。
それは、
「何も語らずともそのままで芸術作品」だということ。

画像処理を行なったかどうか(触らずオリジナルであることが至上などどいう宗教さえありました:これももはや過去の遺物)などという、言い訳の延長線上にある旧来の物質次元的観点ではなく、その被写体が放つ、そこに内包され発せられるエネルギーを感じてみます。

この時点で、感謝が溢れる感覚に到達するはずです。
誰も言い訳しません。誰も褒めてくれることもありません。
けれど、その美しい姿を目一杯披露する生命存在。


美しいものを美しいと語れる世の中へ。
感謝が溢れる世の中へ。
わたしたちは、そのままで極めて美しい芸術作品に囲まれていることを知ります。






すべてはバランスし因果を形成する仕組み

それぞれの秋 photo 宮本章光

特定先に向けて放たれた「負のエネルギー」は、間違いなく完全に発信元に跳ね返る。
特定先を狙って発せられた「ネガティブエネルギー」は、100パーセント発信元に反射し戻る。
特定先を的に投げられた「負の力」は、完全に発信者に舞い戻る。

狙った先が「受け取らない」限りは。


わたしは「負の力」を生み出しません。
わたしは「ネガティブなエネルギー」を発しません。
わたしは「負の波動」を創り出しません。

負の周波数に意識を乗っ取られない限り・負の波長を持つエネルギーに憑依されない限りは。






ゴミ屋敷を掃除する

心の中からクリーンに仕上げる photo 宮本章光

先般の記事、
【モノを捨てるのも確かにひとつの方法ではありますが】2024/12/07[Link]

のように、この地・この地球を散々痛めつけ、取り返しのつかないほどにまで破壊し尽くしてきたのは、わたしたち地球人。
まるでゴミ屋敷の如く溜め込んだ「負の因果」。

わくわくして待っていても、救世主は「掃除」をしてくれません。
白馬の王子は出現しないように思われますが、代わりに預言に記された「再臨」はあるかもしれません。
それは、
記された預言を「100パーセント信じ切っている」わたしたちの集合意識がそのように創り上げるからです。
この地では引力によってモノは必ず下に落ちる。というのと同じでしょう。
チベットの僧侶が空中浮揚するなど、まさにその信念が集合意識を超越した証かと。あるいはこの世を去る機会において自らの体を15cm程度のミイラに仕上げ奉るという物理現象の常識を超えたさままでも。

100パーセントの人々が「信じ切る」ことにより、わたしたち自身が具現化させるVR実験教室・地球。
では、
再臨に際しては、白馬と数多くの駱駝に乗って現れるのか、雲が割れ空に溢れる存在が出現するのか。


けれども、それとて大掃除をするためにやってくる訳ではないこと。勘違いしたくないものです。
自分でゴミ屋敷にしてしまった以上、自分で大掃除しなければなりません。
では、どのようにしてクリーンにしてゆきましょう?

その答えは上記の通り。
100パーセント信じ切っている限り、100パーセントそのように顕現化する。
大いなる仕組み。

「心から顕現化」させる。
心に描くもの・抱くものに合致した周波数・エネルギーが、それに相応しい現実という風景を作り上げてゆきます。
当然、魔法使いのようにエィっと指差せばクリーンになるわけではないでしょうが、常に望ましい風景を描き続ける限り、時差を経てその通りに現実となってゆきます。
ええ、当然、体を使って役務を果たす人たちがあり、その役目を全うしプロセスが進んで行きます。
これらの進捗に対し、望ましい波動で包み込み、望ましい念を生み出し具現化させるのは、わたしたち一人ひとりの担当部分。

ここまでの教材を学び終えた人たちが、その波長に相応しい世界へと移行してゆきます。
これこそが、隷属化され支配された世界から「自分の意識」によって、能動的に脱出することになるのではないでしょうか。





終末の時期に生きる者の役目

美しく飾り付け photo 宮本章光

あれは向こう側、これはワルモノ。
それは悪魔崇拝、これは悪。

それらが溢れる場所、この地球。
そうしたエネルギーに支配されていた(現在もまだ継続)のですから当然でしょう。


そんな裏側の負の力に意識を操られている限り、その世界からは脱出できないのではないでしょうか。
自らの意識に対しては、完全無防備。
そんな地球人。
思考は操られ、憑依され、いつまでも恐怖の力に貪られる。

ですから、
裏側がどうであれ「この先に望む」エネルギーを自分から描き出さない限り、目の前の風景は変わらないわけでして。

それならば、何を描きましょうか。
では、何を顕現化させてゆきましょうか。

それはワルモノ、これは悪...。
とやるのではなく、美しく飾り付けしていただいた方々に労いの意識を送り、そこに盛り付けられた作品に立派な姿を披露してくれた感謝を伝える。

その意識と心の波動が、少しづつシフトしてゆき、願い望む世界を形作ってゆきます。
その大いなる仕組みを知り、体現してゆくこと。
それが、終末の時期に生きる者の役目だと。






モノを捨てるのも確かにひとつの方法ではありますが

in front of Muza photo 宮本章光

「浄化。」
この言葉を、多くの方々が語るようになりました。
その言葉の通り、多くの人たちが実践するようになりました。
よい方向に進んでいることがわかります。

台風を上陸させてしまうような力を自分から生み出したり、地震を自分自身で強大に増幅してしまう力を生み出してしまう、だとか。
もう、そんな負のエネルギーに同化し油を注ぐような行動(それは心に抱く恐怖に根ざした負の念を生み出す力)をする人たちが減少した証として、現実という風景がそれを証明するようになってきました。

負の念を溜め込んだモノを整理するのは一つの手段に違いありません。
断捨離はひとつの方法であることを否定するものではありません。
けれど、
それはまず取っ掛かりのステップであり、その先・その後に取り組む大切なことが残っているのだと再度確認したく。

モノを捨てたから。
不要物を手放したから。
それで終わり...ではないのです。


心の手綱(たずな)を自由自在に操ることができるように。
不要で望まない、故意に仕組まれたエネルギーにフォーカスし、強力な磁石に吸い寄せられたかの如くそのまま離れられなくなることのないように。

心の波動を上げる。
とは、どういう意味だったでしょうか?
わくわくすること?
ええ、それは客観視点では、高い波動を維持しましょうという意味で間違ってはいません。
けれど、イライラを溜め込んだまま、それを見て見ぬふりをし蓋をして、わくわくしましょう。ではないはずなのです。

ここ。間違った方向に進むと、そのエネルギーは他人にすぐ伝わります。
---嫌なことばかり起きるんだけど、わくわくして待ちましょう。
---嫌いなこと嫌なことが山積してるけど、わくわくして乗り越えましょう。
ってな波動は、見事にバレます。

ここが変だよ。というのです。盛大に違和感が伝わってきます。
モノの感覚から心の感覚への移行ができていません。
first stepを終えていないのに、second stepへゆくことはできません。

嫌なことばかりが起きるのは、それが起きるべくして起きるようなエネルギーを初めに自分が生み出したから。
あるいは、過去因果を解消するためにニュートラルに戻そうとして発生している。その仕組みを知ることが不可欠でしょう。
ここを理解したのなら、
「負のエネルギーを解消してくれてありがとう」という感謝に至るはずなのです。

嫌なことばかりあるけど、わくわく「しなければならない」から、と、蓋をしてしまい放置していては、いつまでも解消できないわけで。
心の世界を語っているかに見えて、実は、目の前に現実化、結晶化・物質化したモノに対しては放置したまま。
(物質化したモノは過去想念の生成物・結果だから放置しておけばよい、との論説もありますが、それは望ましくないエネルギーにフォーカスする愚を戒めたものであり、この地球をゴミの山にし取り返しのつかない状態に近いところまで追い込んでしまった責任はわたしたち人間にあり、わたしたち自身にしか浄化できないことを忘れてはなりません。少なくともゴミ屋敷にした限りは、その清掃の責任を取らなければなりません。)
まずは、そこから。
だから、断捨離はその第一歩であり、正しいスタートではあります。

この次には、
上記のように、負のエネルギーを解消してくれてありがとう、の感謝の心に到達できるかどうか。
そして、
幸せとは、そう感じる心の状態である。という大原則で語られるそのままに「心のありよう」を自ら高めてゆくこと。
高めてゆければ、自然とわくわくしますし、自動的に感謝が溢れ出します。

このようにして、負の念を、心の中から追い出してゆきます。
モノを捨てるだけでは次のステップへは進めないのです。
それが、浄化の本質ではないかなと感じるわけです。






異なるエネルギーは抵抗を生じ摩擦を起こすもの

空を見上げてごらん photo 宮本章光

フォーカス先を選んでいますか?
意識する対象を選択していますか?


異なる周波数のエネルギーは衝突し摩擦を発生します。
そういうものだ、と頭の中では理解できているはずです。
ところが、
いざ目の前にその抵抗と摩擦が生まれてくると、途端に一点集中、そのピンポイントのエネルギーにフォーカスしてしまいます。まるで磁石に吸い寄せられるかのごとく、ちょっとやそっとでは離れられません。
もがけばもがくほどに、更に強力に捉えられ、決して逃げ出すことができなくなります。
同時に、
その波長にフォーカスを絞れば絞るほど、同じエネルギーに「同化」し「増幅」し続けます。
自ら作り出したエネルギーは、正の方向であれ負の方向であれ、目に見えないフィールド:幽界にエネルギー波動として間違いなく生み出してしまう。そういう仕組みなのです。
この至極当然のプロセスを忘れませんように。

そのプロセス・エンタメを楽しむ場所。この地球。
自分から希望し手を挙げてやってきたわたしたち。

望まないエネルギーに同期すれば、永遠にそのエネルギーを自分自身が作り続けます。
ですから、望むエネルギーにチューニング先を合わせることです。
もう、望む波長を能動的に選べる人たちが飛躍的に増えている様子が見て取れるようになりました。


フォーカス先を選んでいますか?
意識する対象を選択していますか?






誉め誉め称えよ

どうやってこの色を作り出したのだろう photo 宮本章光

どうやって「この色」を作り出したのでしょう?
どうやって「この色」を生み出すのでしょう?

土中にそんな色素が存在するとは思えませんし。
まして、雨にも水道水にも同様に。


彼らに聞いてみたら、きっとこう答えるでしょう。
「自分で生み出すんです・創り出すのですよ」と。

残念ながら、いまのわたしには、彼らとコミュニケーションを図ることは難しいようで、データパケットのようにドーンとメッセージが一瞬で送り込まれてくるような感覚はありません。
現在、波長が異なるのだろうという証明でもあります。


自分で生み出す。
それができることを知っていれば、如何様にも作り出すことができるはずです。
彼らは能動的に動くことはありません。ですが、特定波長のエネルギーによって互いがコミュニケーションをとっていることは種々研究からも明らかでしょう。
そして、互いにその美しさを誉め称えているはずです。


現在、ちょうど時期的には"Joy to the World(もろびとこぞりて)"が聞こえてくるタイミングかもしれません。
歌詞中では「ほめたたえよ」が繰り返されます。
立派さやすばらしさをほめること。いかに素晴らしいかを言葉を尽くして述べること。と訳されますが、そのイベント自体は、決して望ましくない裏側があったことを知った上で、この年には預言(予言:当てモンではない)が現実・顕現化する可能性を強く感じます。
但し、
その顕現化は、わたしたちの集合意識が実現させていることを忘れずに。

はい、自分たち人間がその通りに生み出している。と知ること。これこそがこの地で学ぶべき最後の教材ではないかと思うのです。
---美しい色彩感を顕現化させる(できる)ことを自分自身で知っている植物たち。
---預言の通りに「間違いなく現実になる」などと、わたしたち自身が意識できない(学んでいない)まま「顕現化・現実化」させている人間と。

後者は、自分たちでそれを行っていることを認識していない時点で、この世の最終教材を学び終えていないアラートが点滅しているはず。
学び終えてアラートをOffにするのは、これもまた自分たちの心からなのです。わたしたち人間の集合意識として生み出すエネルギーによって。
植物も人間も、
ともに素晴らしいクリエイターであること、褒め称えるのは、いまこのタイミングこそ。







通じる人に届けばそれでよい

ひとつの仲間存在として photo 宮本章光

みかんを口にする「手・指」が、右手なのか左手なのかによって、味が違うように感じる。
以前に、そういった感覚を記したことがあります。

当時連携していたSNS上では「へぇ!今度試してみます。」
とコメントはいただきましたが、その言葉からは、返信することやいいね!を押すことそのものだけにしか意識がないSNS的心の波動がしっかり伝わってきました。
実際、試されることはなかっただろうと容易に想像でき、その後はなしのつぶて。
そして、別の記事でいいね!返し...だとかやってる姿。
それが良いかよくないか、ではなくて、自分にとってはもう必要ない世界だと。

これらの反応が、如何にも物質次元的といいますか、物質至上の世の落とし物だと感じてしまいます。
人の反応を氣にする。数を氣にする。
それらは、もはや過去のものとなったはずです。
いまだによい子ちゃんアピールや数を追いかける姿には嫌悪感さえ感じる。これが正直なところ。

少し視点を変えてみても同じでしょう。
みかんには豊富な栄養素が含まれている。だとか、一日に必要な何々の栄養分としては何々ミリグラムだ、だとか。
これらの感覚こそ、物質至上な世の中の最たるもの。
但し書き。それらに意味がないということではありません。その感覚の属するフィールドの違いを語っています。


わたしが伝えたかったのは、エネルギーを感じる感覚についてその感触を共有できる人が自分以外に存在していれば嬉しい。ともにその感覚を感じられれば楽しい。という単純なもの。
これからの世は、そのように響き合う感覚を楽しむ世界ではないかと思われます。

実際、果実のトーラス構造にはエネルギーの流れが存在することは間違いないでしょう。
そしてその流れが反対になれば、その感触は変わってしかるべきだと思われます。
枝の根元側を上にしているのか、花の咲いた側を上にしているのか。その差があるに違いないのです。

まずは、果実側にそうした真逆のフローがあることを感じてみる。
そして、
右手右指なのか左手左指なのかの違いは、自らの体そのものが持つエネルギーの流れもあるでしょう。
このような感覚・感触を「感じてみようとしてみれば」実際に感じられる。そんな時代に突入していることがわかります。


過去、これを「氣のせい=思い過ごし」といった言葉によって、その感覚をスポイルされてきました。
耳タコで失礼申します。
「氣のせい」とは、氣というエネルギー存在による影響や変化がそこにありますよ。ということを示している、この国の貴重な言霊。

そして、この果実たちが持つ力(エネルギー波動)に合わせてみようと試行してみますと...。
すると、太陽から齎される膨大な力の流れを「感じられるようにする」あなたの体にアドオンするプラグインのような働きをしますよ。というメッセージさえ受け取る瞬間が出てきます(個人的感覚:明確な言葉ではありません=感じるものです)。

果実(植物)は、食べてもらって出世(魂の成長を実現)するのだと語られています。
その対価として、人にはエネルギーを与える。そして、受け取り側(食する人間側)が望めば、こうした膨大なエネルギーにさえ触れることが可能になる。そんな世界が「すでに」ここにあります。


こうした目に見えない世界を無きものとし、そのフィールドにつながることによる覚醒を阻止されてきた歴史。
ばかばかしい!と思うでしょうか。
そんなことあるわけない!と仰るでしょうか。
そう捉えること、それ自体がご自身の選択した道ですから、良いもよくないもありません。それがあなたの感覚。
もう判断は必要ない。という感覚。
これをジャッジしない、と呼ぶはずなのです。両極で存在する、正と負の片側を見て見ぬふりをすることではありません。ここを間違えることのありませんよう。


同じ波長だけが合致する、同じ周波数だけがシンクロする法則。

嫌悪感さえ感じる旧いプラットフォームから離れ、こうした波動エネルギーに触れる体験を重ねてゆく。
その行為自体が自らのセンサーを磨き上げてゆきます。それが行動する、ということではないかと感じます。
そして、
拡大を続け精神性を高めてゆくことが、成長のプロセスであり間違いのない方向だと実感する瞬間です。
通じる人にだけ伝わればそれでよい。ともに歩むことができる方々へ。






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