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宮本章光/宮本陽の視点「開闢」And EM Official Blog

みやもとあきらのしてん AKIRA MIYAMOTO@And EM

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「心」も道具の一つに過ぎないと知る

2024年の春に photo 宮本章光

二極化・二元化がよくない。
そんな声を聞く機会が増えてきました。
しかし、
それを体験するための地へ自分から希望しやってきた以上、その仕組みを知り・学ぶことが必要でした。
もちろん、すべて学び終えたから「二極化を卒業しましょう」という意味だと思われますが、どうやらそうではない感触を感じることも少なくありません。

良いかよくないか。
その観点で語られている限り、語りそのものが二元性から卒業できていないわけで、ここに違和感を激しく感じるのだと思われます。
そして行き着くところ。それは「無にならねばならない。それが悟りだ。」と叫びます。
ところが、
そうでなければならない、と語られ、現状はその境地に至っていないからまだまだダメだ。という論法。
これも同じく、良いかよくないかが大前提にあり、ねばならない論から脱却できていない部分に、大きな違和感を感じずにはいられません。


こうして頭の中で捏ねくり回して思いめぐらせる。
そのプロセス自体も学びであるわけですから、肯定も否定もしません(できません)し、それも一つの学びであり体験であるということまで理解が及びます。
ここまで到達して初めて、卒業が叶うのだと判ります。
ああだ、こうだ。それは違う...。とやっている限りは、やっている本人は氣がつきません。

みんな通る道。
誰もが辿る学びと体験の道。
まるで、
幼児を見守る老齢世代の感覚のようにも見えます。
(これも多くの体験を経てその年齢に達してこそ初めて感じられるものだと判ります)


この地では、学びと成長のために二つのツールが貸し出されます。
一つは「体という名の衣」。
もうひとつは「心という取り扱いが極めて難しい道具」。

精神性を拡大し成長を重ね階段を上がってきますと、ある段階に到達したところで「体は借り物・学びの道具」だと知ることができます。
けれども、ここでもう一段の成長が望まれます。
それは、
「体は借り物だけれど、自分の存在は意識体としての心・思考だ」と勘違いすることです。

確かに、自分の存在は「この体」ではないでしょう。
けれども「心としての意識体」でもないのです。
これがまたまた「対(つい)・ペア」でセットになったツールであることまで知り得ましたでしょうか。

体は借り物の教材ツール。
でも、心も同じく学びのためのツール。
では、
自分の存在は何?というところ。
この段階に至ってこそ初めて答えが見えてくるように思われます。

もちろん脳ではありませんし、意識体でもなく。
ここにこそ、すべてを一(いつ)にするエネルギー存在としての自分がある、ということなのですが。
まだまだ二元性や二極化が良いかよくないか。とやっているのも、一つの「授業風景」ではあります。
はい、
小学生の授業風景を微笑ましく眺める授業参観に居合わせた「お祖父さん」の感覚を、もうしばらく味わうことになりましょうか。
紆余曲折、茨の道を歩んでこそ到達できる場所へ、ようやく来れたことを喜んでいます。
多くの導きと護り・守り、御指導に感謝申し上げます。





ステージはいつでもどこにでも

板橋区小豆沢薬師の泉庭園で響き合う photo 宮本章光

舞台は、いつでもどこにでも。
そこに意識を合わせる瞬間に。

同じ波長で響き合う。
それが自分の現実創造。
それが自分の選択。




感じる味わう・共鳴する

花蜜を味わう鳥たち photo 宮本章光

少しづつ言葉のウエイトが下がってきたように感じます。

何をする。蜜を吸う。何の鳥。名前は?
もはやどうでもよいこと。

---いい天気やね。
---嫌な天気が続くね。
どちらも挨拶のフレーズだとされます。
けれど、そう語るからそれが自分の現実になっている。という事実。

いつまでも続けるのも自分の意思。
いつまでも残り続けたいとの意思表示。


こうして過去の文明も滅んだのですね。
その瞬間がどうなったなど、もはやどうでもよいこと。

どちらへ向いて歩みましょうか。
どこを目指しましょうか。
感じるもの、味わうもの。そこに響き合う同じ周波数。
それが自分の選択。




「消費者」でなく「創造者」たれ

2024年の桜に想う photo 宮本章光

時間には期限がある。
それは、この体をお借りして学び体験できる期間は限られている、ということでもあります。

こんな声が幅を利かせてきました。
「時間は存在しない、溶けて無くなる...。」
それはこの次元を超越したところでは真に違いありません。けれど、この地この世で体を使わせていただく時間は有限であることに疑いはないでしょう。
溶ける、だとか存在しない、などと「この地に居る・この次元に存在している状態のままで」語ってしまうことをを、浮ついている・地に足がついていない、というのではないかと感じます。
(繰り返します:この地この次元に存在している限り)

少なくとも、目に見えない世界を否定し、唯物主義と貨幣経済のピラミッド社会・隷属化の支配構造だけが真であると信じ続け、精神世界について語ることを浮ついている。と蔑む意見とはまったく次元が違う話です。


この物質次元にある大きな落とし穴。
それは、
時間の消費者として、時を追うごとに・年月を経るごとに「悪化の一途」を辿っていること。
MSM(メインストリームメディア:テレビの例)は、強烈に時間を奪い、且つ激しく洗脳する道具であること、もはや疑いのないものかと思われます。
加えて、この十数年を経て体の一部になったとさえ言われるSNS(ソーシャルメディア)。
無限スクロールに見るように、これでもか!これでもか!と、時間が無尽蔵に奪われてしまいます。

まさに、わたしたちは「時間の消費者」として無限にそのリソースを喰われていることに氣がついている人、そうした人たちがどれだけ存在しているでしょうか。
ここでよく考えるべきは、
「この体を使わせていただける時間は有限」であること。

MSMが無駄だとは言いませんし、SNSも意味がないとは言いません。
少なくとも、悪役も学びのための重要な役目を果たしており、結果として成長のための重要な教科書でした。それがこの地のお約束。
しかし、
それこそが洗脳のツールだったわけで、ここに目が覚めたならもう決して触れる必要はありませんでしょう。
まして、無尽蔵に時間を消費させられるSNSに至っては。

いや、自分は拙僧を持って接しているから。
そんな発言をする人たちが一定数存在しました。
その後、目の前からは消えてゆきました。
すでに周波数が異なるタイムラインの存在となったのでしょう。


消費者ではなく、創造者となれ。
それは、
手前味噌な意味はまったくなく、日々一枚の画像に込めた心地よいエネルギーを流し続けることでもあるはずですし、何か他の人の役に立つ発言も意味があるでしょう。
そして、
そこに共感し、ともに響き合える方々と、新たなエネルギーを生み創り上げてゆきたいと思うのです。

こうした展開と行動こそが、地に足をつけて行動することであり、且つ、相互理解と相互扶助といった慈愛の精神ではないのかと。
すべては一(いつ)であり、究極は無でなくてはならない。
と叫ぶにもかかわらず、過去の意識が作り出した悪しき結晶=現実という名の風景の中でいつまでも踊り続ける。

そんな旧い世界の中で叫ぶ前に、このようなプロセスを経て一つになってゆく心の持ちよう。心という道具の使いこなし。
それこそがこの先に選択すべきワンネスの世界そのものではないのでしょうか。
頭の中だけで理解したつもり、善になったつもりで過ごすことではなく、消費者から創造者への転換こそが「行動することそのもの」ではないかと考えます。




思うとおりに

春を呼ぶ photo 宮本章光

思う通りに。
感じるように。

時差を経て創られてゆきます。

それが仕組み。
それこそが学ぶべき課題でした。

学び終えれば、次の課題は、
新たな望ましいフィールドで、どこまでも無限に拡大し続ける成長。

学びは、成長は、
永遠に続き、永遠に上昇し続けます。
それが仕組み。
それこそが、これからも学び続ける課題。



その「ときめく」感覚が今の波長

ハクモクレンに意識を合わせる photo 宮本章光

何にフォーカスしますか。
どこに意識を持ってゆきますか。

「ときめく」
といったワードに触れますと、何かメルヘンの世界や少女漫画の一ページのような印象があるかもしれません。
そして、そんな浮ついた心は捨てて、しっかり勉強しなさい!といった展開へと誘導されました。
このようにして「なんとなく甘酸っぱい・心地よさと望ましい世界に繋がる感覚を排除」するように教育洗脳されてきたのでした。
その感覚につながると、負のエネルギーに合致せず、従順な奴隷が量産できないからだったのだ。へと理解が至ります。

ですから、そんな旧い世界を飛び出して、この瞬間の感覚を正直に受け止める。
それこそが、直感でありその瞬間に勘がシンクロしている周波数であるということでしょう。
同じ周波数は響き合う。大原則です。


花開き春を謳歌する時間は極めて短いのです。
彼らは、待ちに待ったその瞬間を大いにアピールします。
「わたしはまだまだです」だとか、「いやいや自分など全然美しくないですから」。などと、不要な謙遜は一切ありません。

それが美徳だと教わった、これまた教育という名の隷属化洗脳でした。
その言葉によって、永遠に「まだまだ」の世界が作り続けられます。

感じますか。
響き合いますか。
それが、その瞬間の自分自身の周波数。

不要な負のエネルギーを作り出さない。
この先に必ず必要になる極めて重要なスキルかと思われます。
いま「ときめく」感覚を大切に。



「柵」や「枠」を躱し(かわし)て

黄色に惹かれて phooto 宮本章光

人間が設定した柵(さく)の範囲など関係なく。
人間が設置した限界など氣にかけず。

植物たちは、そんな制限を華麗に躱し(かわし)て早春を謳歌します。


制限など、そもそも自分の意識の中で勝手に作り上げたもの。
限界など、もともと自分が頭の中で勝手に設定したもの。

大体、この地この世は100パーセント(に限りなく近い)VRであり、その体験を得て学び成長する場所とされます。
そこに自分から制限や限界を作り出し、その枠の中で敢えて苦しむゲームに過ぎない。
と、
ここまで到達できたのなら、その制限を取っ払ってしまえばよいことに目が覚めます。


足で移動しなくても、
言葉で話さなくても。
人間が「五つ:五感」しか感じられない感覚を、彼らは22だとか23だとかの夥しい数の感覚を持って感じることができるといわれます。
とてつもなく凄いことです。

自分の心のセンサーが麻痺していると、その凄さ・素晴らしささえ理解できません。
移動すること、話すことを手放した代わりに備えた能力。
ある観点では、人間より何倍も優れた生命だと感じます。

彼らは、自分で柵や枠を設けることはしないでしょう。
待ちに待った、この暖かい日差しに向かって、いまこの時を楽しみます。

いつまで、自ら苦しみ・もがくゲームを続けますか。
見習うべきは、フォロワーが多いインフルエンサーの言動などでは決してなく、こうした「当たり前」に生きる生命の姿だと判ります。
なぜなら、彼らこそこの先をともに歩む仲間であるからです。
なぜなら、彼らの姿こそこの先を生きるための明確な道標(みちしるべ)だからです。




何を見て何を想う

街路樹に意識を合わせる photo 宮本章光

思い抱き描くものが自分の現実となる。
キーワードはこれ一択しかありません。

世の中は自分の写し鏡、というのも同じでしょう。
自分が思い描くものがそのまま投影される。それがこの地、この世の中。
まさに、
一人ひとりの完全オーダーメイドのVR映像を体験していることに理解が到達したはずです。

ここに至らない方々、残念ながらそのレベルへ到達できなかったので「学び直し」と伝えられています。
体という名の「借り物の衣」をお返ししたあとで、その教室へ。と語られている通りでしょう。
さようなら。
さまざまな接点をいただき体験させていただけたことに感謝を伝えます。

しかしながら、
これから学びを重ね成長を続けたい、との意識が僅かでもあるのなら。
それは、ともに新たな世を創り上げる同士であり、暖かく明るい力を送りつづける人たちであると感じます。

この部分をごちゃまぜにして語る事例がまだまだ多いように見受けられます。
この地・この先は、何もかも混ぜこぜにして実験をする場ではなくなったとされます。
その実験は、もう終わったと伝えられている通り。個々人の肌感覚でも理解できるでしょう。
そして、その実験がこの地において、5回も6回も大失敗を繰り返してきたことを観ても判るでしょう。

この先のロードマップでは、
善悪・明暗・表裏を等しく存在させ、それがどのように進化するかを実験するのではなく(何度も大失敗するという結果を得て学べたはず=進化など決して起きず必ず破滅すると)、正の方向に向けた明るく心地よい千年紀の地盤を築き上げ、今度はそのベースの上でどれだけ成長が果たせるかを観るフェーズに入ると伝えられている通りです。

よって、悪平等の極みであった教育洗脳の一つ「お手てつないでみんな一等賞」的な発想が間違いであり、隷属化の道具に過ぎなかったことを知るなら、それをいつまでもキープし、抱き、意識の中に残さないことです。
味噌もクソも同じにしてはならない。と語られている通り。


同じエネルギー同士で棲み分けをし、その中でどれだけ登り続けられるのか。
同じ方向へのエネルギーを束ね、その中でどこまで成長ができるのか。
今度は、このフェーズに入るとされます。

よって、
何を心に抱き、何を描き、どういったエネルギーを目に見えないフィールド(幽界:四次元)に生み出すのか。
そこにしっかりと責任が持てる人だけが、この地でこの先も学習を続けることになりましょうか。


枯れたように葉を落とした街路樹。
寂しく見窄らしい、こんなもの撮ってどうする?と感じるのか。
はたまた、
もう少しで新芽が芽吹き暖かい日差しを浴びるようになる。厳しい冬を耐えたね。寒かったね。あと少しで暖かくなるよ、と期待で心を満たすのか。
見た目だけ・うわべだけ、キラキラ飾り立てSNSウケするような世界に心奪われているのなら、お先真っ暗かもしれません。
本心から感じ本心から響くもの。ここが重要ではないかなと思うのです。

「自分の心に責任を持てる人だけ」
その人たちだけで、この先のこの地を創り上げる。それが約束された千年紀であると。
不用意に、望ましくないエネルギーを作り出してしまっては汚れるだけですから。

映画Matrixの最後にアーキテクトが語ります。
この平和がいつまで続くのか...とのオラクルからの問いに。「わたしを誰だと思っている。人間か?」と。
(ここは相反するプログラムを競合させ補完し進化させるAIの仕組みを示唆しているように思われますが、その観点にはここでは触れずに置きます。)

宇宙の大法則・摂理は、いつでも完全で完璧であることを知ります。
だからこそ、人間レベルで余計なエネルギーを生み出し汚染しない。
それが、自分に責任を持ち行動する。ということだと感じます。




水ぬるむ:春を呼び

運河の水に春を観る photo 宮本章光

都会の運河に春を呼び。
日頃は意識すらしない、かつてその川面にはゴミが浮き流れた大都会の運河。


澄んだ水とは言わずまでも、そこに廃棄された浮遊物の姿はなく、側溝から流れ落ちる水の音が響きます。
高速道路の下部が運河になっている場所も多く、そこには騒音と悪臭しか存在していなかったシチュエーション。
ところが、
その水音に意識を合わせてゆきますと、途端にそのシーンと受ける印象が変わってゆきます。

意識するものが現実になる。
この地は100パーセントVRであることを実感する瞬間でもあります。
水温む(みずぬるむ)期に、柔らかい日差しを受け、壁面のツタの仲間も生氣を取り戻します。


春がやってくるのは、確かに季節の流れでありながら、
春を呼ぶのは、確かに自らの心の中から。
何にフォーカスし、何を心に描き、何を創り上げてゆきましょうか。
ついに、想念を使いこなす時期を迎えたのですから。




「本との共同作業」で望ましい力を生み出す

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本(書籍)には、執筆者の抱いた膨大なエネルギーが内包されています。
一文字ひと文字に込めた、伝えたい意図がそこにあります。
読者は、その力を文字・言葉を通して受け取ることができ、そのエネルギーに同化・同期することで「目に見えない世界」に新たな力を生み出します。

この投稿記事では、
その「心で感じ心で響き合う」感覚こそ、目に見えないフィールドに望ましい力を「無から生み出す」唯一の方法であることを記したく思います。


人の心は、エネルギーそのものであり、そこで感じたもの・それは共感したり反論したり、さまざまな感情とともに渦巻くエネルギーが、読書によって生じること。
ここに集中し、よく考えてみることが必要だと感じます。

目に見えないフィールドは、物質次元を超えたところであり、四次元あるいは幽界であることはもう語り尽くされてきました。
わたしたちが、心に抱き心に描くことにより生み出したエネルギーは、幽界にあらたな存在として生じるとされます。

このエネルギーが集合体となり、本来存在していなかったものが生まれるのです。
この極めて重要な仕組みを知る必要があるはずです。
習わなかったから「誤りだ」だとか、教えてもらっていないから「間違った考えだ」という思考回路そのものを捨て去る時期を迎えています。
そして、
多くの人によって繰り返し繰り返し同じ方向へのエネルギーが生み出し続けられることにより、時差を経て「この物質界に顕現化」してゆきます。

この仕組みを悪用し、特定方向への「負のエネルギー」を繰り返し生み出すように仕向けてきたのが、この地の悪しき歴史でした。
ですがそれを認識したのなら早晩そこから脱出することです。いえ、もう脱出なさっている人たちばかりでしょう。ここで共鳴できる方は。
そして、重ねてその力に燃料を注ぎ続けるような愚を犯さないことです。


本が持つエネルギーから少々外れてしまいましたので戻します。
本に込められたエネルギーにシンクロすることによって、目に見えないフィールドに「無から生じる力」を生み出すことが可能になるという事実。
(哲学的回帰に沿うのなら「無から有は生まれない」とされます。だからこそ自分の心によって「生み出す」のだと考えます。)

それならば、この力を最大限に活用したく思うのです。
もちろん、書籍の形に落とし込まなくとも、この場のように文字や画像等によってその力を伝え・束ね・望ましい方向への大きな渦として拡大したいと願うものです。

その感覚を感じるために、古書の街に膨大に蓄積されたその大きな力に触れてみます。
多種多様な意図、ある観点ではカオス的で支離滅裂に感じることさえあるようなエネルギー。
色に置き換えてみるのも良いかもしれません(個人的感覚)。
アンバー系の温かみと、アンティークな渋さが、ここに渦巻いていることがわかります。

このように「感じる」ことによって、幽界に無から有を生み出すことができる。
わたしたちの先人は、
これを「想念」として日常的に使いこなしていたことを知ります。


隷属化の世の中を飛び出す意思意向を持つのなら、いつまでも、その悪しき歴史と悪事に触れ「こんなにひどいことをされてたんだぞ。」と、叫び続けるのはもはや恥ずかしさ以外の何ものでもありません。
生み出してください。
生じさせてください。
わたしたちは、心の中から望ましい世界を創り上げるだけの潜在能力を備えているのですから。

手始めに、本の中に存在するエネルギーにシンクロして、何か感じるものを生み出してみてはいかがでしょう。
感じることで生み出す。
抱くことで生み出す。
これこそが、この先の世で必要となるスキルであることを知ります。

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「お人間さま」より

木の精霊から受け取る photo 宮本章光

木の精霊から受け取ります。

-----
わたしたちは、あなたがたのことを「お人間さま」と呼びます。
自分の都合で勝手にわたしたちを切り倒し、ここに存在していることにさえ意識を持つことがありません。

けれど、
わたしたちは「お人間さま」とともにこの地で生きることを選びました。
それは、物質体としての一生を終えたあとも、木材としてお役に立てる道があるからです。

わたしたちは「お人間さま」の役に立つことで、成長を重ね上昇することができます。
この地も、そして他の地、他の星でも、すべての存在は、体験を重ね成長し拡大し続けることが役目です。
そのためには、
さまざまなシーンで生きる必要があることを理解しています。

美しい姿を披露する仲間も多く存在しています。
その時にだけ意識を向けてくるのではなく、晴れの日も雨の日も、そして暑い日も寒い日も、ここに居ることを知ってください。
また、
机や家具や家の材料としても、存在していることを思い出してください。

思い出してほしいことは、もう一つ。
わたしたちが、この地の空氣を動かすことをやめたなら、多くの生命は一時たりとも呼吸ができなくなることを。

これからもともに生きてゆくことにかわりはありません。
ここに居ることに氣づいてくれてありがとう。
-----


樹々は語りません。
木々は動きません。
けれども、「この地の空氣を動かす(CO2<--->O2変換)」を決して忘れてはなりませんし、一つの生命存在として常に意識し続けることを。
なぜなら、
この地で、これからもともに生き続ける仲間であるから。

ありがとうございます。
ひとりのお人間さまより。




「論点のすり替え」に麻痺していないか

苔のテラスにフォーカスする photo 宮本章光

混乱の世。と言われます。
そのように思えば、そのように展開してゆく。そんな現実という名のVR世界・現実という名のMatrix。

「巧妙に誘導されている」ことに氣がついたなら、そのエメルギーから離れることです。


精神世界と物質世界はペアですよ。
だからこそ、不用意に負の力を生み出さず、望ましく明るく暖かいエネルギーを心に描きましょう。
という話をしますと、「楽しいことだけを考えていては成長しないぞ」「成長したくないのか」「だからお花畑はダメなんだ」と返る。
まさに、この論点の展開こそ厳重注意だと見極める必要があるでしょう。

--量子・意識のエレメントとしての精神世界。
--そこに生み出されたものが顕現化するのが物質世界。
その関連性・合わせ鏡の構造になっていることを知りましょう。と述べているのであって「楽しいことだけを見るのかどうか」だとか「成長するかしないか」の論点は関係がないわけでして。

よくある展開だと感じます。
確かに、楽しいことだけでは成長しません。苦あれば楽あり。ごもっとも。
それに、積み重ねた膨大な因果:それに見合うだけのものを解消するためには、苦しみも学びとして必要なことです。
それが間違いだというのではありませんし、成長を否定しているだとか、そういう論点ではないのです。


如何にも巧妙に誘導されてしまいます。
意識が生み出される目に見えない世界と、それが時差を伴って具現化する世界とがありますよ。というお話し。
ともにペアなのですから、両方を知り両方の関連性を理解してこそ、これからの世のハンドリングが可能になりすよ。
といった論旨なのです。

一事が万事。
このようにして論点をすり替え、ある特定の方向へ思考を誘導する。
それが、これまでのピラミッド頂点に君臨する支配者層のやり方。


あぁ、確かに。途中でまったく関係のない話を挟み込んで、そこへ意識を逸らせる。
あぁ、この世は、まさにそんな落とし穴で満ちています。
もう引っかかりませんでしょう?
もう大丈夫ですね?

自らの心を、いとも簡単に乗っ取られてしまうワナにハマりませんよう。
自分の心の手綱は、自分でしっかり握りしめて。




「どこに繋がるか」を客観視する

ポツリと落ちた花に ptoho 宮本章光

昨日の記事
【「想念」を使いこなすためのたった二つの秘訣】[Link]
に続けます。

「心の自動運転」をするために想念の持つ計り知れない大きな力を使う。忘れ去った潜在能力を取り戻しましょう。という時期を迎えました。
まさに「フォース」を使いこなす。という感覚です。

心から生み出す巨大な力を使うためには、まずその「心のセンサー」を磨く必要がありました。
磨くためには、「口にするもの二つ」が極めて重要でした。
口にするものとは、
食するものと、発する言霊と。

それを「最後のチャンス(もはや二度とやってこない機会・決して巡り会えない機会)」とされるこの4年間(もっと言えば初めの2年間で決着済みでした)で、磨きに磨き、ひらめきやインスピレーションの元となる「直感・勘」の感度を、この地における最大値となるよう自分自身でチューニングしてきました。

ここまで到達しますと、自動的に導きが降りてくる。と例えられるような「心の自動運転」が可能になります。
ところが、この部分。
非常にリスキーであることが経験上わかっています。


ストレートに文字に落とし込みます。
「降りてくる」ためには、目に見えない何かと繋がらなければ、何も導かれないわけで、その「繋がる先」が非常に重要であること。今一度、確認しておきます。

さらに直球でど真ん中を撃ちます。
なんとなく繋がったように感じるのは「低級靈」や「動物靈」とされるようなエネルギー、あるいは浮かばれない浮遊靈などであるケースが多かった(過去形)と言われます。

一生懸命、精神性を高めて...。
と、やってみても、結果は極めて明快で、まず「天」には繋がりません。
はっきり書きます。
自分の体験に基づくものなので諸説あるでしょうし、わたしの場合は。と但し書きをつけてお読みください。

ここまでの文字をトレースしていただいて、どこまで共感できるのかは不明です。
唯物主義、貨幣経済のピラミッドから抜け出すつもりのない人々とは、もはや響き合いませんので、この記事そのものが読まれることさえないはずですが、同じベクトルをお持ちの人たちであっても、靈界や幽界だ...と、聞いた途端に、ああ君は危ないひとだわ。さようなら。
と言われかねないので、多少躊躇しながら記しています。
もはやこうした部分を「食わず嫌い」している時期ではないので、理解いただけるものと思ってはいますが。


戻します。
「どこに繋がるか」は、どこに「繋がったか」を俯瞰すれば容易に感じることができます。
繋がっているかどうか。さえ分からないのは、センサーが錆び付いています。あるいはセンサーを使う必要がない人たち。
(センサーを使う必要がない人とは:
センサーという心の媒体を通さずして、痛みの刺激を感じるかのように必要なタイミングで必要な感覚を直接得ることができる人。わたしの身近にも存在しています。面倒な「媒体」は不要な恵まれた人たちだと思われます。)

繋がれば「繋がったことが瞬時にわかる」もの。
それは、
心地よさ、悦び、暖かさ。恍惚感。といったような種類の感覚。
これらがベースにある状態で、巨大な力が見える場合があります。この時の感覚でしょうか。

ここに「一粒の砂ほどでも違和感がある」のであれば、それは望まない存在と繋がっています。
動物の場合は「臭い」を感じます。
よろしくない(望まない)存在の場合には「背中側にゾッとする感覚」が明確にあります。

望むべきエネルギーに望むべくして繋がると、
それは「背中側」ではなく正面から、何らかの力を受けます。
そして、あらゆるところでラップ音のように、通常ではありえない音が響きます。
あるいは、
物理的に説明がつかない「動き」が起きます。
(そのままでは絶対に動かないタオル:バランスが取れている...が、突然落ちるだとかのような)


危ないひとだねぇ。と言われかねないので、今日はこのあたりで終えます。
しかし、理解しておく必要があります。

この地は、二極性、両極性の世界です。
表と裏、善と悪。明暗だとか、そうした一切のものが対(つい)になっています。
同じように、精神世界と物質世界がペアであることは以前から触れてきました。

精神世界は、エネルギーの世界。
物理物質世界は、そのエネルギーが結晶化・顕現化した世界。
これが対(つい)なのです。

もっと言葉を置き換えてみます。
エネルギーの世界は量子の世界・意識の世界。
物質の世界は、その具現化の世界。

心の世界は量子の世界。
体の世界は物質の世界。

エネルギーの世界が靈界。
モノの世界がこの世・物質世界。

これらは、必ず対(つい)であること。もう理解できているはずです。
ですから、
危ない人だったとは意外だわ。だとか言わず、もうその食わず嫌いのクセそのものから卒業なさることです。


「どこに繋がるか」を客観視する。
いきなり大きすぎるテーマで書き始めたことと、いきなり飛躍した世界を焦点に据えたので、驚かれた方もあるかもしれません。ですが、この先には「必須教科」であることには違いありません。
少しづつ、手探りで学び進化させてゆきたく思います。




「想念」を使いこなすためのたった二つの秘訣

大自然の営みに波長を合わせる photo 宮本章光

思い描くもの、思い抱くもの。
それを想念という言葉で理解しています。わたしたちは。

この国の先人は、極めて強力な心が生み出す力を自分の能力として使いこなしていました。
いえ、現代のわたしたち自身も、その能力を備えているとされます。
ところが、
永年隷属化されたこの地の生き方・転生のうちに、その潜在能力を忘れて(失って)しまったのでしょう。

では、取り戻せば良いということになります。
(戻したくない=もっと苦しみ・痛み・病み・怒りその体験を続けたい方は肉体をお返ししたあと他星系でご自由に)


しかし、どのようにすれば良いのか?です。
「最後のチャンス」とされたこの数年で取り組んできた方々にとっては、もう釈迦に説法かと思われます。
十分にワークに取り組んできましたでしょう?
馬鹿にされながら、そして蔑まれながら。もうどうでもいいそんなノイズを振り切って。
けれどそれは、
裏にその手のビジネスが見え隠れする「ワーク」ではありません。自分に向き合い自分が答えを出すプロセスです。

わたしは「口にするもの二つ」と、繰り返し繰り返しこの場で綴ってきました。
一つは、食べ物として口にするもの。
もう一つは、言葉として発する・口にするもの。です。

今日も今日とてジャンクフードを口にする。あるいはアルコールに入り浸る。
そんな人たちはもう接点すら消滅しましたので見えません。
うまかった・絶品や...と、SNSに並べて悦に入る人たちも多かった、と。過去形になりました。
わたし個人的には、食に関して大変丁寧に取り組んでもらえる家族の存在があるので、ここに甘えています。

もう一つの要素。言葉。
「言霊(ことだま)」です。言葉とは。
ことばとして発する前には、必ずその言葉になる思考や意識が存在します。
その前段階で十分に練り上げること。不用意な思考に走らないこと。これが秘訣でしょう。
だからこそ、
不用意に、且つ不要なエネルギーに触れないようにするのです。
メディアから離れる。負の念を発する人から離れる。
その次には、この先に願う望ましい青写真を描くというプロセスです。


この2要素は、相互に絡み合い影響し合います。
食を疎かにすると、目に見えないうちに体がダメージを受けます。結果として心のセンサーが腐るので、言葉を発するエレメントにまで悪影響が及びます。
そして、ネガティブスパイラルに嵌り、無限に負のエネルギーを「自分で焚き続け」ます。
さらには、その負の念は、激しく周囲を汚染(それは距離的なものではなく広範囲に影響を及ぼすという意味)します。

この影響を断つための選択肢は一つ。
離れる。触れない。見ない・聞かない、接しない。
これだけ。

これらを徹底的に行います。
いえ、もうこの4年間で十分に取り組んできたはず。これでもか!これでもか!これでもこれでも、これでもか!と。


SNSから離れた人は経験済みでしょう。
アカウント削除まで進めると、綺麗さっぱり負の念から切り離されます。わたしは、多くのSNSのうち2プラットフォームだけ残して、あとはすべてアカウントまで消しました。
見事にエネルギーフィールドが変化します。


こうして、2要素を整えてゆきますと、
「どこか目に見えない、自分でも分からないところに」繋がります。
そこにつながると、勝手に結果が降りてきます。
そこにつながると、自動的にものごとが進みます。
日々、この場に綴る文言そのものが勝手に生み出されるかのごとく。大きなエネルギーを内包した一枚の画像のごとく。

いえ、
それは、ご先祖であり近親靈であり指導靈であり守護靈であるのかもしれません。
あるいは、
その道で語られるハイヤーセルフ存在なのかもしれません。現段階の自分には不明ですが。
または、それ自体を自らが生み出しているとも語られますが。

但し、その自動運転が実現するのは、本心からの感謝の心と負の力の悪影響を根絶しない限り。
もしくは、極限状態に置かれた究極の選択が迫られた時点に至らない限り。

そのための2要素。
たった2要素。
実践している方は、もう朝飯前でしょう。
ともに醸成し、ともに描き出してまいりましょう。新たな望ましい風景を。




「思うだけ」でも

待ち侘びた春を photo 宮本章光

--だから現実を直視するんだよ!
--けれど目の前を見ないと生きてゆけないんだぞ!
と、叫ぶのは、そろそろ下火になりつつありますが、まだまだ目に触れます。

ここ、決して間違いのありませんように。
これらの波動は「決して消えません」。
両極が存在してこそバランスが取れる「この地」だからです。

ただ、自分は「何を選ぶ」のか。これだけは見失わないこと。どちらを選択するのかだけは絶対に誤らないこと。


戦争反対。
そりゃそうです。しかし、それは故意に仕組まれたカネ儲けのための演劇です。
そこにフォーカスするだけで、あなたはそのエネルギーに燃料を注ぎ続けます。
そして、こう仰いますでしょう?

けれど目の前を見ないと生きてゆけないんだぞ!
実際に起きてるじゃないか!
それを放置せずに、一人ひとりが声を上げることこそが行動なんだ。と。


先人は「想念」という巨大な力をつかいこなしてしました。
それは「思い描くだけで」「心に抱くだけで」目に見えないフィールドに膨大なエネルギーを生み出していることを知っていました。
だからこそ、
「目の前に何があろうとも、いま・これから以降に望まないものは心に抱かず描かない。」

答えはこれ一択しかありません。
目の前は、過去の負の力により顕現化した結果にしか過ぎないのです。
だから、その過去の遺物にフォーカスし続ける限り、永遠にその現実をキープし続けます。


もう成長を果たし、何が起きても大丈夫なレベルにまで精神性を高めたのではなかったでしょうか。
けれど、すぐに目の前のVRシーンに揺さぶられてしまうのです。
卒業するとは、
そのVRメガネを外し、平和で平穏で、暖かく明るい風景を「心の中に呼び戻す」だけで良いということ。

反対も何も。
現実も何も。
すべてはVRの世界。
そのVRを通して、本当に自分が望むものは何かを見つけること。
そして、
数々の負の力に揺さぶられなくなるまで訓練をしていること。
それが、この地で果たす役目であり体験であるのです。


だからこそ、逆説的ながら、いつまで経っても現実は変わらないのです。
心から描き出すものが間違っているのですから。
心に抱く波長が誤っているのです。


思うだけ・意識するだけ・そこにフォーカスするだけで。
時間差を経て、この地に顕現化させてゆきます。
それが自分の責任。極めて重大です。
そして、すべての人々がここに氣づき卒業しなければ、やりなおし予備校は絶対に卒業できない仕組み。

思うだけで。
時差とともに目の前に具現化させてしまいます。
だから、もうやめること。
だから、もう見ないこと。
だから、望むものだけを描きだしてください。

これは、一人残らず、すべての人間がやるべき試練なのです。




「俺が俺が」の時代は終わりました

銀座の一角で眺める photo 宮本章光

そんな時代もあったでしょう。
そんな風潮がもてはやされた時もあったでしょう。

しかしその当時であっても、違和感しか感じない。
そういった、激しくベクトルが異なる感覚。
もしかして、
その違和感を「無きものにする・見えなかったことにする」クセがまだ残っていませんか。

違和感こそが「心のセンサー」が発する強力アラート。
違和感こそが、分岐点での選択を誤らないための道標(みちしるべ)。
決してスルーしてはなりません。


「俺が俺が。」
その言葉の「が」とは「我」だったのでしょう。
そこには感謝の心も、謙虚な姿勢も見えませんでした。

もう終わりました。
いえ、終わらせるのは自分の心の中から。
そして、極めて大切なこと。
それは、
では、終わらせた後には「どのような風景を」描き出すのか。という部分。
ここが抜け落ちているケースが多々あり。

明確・克明に描き出します。
それが時間差を経て目の前の風景になってゆきます。




いつでも「そのまま」でいい

飯舘の水芭蕉に会いにゆく photo 宮本章光

いつでもそのまま。
いつでも自分のまま。


学び終えたら、一刻も早く教室を出ます。
それなのに、
氣がつけば「やりなおし予備校」に在籍している。
そして、知らぬまに、やりなおし教材に取り組んでいるのです。


水溶液に浸された「脳」。
電極を刺され、どこからかプログラムがダウンロードされる。
それが実験だから。データ収集とAIへのエサやり(成長・進化)が目的だから。
そして、
そのプログラムに参加することを自分で希望し選択したから。


しかし、そのプログラムのインストールを望まない段階まで成長し進化できたのなら、Enterキーを押さないこと。
それと同時に、
「ではどのアプリケーションを導入しますか?」
とのメッセージに「明確に回答をする」必要があります。

それが意思表示。
それがいまの選択。

いつでも「そのままの自分」でいい。
実験から離脱すればいい。




つながる

早春の空を見上げる photo 宮本章光

望ましくない波動が溢れるSNSに繋がることなく。
必要のない異なる波長を発する人に繋がることなく。
望まざる負の力を引き寄せることなく。


望むもの
願うもの
感謝するもの

望み、願い、感謝する限り、
その周波数に合うものが響き合います。

それが法則、原則、摂理。
その仕組み、仕組みそのものを「神」という。
だから、
先人は、その偉大なる仕組みを奉り、そしてともに生きともに歩んだのです。




類は友を呼ぶ・同じ波長は響きあう

朝日の力を受け取る photo 宮本章光

さまざまな表現の言葉があります。
--類は友を呼ぶ
--同じ穴のムジナ
--波長の合うもの同士が仲間になる

同じ周波数は同期するという物理法則を変えることはできず、必ずシンクロし響き合います。
だからこそ、
心に同じ波長を抱くものが引き寄せられます。
それは、単なる物理原則であって、それ以上に何ら意味を持ちません。

アタマの中で捏ねくりまわし、幸せを掴もうなどとビジネスのネタに使われてきたのは、貨幣経済の功罪のうち「罪」の部分であったかもしれません。いえ、もともと貨幣経済という隷属化の仕組みに、功の部分なんてありませんでしょう?ということなのでしょうが。
しかし、その片側の極を知り体験することで学びを得ることができる。
これこそが必要な仕組みだからこそ存在しているのでしょう。


自分の意識が何にフォーカスしているのか。
自らの心がどこに同期しているのか。
もっとも注視すべきは、この極めて重要な部分であるはず。
なのに、
目の前に次々に出現する「過去の集合意識が作り上げた悪しき結晶」に氣を取られてしまいます。
しかしながら、それもまた、心の焦点を知り自分自身で手綱(たずな)を手繰る(たぐる)ための練習・体験だったことに意識が及びます。

同じ周波数は響き合う。この大変シンプルな法則と仕組みを大切にすること。
自分の心がどこにシンクロしているのか。
ここを外さない限り、奇妙な(=自分に必要がない)エネルギーが引き寄せられることがなくなります。
そして、
異なる波長のものは消滅し、同じ波長を維持する仲間が増えてゆきます。

ごちゃまぜの実験教室は、氣の遠くなる期間を経てようやく正常化されようとしています。
何に心をフォーカスするのか。いまどこに焦点を合わせているのか。
決して忘れませんよう。



鳥たちのさえずりに心を合わせ

めじろの合唱に耳を傾けて photo 宮本章光

三寒四温。
春を謳歌する気候には、この先まだ少しかかりそうですが、鳥たちは、暖かな日差しの下、一足先にそのさえずりを聞かせてくれます。

木々の花が映える澄んだ青空。
待ち遠しい暖かな日差しを先取りした、めじろたちの合唱。

その現実を選んだ自分の選択。
その波長に合わせたこの瞬間の選択。
そして、
そこから少々タイムラグを経た後に顕現化する、次の目の前の風景。

この国の先人が大切にしてきた心を思い出してください。
暖かな心と穏やかな心持ちを蘇らせてください。
そこに生み出された心地よいエネルギーが、この国に、ひいてはこの地に望ましい風景を具現化してゆきます。


大切にすべきは、
争いでも怒りでもなく。
生み出すべきは、
穏やかで心地よい風景。



地に足をつけるとは・行動するとは

光と影と photo 宮本章光

もういいでしょう。満腹。

地に足をつける。とは、
浮ついた心を戒めるもの。
愛だ・光だ、と叫ぶのも、その中に含まれる一つの誤りでしょうか。

心の中に汚れた波長を抱いたまま「口先だけ」で語ってみたところで何の説得力もないように見えます。
言葉に表す前に、心から湧き上がりとめどなく溢れ出る状態になる。
その恍惚感にも通ずる感覚・エネルギーそのものが、愛であり光であると感じます。
日々満足に生かせていただけることこそ幸運の極みなのであって、貨幣資産増大のための幸せ引き寄せ...といったような下心に根ざした感謝なども同類かもしれません。


言葉に発せずとも、数限りない生命や仲間、大いなる自然、そしてその仕組みに対し心から注ぐ暖かい波長と感謝の氣持ち、その感覚。
人だけではなく、すべての生命・存在に対する感謝の心、その大きく暖かく輝くエネルギーこそが愛であり光であって、カネ儲けが裏に潜む「感謝も愛も光も」、そこには大きな違和感しか感じません。

地に足をつける。
とは、まさにこの部分の本質を突いているのであり、言葉面(づら)だけで愛だ光だ、と叫ぶことではないでしょう。
本心から溢れ、心の底から止めどなく湧き出すもの。感謝の心。
しっかりと地に足をつけてその感覚を追求しましょう。それが次の世で学び体験することですよ、と教えてくれています。

同じく、行動する。
とは、物理実体の体を酷使し走り回ることではないはず。
忙しい忙しい...と、「心を亡くして」いるから、本質を見失います。
借り物の体を極限まで痛めつけ、よくないものを食し、よくない言葉を発し、その結果さらに大切な体を痛め続ける。
挙げ句の果てには「苦あれば楽あり」自分はこんなにも苦しんだんだぞ、と、それを勲章にする社会。
その裏側で仕組まれた壮大な隷属化の歴史を知ろうともせず、何の疑いもなく受け入れるだけ。
行動するとは、
物質次元でモノを操ることではなく、心が描き上げるその類稀な巨大な力の使いこなしのことである、と理解したはずです。

生活のために。稼ぐために。
その言葉を免罪符にし、いつまでも変わろうとしない姿勢。忙しすぎる。を印籠にして考えることを拒否する態度。
その割には、SNSは鮮度がイノチ!などと、そのレイヤーに居続ける愚行を繰り返す。
あろうことか、
変わること・変わり続ける限り「無に至る境地を得ることはできない」などと、変化そのものを否定してしまう。
これも本質を取り違えてしまった一つの事例ではないかと。


地に足をつけ、行動する。
それは、うわべだけのワードを念仏のように唱えることではなく。
そして、コトの本質を知ろうとせず負の因果・業を重ね続けることでもなく。
よって、学び足りない人には再教育の道があるとされます。
もちろん、それらのプロセスを体験したからこそ学べることではあります。自分も同じ過ちを繰り返しました。


本質を追求し、本質を理解し、新たに学ぼうとする意欲と、ともに響き合える同じ波長を束ねる。
それがこれから先に求められる姿勢ではないかと感じます。
少なくともこの先は、ごちゃ混ぜでノイズの悪影響が盛大に生まれる土台そのものを作り替える必要があると判断され、いま大建て直しが行われているのだと。
しかしながら、
自らの心から望む道を描き出さない限り、何ら変化することはないのです。
それが仕組みだから。
そういう仕組みだから。





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