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宮本章光/宮本陽の視点「開闢」And EM Official Blog

みやもとあきらのしてん AKIRA MIYAMOTO@And EM

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暖かい日差しの心地よさを

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長雨の切れ間、束の間に見せる暖かい日差しを。
心地よい日差しの波動を、安堵の源として心に導き入れます。

もちろん、雨は必要であり嫌悪する対象ではありませんが、どんよりとした空は、どことなく重い感覚になるのも確かでしょう。
特に、意図的に仕組まれ負の感情を助長させ蔓延させる現在の世の中においては、その波動に呑み込まれないようにするのは大変かもしれません。


ポジティブごっこ遊びに陥ることなく、平穏・平静に過ごすために、陽の光を心に導き入れます。
幸い、地球温暖化詐欺による、故意に氣温を吊り上げるような氣象操作も、現時点ではあまり発動していない様子(例年だと、すでに冷房ガンガン状態でしょう?)ですので、「暑くなくほどよい感覚の陽の光」を、積極的に浴びます。

いま、この体をお借りして「その心地よさを感じられる」恵まれた環境に。
いま、この瞬間にこの地に存在することができ「心地よさを受け取ることができる」幸運に。

アタマで捏ねくり回さず、ストレートに心で感じるもの。
こうした感覚によって、ありがたい感謝の心が生じてくるのではないでしょうか。
無理に「ポジティブ」で。
無理に「感謝をして」。
無理に・無理に・無理矢理に…。

そんな「無理」に縛られる状況から脱してください。

暖かく心地よい日差しが、きっと状況を好転させてくれるはず。
そしてそこに、感謝が溢れ出てくるはずです。
この稀有な体験に、
この貴重な感覚に。
この素晴らしい環境に。

わたしたちは一人残らず、
みな恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

アタマを使いすぎていません?

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いきなり突拍子もない語りになりそうですが、しばらくお付き合いいただけますと嬉しく思います。


「アタマを使いすぎる。」

あーでもない。こーでもない。
いや、これは間違い。それは正しい。
もっとこうすべきだ。でも、問題解決が先だ。順序が逆やろ。

本道・王道・正統派の論説ではこうだと語られている。
〇〇が存在しないから、それは正しくない。
考えるだけではなく、行動せよ…。


はい、いつまでこれを続けましょうか。
「目の前にある風景は、自分の心が過去に作った作品。」とされます。

その作品が「良い・よくない」
その作品が「正しい・正しくない」
これをやっている限り、無限ループから抜け出せないこと。
そして、その状態に「氣がつけない」意識状態そのものから卒業できず、その状況にあることさえも氣づくことがない。
永遠に。


この地・この地球学校は、こうした勉強をする場所でしたから、大いにアタマを使って、目一杯その体験ができたのはとても貴重です。
ただ、
この無限ループは「いつか、自分から卒業しに行かないことには」本当に永遠、無限に続きます。

物理社会の学校では、6年間だとか3年間だとか、時計が時を刻む限り自動的に卒業という「時期」がやってきます。
しかし「地球学校の魂の学び」は、
自分の意識により選択をし「心の中からその先の道を創造することによってのみ」でしか卒業できない
のです。


この卒業試験を「受けることさえせず」待ち続けている人になっていませんか。
いや、もっと正確に書くならば、
「そこに受けるべき試験がある」ことにさえ意識が到達していないのかも。
ええ、他の方のことは置いておきますが。

自分自身が、この最後の試験を「存在さえ知らず・受けることも忘れて」しまっていたので、その失敗を伝えたい、そのように感じています。

待っていても何も変化は起きません。耳にタコができたと思われる決まり文句でしょうか。
待ち続けても「救世主も白馬の王子様も永遠に現れません」。
その意味では「行動」は必要です。
でもそれは、
肉体を酷使して走り回ることではなく、意識の中で・心の底から「望ましいと感じる波動を生み出す」ことによってしか結果が具現化しないという仕組みである、との理解が必要だと思われるのです。
しかも、
無理にポジティブごっこ遊びをして、負の感情にフタをするなど完全にアウェイな行動であり、無理に「…ねばならない」式メソッドをやっても意味がないでしょう。


アタマを使いすぎる。
それはある意味での比喩表現なので、ボーッとせよ。ということではないのです。
でも、あーでもない・こーでもない。
これをやっている限り、無限ループ再突入となってしまいます。

望ましい近未来は「自分の心の中から生み出すエネルギーによってのみ」創造されること。
ここに氣がつかない限り、卒業試験には通らない。
こうして「篩(ふるい)にかけられる・御霊相応(身魂相応)に振り分けられる」のだと。

極めて重要なポイントだと思っています。
わたしが実際に繰り返し失敗してきた「人体実験」を見ていただければ。
ココ、試験に出ます!

---◇◇◇---
【生後21,916日めに思う】
振り返るこれまでの人生:2023/05/28[ Link ]

---◇◇◇---

わたしたちは一人残らず、
みな恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

季節は巡る・いのちを育む

紫陽花の季節 photo 宮本章光

昨日は貴重な記念日・好日、区切りの日であったため長文になってしまいました。
お付き合いいただきました方々には、あらためまして御礼申し上げます。
ありがとうございます。

---◇◇◇---
【生後21,916日めに思う】
振り返るこれまでの人生:2023/05/28[ Link ]

---◇◇◇---


さて、今日は雨降り。
このところお決まりの、日本列島だけを覆うような雨雲が流れます。

いま、心は静かでしょう。
いま、心は穏やかでしょう。

「おかしいやろ!」「目を覚ませよ!」
と叫ぶ声、それは自分自身も僅か二年ほど前まで「同じレイヤー」に居たこと忘れてはなりませんが、そうした波動が、綺麗さっぱり消え失せたのだと思われます。


美しい自然と美しい生命。
美しい大地と巡りめぐる季節。
自ら心に描き、それを具現化する。
自ら心に抱き、それを現実にする。

多くの方々が、その仕組みとご自身の体験を語られるようになりました。
自分の心が自分の現実を形作ります。
その壮大な実験と体験が、いよいよ結実しつつあることを肌で感じます。

平穏。
そして平静。

心に描いた風景が現実となり、そこに多くの「いのち」を育み、繰り返すその流れの中で体験を重ね成長を続けます。
美しいこの地を、ともに創造して参りましょう。

わたしたちは一人残らず、
みな恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

生後21,916日めに思う

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今日は「生後何日目?」になるのか。
そんな計算もwebで一発回答の時代。
なんと、わたしにとって今日は「21,916日め」となるようです。

今の時代、そして現在のわたしに「赤いちゃんちゃんこ」は無縁ではあります。
ですが、一生に一度くらいは、しっかりと振り返る日があってもよいのかもしれません。
これまでの年月を、さらっと脳内再生してみますと、いかに恵まれていたかという理解とともに、激しい強弱・山谷の波があったことが判ります。

全文約4,300文字程度になりますが、以下に続けます。

---◇◇◇---
誕生
へその緒が首に巻き付いて窒息寸前だった誕生日。
予定よりほぼ一か月前に、鉗子(現在はリスクが高すぎて使われないはず)で引きずり出されて産声を上げました。
あと一週間後ならば、この世に生を受けていなかったと後に聞きました。

胎内にいる時点で階段から転落するといった経験をした母親の衝撃が、胎児であったわたしの首に絡まるといった原因になったのかもしれませんが、今となれば知る由もありません。
結局、現在でも首がズレているうえ、頭蓋骨や耳も変形したままの人生となっています。



図書室と音楽からパワーを得る幼稚園児時代
その後、何度か触れていますように、母方の祖母に至れり尽くせりの世話を受け、このうえない愛情を注いでいただきながら幼稚園に入りました。
人生最初の目覚めは、ここで起きました。

登園後、まず図書室へ走り、その蔵書すべてを読破する(文字は満足に読めなかったので眺める。が正解でしょう。)という園児二名のうちの一人となりました。
本の見出しや表紙のデザイン・挿絵などから発する「作家が込めた目に見えない力」を受け取りながら、書物が発するエネルギーそのものを感じとることができた幼稚園児時代でした。

蔵書全書を読破したもう一名の女児がいましたが、彼女の周りにある繭のようなピンク色のオーラも、当たり前のものとして見えていた時代でした。
わたしの「第一の黄金時代」二年間。
カトリックの幼稚園でしたので、お祈りの時間がありましたが、別に何のありがたみも感じず、「自分の直感に響くもの」だけを信用して生きていた頃です。

父がコレクションしていたクラシックLPレコード数百枚を片っ端から自宅ステレオで再生し、幼稚園に入るまでの時点で、いわゆる世界中で語られるオケの有名曲は、ほぼすべて知っているという恐ろしい幼稚園児でもありました。
現在のわたしの仕事:クラシック演奏会専門、Video/Recordingの事業が成せるのは、物心つく以前から、それらの貴重で高価なレーベル盤を自由に触らせてくれた父親の教育の賜物です。



小学生:「よい子ちゃん」という失敗の道へ
続き小学校に上がります。
ここで今度は、それまでとは真逆の「第一の大失敗時代」六年間を過ごしました。

「よい子ちゃん」でいることを選択した人生初の大失敗。
いまだからこそ語れる学びのための歴史でした。
試験はほぼ「満点以外に縁がない」…というと言葉にトゲが出るのでちょっと控えたいとは思いますが、まさにそんなこども時代。

親や先生に言われたことに忠実に従うことで、とにかく周囲からは「あたま撫で撫で」。ご近所の有力者からも「偉いね・凄いね」しか言われないので、それが正しいんだ。世の中ってそういうことなんだ。
と誤って理解してしまったのでした。
友人と遊ぶことも少なく、一人で小説や論説書物を読み漁ったのでした。

(現在の大人で、それらよい子ちゃんを地でやってらっしゃる方は、早く氣がつき目が覚めるといいですね。)
この弊害がどこにあるのかは、もうこの場でご縁のある皆さまには重ねて綴る必要はないと思っています。



この世の春:中学高校大学時代と現在の下地醸成
この小学生の成績をもって、私立中学へ進学。
この卒業年度で私学へ行ったのは一人だけという年度でした。

ここで、晴れて汚名挽回。
人生「第二の黄金時代」中学・高校・大学の10年間が花開きます。
現在の事業に従事できるのも、この10年があってこそです。

写真撮影、それも天体写真。
長時間露光の工夫や冷却のための自作小物など、現在ならパーツや完成品が売られる時代ですが、40年以上前には何でも自分で作った頃です。
もちろん、暗室での自前の現像に没頭しました。
赤道儀自作(ここでは詳細は割愛)で地元新聞に取り上げられ文化祭で表彰を受け、心から喜び、心から友だちとシンクロできた学生時代。


並行して、自ら数多くの楽器演奏、演奏録音・記録にも。
学校行事でのBGM作成や、友人への録音技術(カセットテープの周波数特性やメーカーごとの特徴、EQ処理の基本やCompress/Dynamics)に、能書きを垂れた、いかにも偉そうな中高生時代でした。
オーディオ装置にも深く取り組み、その当時に商業施設で行われていた「長岡鉄男」氏制作のスピーカー(Back Load)実物が、現在もわたしの部屋に鎮座しています。

また、LPレコード収集(その大半は阪神淡路1.17で消滅)にも走り、食費を削って毎月レコード盤購入に投資していました。
レーベルごとの録音状態の特徴だとか、世界各国の指揮者・オケの演奏解釈に対し、音楽評論家顔負けの論説を「大学ノート12冊!」にギッシリと記したものがあったのですが、高校卒業時点で後輩に渡したのか、記憶から消滅しています。

ここで、少しだけ触れておく必要のある、避けて通れない事項があります。
それは、
わたしが15歳の時点で、父と母は別れたこと。
父とわたし、そして一昨年(2021年)に星に帰った妹との3人で暮らした学生時代の大半の裏側の世界があったこと。
負の感情に苛まれることも多かったものの、それに憑依されることなく、それを上回る大きな波に乗った10年間です。

大学では、楽器演奏に傾注します。
長くなるので触れませんが、さまざまな楽器の特性や音色・特徴が、肌感覚として刻まれていることで、現在の業務に活かされていると感じています。

当時の国鉄からJRへの変遷の時代背景もあり、鉄路での旅にも深く深く入ってゆきました。
時刻表は、どんな盲腸線であっても、ほぼ7秒で該当ページを開く。などというくだらない?特技があったり、地元私鉄の列車番号、全編成の車番を記憶しそれを友人に披露する、などという、まぁ今では呆れるようなことも。
思えば、
心身ともに、非常にキレる面を併せ持った(鋭いの意:怒りの感情のことではない)学生時代を過ごしました。
併せて、
他者のレポート作成など朝飯前。文字を書くこと、話すこと。まったく苦になるどころかご指名喜んで、そんな学生でした。
この点でも現在のスキルの下地が作られたことが判ります。

まさに、現在の礎が作られた13歳から22歳、この世の春でした。



就職と人生大失敗時代:病床で受けた啓示
さて卒業、そして就職。
第二、第三、第四の「人生大失敗時代」となる、長く苦しく、そして物理的にも激しく痛みを伴う日々が続きます。

東証/大証1部上場企業への就職。
この世の春10年の状態から、この世の地獄へ真っ逆さまに転落しました。
それまでの体験・経験、すべて捨てろ。会社は組織。その歯車になること。
根こそぎ価値観の転換を求められ、ほぼ一年経つ頃には、亡くなった同期が現れたり、姿を消した仲間も何名か。

直感や勘といったものは、連日のアルコール漬けの肉体に宿り続けることは叶わず、ものの見事に消えてゆきました。
体重も、現在と比較して20kg以上多く重く、当時の姿を自分でさえも思い出すことが困難な状況です。
同時に、そうした外食と飲酒漬けが仕事の必須スキルである世界に住み続けることにより、元来、鉄の胃袋や鋼の大腸を備えていなかったわたしの体は、ある日、突然に音を上げました。
大腸下血。
穴が開く寸前でした。しかも数カ所。汚れ荒れたヒダにポリープも数多く…。
15年目に、単身生活という食生活での弊害がついに表出したのでした。

昼は神田の高架下弁当屋で「黒ずんだ油色の揚げ物」。
夜は松戸のスーパーで「半額値引きシールが貼られた出来合いの食材」。
これらを口にし、いつまでも健康体を維持し続ける強靭な肉体は、わたしには貸し出されていなかったのが、不幸中の幸いでした。

アキレス腱が「切れて衝撃を吸収する」と言われるように、
体を壊して、学びを得られたこと。これこそが幸運でした。

医師には、痛くなかったのか。普通もだえ苦しむ痛みに襲われるよ。と。
この時点で、お借りしている肉体を徹底的に痛めつける愚に目が覚めるべきだったにも関わらず、退職と転職。
そして再び転職を重ねます。

そのたびに、ここに何度か記したような生活が続きました。
朝の5時に帰宅して再出社。満足に食べ物も食べないので生きているのが不思議な日々を流しました。
ケイタイの電源が切れるのが、ただただ嬉しかった感覚。そして体のあらゆる部分が痛み、苦しみ、悲鳴を上げる感覚だけが記憶に残っています。
3社目では営業車業務だったため、居眠り運転・事故多発。山道で谷に転落寸前の体験が続きました。


最後の職で、ついに冷たい真っ白なシーツが敷かれた板の上に寝かされました。点滴という名の針を腕に刺され。

詳細は略しますが、3社の転職をもってしても、その愚に氣がつかず、最後の職において、激しい痛みとともに氣づくチャンスを与えられたのでした。
学びとは、自分で体験し味わうことでしか得られない。
その言葉を噛みしめて。
人生、42歳を迎えていました。



自分がブランドになると決める
一週間、冷たい板の上で過ごす間に「天から降りてきた」のは、自分がブランドになるという決断をすることでした。

もう後には引けない。
もう体を痛めることはできない。
背水の陣。(本来の意味は、背後が池や海であることから、後方への注力が必要のない恵まれた戦地環境という意味もあるようです。)

企業に雇われる生活に別れを告げ、現在の業務を展開し始めますと、さまざまなご縁が生まれてきました。
もちろん、その時々の「自分の波長」にあったご縁で。です。
身の丈に応じたご縁。という言葉は、少々語弊がありますがお許しいただいて、その時々の自分に合うものがやってくるのです。
なるほど、これがエネルギーのシンクロだと。

そして現在。創業19年目。
多くの貴重なご縁と、さまざまな場を経験できること。
自分の道が「自分自身の心」によって創り出されていること。

ようやく、この意味が通じる方々が増えてきた感覚です。
本当にありがとうございます。
そして、本日「21,916日め」の記念日。
約4,300文字のお付き合いにも、重ねて御礼申し上げます。
これからさらに多くのシンクロ体験が起きる予感とともに。


ありがとうございます。
今日の記念すべき日に。
今世に。
この人生に。

2023年5月28日
十干十二支 還暦の好日に記す
---◇◇◇---

わたしたちは一人残らず、
みな恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

世代交代・こうして脈々と綿々と

あさがおのふたば photo 宮本章光

世代交代してゆきます。
こうして脈々と繋いでゆく命。
綿々と連なる生命。

わたしたち自身も、本来の魂としての存在は決して今生一回きりではないことに理解が深まります。
但し、今世で体験し学ぶことは一つ。
この体をお借りし、この体を使わせていただいた場合にのみ経験できることを味わう、といった素晴らしい仕組みについても心得ておく必要がありましょう。


この「ふたば」の前の世代では、
昨年(2022年)に、この美しい姿を披露[Link]してくれました。

--もう役目を終えた人。
--これから引っ張る役目の人。
それぞれ、その時々その瞬間に必要だから存在していること。
いずれも尊重し感謝の意を送り、過去を巻き戻さず来るものを拒まず、望ましい風景を心の中から描き続けます。
(宮本章光の視点noteサテライト2022年8月7日)

その時々その瞬間に必要だから存在しています。
役目を終えた人も、これから引っ張る役目の人も。

この「ふたば」のように、
世代交代し、これからの新世界・新社会を共に築き上げてゆきたく思います。
でも、今回お借りしている体は「そのまま」。
いわば二世代分を、一つの体で体験できる。

こんな稀有なタイミングは、そうそう経験できるものではないはずです。
最小公倍数的には、50億年に一度(諸説あり)の機会かもしれません。

まさに天文学的確率であるはずの、この機会・今生の人生。
素晴らしい仕組みに、そして、この素晴らしい体験に感謝申し上げます。
ありがとうございます。

心の中から溢れる感謝の氣持ちを拡大し、伝え、新たな道へ結んでゆきます。
何を選択し、どこへ向いて歩みますか。

わたしたちは一人残らず、
みな恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

わたしたちは何に取り組みますか

はかなき人生 短くも美しく photo 宮本章光

響き渡っています。
心の中に。
わたしたちは、何をやりたいのでしょう。

全身全靈を傾けて、ただ一つ。
美しく花開きそのサイクルを終える仲間たち。

短くも美しく。
儚き人生、儚き夢見し。

ポートレートモード(背景ボカし機能)の抜けが稚拙だとか、そんなことはもうどうでもよいのです。
本質を見極め、本当にやりたいこと・取り組みたいことに、心のフォーカスを合わせてゆきます。

わたしたちは一人残らず、
みな恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

そのままでいい

春を謳歌する photo 宮本章光

さまざまな存在。
色々な友・仲間。

みんなそれぞれ精一杯生きていることが伝わってきます。
取り繕うことなく。
何ら飾り立てることもなく。


-- 人にどのように思われるのか。
-- 人の目にどのように映るのかを氣にする。
そういった感覚が必要な「学年」がありました。この地・地球学校では。
そのような感覚に意識を巡らせ、体験し、感じる必要がありました。

そして、ついに到達しつつある「この学年の最終章」。
これまでに学び身につけた体験・意識、そして肌感覚を、大切に心にしまっておく時間になりました。

捨ててはなりません。
しっかりと心に刻んでおきます。
この「学年」の後半に入りますと、負の感情を捨ててしまうのが良い。といったような勘違いをすることがあります。
ポジティブごっこ遊びの落とし穴に、足を取られ落ちてしまいませんよう。
自戒を込めて。


そのまま。
得たまま、感じたまま。
ありがとう。この学年で共に学ぶことができた皆さま。
そして、
同じ道に進む皆さま。これからの世界でこそ本当のシンクロ体験を大切にしてゆきたく思います。
ありがとうございます。重ねて感謝の意を伝え、それを送り続けます。

わたしたちは一人残らず、
みな恵まれています。
満ち足りています。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

助け合って生きるという究極の姿

時には首飾りのように煌びやかに

何を考えて生きますか。
何を思って過ごしますか。

人のため。
だとか、
人に役に立つことをする。
とか。

もちろん、それを否定しませんし、とても大切なことだと思います。
でも、
その裏側に「見返りを求める潜在意識」があるとすれば、それは良くないことでしょうか?
そういった感覚さえも卒業する時期を迎えたようです。


〇〇をしたんだから、XXの見返りは当然だ。
〇〇をしてやったんだから、XXがあってしかるべきやろ。
はい、
この考え方。もちろん「あってよいこと」だと思います。

変に格好つけて、そんなことを求めるのは人としてどうなんだ!
だとか言わなくてもいい。


すべては、
何も特別に意識せずとも、何も特に考えなくても、自然に出てくる感覚。
そこまで到達できるのは素晴らしいです。

感謝という心も同じでしょう。
「感謝しなければならない。」
「感謝することが美徳。」
その裏側には、感謝するという意識を持ったのだから「幸せがやってくる」。
そんな見返りを潜在意識で持ち続ける感覚。

ええ、この地は二極・両極ともにセットでなければ存在できないので。
だから、どれも正解・どちらも正解。
この地点からさらに意識を拡大し、そして成長を重ね、無意識にそして無条件に、それらの発想や心持ちに到達できれば美しいですね。


森に存在する仲間たち。
彼らは、お互いに支え合って生きていることが判ります。
時には、
首飾りのように美しく。
あるいは、
アート作品のように煌びやかに。

ここに「助け合って生きるという究極の姿」を見ることができるのではないでしょうか。
素晴らしい仕組み。素晴らしい世界。
ここに氣がつき、その境地に「ほんの指先だけ」でも届きつつあること。
もう少し、あと少し手を伸ばして、その美しい世界に仲間入りしたいと感じます。


わたしたちは一人残らず、
みな恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

色々な道・さまざまな生き方

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十人十色。
百人百色や千人千色…という言葉は存在しないでしょうが、それも良い感覚なのかもしれません。

人によって歩む道、求める行き先、それはさまざまでしょう。
よく語られるのは、
ゴールは同じ、道はさまざま。途中、どの道を通るかが、その人の学びだと。

いよいよ心の浄化と魂の成長が進んできた証でしょうか。
道だけではなく「ゴールもさまざまであってよい」のですよ。という言葉も増えてきたように感じます。

一つの考え方を述べるのか、哲学的回帰を求めるのか、はたまた大宇宙の摂理を論じるのか。
そのテーブルによって見解は千差万別だと思われるので、それをキチキチと分類・分析し、いつまでも討議する。
そうした時間を費やすのは、今後はもう居残り授業希望者だけで良いでしょう。

昨2022年、ある場において、
「時には苦味(にがみ)も必要だ」との言葉を受けたことがあります。
苦味は自分にとって過去のもの。もう苦味は要らない。
わたしはそのように判断し、過去の体験のための教科書として感謝の意とともに手放したはずの力だと感じていました。
ところが、
今後の自分の道では不要だと考えるその旧い力が舞い戻ってきたために、わたしは「過去に戻ったような氣分だ」と話したところ、その回答を受けたのでした。
これでは、永遠に無限ループから抜け出せません。
もちろん、必要だという人があって当然ですし、それを望むのも自由。


要は、みんな同じであることが当然。
そんな発想自体から卒業ですよ。というところがポイントなのですが。
--- 苦あれば楽あり。
--- 人生には苦味も必要だ。だから幸せになれるんだ。
こうした旧いレイヤーに存在していた意識。
こうした力は、体験と学びのためには必ず必要なものでした。それは事実です。
けれど、
それを「みんな同じ」であるという前提で留まったままで居るのは、もう終わりにしませんか。ということなのですね。


色々な道・さまざまな生き方。それぞれを尊重し認め合う。
そして、自分の道は、自分で切り拓く。

自分の心から描き出し、それを創造してゆく時代の幕開けです。
素晴らしい時代に入りました。
素晴らしい仕組みと素晴らしいシンクロ体験に感謝いたします。

わたしたちは一人残らず、
みな恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

緊張を解放する・ノイズを見極める

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氣がつけば、肩が張り詰めている。
知らぬ間に、首が凝り固まっている。

体が緊張状態にあるのでしょう。
刺激やノイズが多すぎるのかもしれません。


センサーを磨いて!
と言う場合のセンサーは「心の中」にある感覚のことを語っており、周りのノイズに対する感度を上げてしまうと、辟易するばかりです。
あるいは、
「指向性」という言葉が、心にも適合するのかどうか不明ながら、感度の高い(最も合致する周波数が大きい・広い・強い)向きを選択する行動も必要でしょう。


自分の心は、自分だけしかコントロールできないことを再認識します。
周囲のノイズを盛大に取り込みますと、心の中もノイズで埋もれてしまいます。
感度を下げる必要もあるかもしれません。

疲労が表面化している感覚が伝わってきます。
リフレッシュしなければ!などと考えると、余計に緊張度合いが高まってしまうのではないでしょうか。


ゆっくりと、静かに。
広く、穏やかに。

遠くを眺めて心を洗ってください。
遠くに意識を飛ばして心を解放してください。

わたしたちは一人残らず、
みな恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

ひふみよい

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さまざまなご縁。貴重なご縁。
さまざまな繋がり。貴重なご厚意。
本当にありがとうございます。

「ひふみよい」
ここで、わたしがこと細かに説明をする力量を持ち合わせていないことに加え、その場でもないように思います。
よって、ここは「大地から伝わってくる大いなる力」を画像に落とし込み、その感触を載せてみたい。そのように感じます。

ひ:光
ふ:風
み:水
よ:命
い:現象・具現化
と解説されることが多いはずです。
もちろん、諸説あり、また学派・流派のようなものもあるでしょう。それぞれを検証する目的はありませんので、ここで一旦終止符を打ちます。


大昔、わたしたちの起源に遡ると、食べ物は口から摂り入れていなかったのかもしれません。
その元素たる構成要素から、万物が生みだされる。
ということは、
植物が行う「光合成」の仕組みのようなエネルギーフローを持ち、大地や空間からエネルギーを摂り入れていたのでしょうか。

少し論点が離れてしまいますが、小学生時代にとても不思議だと感じていたこと。
それは、
「赤や黄色の色鮮やかな花の色は、その色素がどこから生み出されるのか?」
「ニワトリの卵の殻は、そんな多くのカルシウムがどこからやってくるのか?」
まさに小学生ならでは、といった疑問点でした。
おそらく、何らかの作文の片隅に文字として残したような記憶がありますが、いまとなっては定かではありません。

こうした「どここらやってくるのか?」の疑問に対する回答が、まさに「ひふみよい」なのかもしれません。


この画像のような、何氣なく通り過ぎる山道。
スポットライト照明のごとく光が当たり、「ここに注目して!」とシグナルを送ってきます。
立ち止まり、その場にかがみ込み、大地に意識を合わせてゆきます。

姿勢を下げたからこそ、大地の匂いが伝わってきます。
意識を合わせたからこそ、木々の輪廻たる落ち葉の匂いを感じられます。

伝わってきますでしょう。
その「氣高い」とでも言うべき崇高な生命の営みの一つひとつの力が。
その「質感」とも例えられるような土の感触が。
その何か分からないながらも、ここに生命の起源があったはずだと感じる力が。
その昔、土で遊んだ記憶が鮮明に甦りませんか。


ここまで意識のフォーカスを集中させて行きますと、この大地が生み出す無限とも思える、膨大な力の片鱗を感じ・受け取ることができるようになります。
わたしは、
心のエネルギー不足や枯渇を感じた時には、こうした仲間からチャージさせていただいてきました。

もう但し書きは要らないでしょう。
そんなこと、アタマのおかしな人間の言うことだ。だとか。
こうした言葉はもう要りません。
同じ感覚を持つ人たちが、飛躍的に増えているでしょう。
同じ感性で受け取れる人たちが、一氣に増えていますでしょう。

素晴らしい自然と、素晴らしい仲間に、あらためて感謝申し上げます。
本当にありがとうございます。

わたしたちは一人残らず、
みな恵まれています。
満ち足りています。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

仲間に会い仲間とともに歩む

市街地を臨む photo 宮本章光

エネルギーが不足したら、あるいは枯渇したら、仲間に会いに行きます。
そこにも、あそこにも。
多くの友に・仲間たちに。

忙しすぎてそんなヒマがない?かもしれません。
それなら、
それが実現するよう動けば良い。という答えが導かれます。
一週間や1ヶ月だとか、そんなスパンではなく、もっと長期計画を立てれば必ず実現するはずです。
そこに意識が及ばないときもあります。よく判ります。
初っ端から「撒菱(まきびし)」を放り投げる意図はありませんので、穏やかに進めます。


わたし自身、2002年から2004年頃は、生きているのが不思議なほどの日々を送っていました。
ですが、現在2023年。あれから40年…ならぬ20年。
いつでも「仲間」に会おうと思えば会える環境が実現しています。

そう願い、
そのように明確に実現するよう心に描く。
そして、
もちろん、実際に行動は必要です。
しかし、それは汗水垂らす労働を重ねる、という意味ではなく。


あるいは、心という名のリュックの中に、不要な昔の荷物を溜め込んでいると、そこに入るべき荷物が入りません。
過去、営業車を与えられていた企業での在籍時代には、いつか役に立つだろう、と、多くのサンプルや見本をトランクに入れていました。
ですが、
長期間の振動で破損したり傷がついたり。その「いつか役に立つ」はずの、必要な期に及んで、肝心の役目を果たせない形状になっていました。

本当に必要ならば、「明日お持ちします」と言えばそれで済む。
そのために信頼関係を築いてきたはず。
結局は、それが不要な荷物であったことに氣がつきます。当時はそんなことさえ理解できず、そこに氣がつくことさえできませんでした。


その空間を確保すれば、そこに新たな要素が流れ込みます。
自動的に。
すべて「人体実験」してきました。

そして、いま。
ようやく到達したところにある答え。それは、何度も繰り返し綴っています、
「自分の未来は自分の心から創り上げる。」ことでした。
併せて、
自分ひとりだけの力では足りないことも。
その仲間は、もちろん家族もあり、また関係ある方々とのご縁もあるでしょう。
さらに意識すべきは、その仲間は「自然界に存在する生命」であること。

頼れば、頼めば、必ず答えが導かれます。大自然には、それだけの力が存在しています。
なぜなら、彼らも共にこの地で学ぶ仲間だから。
同じ周波数と同じ螺旋・ベクトルに合致したならば、必ずそこに大きな力を生じます。それが法則だから。

そんな時代に突入しています。
素晴らしい時代を迎え、さらに貴重な体験を積むことができる。
ありがとうございます。

わたしたちは一人残らず、
みな恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

見えないところにも多くの魅力が

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少し難しい標題になったかもしれません。
見えるものと見えないもの。
もう、この外枠を語る必要はないと思いますので、ここでは触れません。

例えば、人に対する印象。
「〇〇さんは、こんな人。こんな〇〇なイメージ。」
「□□さんは、こんな感じ。こういう人。」

自分のモノサシで測って「その人の人格やサイズ」を勝手に決めてしまいます。
ある人を「100のものを持っているとしたら、そのうち85くらいまでは知ってるよ。親しいからね。それに長い付き合いだし。」という判断をします。
でも、
実際には、その人は100どころか、10,000も1,000,000もの奥深さをお持ちではないかな、と。
以前にも少し触れたように思います。


同じことが、人に対する認識以外にも、さまざまな部分で存在しているはずです。
考え方や思想など当然のごとく。そして、その対象がモノであっても。
だから、もっともっと尊重する心を忘れたくないもの。そう感じます。

この範囲で見えるもの以外にも、
--- 頬を柔らかくかすめる春風の香り。
--- 穏やかに響く小鳥たちのさえずり。
こうしたところにも意識を巡らせてみたいと思うのです。
もちろん、それらは見えません。記録もされていません。

そのためには、
見えない部分=その場・その瞬間の現地に居るかのように想像力を高めてみます。
これこそが、単なるイメージトレーニングにとどまらず、これからの世に必要とされる感覚・感性ではないかと思っています。


それぞれを尊重し、認め、そしてお互いに心の中でコミュニケーションする。
もちろん、自分と同じ感覚である必要はありませんし、それこそが尊重という本質だと思われます。
こうした感覚を持ち続けていると、いつのまにか「大自然と会話」できるようになっていることに氣がつきます。
いえ、言葉を介してではありません。心に伝わってくる感覚によってですね。

そして、目に見えない部分にも、多くの、そして大きな魅力が存在していることに理解が追いつきます。
素晴らしいではないですか。
その環境に、そして、その感覚を取り戻しつつある現在のわたしたち自身に、感謝の感情が満ちてきます。

自分の望む現実は、自分の心が創り出す。
その素晴らしい仕組みに。

わたしたちは一人残らず、
みな恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

顔を上げて周りの仲間に意識を馳せる

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普通の市街地道路。
歩道に茂る街路樹。
近隣の方にとっては迷惑になる、そんな生え方かもしれません。
歩道を歩く者が、ふと顔を上げてみると見えてくる眺め。


時間に追われ、まるでスキーの「後傾姿勢」になったような感覚に囚われている心理状態では、ちょっとの「コブ」に乗り上げた瞬間に飛ばされてしまいます。
(スキーをなさる方にはストレートに伝わる感覚だと思います)

ゲレンデでは、顔を上げてしまうと姿勢が崩れ、前傾姿勢のバランスまで狂うのでタブーだったかもしれません。
でも、
日常のアスファルト舗装された歩道では、顔を上げてみると、こんなに元氣な生命が、今を謳歌しています。


多忙すぎると見えない風景。
連日、朝の5時半までデスクに向かい、タクシーで帰宅したあとシャワーを浴びれば再び出社。
激しすぎる着信で携帯のバッテリーが消耗し電源が切れると、嬉しくなった感覚。
食べ物を口にする時間さえも取れず、行き着いた先は真っ白なシーツが敷かれた固くギシギシと音のする平たい板。
点滴という名の付随物を体に装着され離せなくなった、冷たく空虚な空間でした。


いま、当時を思い返してみますと、
まさに「見ている風景」がまったく異なっていたことに氣がつきます。
もっと言えば、住んでいる世界が完全に違っていたのです。
自分の現実は自分の意識が創っている。その人体実験でした。


だから、何度も何度も繰り返して綴ります。
心に描くものが、タイムラグを経て自分の現実になります。


顔を上げてみませんか。
もっと深呼吸してみませんか。
日常のアスファルト舗装された歩道でも、顔を上げてみると、こんなに元氣な生命が、今を謳歌しています。

素晴らしい現実を、自分で創り上げる練習をさせていただけるこの地・この地球。
ありがとうございます。感謝申し上げます。

わたしたちは一人残らず、
みな恵まれています。
満ち足りています。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

さりげなく・しっとりと・奥ゆかしく

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休日になると雨天になる法則?
そのように故意に仕組まれているかどうか?は、別として、そう思う人たちが多いから「そのように現実となる」のでしょう。
なかなか興味深い実証実験が進行中。といったところです。

変わって、
今年2023年の桜前線は、全国的にほぼ北上を終えた時期でしょうか。
例年にも増して、素晴らしい写真作品を数多く拝見することができました。web上に溢れかえる春の悦びの力を存分にいただきました。

毎年のことではありますが、作品の中には「これでもかっ!どヤ!」ってな感じでギラギラとした、ちょっと引いてしまうエネルギーを感じる作品があります。
それはそれで、撮影者の方がそのような意識を込めたものだと思われるので、他者が何らコメントすることはありませんが、「その波動がさらに強く伝わってくる」ようになりました。

この数年の混乱期以前には、フォトコン審査のお仕事をずっとさせていただいていたので、作品に込められた「思い」を、単なる鑑賞者を超えた部分で、さまざまに触れる経験をしてきました。
言葉にするならば、
「バシバシ」と伝わってくる感覚だとか、
「さりげなく」でも「わかってくださいますか?」といった感覚で、奥ゆかしく見えてくる感覚もありました。
(審査の会場では、すべての作品を拝見し評価しますので、終了後には激しい疲労感に襲われ精神的にも肉体的にも消耗します。)


この地・地球の波動自体が比較にならないほど上がってきているのは、もう言わずもがな。多くの人々が肌感覚で体感し、理解しているはずです。
それと同時に、
この地の生き物、そしてそれは人間も含め、同じように「伝わる」体験が増えてきていると思うのです。
「伝わる」のは、良いもよくないも、どちらも等しく伝わります。

隠しごとは、なんとなく…ではありますが、伝わります。
他方、好感を持って触れるならば、その感覚も十分に伝わってくるのですね。

それならば、
どんな氣持ちが伝わるのが望ましいでしょう?
答えは自ずと導き出されるはず。
ただ、無理に「ポジティブごっこ遊び」をする必要はないですし、それは百害あって一利なしですから。
その無理矢理感は、よくない感覚として伝わりますね。


さりげなく、そして、しっとりと伝わる感覚。
どことなく、奥ゆかしい感覚。
でも、はっきりと主張するものを込めている。
そんな氣持ちを心に描くと、そのように伝わるものではないでしょうか。
これこそが、この国の人たちが最も得意としてきた感性ではなかったでしょうか。

素晴らしい自然と、素晴らしい言葉、そして素晴らしい感性と。
わたしたちは、なんと恵まれた環境で体験し学ばせていただけるのでしょう。
こうして感謝の感情が溢れ出ます。

わたしたちは一人残らず、
みな恵まれています。
満ち足りています。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

無になる時間・無になれる場所

無になる時間・無になる場所

無になれる場所とは。
無になる時間とは。

無とは、文字通り「無」。
そこに、言葉は存在していませんし、目の前の風景も、意識の中からその存在が消滅します。


無になる時間。
無になれる場所。
いずれも「無」であればこそ、そこは「無」であり、そのまま「無」となること。

ありがとうございます。
感謝申し上げます。


わたしたちは一人残らず、
みな恵まれています。
満ち足りています。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

生きている多くの仲間に感謝

大きな力を宿す樹々

こういったタイトルを掲げますと、途端に、
「浮ついている・フワっている」
「世間知らずな浅い輩」
だとか罵られたのは、僅か一年前でさえ、まだまだ残っていたように思われます。


ご自身で過去因果の解消に苦しみ、そして乗り越え、心で感じるという深いところまで理解が進んできますと、前述のような「言葉面(ことばづら)」だけで「人を判断する愚かさ」に氣がつきます。

自分の心に描くものが自身の現実になるという仕組み。
この至ってシンプル、且つ、極めて強力な原則を実体験するに従って、生命を宿し、この地で共に生きる数多く仲間たち。そうした存在に、さらに・もっともっと深く意識の波長が合致する感覚が判るようになります。
生命のエネルギーが、手に取るように伝わってきます。
その躍動感が目に見えるようになってきます。


晴れ渡る青空と、歴史ある樹木を撮る。
ありふれた単なる一枚。
それだけで、こんなにも力強い絵が残るようになってきます。
単なる一枚の画像データに止まらず、そこに心が載ってゆく。という感覚が伝わりはじめます。

もちろん、精細感を残すような配慮やコントラストを意識する画像処理、あるいは撮影時点で光の具合と時間帯を意識している…。
といったようなプロセスを経た結果。というのはあるかもしれませんが。

目に見えない強い力を送ってくれたこの樹々。
この前を通り過ぎた後にも関わらず、わたしを振り返らせ、そしてポケットからスマホカメラを取り出し記録する。
そこまでのエネルギーを注いでくれたことに、御礼と感謝を。

こうして、二者のコラボレーション結果がここに残せました。
仲間との共同作業だからこそ、大きな力を宿すのだと。
そんな多くの仲間たちに感謝を忘れず。
すばらしい体験と感動をありがとう。

わたしたちは一人残らず、
みな恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

経験が刻まれた証

大きな体験を刻む樹 この画像はwebp形式での表示テスト運用を行っています。閲覧できない場合はお知らせ願えますと助かります。

経験、体験を積み、成長するための学校で残すもの。
それは目に見えない心の成熟だけではなく。

物理次元だからこそ、こうして炭素ベースの物質に形が刻まれ目に触れることが可能になります。
逆に、炭素ベース故、過去文明はすべて「跡形もなく消滅」したとも言われます。


この樹は、どれほど大きな力を受けたでしょうか。
あるいは、どこまで長期間の圧力に耐えたでしょうか。
そして、それにより如何ほどの成長機会を得られたことでしょう。

人間も、その人の人生経験、人生観は顔に刻まれると言います。
物理世界だからこそ刻まれる「年輪としての経験の数々」。

確かに、顔はその人となりを語る。
言い得て妙なるものと頷きます。
そしていま、
この大転換機を迎え、これまでの総集編としての卒業アルバムを「鋭意編纂中」だと思われます。
この期に及んで「慌てて取り繕ってみても」顔は一朝一夕に変化するものではないでしょう。

すべて、自らが招き、自らが選択し、自らが作り上げた「自身の顔」。
末代まで恥ずかしくない年輪を卒業アルバムに残してください。
そして、
今からでも遅くありません。
これまでの誤った学や、間違った洗脳という檻から飛び出して、自分の心に響くものを正直に、そしてストレートに選んでください。
その瞬間には、ひょっとして間違いだったかも?と思う時もあるでしょう。
でも、
たとえ遠回りしたと感じても、最終的にはそれが正解になるに違いありません。
それが学びであり、それが成長の証。

その証を刻んだ「顔」を、誇りを持って携えてください。
素晴らしい体験をさせていただける、体という衣をお借りしていることに感謝を忘れず。

わたしたちは一人残らず、
みな恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

心は自分へのプレゼント製造マシン

素晴らしい木々素晴らしい仲間 この画像はwebp形式での表示テスト運用を行っています。閲覧できない場合はお知らせ願えますと助かります。

長雨と強風のあとには、雲ひとつない晴天の贈りもの。
そうなると思えば、そのような現実がやってきます。

貴重なご縁と、心触れ合い心あたたまる体験と。
そう願えばこそ、そのように具現化してゆくこと。
この素晴らしい仕組み、ひとつ一つに納得し頷いています。


以前に、間違いなくメインストリームになりますよ。と綴った言葉があります。
【自分で意識し自分で結果を創り出し、自分でその結果を享受する。】

それは「自分の心が望ましい近未来を創る」という仕組みを知る人たちが増えるに従い、どうしてそれを望まない選択肢が存在しましょうか。間違いなくその仕組みを採用するでしょう。と。

それは、もう過去形になりました。
もはや当たり前の感覚になっていますでしょう。
すでに隠されてきた潜在能力を取り戻しつつありますでしょう。
但し、
まだ実現化までのタイムラグは存在しています。それに、檻そのものは残っていますし、その中に居残っている状態も俯瞰し認識できています。
あとは「自分の意志」によって、解錠されすでに開放済みとなった檻の扉を押し開け出てゆくだけです。

その扉の向こう側には何があるのでしょうか。
それこそが、自分の心で描くものなのですね。
心に抱くものが、自分の目の前の現実となってゆきます。


なんと素晴らしい仕組みでしょうか。

「自分の心」は「自分自身への至上かつ唯一のプレゼント製造機」でした。
この素晴らしい仕組みを活用し、自分自身への至高のご褒美を作り上げてください。
そして、その仕組みを使わせていただけること、その仕組みを使うためにお借りしているこの「体という衣」には、最大級の感謝を捧げることを忘れずに。
併せて、ともに生き、ともに歩むすべての仲間への感謝の氣持ちも。


わたしたちは一人残らず、
みな恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

わたしたちはいつも仲間と一緒です

美しいこの地の仲間たち この画像はwebp形式での表示テスト運用を行っています。閲覧できない場合はお知らせ願えますと助かります。

心の浄化を進めるに従って、溢れ出る強烈な感情・そして涙。
このプロセスは避けて通ることはできず、いまその嵐の真っ只中を歩む方々もあるでしょう。昨日からの嵐も、まさにこの国が重ねた過去因果を解消するための風吹ではなかったかと。
そして、そのあとに、確かな成長の足跡を見いだします。

自分の心は、自分自身で労(いたわ)り、労(ねぎら)い、不要となったものに占有されていたスペースを解放してゆきます。
空間となった場所には、新しい力・新しい波が、必ず入ってきます。

ある方がとてもうまく纏めていらした投稿のように、
web通販で購入ボタンを押したあとから「商品がホントに来るんだろうか?」とは思わないのと同じく、「空いた空間にホントに新しい力が流れてくるのだろか?」と、疑ってしまう。
この、不安視するクセそのものが、不要な力でした。
この意識こそが不要であり、解放すべき占有物なのでした。
いえ、正確には「学びを得るために必要な教材」だったのでしょう。でももう必要ありません。

不安や恐怖といった「負の力」は、二元性として正負・プラスマイナス、必ずセット・ペアでなければ存在できないこの地の約束事ですので、今後は不要な力として認めたあとで、対になる望ましい力とともに尊重し受け入れます。
片方だけでは存在し得ない法則によって回り巡り続けるこの地の約束事です。
よって、
シーソーのようにバランスを取ることで、必ず平衡状態に移行してゆきます。
このあとに初めて、望む「プラスの力」を選択してゆきます。
その次に初めて、望む近未来を心に描いてゆくのです。
浄化と尊重の嵐を経ずして、わくわくごっこ遊びで蓋をしてはなりません。
順序を誤りませんよう。


心に抱き・心に描くところから生み出すのは、自分自身の心でしか成し得ません。
ここで忘れてはならないのが、「仲間」としてのこの地に生存する多くの生命。
すべてに命が宿り、その存在意義を持ち、ともに学び成長してきた仲間たち。

目に見えない力や波動によって繋がっていることが理解できるようになってきますと、その素晴らしい力と、類稀な美しい完成形を披露してくれるこの地の仕組みに、感動の渦が巻き上がります。
そして、
その感動は歓喜に昇華し、その渦から感謝の氣持ちが溢れ出るのです。

表面上だけ、見た目だけ、楽しいことを考えて…などというごっこ遊びの中からは、この感動と歓喜から導かれる感謝の心に至ることはできないでしょう。

すべてに感謝するのは、この域にまで到達したあとです。
すべての仲間と手を繋ぐのは、この域に手が届いたからこそ実現するものです。
わたしたちは、いつも仲間と一緒であるからこそ、トーラスを巡ってきたエネルギーの渦と螺旋の波に抱かれ、ここに再び強く感謝の心を捧げることになるのです。


わたしたちは一人残らず、
みな恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

一期一会の大空キャンバスアート

大空のアートキャンバス空模様 この画像はwebp形式での表示テスト運用を行っています。閲覧できない場合はお知らせ願えますと助かります。

二つとない、大空に繰り広げられる空模様。
芸術的な受け止め方をせずとも、そこに描き出される情景に魅入られることはありませんか。

一期一会。
二度とない・二つとない、素晴らしいアートワークだと感じます。
この大空のキャンバスに心を合わせてゆきます。

明暗の差が印象的なのでしょうか。
色彩感の差が魅力的なのでしょうか。
造形の大きさ・小ささの差が訴求するのでしょうか。

こうした対比。
単なる「対称」という感覚に留まらない、広い意味でのsymmetric(シンメトリック)な対比。
まさに二元性の体験地ならではの、セットで感覚を受け取る体験教室なのですね。

このような分析をしなくても、思考をしなくても、
そこに心を合わせるだけで良いのではないかと思っています。
しばらく眺めていますと、僅か数十秒間であっても見事に変化が訪れます。

いま、生きていること。
いま、体験させていただけること。
いま、この体をお借りしているからこそ感じる感覚に氣がつきます。
こうして、心の底から感謝の氣持ちが湧き上がってきます。

こういうことなのですね。
喜びと感謝の心は、さらにその感覚を深め、どこまでも拡大してゆきます。
素晴らしい体験をありがとうございます。

わたしたちは一人残らず、
みな恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

心の通ったご縁を大切に

チェリーセージホットリップス この画像はwebp形式での表示テスト運用を行っています。閲覧できない場合はお知らせ願えますと助かります。

窓の外は雨。
憂鬱な雨、それとも恵みの雨、浄化の雨でしょうか。
捉え方はひとそれぞれ。

理屈で「遊ぶ」この地の学校。
理論で「楽しむ」この世の地球。
わたしの心の中では、もうそういった類の力から離れたいと強くアピールし始めています。

ホットリップスの花言葉は「燃ゆる思い」「尊重」「知恵」だそうです。
心の通ったご縁を大切にしたく思います。
そして一期一会、数多くの貴重な体験に感謝いたします。

わたしたちは一人残らず、
みな恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

鯉の滝登りと鯉のぼり

空に泳ぐ鯉のぼり この画像はwebp形式での表示テスト運用を行っています。閲覧できない場合はお知らせ願えますと助かります。

縁起の良い「ならわし」でしょう。
端午の節句にこいのぼりを高く掲げる。

鯉の滝登りをイメージしているものだと思います。
それは、幾多のハードルを越え、どこまでも登り続ける人生そのもの。

思えば、これまで本当に数えきれない難関を突破してきました。
もちろん入試もそうですが。
仕事でも、日々の生活でも。
病院のベッドや苦痛・激しい痛みさえも。


登り続けましょう。
階段は、一段上がればもう一段、と、次々に連続して目の前に現れてきます。
それは、階下からは「その上にどれだけ続いているか」を見ることも認識することもできないために、そのように感じるのでしょう。
しかし、
階上からは、自分の足で登ってきた階下を認識することができます。

これまでの貴重な体験を糧として、これからも登り続けます。
そこに階段が出現する限り。
そして、
体験そのものを味わうことができる、この借り物の体を借用させていただける、この地の仕組みに感謝を忘れず。

わたしたちは一人残らず、
みな恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

神聖なる森に入る

山の中に佇む神聖なる池 この画像はwebp形式での表示テスト運用を行っています。閲覧できない場合はお知らせ願えますと助かります。

この数日間は、ほぼ全国的に晴天の様子です。
そう思えばそのようになるという仕組みですね。

多くの人たちが心に描く結果が、目の前の風景になります。
まさにその実証実験といった感覚で具現化が進んでいることを感じます。
この数年間の台風しかり。わたしたちが心に描くものが現実になる。
そのように証明されてきたのではないでしょうか。

もう理屈は沢山でしょう。
重ねての理論解説も満腹です。
何を心に描くのか。
何を心に抱くのか。
こうして、自分たち自身で望む現実を創り出してゆきます。


何度も何度も、繰り返して夢の中に出てくる風景があります。
(この写真とは異なりますが)
誰一人として足を踏み入れたことがない大自然、大きな山の中に入ってゆく夢。
新緑の色彩感が、あり得ないほどに鮮明で強烈な樹々がそこにあります。
とりわけ「緑色」が激しく鮮やかなのです。

(少しだけ専門用語を使うのをご容赦願って理解の一助としていただきたく)
「sRGB」に入り切らない「AdobeRGB」の色域にあるGreen ChanelのBrightnessだけを極端にPhotoshopで持ち上げたかのような印象です。

わずかに数歩だけ、その道のようになった谷間に歩みを進めますが、拒否されてしまいます。
「ここは神聖なる森」
「人は誰一人として入ったことはない」と。
そうした声が響くので、即座に後戻りをしてすぐにシーンが変わる。
そんなイメージです。今朝は鮮明に記憶していました。

そう言えば、
結構古い過去生では、ヨーロッパ・ベルギーあたりの森の中にある家に住んでいたと教えられた夢もありました。女性だった様子です。

現実の世界では、大自然に敬意を払って山に入ります。
小さい頃から慣れ親しみ、わたしを育てていただいた「この池」にも畏敬の念を捧げるのを忘れず。
素晴らしい環境を体験させていただきありがとうございます。
心から感謝申し上げます。

わたしたちは一人残らず、
みな恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

モノを持つのではなく感じることに

道端で出会う この画像はwebp形式での表示テスト運用を行っています。閲覧できない場合はお知らせ願えますと助かります。

幸せ探しの旅。
そんな名句が幅を利かせた時期もあったように思います。
でも、探しても見つからない。
幸せとは、モノを得ることではなく「そのように感じる心」そのものだから。

ようやく、ここまで到達したのではないでしょうか。


理論分析。理論武装。未来予測…。
その手法の延長線上にあるもの。それは、ほどなく崩壊することが決定しているとされます。
人智を超えた巨大な流れ、変えることのできない壮大な仕組みが働いています。
大地が変わり大空が変容してゆきます。認識できる規模・想像を遥かに超えて。
それは、物理的なモノの世界よりも、目に見えない世界にこそ激しく。

すでに「何となく」ではありますが、人の意識を感じられるようになっています。
「それとなく」ながら、良きも悪しきも含め、人が発する念さえも感じ取れるようになっています。
他の方が考えている思考、それは誰々の思考だと特定しなくても、そうして伝わってくるもの、心の力を感じることができるようになってきました。
ここでご縁のあります皆さまも、きっと同じ感覚でしょう。

旧い意識の枠組みに自分を閉じ込め、自分で杭を打って心の陣地を守り続ける。
もはや、人の心と認識力がここまで大きく変容していることに氣がつきません。
成長機会を自らスポイルし、そのレイヤーに居続ける選択も自由です。
ただ、
目に見えないから…。
webは匿名だから…。
そして、影で批判を重ねる。自分こそが正しいんだと。
このような旧来の意識の中で過ごしていますと、その波動そのものが他者へも伝わっていますし、もはや、そうした古いスタイルの意識を持ち続けられなくなっています。

その昔、小さいこどもの頃に、
隠れて、ちょっとした悪さをした経験、誰しもありますでしょう。
絶対バレない!と確信して、影に隠れて。
でも、大人にはしっかりバレていますね。これと同じ感覚だと感じています。

現在のこの大転換期、「モノ」から卒業する機会を与えていただいています。
「心」が担う部分の波動と波長に合致した力は、言葉も視覚も超越してシンクロする。という物理法則が昔から存在していたのです。
今に始まったことではなく、同じ周波数はシンクロする至極当然の物理法則。

これから先に必要とされるのは「心」で感じる「目に見えない力」であると、しっかり認識する時期に入りました。
影に隠れて悪さをしないことです。ものの見事に伝わってしまいます。
そして、
モノを持つことから、そして枠組みに縛り付ける意識から離れ、いかに心を豊かに育てられるかに比重を移してゆきます。
これこそが、自分の意識が自分の現実を創るという本質ですから。

わたしたちは一人残らず、
みな恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

視点を下げて初めて見えてくるもの

低いところへ流れる この画像はwebp形式での表示テスト運用を行っています。閲覧できない場合はお知らせ願えますと助かります。

この地においては、
水は高いところから低いところへ。
エネルギーも高いところから低いところへ流れるとされます。

この地は、その低い次元・物質社会を体験をする学校ですから、周囲を伺ってばかりでは、その波に飲みこまれたまま固着して抜け出せません。
自分にその氣がなくとも、自動的に低いところに流され捉えられてしまいます。
氣がついた時には、何段階もの階段を転げ落ちているかもしれません。
そして目が覚めます。


転げ落ちた自分の位置を俯瞰して感じるもの。
視点を下げたからこそ見えてくるもの。
それは、
エネルギー視点での相対的な自分の立ち位置、あるいは魂の成熟度合いとされる心の成長レベルだと思うのです。


もう一度、初めから登ってみよう。
そういった意識を持てたのなら、やり直しの旅も用意されているようですから、楽しみながら登りましょう。
他方、
悲観して抗ってしまいますと、水の流れは思いのほか強く激しく、足掻けば足掻くほどに流されて行きます。それも自分の意識が作り出しているのですから。

すでに、低い位置に身を置き学ぶという経験は「体験し尽くしたはず」ですから、もう一度やり直す必要はないのですね。
これを延々と無限ループの中でやっているのが、いまのわたしたち。


そこから抜け出したい!と、思うかどうか。
そして本心から願い、抜け出したあとの世界を明確に描いているかどうか。
願っていない=無限ループ居残り授業希望。となることを忘れないようにしたいものです。

成長・上昇し、流される前に初めに居たはずの上流に戻るために必要なエネルギーは、自動的にベルトコンベアーで運ばれてくることはありませんし、救世主や白馬の王子様が現れて助けてくれることもないでしょう。

意識をどこに合わせますか。
意識を何に持って行きますか。
視点を下げたからこそ見えてくるもの。そこから学んだこと。
そしてこの先に望むもの。
明確に描き続けましょう。それが自身の現実となってゆきます。

わたしたちは一人残らず、
みな恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。

空間・空白・余白があるから伝わり・生み出せる

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昨日の記事
【何も心配しなくてよい】[Link]
にいただいたコメントのように、
まさに、空白や空間、余白といったような、独特の「間(ま)」が存在するからこそ伝わるもの・伝わることがあるように感じています。


無駄を削減し効率を追求し続ける、経済成長という名の、実はピラミッド社会の底辺で、永遠に走らねばならない「リスの回転・回し車」のような役目。
もう終わりにしよう。
そう感じ、そのように自らの心が指し示すようになった人たちが、飛躍的に増えているはずです。

文明の大転換期。
宇宙のカレンダーは一寸の狂いも無くスケジュールに沿って進みます。
その切り替えのタイミングにおいては、振り子が反対側に振れ戻る時のように「一瞬停止する瞬間」があるでしょう。
ここで、すべての流れは瞬間的に停止し、一氣に逆方向へ動きます。

いま、この停止の瞬間ではないかと思っています。
そう感じていらっしゃる方々も多いでしょう。
ここで逆転のためのエネルギーを十分に蓄える必要があるはずです。
振り子ならば、物理的に位置エネルギーと運動エネルギーの最大値を保持し、それを放出することで反対方向へ逆転します。

わたしたちにとっての、そのエネルギーの保持状態とは、
「間」を取り「間」を感じることによる、平衡状態の認識ではないでしょうか。
そして、
この国で、この国の言葉が理解できるならば、その「間」という深淵な世界を必ずや感じることができるはずだと思っています。
先人は、この国の独特の言葉によって、それを伝えてくれていたのでしょう。

「間」「空白」「空間」。
余白や余裕を意図的に確保することで、そこに織り込まれた意図を感じる・伝える、という方法によって心の中から新たなエネルギーが生み出されてくること。間違いありません。
いかがでしょうか。
この地では、ほどなく逆転・巻き返しのスタートを切る瞬間を迎えるとされます。

ともに、望ましい世界を築いて参りましょう。
心の中に描くという手段を使いこなし、望ましい力を束ねることによって。
準備はできましたでしょうか。

わたしたちは一人残らず、
みな恵まれています。
満ち足りています。
ありがとうございます。感謝申し上げます。
弥栄(やさか)ましませ。
弥栄(いやさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ。
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